【プラトン全集第1巻『パイドン』】ヘルモゲネス
〖はじめに〗
ソクラテスの最期を語るとき、
よく名前が挙がる弟子たちがいます。
クリトン。
パイドン。
シミアス。
ケベス。
アポロドロス。
脱獄を勧めた友人。
最後の場面を語り伝えた人。
魂について問うた弟子。
泣き続けた弟子。
その中に、
静かに名前を残した人物がいます。
ヘルモゲネス。
彼は、議論の主役ではありません。
大きな著作を残した人でもありません。
ソクラテスの死を止めた人でもありません。
けれど、不思議な位置にいます。
プラトンは、
ソクラテスの最期の日にいなかった。
『パイドン』では、
病気で不在だったと語られます。
しかし、
ヘルモゲネスはそこにいた。
哲学の歴史に大きく名を残したプラトンがいなかった場所に、
目立たないヘルモゲネスがいた。
この事実だけで、
彼の名には小さな重みがあります。

① 名家のそばにいた人
ヘルモゲネスは、
ヒッポニコスの子とされます。
その兄弟として知られるのが、
カリアスです。
カリアスは、アテナイ随一の金持ちとして有名でした。
クセノポンの『饗宴』では、
彼の家で宴が開かれます。
そこにはソクラテスもいる。
若い競技者アウトリュコスもいる。
余興があり、会話があり、
教養と財産の匂いがある。
ヘルモゲネスは、
その豊かな家の近くにいました。
けれど、
彼自身は富の中心人物としては描かれません。
兄カリアスは、宴を開く人。
ヘルモゲネスは、
その華やかさの中で目立つ人ではない。
同じ家の影の中にいながら、
彼は別の場所へ向かっていました。
富の中心ではなく、
ソクラテスのそばへ。

② 自分の名前を問われた人
『クラテュロス』で問われるのは、
名前は約束で決まるのか、
それとも自然に正しい名前があるのか、
という問題です。
ヘルモゲネスは、
名前は人間同士の約束や習慣で決まる、
という側に立ちます。
人がそう呼ぶ。
町がそう受け入れる。
だから、その名になる。
けれど、その議論の入口で問われるのは、
遠い誰かの名前ではありません。
ヘルモゲネス自身の名前です。
ヘルモゲネスという名は、
ヘルメス神に由来します。
ヘルメスは、
言葉や商売、機転に関わる神です。
では、その名前は、
本当に彼自身に合っているのか。
名前は約束で決まると考えていた人物が、
まず自分の名前を問われる。
名前とは何かを問う対話篇で、
彼は最初に、
自分の名前を揺さぶられたのです。
そして後世には、
ヘルモゲネスという名前だけが静かに残りました。
名前を問われた人が、
名前だけを残している。
そこに、
この人物の不思議な余韻があります。

③ 裁判の前に、師へ声をかけた人
ソクラテスが告発されたあと、
ヘルモゲネスは師の様子を見ます。
ところがソクラテスは、
裁判のことばかり考えているわけではありませんでした。
いつものように、
さまざまなことを語っている。
そこでヘルモゲネスは、
たまらず声をかけます。
「ソクラテス、
あなたは弁明について考えなくてよいのですか」
メレトスが訴えた。
アニュトスのような有力者も背後にいる。
リュコンも告発に加わっている。
負ければ、死が近づく。
しかしソクラテスは、
こう返します。
「私は一生をかけて、
弁明の準備をしてきたように見えないか」
「どういうことですか」
自分はこれまで、
不正をしないで生きてきた。
それこそが、
弁明のための最上の準備なのだ、と。
ヘルモゲネスは、法廷を見ていた。
ソクラテスは、人生を見ていた。
正しいだけでは裁判に勝てない、
とヘルモゲネスは知っていた。
だから心配した。
彼は、師の哲学を疑ったのではない。
師が死ぬかもしれない現実を、
まだ人間として見ていた。
その心配は、ソクラテスには届かなかった。
しかし、その声は残った。

④ プラトンは不在だった。ヘルモゲネスはいた
ソクラテスの最期の部屋には、
弟子たちがいました。
泣く者がいる。
問いを続ける者がいる。
黙って師を見つめる者もいた。
その名の列の中に、
ヘルモゲネスも置かれています。
何をしていたか、記録には出てこない。
ただ、
名前だけがそこに置かれている。
この「いた」という事実が重い。
なぜなら、
プラトンはその場にいなかったとされるからです。
プラトンは後にソクラテスを書き残し、
ソクラテスの名を世界史の中に刻んだ。
けれど、
毒杯を飲むその日に、
彼はそこにいなかった。
一方で、
ヘルモゲネスはそこにいた。
大きな思想を書く人と、
最後の部屋にいた人。
歴史に残る声を持つ人と、
歴史の片隅に名だけを残す人。
その対比が、
ヘルモゲネスをただの脇役ではなくします。
ただ、いた。

⑤ 書かなかったが、渡した人
クセノポンがソクラテスの裁判を語るとき、
ヘルモゲネスの証言が関わっているとされます。
クセノポンは、
ソクラテス裁判の現場に直接立ち会った人物としては扱いにくい。
だからこそ、
ソクラテスのそばにいた人の話を頼りにします。
その一人が、ヘルモゲネスでした。
ヘルモゲネスが渡したのは、
まとまった記録ではありませんでした。
裁判が近いのに師が別のことを語っている、
その場の空気。
たまらず声をかけた自分。
それに動じず、
人生そのものを弁明と呼んだソクラテス。
師を心配した弟子と、
揺るがなかった師。
そのずれを含んだ一場面が、
クセノポンの記録の中へ残りました。
彼は書かなかった。
しかし、書く人へ渡した。
その渡し方の中に、
ヘルモゲネスという人間がいます。

⑥ 富ではなく、証言の側に立った人
ヘルモゲネスは、
名家のそばにいた人でした。
兄カリアスの周囲には宴があり、
人が集まり、財産があり、華やかな空気がありました。
彼の名が残ったのは、
その富によってではありません。
裁判の前に、師へ声をかけたからです。
最期の日に、そこにいたからです。
そして後に、
その場面を誰かへ渡したからです。
富の家に生まれた人が、
富ではなく、
一人の師の言葉を残す側に立った。
師の言葉を書かず、
ただその場にいて、
いつかそれを誰かへ話した人。
弁明を促した声と、
最期を見届けた沈黙だけが、
彼の名を残しています。
プラトンは不在だった。
ヘルモゲネスは、
そこにいた。
【人物データ】
名前 ヘルモゲネス
生没 紀元前5世紀〜4世紀頃
主な登場作品『クラテュロス』『パイドン』
関係 ソクラテス、プラトン、クラテュロス
人物概要
ソクラテス周辺にいた人物。
大政治家や有名哲学者ではないが、
「名前とは何か」という重要問題を持ち込んだ人物として知られる。
・有名な立場
「名前は人間の約束で決まる」という立場。
クラテュロス
→ 名前には自然な正しさがある
ヘルモゲネス
→ 名前は人間の取り決めで決まる
という対立が描かれる。
・有名な論点
「犬」という言葉は、
本当に犬らしい自然な名前なのか。
それとも、人間がそう呼んでいるだけなのか。
・面白いポイント
ヘルモゲネス自身の名前も議論対象になる。
「ヘルモゲネス」という名前は、
神ヘルメス由来。
しかしソクラテスから、
「本当にその名前に合っているのか?」
と問われる。
・哲学的な役割
言葉・名前・意味の問題を考える入口になる人物。
・『パイドン』での位置
ソクラテス最期の日の場面にも登場。
派手ではないが、重要場面に静かに現れる人物。

