第Ⅱ部 英雄の時代【ギリシア神話 第32回】イアソン①アルゴー号の誕生
【はじめに】
安全な暮らしを捨てて、危険な旅に出る者たちがいます。
まだ見ぬ世界を、この目で見るために。
まだ出会っていない仲間を、探すために。
ギリシア神話には、そんな旅の始まりが描かれています。
一人の英雄の物語ではありません。
さまざまな才能を持つ者たちが、一つの船に乗り込み、世界の果てを目指した物語です。
船の名は、アルゴー号。
のちにトロイア戦争で名を残す英雄たちも、まだ若き日はこの船に乗っていました。
英雄たちの時代が、いよいよ幕を開けます。

① 王位を奪われた少年
イオルコスの王アイソンには、一人の息子がいました。
その名は、イアソン。
しかし、王位を継げない身であることに、
弟ペリアスは強い不満を抱いていました。
ある日、ついに兵を率いて城を襲い、王位を奪ってしまいます。
幼いイアソンにも、命の危険が迫りました。
母は、息子を連れてペリオン山へ逃げます。
そこで暮らしていたのは、賢者ケイロン。
上半身は人間、下半身は馬という、不思議な姿をしていました。
母は、ケイロンに息子を託しました。
「どうか、この子を守り、育ててください。」
そう言い残すと、涙をこらえて山を下りていきました。
こうしてイアソンは、ケイロンのもとで育てられることになります。
ケイロンは、幼いイアソンにこう言いました。
「力だけでは、英雄にはなれない。」
「怒りを抑え、仲間を守り、
運命を受け入れる強さが要る。」
イアソンは、剣の使い方を学びました。
馬の乗り方を学びました。
そして、少しずつ、たくましい若者へと成長していきました。
その頃、王宮では、ペリアスがある神託におびえていました。
「片方のサンダルを履いた男に気をつけよ。」
王は、鼻で笑いました。
そんな男が現れるはずがない、と。



② 片方のサンダルの青年
長い年月が流れました。
たくましく成長したイアソンは、
父の王位を奪ったペリアスのことを知り、
故郷イオルコスへ戻る決意を固めます。
イオルコスの王座には、
いまも簒奪者ペリアスが座っていました。
旅の途中、アナウロス川のほとりで、
一人の老人が立ち尽くしていました。
「向こう岸まで、
連れていってくれませんか。」
イアソンはためらいませんでした。
老人を背負い、激しい流れへ足を踏み入れます。
冷たい水が膝まで押し寄せ、
大きな石に足を取られました。
その瞬間、片方のサンダルが流されてしまいます。
岸へたどり着くと、老人は静かに微笑みました。
「あなたは、正しい道を選びました。」
次の瞬間、その姿は消えていました。
老人の正体は、女神アテナだったのです。
そのままイアソンは、王宮へと向かいました。
玉座に座る簒奪者ペリアスは、
その姿を見るなり息をのみます。
片方のサンダル。
神託どおりだったからです。
とうとう、運命の男が現れたのです。


③ 黄金の羊毛を持ち帰れ
ペリアスは、笑顔を浮かべました。
しかし、玉座を握る指先は、白くなっていました。
神託の恐ろしさを、王は誰よりも知っていたのです。
「もちろん、王位は返そう。」
「だが、その前に一つだけ頼みがある。」
王は、東の空を指さしました。
死者の国は西にあると信じられていた時代、東は太陽が昇る、新たな始まりの方角でした。
「黄金の羊毛を、持ち帰るのだ。」
家臣たちは、思わず顔を見合わせました。
その宝が眠るコルキス王国は、
世界の果てと呼ばれていたからです。
荒れ狂う海。
恐ろしい怪物たち。
そして、決して眠らない竜。
誰もが、生きて帰れるとは思っていませんでした。
ところが、イアソンは静かにうなずきます。
「行ってまいります。」
ペリアスは、思わず目を見開きました。
目の前の青年は、逃げなかったのです。
こうして、
世界でもっとも危険な旅が、動き出しました。

④ アルゴー号の建造
イアソンは、優れた船大工アルゴスを訪ねました。
「世界の果てまで行ける船を、
造ってほしい。」
アルゴスは、驚いた顔をします。
「そんな船など、存在しません。」
イアソンは言います。
「ならば、今から造りましょう。」
その言葉に、アルゴスは思わず笑いました。
女神アテナも、この計画に力を貸しました。
船の造り方そのものを、アルゴスに授けたのです。
さらにアテナは、ドドナの聖なる樫の木から切り出した一枚の板を、自らの手で船首に埋め込みました。
木が切り出され、巨大な梁が組み上げられていきます。
やがて、一隻の大きな船が完成します。
その名は、アルゴー号。
それは、イアソンにとって、ただ一つの希望でした。
けれど、船が一隻あるだけでは、旅はできません。
必要だったのは、ともに戦ってくれる仲間たちでした。

⑤ 英雄たちの集結
港には、大勢の人々が集まっていました。
最初に現れたのは、ヘラクレスでした。
彼は、岸辺に積まれた丸太を、
軽々と肩へ担ぎ上げます。
「これくらいなら、
櫂の代わりになりそうだ。」
人々は、あっけに取られました。
その隣では、
オルフェウスが静かに竪琴を奏でています。
いつの間にか、港の騒がしさは消えていました。
聞こえるのは、波の音だけです。
まるで、海そのものが耳を傾けているようでした。
やがて、一組の若者が姿を現します。
双子の兄弟、
カストルとポリュデウケスです。
カストルは、暴れる馬を優しくなだめました。
その隣で、ポリュデウケスは若者たちと腕比べを始めます。
笑い声が響きました。
誰もが、異なる力を持っていました。
それでも、目指す場所は同じでした。
一人では不可能なことも、仲間となら成し遂げられる。
そんな予感が、港を満たしていました。

⑥ アルゴー号の出航
朝日が、海を黄金色に染めていました。
イアソンは、静かに仲間たちを見回します。
怪力を持つ者。
知恵を持つ者。
音楽を愛する者。
誰もが、英雄でした。
同時に、誰もが、弱さを抱えた人間でもありました。
オルフェウスが竪琴は穏やかな音色が風に乗り、
港へと広がっていきました。
ヘラクレスが、笑いました。
カストルとポリュデウケスも、顔を見合わせます。
そして、アルゴー号は、静かに岸を離れました。
こうして、英雄たちは、未知の海へと旅立ったのです。
彼らは、まだ知りませんでした。
この旅が、友情を生み、愛を生み、裏切りを生み、
多くの悲劇を生み出すことを。
そして、その中心に、一人の王女がいることを。
その名は、メデイア。
英雄たちの運命を、大きく変える女性でした。

【アルゴー号乗船英雄紹介】


【哲学との接続 アスクレピオス(医師)】
医術の神として崇拝される存在です。
アルゴー号の医師として旅に参加したとされています。
なお、哲学者ソクラテスは死に際の最後の言葉で
「アスクレピオスに雄鶏を捧げてほしい」
と弟子クリトンに頼んだと伝えられ、
この一言は「死は魂の癒やしである」という思想を
象徴する名場面として知られています。
晩年は、“ザオリク”のように死者まで
蘇らせるようになります。
当然、冥界を治めるハデスからすれば大問題。
生と死の秩序が崩れることを恐れたゼウスは、雷を落としてアスクレピオスを殺しました。
また、現在でも世界保健機関(WHO)をはじめ、
多くの医療機関で一本の蛇が巻き付いた杖
(アスクレピオスの杖)が医療の象徴となります。

