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何もかもうまくいかなかった僕が、自分とラグビーを取り戻すまで②〜海の向こうで、動き出す〜

前回の記事では、大学卒業後に「何もかもうまくいかなかった」時間のことを書きました。

どん底で友人たちに支えられて、「自分の評価は、自分で決める」と気づくまでの話です。

今回はその続き。気づいたことを、行動で確かめていく話です。

英語の「am」の使い方すら分からなかった僕が、ニュージーランドで州代表の育成チームの試合に出て、フランスへ渡り、最後は日本に還ってきてリーグワンの選手になる。全部、自分で決めた道のりでした。


全部、自分で決める

2022年5月末、降り立ったのは北島のタウランガという街でした。

その少し先にあるマウント・マウンガヌイのクラブチームでプレーするためです。約2年待った末の海外挑戦。正直、本当に幸せでした。

マオリの聖地とされる山から見下ろした、マウント・マウンガヌイの街。ここが僕の再スタートの地になった。

最初の2ヶ月は、各国の若い選手がラグビーをしに来る「塾」のようなアカデミーに入りました。

費用はかかりましたが、現地のクラブチームは練習が週2回しかない。まず練習量を確保して現地のラグビーに慣れる、と自分で決めた投資でした。

アカデミーのメンバーと(下段右端が僕)。まわりはほとんど年下で、「この年齢でも入れますか」と自分で問い合わせて参加した。

アカデミーを出てからは、生活を一から自分で組み立てました。

「もう家がないんだけど、誰か泊めてもらえないかな」とチームメイトに声をかけて回り、同じチームの選手の家の一室を週払いで借りる。

最初の仕事は、チームメイトの紹介で、山にこもる植林作業員たちの賄い係でした。1週間ずつ泊まり込みで、朝昼晩のご飯を作る。

食費がかからないのは魅力でしたが、山では電波も入らず、ラグビーの練習ができない。何回か行って、終わりにしました。

次の仕事は、パック寿司をファストフードのように売るお店。今度は自分で見つけました。日本人はいなくて、中国語と僕のつたない英語が飛び交う職場。

台湾出身の店長さんが「大地、これ余った寿司持って帰りな」と、いろいろ分けてくれました。

日本にいた頃も、バイトをしながらラグビーをする生活でした。構造だけ見れば同じです。でも、中身はまったく違いました。

誰かに与えてもらった場所で「待つ」日々ではなく、自分で選んで、自分で開けた扉の先にいる。同じ「働きながらラグビー」でも、それだけで毎日の色が変わるのだと知りました。

そしてラグビーそのものが、僕の探究心を刺激してやみませんでした。

現地の社会人クラブなのに、レベルが全然違う。バックフリップのパスみたいなプレーを当たり前のようにやってのける。

日本のラグビーがスピードだとしたら、ニュージーランドは一人ひとりのテクニックと強さ。同じ競技なのに、国が変わるとこんなに違うのか。毎日が発見でした。

「お前のアイデンティティは何だ?」

ニュージーランドで、マイク・ロジャースというコーチに出会いました。

セッション中、彼は選手たちに問いかけます。「大地、お前のアイデンティティは何だ?」

その瞬間、ハッとしました。

僕のアイデンティティの根っこにあるはずのものは、母から受け継いだ「探究心」でした。

それなのに、大学を出る頃の僕のアイデンティティは「ラグビー」そのものになっていた。毎日動くボードに自分の価値を決めさせて、そこから弾かれたら人生ごと弾かれた気になっていた。

前回書いた、あのどん底の正体です。

僕はラグビーそのものではなく、「ラグビーを探究する自分」でいればいい。それなら、試合に出られない日も、チームに落ちた日も、僕の価値は揺れない。

どん底で掴んだはずの答えを、海の向こうでもう一度、はっきりと突きつけられた気がしました。

探究心が連れて行ってくれた場所

ニュージーランドでの2シーズンは、本当に充実していました。

最初の年、チームは地区で優勝。2年目の2023年はプレミアで7試合に先発し、リーグ戦2位、プレーオフ準優勝を経験しました。

マウント・マウンガヌイのクラブチームでは2シーズンに渡りプレイできた。中央少し右が僕。

そして2023年の8月から9月、ベイ・オブ・プレンティ(州代表)の育成チームに選ばれました。

ニュージーランドでは、クラブチームから州代表、スーパーラグビー、そしてオールブラックスまでが一本の道でつながっていて、クラブで活躍した選手がどんどん上に引っ張られていきます。

州代表ベイ・オブ・プレンティ「スティマーズ」の育成チームでの一戦(中央が僕)。州代表は現地で「NPC」と呼ばれる、スーパーラグビーへの登竜門。

その入り口に、コネもツテもなく、自分の力だけで辿り着けた。出してもらえたのは最後の1試合だけでしたが、目標にしていた場所だったので、本当に嬉しかった。

ラグビーの外でも、忘れられない日々でした。

家族で集まるクリスマスに、仲良くしてくれていたトンガ人の方が「大地、予定ないだろ。うちに来い」と呼んでくれて、ご家族と過ごし、船で釣りにも連れて行ってもらいました。

いろんな人に助けられて、支えられて生きている。ここでも僕は、愛されていました。

フランス――うまくいかなくても、もう潰れない

ワーキングホリデーのビザの期限が近づき、次のチームを探し始めました。範囲は世界中。アメリカ、日本のリーグワン、フランス、香港。

チーム探しのさなかに、忘れられない出会いがありました。クラブの準決勝の相手チームに、ニック・イブミーという選手がいたんです。

試合後に「日本人がいる」と声をかけられて話すと、彼はヤクルトレビンズ戸田の所属で、オフに母国でクラブラグビーをしているとのこと。

「ヤクルトいいよ」の張本人、ニック・イブミーと。

「ヤクルトいいよ。ニュージーランドみたいなクラブの感じだよ」。このときの何気ない一言が、のちに僕の進む道になります。

肝心のチーム探しのほうは、最後の最後でもつれました。

一番話が進んでいた日本のチームとは、自分ともう一人というところまでいって、落ちてしまったんです。そのタイミングで声がかかったフランスへ、ビザを取って向かいました。

2023年11月から、リヨンの南、ヴァランスという街の近くのチームでプレーしました。

フランスのラグビーは、最高峰のトップ14を頂点に、プロD2、ナショナル、フェデラル……と、ピラミッドが地方まで何層も続いています。そして驚いたのは、かなり下のカテゴリーまで、当たり前にお金が動くことです。

僕が入ったのは、上から数えて6部にあたるフェデラル2のチーム。それでも「航空券は出す。住まいも数ヶ月分は用意する。月々の報酬も払う」。半プロのような条件でした。ただし書面はなく、すべて口約束です。

最初は順調で、数試合、普通に出場できていました。ところが途中から、フランス協会の出場許可が下りなくなったんです。

クラブの下のカテゴリーのチームなら出られる。でも、上のチームでは出られない。そして、上で出られない選手に、約束したお金は出せない。

そこからは、会うたびに少しずつ話が変わっていきました。

「来年また来てほしい」「いや、今年も残ってほしい。ただ、月々はこれくらいしか出せない」。交渉はフランス語で進み、僕は英語に通訳してもらってやっと内容が分かる。もともと口約束なので、「言った」「言わない」になっていく。

フランスでは契約トラブルで少ししかプレーできなかったが、ラグビーは面白かった。写真は僕。

英語が通じる人も想像以上に少なくて、ホームステイ先のホストの英語は「グッド」と「バッド」の2語だけ。行けば何とかなるだろうと思っていた、僕の準備不足でした。

フランスのラグビーは、日本ともニュージーランドともまた違う、モールをひたすら押し込む力と力の文化で、これはこれで面白かった。

ホームステイ先のフランス料理は本当においしくて、ポトフや、時にはカエルまで(鳥と魚の間のような味で、おいしいんですよ)。

でも、試合に出られないのなら、ここにいる意味はない。僕は自分でそう決めて、約3ヶ月でフランスを離れました。

以前の僕なら、「また全てを否定された」と潰れていたかもしれません。でも今回は、落ち込むより先に、次のことを考えている自分がいました。

挑戦の結果がダメでも、僕の価値は変わらない。それが分かっていれば、失敗はただの「次の材料」です。あのどん底をくぐった意味を、このとき初めて自分で実感しました。

「またお前のラグビーが見たい」

2024年2月、ひとまず日本に帰ってきました。

選択肢は全部並行して考えていました。もう一度オーストラリアなど海外に行くのか、日本のチームを探すのか、教員になるのか。

実際、愛知で教員の枠が空きそうだという話も舞い込んできていました。

そんなとき、日本の知り合いから「またお前のラグビーが見たい」と声をかけてもらいました。これが本当に嬉しかった。日本でもラグビーをしたい、という気持ちが大きくなっていきました。

そして話が進んだのが、ヤクルトレビンズ戸田。そう、ニュージーランドで「ヤクルトいいよ」と勧めてくれた、ニック・イブミー選手のチームです。

条件ではなく、自分の軸で選ぶ

ただし、条件は厳しいものでした。

「プロ契約ではなく、ほかに仕事があるなら大歓迎」。つまりアマチュア、いわゆる「クラブ選手」です。

しかも僕は日本で正社員として働いたことがなく、「社会人経験なし」の扱いになるため、チーム関連会社への中途採用も難しい。ラグビーをしながら働ける会社を、自分で探すしかありませんでした。

就職活動では、「ラグビーを優先したいんです」と伝えた瞬間に、面接官の顔が曇るのが分かりました。世間の物差しで見れば、20代後半・職歴なし・ラグビー優先の男に、高い値はつきません。

でも、僕の物差しは違いました。

僕が選ぶ基準は、収入でも肩書きでもなく、「ラグビーを探究し続けられるかどうか」。その一点で会社を探し、最後に残った中から、理解のある一社に決めました。

仕事が決まったことでヤクルト側の話も進み、2024年の夏、正式に加入が決まりました。

大学を卒業してから4年。ニュージーランド、フランスと世界を回って、僕は自分の物差しのまま、リーグワンの舞台に立つことになりました。

そして、雨は止んだ

「何もかもうまくいかなかった」と書いたあの頃のことを、今では「本当に大切な経験だった」と思えます。

あのどん底があったから、自分の評価は自分で決めるものだと気づけたし、自分の足で扉をこじ開けることを覚えました。

僕の座右の銘は「止まない雨はない」です。あの頃の自分に、そう伝えてあげたい。

還ってきた今、僕はクラブ選手として、どんな毎日を送っているのか。

そして、これからどこへ向かおうとしているのか。それは次回、最後の記事で書かせてください。

(次回・第3回へ続きます)
↓3本目の記事はこちら

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