第Ⅱ部 英雄の時代【ギリシア神話 第31回】オイディプス④ オイディプスの娘アンティゴネ
【はじめに】
前回、オイディプスは長い放浪の果てに、
アテナイの地で静かに息を引き取りました。
けれど、彼が背負っていた呪いは、
それで終わったわけではありません。
呪いの最後の刃が向かうのは、
一人の娘――アンティゴネです。
最後まで父のそばを離れず、支え続けた娘。
これから語るのは、「これが正しい」と信じた道を、最後まで貫いた一人の女性の物語です。

① 父の呪い
兄エテオクレスと弟ポリュネイケス。
オイディプスの死後、
テーバイの王位を継いだのはこの二人でした。
二人は「一年交代で王位につく」
という約束を結びます。
しかし兄エテオクレスは、
約束の期限が来ても王位を譲りませんでした。
裏切られた弟ポリュネイケスは、
隣国アルゴスへ向かいます。
そこで王アドラストスの力を借り、軍勢を集めました。
七人の将軍が、それぞれ城門を攻める――
のちに「七将軍のテーバイ攻め」と呼ばれる戦いです。
そしてついに、城門の前で兄弟は剣を交えます。
盾がぶつかり合い、剣が振り下ろされる。
次の瞬間、二人は同時に地に倒れました。
かつて父オイディプスが放った言葉、
そのままの結末でした。
「お前たちは、
互いの剣によって滅びるだろう。」
父の呪いは、こうして現実のものとなったのです。
けれど――物語の悲劇は、まだ終わっていません。



② 王の命令
戦いの後、新たな王となったのはクレオンでした。
かつてオイディプスを追い詰めた、イオカステの兄です。
クレオンは人々の前に立ち、こう宣言します。
「エテオクレスは英雄として埋葬する。」
広場に歓声が上がりました。
祖国を守るために戦ったのだから、
当然だと誰もが思いました。
けれど、クレオンの言葉は続きます。
「ポリュネイケスの埋葬は禁じる。」
人々は息をのみました。
当時のギリシアでは、埋葬されない魂は冥界へたどり着けないと信じられていたからです。
それは、命を奪うだけでは終わらない罰でした。
死んだ後の安らぎまでも、奪う罰だったのです。
誰もが目を伏せました。
王の命令に逆らえば、
自分も罰を受けることになります。
けれど、その場にいた一人の娘だけは、
うつむきませんでした。
アンティゴネです。


③ アンティゴネの決意
アンティゴネは妹イスメネを呼び寄せました。
「兄上を埋葬します。」
イスメネの顔から血の気が引きます。
「そんなことをすれば、殺されてしまいます。」
けれど、アンティゴネは静かに微笑むだけでした。
「私が従うのは、王の法ではありません。
神々の法です。」
夜になりました。
月の光だけが、静まり返った城門を照らしています。
アンティゴネは、たった一人で歩いていきました。
冷たい風が吹き抜けます。
彼女はひざまずき、震える手で土をすくいました。
そして、兄の亡骸へ、そっと振りかけます。
豪華な葬儀ではありません。
けれど、それで十分でした。
妹としてすべきことを、成し遂げたのです。
しかし、その姿を見ていた者たちがいました。
見張りの兵士たちです。
運命は、静かに動き始めていました。


④ 王と娘
「なぜ命令に背いた!」
クレオンの怒声が、宮殿に響き渡りました。
王は玉座から立ち上がり、
ゆっくりと階段を下りていきます。
その前に立っていたのは、
両手を縛られたアンティゴネでした。
けれど、彼女はうつむきません。
クレオンをまっすぐ見つめ、
その視線を正面から受け止めました。
「神々の掟は、
人間の掟よりも古いものです。」
「だから、王の命令を破ったというのか。」
「はい。」
広間は静まり返りました。
兵士も家臣も、誰ひとり口を開きません。
王は、国の秩序を守ろうとしていました。
娘は、家族への務めを守ろうとしていました。
どちらも、自分こそが正しいと信じていたのです。
クレオンは拳を握りしめます。
アンティゴネは、一歩も退きません。
二人のあいだには、剣よりも鋭い沈黙が流れていました。
考えてみれば、不思議なことです。
これは、悪人と善人の争いではありません。
正しさと、もう一つの正しさが、
ぶつかり合っているのです。
だからこそ――この争いに、
勝者はいなかったのでしょう。

⑤ 悲劇の連鎖
クレオンは、ついに決断しました。
「アンティゴネを解放せよ。」
預言者テイレシアスの警告を聞き、
ようやく自らの過ちに気づいたのです。
しかし、決断は遅すぎました。
アンティゴネは既に、
岩を掘った洞窟に生きたまま閉じ込められていたのです。
食料も水も与えられぬまま、
ただ死を待つだけの処罰でした。
王は兵士たちを連れ、急いで洞窟へ向かいます。
誰も口を開きません。
風の音だけが響いていました。
やがて、重い扉が開かれます。
その瞬間、クレオンは立ち尽くしました。
アンティゴネは、既に自らの帯で首を吊り、
命を絶っていたのです。
そして、その亡骸の傍らには、
息子ハイモンの姿がありました。
アンティゴネの死刑を知り、父よりも先に、
ここへ駆けつけていたのです。
けれど、間に合いませんでした。
ハイモンは恋人の亡骸を抱きしめたまま、
ゆっくりと父を見上げます。
「父上。これで満足ですか。」
怒りに任せ、彼は剣を抜き、父へと振り下ろしました。
しかし、その刃はむなしく空を切ります。
父を殺せなかった怒りは、
そのまま絶望へと変わりました。
彼は、その切っ先を自らの胸へと向けたのです。
洞窟には、再び静寂が訪れました。
王宮へ戻ったクレオンを待っていたのは、
さらに悲しい知らせでした。
王妃エウリュディケが、息子の死を知り――
そして、その死が夫クレオンの過ちによるものだと悟り
自ら命を絶っていたのです。
気づけば、クレオンはすべてを失っていました。
残ったのは、王冠だけ。
けれど、その王冠を受け継ぐ者は、
もうどこにもいなかったのです。

【アンティゴネ】

