第Ⅱ部 英雄の時代【ギリシア神話 第30回】オイディプス③コロノスのオイディプス
【はじめに】
は、過去を背負って生きられるのでしょうか。
一度犯した過ちは、消すことができません。
失った命も。
傷つけた人も。
元には戻りません。
それなら、人は一生、
罪だけを背負って生きるしかないのでしょうか。
前回、オイディプスは真実を知りました。
父を殺し、母を妻としていたという、
あまりにも残酷な現実です。
その真実を最初に告げたのは、
盲目の預言者テイレシアスでした。
しかしオイディプスは、その言葉を信じませんでした。
やがて真実を知った彼は、自ら両目を突き、
王位も家族も失います。
多くの物語なら、ここで終わるでしょう。
けれど、ギリシア悲劇はその先を描きました。
人生は、失敗したあとにも続いていく。
今回は、一人の老人となったオイディプス、その人生最後の旅を見ていきます。

① アンティゴネと放浪
頼れるものも、ありません。
そんな彼の手を引いて歩いたのが、
娘アンティゴネでした。
彼女は、父を見捨てませんでした。
町から町へ。
山を越え、谷を越え、雨の日も風の日も、
ともに歩き続けます。
人々は、かつての王を見て、ささやきました。
「あれが、父を殺し、母と結婚した男だ。」
好奇の目。
恐れ。
軽蔑。
それでもアンティゴネは、父の手を強く握り、
こう言いました。
「お父様、こちらです。」
その一言だけで、十分でした。
オイディプスは、王ではなくなりました。
けれど、一人の父であることだけは、
失っていなかったのです。

② コロノス到着
長い放浪の末、二人は、アテナイ近くの小さな村、
コロノスへたどり着きます。
静かな森に囲まれた、美しい土地でした。
疲れ切ったオイディプスは、大きな岩へ腰を下ろします。
すると、土地の人々が慌てて駆け寄り、
こう言いました。
「そこは、座ってはいけない場所です。」
そこは、復讐の女神エリニュスたちへ捧げられた、
神聖な聖域だったのです。
人々は、立ち去るよう求めます。
しかしオイディプスは、静かに首を振り、
こう答えました。
「私は、
ここへ来るよう運命づけられていたのだ。」
実は彼は、若い頃からずっと、
一つの神託を胸にしまっていました。
「人生の終わりには、
聖なる土地で眠ることになる。」
長い放浪は、ようやく終わろうとしていたのです。

③ テセウスが迎える
やがて、
この知らせはアテナイ王テセウスの耳へ届きます。
かつてミノタウロスを倒し、
アテナイを一つの国へまとめ上げたあの、英雄です。
しかし彼は、
目の前の老人を罪人として見ませんでした。
自ら歩み寄り、穏やかに語りかけます。
「あなたを、この国で守りましょう。」
オイディプスは驚きました。
これまでの人生は、追われる日々でした。
人々は彼を恐れ、町から追い出しました。
それなのにテセウスは、何も求めません。
ただ、一人の人間として迎え入れたのです。
その瞬間、オイディプスは初めて安らぎを覚えます。

④ クレオン、そして息子の来訪
穏やかな時間は、長く続きませんでした。
最初に現れたのは、イオカステの兄であり、
今はテーバイを治めるクレオンでした。
彼は、オイディプスを故郷へ連れ戻そうとします。
けれど、親切心からではありません。
一つの神託が、あったからです。
「オイディプスが眠る土地は、
その国を守る。」
クレオンが欲しかったのは、テーバイの平和ではなく、その神託の力だけだったのです。
オイディプスは、静かに拒みました。
思い通りにならないと知ったクレオンは、
アンティゴネたちを連れ去ろうとします。
しかし、駆けつけたテセウスがこれを退け、
親子は守られました。
クレオンが立ち去った、その後のことでした。
森に、静けさが戻ります。
けれど、それも束の間でした。
クレオンとは違う目的で、彼はここへ来ていました。
息子、ポリュネイケスでした。
彼は今、弟エテオクレスと、王位を巡って争っています。
その争いに勝つため、
父の祝福を求めてやって来たのです。
オイディプスは、ゆっくりと顔を上げ、こう言いました。
「私が、暗闇を歩いていたとき。
お前は、来なかった。」
放浪する父を。
苦しむ父を。
ポリュネイケス弟エテオクレスは、見捨てました。
今になって助けを求めても、もう遅かったのです。

⑤ オイディプスの呪い
しばらく、誰も口を開きませんでした。
風が木々を揺らす音だけが、響きます。
やがてオイディプスは、静かに語り始めました。
「お前たち兄弟は、父ではなく、
王だけを見ていた。」
その声には、怒りよりも、
深い悲しみがにじんでいました。
そして最後に、こう言い残します。
「ならば、お前たち兄弟は、
互いの剣によって滅びるだろう。」
父の、呪いでした。


⑥ 神秘的な最期
ある日、空に雷鳴が響きました。
オイディプスは静かに立ち上がります。
「その時が来た。」
彼はテセウスだけを伴い、森の奥へ歩き始めました。
アンティゴネでさえ、
それ以上先へ進むことは許されません。
深い森。
静かな風。
誰も知らない場所。
そこで何が起きたのか。
伝承は詳しく語りません。
ただ一つだけ伝えています。
テセウスだけが、その最後を見届けました。
しかし王は、
生涯その出来事を誰にも語らなかったといいます。
だから今も、人々は知りません。
オイディプスが、どのように最期を迎えたのかを。
ただ、その亡骸は誰にも見つかりませんでした。
まるで神々に迎えられるように、この世から静かに姿を消したのです。
かつて「呪われた王」と呼ばれた男は、
最後に聖なる存在として眠りにつきました。
罪は消えませんでした。
それでも、
その人生には静かな安らぎが与えられたのです。

【おわりに】
オイディプスが眠る場所はテセウスだけに知らされ、アテナイを守る聖なる地になったと伝えられています。
つまり、オイディプスが最後に守ったのは、
生まれ故郷のテーバイでも育ったコリントスでもなく、自分を受け入れてくれたアテナイだったということになります。
これは『コロノスのオイディプス』の大きな見どころの一つです。

【預言者テイレシアスとは】
テイレシアスは、テーバイに仕えた伝説の預言者です。
若い頃、森で交尾していた二匹の蛇を杖で打つと、
女の姿へ変えられてしまいました。
七年後、再び交尾中の蛇に出会い、
同じように杖で打つと、
今度は男の姿へ戻ります。
男と女の両方を経験した唯一の人間となりました。
その後、ゼウスとヘラが
「愛の喜びをより大きく感じるのは
男か、女か」
と口論になり、二人はテイレシアスに判定を求めます。
テイレシアスは
「女のほうが大きい」
と答えました。
怒ったヘラは、
テイレシアスの目を見えなくします。
しかしゼウスはヘラの呪いを解くことができなかったため、その代わりに未来を見通す預言の力と、
七代分の寿命を授けました。
その後テイレシアスは、
オイディプスやアンティゴネなど、
テーバイ王家の悲劇を見届ける預言者として活躍します。
設定もりもり預言者です!




