何もかもうまくいかなかった僕が、自分とラグビーを取り戻すまで①〜僕だけ止まった時間〜
リーグワン・ヤクルトレビンズ戸田の河野大地です。
以前、僕はSNSにこんなことを書きました。
「大学卒業後、アルバイトをしながら何もかも上手くいかないと感じていました。理想とは程遠く、同級生がラグビーを続けている姿が羨ましかった」
今でもあの頃を思い出すと、少し気持ちが揺れます。それくらい、僕にとっては大きな時間でした。
でも、これから書くのは、ただの挫折の話ではありません。
当時の僕は、自分の価値を、他人の評価に明け渡していました。チームに受かるか、落ちるか。試合に出られるか、出られないか。
それだけが自分の値打ちだと思い込んでいた。この記事は、その思い込みが音を立てて崩れて、「自分の評価は、自分で決める」と気づくまでの話です。
いま人の評価に押し潰されそうになっている誰かに、届いたら嬉しいです。
(全3回でお届けします)
ボードが決めていた「僕の価値」
僕は1997年に愛知県で生まれました。
中学でラグビーを始めて、愛知県代表として全国ジュニア大会に出場。
高校は大阪の東海大仰星へ進み、背番号8を背負って、2015年度には春の選抜、夏の7人制、冬の花園と、高校三冠を経験しました。当時史上2校目の快挙で、花園の決勝は桐蔭学園と37-31で勝利。忘れられない試合です。


そのまま東海大学へ。関東大学リーグ戦1部の強豪で、フランカー、ナンバーエイトとして1年生から大学選手権のメンバーに入り、オールスターにも2年連続で選んでもらいました。
こう書くと、恵まれた経歴だと思います。実際、僕はどちらかというと、大きく落ちる経験をせずにうまく生きてこられた人生でした。
でも、いま振り返ると、この頃からすでに危うさの種はあったんです。
大学では、チームがAから下まで実力順に分けられていて、ホワイトボード(以下、ボード)の上で選手の名前が毎日動きます。自分の順位が上がれば自分に価値があり、下がれば価値がない。
本当はラグビー以外にもいろんなことをしているし、いろんな価値があるはずなのに、自分の値打ちを他人とボードに決めさせることに、僕は何の疑問も持っていませんでした。
うまくいっているうちは、それでよかった。問題は、うまくいかなくなったときです。
決まらない進路
最初のつまずきは、大学3年生のときでした。
怪我で思うように試合に出られず、トップリーグ(今のリーグワン)のスカウトの目に触れないまま、最初の選考から漏れました。

4年生でなんとか挽回して、いくつかのチームのトライアウトを受けました。
うち1チームはすごく興味を持ってくれていたのに、2回目に行くタイミングで教育実習が重なり、怪我もして、最後は話がなかったことになりました。
ポジションの問題も大きかったと思います。
僕はフランカーで、身長174cm。外国人選手の存在感が増すなかで、この身長の日本人フランカーの需要は、ほとんどありませんでした。
それでも秋口には気持ちを切り替えていました。
「一度海外でチャレンジして、そこから日本に戻ってこよう」。エージェントに相談して、ニュージーランド行きの準備を始めたんです。
開きかけた扉が閉じる
そこに、コロナ禍がやってきました。
卒業直前の2020年1月末。あっという間に、海外へ行くこと自体ができなくなりました。本来なら現実的でスムーズだったはずの選択肢が、いきなり足止めを食らった。

大学に残って練習を続けるつもりでしたが、コロナ禍が深刻になり、寮にもいられなくなって、僕は愛知の実家に帰りました。そして、アルバイトの生活が始まりました。
母の背中――「探究心」という根っこ
最初のアルバイトは、自分が子どもの頃に通っていた保育園の保育補助でした。家から近く、教員免許も持っていて、何より僕は昔から保育の仕事に興味があったんです。

母は、夜間保育園の保育士として働いていて、現在は園長をしています。
朝7時から夜中の1時までやっている保育園で、「女は家庭を」と言われた時代から、子どもを産んでも夜勤のある現場に立ち続けた人です。
周りから「自分の子どもを放っておいて、人の子どもを見てるなんて」と言われることもあったそうです。
母は毎日、保育園での出来事を話してくれました。
この子がこういう行動をとった、なぜだろう、どうすればもっと良くなるだろう、と。
おむつひとつでも「手をかけられるうちは、とことん手をかける」。ひとつのことに熱くなり、どこまでも突き詰めていく。
母には「保育の答え」の話があります。
「保育園の頃、たくさん話を聞いてもらったな」と思い出して、自分たちは気持ちを大事にしてもらった、一人ひとり大事な存在なんだなと、どこかで思ってくれたら、保育士冥利に尽きる——答えが出るまで、何年も何年もかかる仕事を、母は、そう言って続けていました。
僕自身は、子どもの頃、寂しい思いもしてきて、なんでいつも仕事ばかりと思うこともあったこの母の姿は、僕のアイデンティティの根っこになっていきました。
熱くなれること。とことん探究できること。
このときはまだ気づいていませんでしたが、この「探究心」という言葉が、のちに僕を救うことになります。
熱い大人たちの背中
2020年7月、中学時代の恩師・吉田庸平先生の紹介で、愛知教員クラブに入りました。
学校の先生をしながら、仕事のあとにウェイトをして、土日にグラウンドを借りてラグビーをする。筑波大の黄金期にレギュラーだった山下昂さんを筆頭に、そんな「熱い大人たち」の背中を間近で見られたことが、あの頃の気持ちの支えでした。

ぐるぐる回る日々
11月頃からは、フランカーからフッカーへの転向を決めて、スローイングやスクラムを学ぶために愛知学院大学でも練習させてもらえることになりました。
じつは大学時代、コーチから「フッカーにならないか」と勧められたことがあります。当時は、うまくいかなかったらと思うと博打のようで、断りました。それを今度は、自分で決めた。

大学生の指導を手伝う代わりに、練習に混ぜてもらう。
朝のウェイトに間に合うよう前夜は大学近くの祖母の家に泊まって朝5時に起き、昼は保育園のアルバイト、夕方また大学へ。
自分の家、祖母の家、大学、バイト先——この4つを、電車と原付でぐるぐる回る毎日でした。
好きなことをやっているはずなのに、朝、原付を走らせながら、涙が出てくるんです。「僕は今、何をしているんだろう」「いつになったら、うまくいくんだろう」と。

「僕はダメな人間なんだ」
2年目は、さらにラグビーに寄せました。
中京大学で、同じくチームが決まらずにもがいていた蜂谷元紹さん(現・ダイナボアーズ)と一緒に練習し、プロップも視野に入れ始めました。

アルバイトも、母の夜間保育や父の会社の手伝いなど、フレキシブルに動ける仕事を3つ掛け持ちして、ラグビーを最優先にできる形に変えました。
そして2年目の11月。中京大学の監督の紹介で、トップイーストのチームのトライアウトを受けました。社員として入るつもりでした。もうこんな不安定な生活は終わりにしたい。決めるしかない、と。
結果は、不合格でした。
これが、僕のどん底でした。ポジションを変え、環境を変え、1年以上かけて手を尽くした上での不合格。全てを否定された気がして、「僕はダメな人間なんだ」と思いました。
いま思えば、チームの合否は、僕という人間の合否ではありません。
でも当時の僕には、その区別がつかなかった。ラグビーの評価という、たった一本の物差ししか持っていなかったからです。物差しが一本しかないと、そこで弾かれた瞬間に、人生ごと弾かれた気になってしまう。
そこからしばらくの記憶は、あまりありません。バイトにも行かず、練習もせず、家でずっとぼーっとしていた気がします。
友人の言葉
そんな僕を引き上げてくれたのは、高校時代の友人たちでした。
12月から1月にかけて、関西の友人たちが次々と連絡をくれました。

「とりあえず来いよ」と。たぶん、僕の様子がおかしいことに気づいていたんだと思います。4、5人と別々に会って、いろんな話をしました。
その中で、一人がこう言ってくれました。
「お前は素晴らしいよ」
「人生って、成功か失敗かの二択の分かれ道だと思ってるかもしれない。でも違う。成功っていうのは、失敗の連続の中にあるだけなんだ。本当の失敗は、挑戦しないことだよ」
「しんどくなってる時は、すぐ分かる。意地を張ったり、見栄を張ったり、連絡が遅くなったり。そういう時は、一人で抱え込まずに俺らに相談してくれたらいい」
実際に電話をかけて悩みを打ち明けると、「結局、チャレンジするんだったら、やってみるしかないよね」と背中を押してくれる。
一人で抱え込まずに人に話すことで、「こうあるべきだ」と握りしめていた固定観念が、少しずつほどけていきました。
このとき勧められて始めたノートを、僕は今でも毎日つけています。

自分の評価は、自分で決める
当時のページには、こう書いてあります。

「ラグビーで成功するために、という思いが強く、さらに自分で決めた道だからという思いも重なり、就職活動(ラグビー)が上手くいかなかった時、何も残っていなかった。やってきたことを否定して、自信を失って、やりたいことのためにがんばることを自分には向いていないと一度は諦めてしまった。自分の選択を責めたり、ラグビーをしてきたことすら間違いだと思った。でも、そうではなかった」
僕はラグビーだけに、自分のアイデンティティを置いていました。
でも、練習させてもらっている大学も、保育園のバイトも、愛知教員クラブも、家族も――ラグビー以外の日常をあらためて見てみると、根本にある大事なことは全部同じだと気づいたんです。
熱くなれること。探究していけること。
それは、グラウンドの上でも、保育園でも、何も変わらない。母が教えてくれた、あの「探究心」でした。
そして僕は、支えられていました。保育園の子どもたちが「大地、今日もラグビー頑張ってね」と裏表のない言葉をかけてくれる。支えているようで、実は支えられていた。
ラグビーがうまくいかないから自分はダメだ――その考えが、少しずつ消えていきました。自分には価値がある。そしてその価値は、他人や選考のボードが決めるものじゃない。
自分の評価は、自分で決める。
この気づきが、僕の再スタートの地点になりました。
何があっても、海外に行く
気持ちが回復してから、僕は決めました。「何があっても、ニュージーランドに行く」。
ニュージーランドは、中学3年のときに一度行ったことのある国でした。両親の知り合いが住んでいて、今回の準備でも、その方に何度も相談に乗ってもらいました。
保育園の保護者の方の縁で受けていたマンツーマンの英語レッスンにも、本腰を入れました。
最初は「I」に「am」がつくことすら分からないところからのスタート。それでも話す練習を重ねて、2月頃に受けた英検準2級に合格できたときは、大きな自信になりました。
考え方が変わると、不思議と道も開けてきます。コロナ禍で閉まっていた海外への扉が、少しずつ開き始めました。
エージェントには「どこもやっていない」と言われましたが、そんなはずはないと自分で調べ、たまたま中京大学にいたニュージーランド経験者から現地の人を紹介してもらい、ビザも、航空券も、着いてからの宿も、全部自分で手配しました。
現地とのやり取りは、もちろん英語です。送る前のメッセージを英語の先生に「この文章、間違ってないですか」と見てもらいながら進めました。
資金は、2年間のアルバイトで貯めたお金と、家族が少し持たせてくれた生活費。
準備を進めるうちに、いろんな人がどんどん繋がっていく感覚がありました。自分は愛されているな、いろんな人に助けられて生きているな、と実感できたんです。
そして2022年5月末。約2年待った末に、僕はニュージーランドへ飛び立ちました。
敷かれたレールを走るんじゃなくて、全部自分で決める。自分の価値を測る物差しを、他人に渡さない。僕の止まっていた時間は、ここから動き出しました。
(次回はニュージーランドでの日々を書きます)
↓2本目の記事はこちら
