【ギリシア哲学】『アカデメイア派プラトン①』
〖はじめに〗
若いプラトンは、ソクラテスを聞いたその翌日に、悲劇の道を断念した。
そんな話が残っています。
何年も迷った末ではない。
前の日まで自分を前へ運んでいたものが、次の日にはもう運ばなくなる。
しかも、その青年は最初から「プラトン」と呼ばれていたわけではありませんでした。
本名はアリストクレス。
「プラトン」という名は、体つきの広さからとも、額の広さからとも言われる、いわば呼ばれ名です。
最初から大哲学者の顔で立っていた人ではない。
町の中で呼ばれ名を持ち、悲劇のほうへ進むこともできた青年だった。
見たいのは、『国家』を書いたあとのプラトンではありません。
まだ自分の原稿を焼いていなかったころの、若いアリストクレスのほうです。

① 劇場の光のほうへ進める青年だった
若いプラトンは、何も持たない若者ではありませんでした。
名門の家に生まれ、町の表へ出ていける。
政治の道へ進んでもおかしくない。
若いころには、抒情詩や悲劇を書いたとも言われます。
悲劇を書くというのは、ただ机に向かって考えることではありません。
人前へ出ることです。
祭の日になれば、劇場へ人が流れ、町じゅうの耳が舞台へ集まる。
うまくいけば拍手を受ける。
勝てば、名が残る。
若いアリストクレスも、原稿を抱えて、その光のほうを見ていたはずです。
これなら届くかもしれない。
うまくいけば、人が聞く。
勝てば、名が残る。
そういう道へ、進める青年でした。

② 白鳥の夢を見た翌朝
その前の夜、ソクラテスは夢を見た、と言われます。
膝の上に白鳥の雛がいる。
まだ小さい。
けれど、その雛に羽が生え、ひと声高く鳴いて、空へ飛び立っていく。
翌朝、その家に一人の青年が連れて来られる。
年若く、整った顔立ちで、まだ言葉の張りだけで前へ出ていけそうな気配がある。
ソクラテスはそれを見るなり、
「あれが、あの鳥だ」
と言った、と伝えられます。
話としては、できすぎています。
けれど、できすぎているからこそ残ったのでしょう。
この逸話がいいのは、若いプラトンを最初から完成した哲学者としてではなく、
まだ高く飛びそうな青年として残しているところです。
声もある。勢いもある。
そのまま詩人として名を上げても、おかしくない。
ただ、その朝に待っていたのは、声のよさを誉める人ではありませんでした。
たとえば、勇気とは何か、と問われる。
戦場で逃げないことです、と若者は答える。
では、退くべきときに退かない者も勇敢なのか。
それとも、怖いものを怖いと知ったうえで踏みとどまる者が勇敢なのか。
まっすぐだった答えが、その場で少し揺れる。
勇気。
名誉。
美しさ。
大きな言葉ほど、その朝から急に重くなる。

③ 翌日、原稿の前で手が止まる
翌日。
部屋に朝の光が入る。
前に書いた原稿がある。
劇場へ向かう道は、まだ消えていない。
巻物を開く。
最初の行を読む。
その次を読む。
昨日までなら、そこには自分を前へ運ぶ響きがあった。
けれど、その朝にはもう違う。
次の行へ目を落としたところで、手が止まる。
読めないのではない。
読めてしまうから、止まる。
勇気、と書いてある。
名誉、と書いてある。
美しさ、と書いてある。
その一語一語の後ろに、前日聞いた問いが立つ。
その勇気とは何か。
その名誉とは何か。
その美しさは、何を隠しているのか。
下手だったからではありません。
むしろ、うまく書けていた。
響きのいい言葉を置けば、自分でも分かった気になれる。
昨日までは、それで前へ進めた。
その朝、はじめて分かる。
整っていることと、立てることは違う。
若いプラトンは、そこで巻物を閉じる。
直せば済む話ではない。
一節が悪いのではない。
この原稿の上に立っていた自分そのものが、もう昨日のままではいられない。

④ 焼いたのは、失敗作ではなく、前の自分の向きだった
火を入れる。
巻物を持つ手が、ほんの一瞬だけ止まる。
まだ戻れる。
手を引けば、昨日までの道へ戻れる。
けれど戻れない。
もう、あの言葉の上には立てない。
端が燃える。
火が走る。
書いた言葉が縮れ、黒くなり、形を失っていく。
失敗作を処分したのではありません。
昨日まで自分を前へ運んでいたものと、ここで別れたのです。
焼いたのは、原稿だけではない。
前の自分の向きを、ここで断ったのです。

〖おわりに〗
この話が重いのは、若い才能が哲学へ転んだ美談だからではありません。
人に届く言葉を持つことと、その言葉の上に立てることは同じではない。
その違いを知ってしまった朝、前の日までの未来は、そのままでは続かなくなった。
整っていることと、立てることは違う。
プラトンの出発点にあったのは、その痛みでした。
〖人物データ〗
名前 プラトン
生没 前427年頃–前347年頃
出身 アテナイ(伝承アイギナ島)
父親 アリストン
母親 ペリクティオネ
系統 ソクラテス周辺人物/アカデメイア派
立場 哲学者、著述家、学園創設者
師 ソクラテス
弟子 アリストテレス、スペウシッポス、
クセノクラテス ほか
活動 アテナイ、メガラ、エジプト(伝承)、
南イタリア、シケリア
特徴 イデア論、対話篇、魂の不死、
哲人政治、学園アカデメイアの創設
備考 ソクラテスの死後、その思想を大きく
展開し、西洋哲学の基礎を築いた人物
役割
ソクラテスの死後、問答の哲学を受け継ぎつつ、より大きな体系へと育てた哲学者です。
対話篇という形で哲学を書き残し、政治、倫理、魂、知識、宇宙まで幅広く論じました。
またアテナイにアカデメイアを開き、後の哲学史に長く続く学びの場を作りました。
ソクラテスとの関係
若いころにソクラテスと出会い、その強い影響を受けました。
とくにソクラテスの処刑は、プラトンにとって大きな転機だったと見られます。
彼の著作の多くで、ソクラテスは中心人物として語り続けられています。

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