【ギリシア哲学】『メガラ派エウブリデス』
〖はじめに〗
私たちは、
ふだん言葉を自然に使っています。
知っている。
知らない。
ある。
ない。
少し。
たくさん。
どれも、
何気ない言葉です。
けれどエウブリデスは、
そこに立ち止まりました。
その言葉は、
ほんとうにそんなにはっきり使えているのか。
知っていると言うとき、
私たちは何を知っているのか。
ないと言うとき、
どこから先をないと呼ぶのか。
彼はメガラ派の人物として伝えられ、
逆説で知られるようになります。
有名なのは、
「私はいま嘘をついている」と言う人の言葉は
真なのか偽なのか、という問いです。
一見すると、
ただのひねくれた遊びに見えるかもしれません。
けれどその奥には、
言葉はほんとうに
自分を支えきれるのかという、
厳しい問いがあります。

〖① エウクレイデスの後で、なぜこうなるのか〗
前回のエウクレイデスは、
善は一つなのではないかと考えました。
善を軽くしないために、
言葉を厳しく使おうとしたのです。
この流れの先で、
エウブリデスが見たものは、
もっと足元にある問題でした。
私たちは、
善について語る以前に、
そもそも言葉を
どこまで正確に使えているのか。
知っていると言いながら、
別の言い方になると知らなくなる。
少しずつ足していっても、
どこから「山盛り」になるのか分からない。
真だと言おうとしても、
その文が自分自身にかかると揺れてしまう。
善を語る前に、
その善を語っている言葉のほうが、
先に崩れてしまうのではないか。

〖② 真と偽は、そんなに簡単に分かれるのか〗
エウブリデスには、
「嘘つき」の逆説が伝えられます。
「私はいま嘘をついている」
とその人が言ったとします。
本当だとすれば、
その人は嘘をついていることになり、
嘘だとすれば、
ほんとうを言っていることになります。
真と偽が、
きれいに分かれません。
ふつう私たちは、
文は真か偽か、
どちらかに決まると思っています。
けれどここでは、
その当たり前が揺らぎます。
言葉が自分自身に折り返した瞬間、
その整理は崩れ始める。
「嘘つき」の逆説は、
その折れ目を突いた問いでした。

〖③ 言葉の境目は、どこにあるのか〗
エウブリデスには、
「山盛り」の逆説も帰されます。
砂粒が一つでは、
まだ山とは言えない。
二つでも、
まだ山とは言いにくい。
では、
一粒ずつ足していったとき、
どこから山盛りになるのでしょうか。
ここで困るのは、
世界が変だというより、
私たちの言葉の境目が
思うほど鋭くないことです。
若い。
年寄り。
多い。
少ない。
こうした言葉は、
日常では十分に役立ちます。
けれど、
きっちり線を引こうとすると揺れ始める。
私たちはふつう、
曖昧でも困らないから
そのまま使っています。
けれど哲学は、
困らないことと、
正確であることを
同じにはしません。
しかも「山盛り」の厄介さは、
ただ境目がぼやけているというだけではない。
一粒ずつ足していく推論をそのまま認めるなら、
どこかで線を引かなければならないのに、
その「どこか」が最後まで現れない。
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〖④ 知っているとは、どういうことか〗
エウブリデスに帰される逆説には、
「覆われた人」や
「エレクトラ」の型もあります。
たとえば、
あなたは自分の兄を知っている。
けれど、
目の前に顔を隠した人が来たとき、
それが兄だとは分からない。
ではあなたは、
兄を知っているのか、
いないのか。
私たちは
「知っている」という言葉を、
ずいぶん広く使っています。
顔を見れば分かる。
名前を知っている。
その人がその人だと理解している。
これらは似ていますが、
同じではありません。
エウブリデスは、
そのずれを突きます。
言い方が変わるだけで、
知っているはずのものが
知らないものになってしまう。
そこでは、
対象そのものより、
言葉の形が
思考を左右しています。
こうして見ると彼は、
善そのものを語る前に、
それを支える言葉の足元を問い直した人物として
読むことができます。
道具の精度を問わずに語れる哲学はない。
それが彼の仕事の芯です。
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〖⑤ では、エウブリデスは何をした人なのか〗
エウブリデスは、
答えを与える人というより、
安易な理解を止める人でした。
たとえば私たちは、
床があると思うから
その上を歩きます。
言葉についても同じです。
真と偽。
知ると知らない。
あるとない。
多いと少ない。
私たちはそれらを、
当然の足場として使っています。
けれどエウブリデスの逆説は、
その足場ごと
怪しくします。
気をつけて歩けば済む、
という話ではない。
そもそも足を置いている場所が、
ほんとうに足場なのか分からなくなる。
それが、
エウブリデスの問いの鋭さでした。

〖おわりに〗
エウブリデスを読むと、
言葉は思ったより
丈夫ではないと分かります。
いつも使っている言葉ほど、
じつは曖昧で、
言い方ひとつで
意味が揺れてしまう。
けれどそれは、
言葉が役に立たないということではありません。
むしろ逆です。
大切なことを語りたいなら、
言葉の曖昧さを
知らないままでいてはいけない。
エウクレイデスが
善の重さを守ろうとしたなら、
エウブリデスは
その善を語る言葉の足元を調べた人でした。
ただ彼の問いは、
足元を確かめて終わるものではありません。
次に何かを
「当たり前だ」と言いたくなったとき、
その言葉は、
ほんとうに何かの上に
立っているのか。
もしそこで
少しためらいが生まれるなら、
エウブリデスの哲学は、
もう古代の逆説ではありません。
私たちが何かを語り出す、
その少し前で、
もう足を止めさせているはずです。

【哲学者データ】
名前 エウブリデス
生没 前3世紀頃
地域 ミレトス
系統 ソクラテス系
立場 メガラ派
師匠 エウクレイデス
弟子・後続 後の論理的議論や逆説伝統と結びつけて語られる
思想 言葉・知識・真偽の扱いをめぐる逆説で知られる
特徴 「嘘つき」「山盛り」「覆われた人」「角」などの逆説を通じて、言葉の境目や推論の危うさを露わにした人物



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