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【プラトン全集第1巻『クリトン』】クリトン

〖はじめに〗

まだ夜が明けきらないころ、
クリトンは牢に入っていきました。

番人には、もう話がついていたのでしょう。
中では、ソクラテスが眠っていた。
死刑を待つ身なのに、不思議なくらい静かに眠っていた。

クリトンは、すぐには起こしません。
そのまま、
そばに座って待っていたと伝えられます。

助けるために来た人が、
まずしたことは、待つことでした。

① 逃がす準備は、もうできていた

クリトンは、
ただ会いに来たのではありませんでした。

この朝、牢に来たのには理由があります。
聖なる船が戻れば、執行はもう延びません。
迷っている時間が、
ほとんど残っていなかった。

ソクラテス自身も、
船が着けば死は近いと語っています。

だから、まだ暗いうちに来た。
夜が明けてからでは遅い。
今日、ここで決めなければならない。
そういう朝でした。

しかも、話は思いつきではありません。

逃げ道はある。
金は自分が出す。
協力してくれる人もいる。
行った先で迎えてくれる相手まで決まっている。

説得が通ったあとで動くのではない。
通ったその場で、すぐ動けるように、
先に現実のほうを整えてきたのです。

クリトンが持ち出すのは、
立派な理屈ばかりではありません。

このまま死ねば、友人たちは金を惜しんだと思われるかもしれない。
子どもたちは父を失う。
わざわざ敵の望む通りに死ぬ理由がどこにあるのか。

評判の話も出る。
金の話も出る。
子どもの話も出る。

それでも止めようとする、
そういう朝でした。

しかも、目の前にいるのは、
牢の中でも眠れてしまうほど静かなソクラテスです。

慌てている友人と、落ち着き払った死刑囚。
この対比が、ひどく重い。

② 牢の朝だけの人ではなかった

クリトンには、あの朝と同じ手つきの話が、もう一つ残っています。

のちに『パイドン』の語り手として知られるパイドンは、若いころ戦争の混乱の中で捕らえられ、奴隷として売られていたと伝えられます。

その少年を、
ソクラテスが見過ごさなかった。

そして後代には、
ソクラテスがクリトンに身代金を出させ、
パイドンを買い戻させたと伝えられています。

値がつけられ、
売り買いされる側に落ちていた少年を、
金を動かして、そこから出す。

この話が後代にクリトンの名と結びついて残ったのは、偶然ではない気がします。

③ 最後に呼ばれた名

毒を飲んだあと、
ソクラテスの体は少しずつ冷えていく。

その場には、パイドンがいた。
シミアスも、ケベスもいた。
みな、最期を見守っていた。

その中で、最後にソクラテスの口から出たのは、クリトンの名でした。

「クリトン――」

そして、アスクレピオスに借りている雄鶏を返しておいてくれ、と言う。
忘れないでくれ、と言う。

大きな思想ではありません。
壮大な遺言でもない。
ひどく小さく、具体的な頼みです。

けれど、最後に託されたのは、
その小さな用事でした。

そして、その相手はクリトンでした。

夜明け前、牢に来た人の名が、
最後にも呼ばれる。



〖おわりに〗

最後に名前を呼ばれる人は、
いつも一番雄弁な人ではありません。

【人物データ】
名前 クリトン  
系統 ソクラテス周辺人物
立場 ソクラテスの親しい友人・支援者  
活動 アテナイ  
生没 紀元前5世紀後半〜4世紀前半
立場 実践的・現実的な友人として描かれる  
師  ソクラテス  
弟子 はっきりした弟子は伝わりにくい  
特徴 ソクラテスの裁判後も支え続け、脱獄
   の準備を整えた人物として有名  

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