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【歴史小説】星姫―名を隠したペルシアの王妃エステル#4

▼第一話


『星姫』主な登場人物

エステル(ハダッサ)

養父モルデカイと暮らしていた、十七歳のヘブル人の少女。王命によって後宮へ連れていかれ、皇妃候補となる。素朴で思いやり深いが、自らの出自と信仰を隠して生きなければならない。

モルデカイ

幼くして両親を亡くしたエステルを育てた養父。穏やかで親しみやすい文官だが、王宮の権力関係を見抜く鋭さを持つ。後宮の外からエステルを支える。

ハタク

エステル直属の宦官で、護衛と連絡役を務める。かつては辺境守備軍の指揮官だった。実直で警戒心が強く、次第にエステル個人へ忠誠を寄せるようになる。

フェリザ

エステルに仕える女官たちをまとめる女官長。冷静で判断が早く、後宮の規則と危険を知り尽くしている。厳しさと母親のような包容力を併せ持つ。

ナヴァズ

エステルの身の回りを支える中級女官。前皇妃ワシュティに仕えた経験を持ち、後宮の内情にも詳しい。エステルの出自を知る数少ない人物だが、複雑な事情を抱えている。

ミナ

エステルと同年代の下級女官。商家の娘で、舞踊を得意とする。明るく人懐っこい性格で、緊張の続く後宮の中でもエステルを笑顔にする。

タラ

ミナと同年代の下級女官。物静かで思慮深く、リュートの演奏を得意とする。人の苦しみに敏感で、何が正しいのかを深く考え続ける。

クセルクセス

広大なペルシア帝国を治める皇帝。圧倒的な権力を持つ一方、感情と欲望に流されやすい。その命令が、エステルたちの運命を大きく左右する。

ハマン

ペルシア軍の実権を握る将軍。高い能力を持つ一方、強い自尊心と権力欲を抱えている。モルデカイとの対立をきっかけに、エステルたちを大きな危機へ巻き込んでいく。



第四章 神我らと共にいます

いつもより丁寧に滋養となる香草湯を淹れていると、朝から胸の奥で揺れていた高揚感が、湯気に溶けて少しずつ静まっていくような気がした。

薄く琥珀色に染まった香草湯が、湯気とともに甘く、そして少し香辛料の効いた香りを放っている。

タラの横ではミナが嬉しそうに茶菓子を用意している。今回は、エステルがミナの好物の蜂蜜とナッツの焼き菓子を用意してもらったらしい。

昨晩、帝国を揺るがす叛乱が未遂に終わった――。

その渦中にいたはずなのに、歩幅を乱されることなく、ミナが変わらぬ笑顔で今日を迎えているのが、タラには少し眩しく感じられた。

これもミナの生まれ育った環境に起因することなのだろうかと、タラは思うが、そこで彼女自身の特性なのだと思い直す。

タラは貴族の生まれだが、ミナの出自は商家である。人の出入りが多いにぎやかな環境で育ったことは想像に難くないが、行商人の娘というわけではない。

帝都に大店を構え、香料や染織品を主に扱っていたという。王宮や上流階級への納品も多く、父親は貴族階級の間でも顔が利いた。

もはや没落の色が隠せないタラの生家などより、今となっては遥かに影響力を持っているに違いない。

そんな生まれのお嬢様となれば、そこらの貴族よりも、貴族らしい――はずなのに、ミナからはそんな香りが一切漂ってこないのである。

湯気がたちのぼる椀を両手でそっと包みながら、タラはこっそりとつまみ食いをしているミナを嗜めながら、そんな物思いに耽った。

扉を開けると、やや疲れた表情のエステルが微笑みながら待っていた。昨晩、血で血を洗う政争の真っ只中にいたのである。さすがに疲れの色を隠せていない――。

フェリザ女官長の配慮により、しばらく客人の来訪は控えさせてあるらしい。

だからだろうか。今日のエステルは、いつもより少しだけ気の抜けた様子に見える。

髪のまとめ方も、襟元の留め方も、どこか気の緩みが滲んでいた。だが、それすらも自然に感じられるのがエステルだった。

いつも彼女からは、威厳や誇りよりも、あたたかさとしなやかさの方が先に伝わってくる。

ふとした所作に見える品も、育ちの良さというより、もっと別の、時間をかけて磨かれた柔らかさのように思えた。

ふわりとエステルが好んでつけている香の匂いが舞ったと思うと、長椅子に座っている彼女はそっとタラの肩に頭を預けてきた。

静かに目を閉じ、珍しくどこか甘えたような顔になっている。

エステルが、こうして距離を縮めてくること自体、ほとんどない。タラもまた、人とべたべたと触れ合うのは得意ではない。

けれど今は、ただこの静かな重みに身を委ねてもいい気がした。肌を通して伝わってくる体温が、妙に心地よい。

「……結局、何が正しいんですかね」

ふと漏れた自分のひと言に、タラは驚いた――。

程よい眠気に包まれていたせいか、胸の奥に溜まっていたものが思わずこぼれてしまったらしい。

「正しいって?」

すぐに問い返す声がした。

タラの肩からそっと身を離し、エステルがこちらを見ていた。その顔は驚きよりも、不思議そうな、どこか優しい表情だった。

目が合った瞬間、失言だったと気づく。仕える主の判断に疑問を呈してしまったのだと。眠気は跡形もなく吹き飛び、心の中に焦りが走った――。 

「……いえ、その」

「その?」

エステルは、問いを緩めてくれない。

どうにか話をそらせないかと視線をさまよわせたが、エステルの静かな眼差しに抗えなかった。

(――もう、逃げられない)

タラは小さく息を吐き、肩を落とした。そして、気づく。エステルはタラが何を思っていたのかをすでに悟っていることを。

「ここだけのお話にさせてください……。その……他意はございません」

タラの言葉に、エステルは静かに姿勢を正し、真剣な表情で頷いた。

その肩越しにミナが手を止めてこちらを見ているのが目に入る。さっきまで茶菓子をつまんでいた手が、いつのまにか膝の上にきちんと置かれていた。表情も、どこか引き締まっているように見える。

「……ラジーラ、ほら昨晩、保護された。彼女を浴場に連れていったんです。そうしたら……」

そこまで言って、タラの喉が詰まった。言葉が、出ない。

一拍の沈黙ののち、エステルがそっと手を伸ばし、タラの肩に触れる。ミナもまた、お菓子をそっと机に戻すと、静かにタラの隣に腰を下ろし、寄り添ってくる。

そのぬくもりが、胸の内の何かを支えてくれるようで、思わず力が抜ける。

そこで初めてタラは自分が泣いていたことに気づいた。

「彼女の背中は……傷だらけだったんです……」

かすれた声がようやく漏れた。

「……結局、何が正しいんですかね」

タラの声が、まだエステルの頭の奥で波紋のように広がっていた。

事件の真相が明らかになったとき、犯人が王への深い憎悪を抱いていたと知った。その動機と背景も、エステルは包み隠さず語った。クセルクセス王の非道を告げたとき、侍女たちの顔に浮かんだあの嫌悪と戸惑いが入り混じった揺らぎが、今も脳裏に思い出される。

無理もない。自分ですら、まだ整理がついていないのだから。

さらに加えて、タラがラジーラの体に虐待の跡があったと告げてきた。

ゾロアスター教では、正義と秩序、思いやりが重んじられる。

一方、暴力や不正は「悪」とされる。殴打、飢餓、殺害――そのどれもが社会的に否定されるべき行為だ。たとえ、それが奴隷に対してであったとしても。

それでも、現実から残酷さが消えることはない。エステル自身、奴隷への虐待の噂を耳にしたことは何度もあった。

だが、ラジーラの前の主人は、暴虐の波に妻をさらわれた男である。そんな彼が、一方で自分の召使いに暴行をしていたという事実は、あまりに皮肉で――そして胸を締めつける。

結局のところ、義人はひとりもいなかったのだ。

何が正しくて、誰が正しいのか。

自分の選択は、本当に正しかったのか。

答えのない問いが、濁った心の水面に静かに波紋を広げ、深淵へと沈んでいった。

再びタラの声が頭の中に響く――。エステルはその余韻を振り払うように、そっと頭を振った。

「わからないわ……」

エステルはポツリと、消え入るような声でつぶやいた。

どちらかが正義で、どちらかが悪であるのであれば、どれほど良いか。しかし、現実は境界線が溶けて、白と黒が入り混じった灰色の世界が広がっているばかりである。まるで霧に包まれた迷路の中を歩くような気持ちになる。
タラは少し遠慮がちに、でも思い切った様子で言葉を続けた。

「エステルを責めているわけじゃないの。ただ……本当に神なんているのかなって、思っただけ。こんな、悪ばかりの世界に」

エステルが顔を向けると、タラが視線を落としながら、微かに戸惑いの色を浮かべていた。

あたりに重い空気が立ち込めようとした時、返答に詰まったエステルの代わりに、明るく透き通る声が部屋を満たした。

「私はいると思うよ」

ミナだった。

その声は、陽だまりの中に射す一筋の光のように、温かく、そしてまっすぐに部屋を満たした。

長く一緒にいてわかったことなのだが、ミナは見かけよりも信心深い。そして、意外にも慇懃実直そうなタラは意外と信仰というものからは遠いのである。

貴族の生まれだから、宗教行事にもよく参加させられていたので、所作の端々に染みついているものはあるのだが、彼女自身は割り切っているようなのだ。

もしかすると、貴族でありながらも没落していっている生家を見てきたタラにとって、神や祈りは救いではなく、無力の象徴だったのかもしれない。だから、そういったものから距離を置いているのかもしれないと、エステルは考えていた。

この対照的な二人は、特にこうした繊細な話題になると相性が悪い。

しかし、ミナはそんなエステルの心配をよそに話を続けていった。

「たとえば、今日はエステルの髪をまとめる係はいないでしょ。だって、ほら、エステルの髪が乱れているもん」

タラの目がすっと細まったのが、エステルの視界の端で見える。

(あの目は危ない)

エステルは慌てて口を開いた。

これ以上のミナの不用意な発言によって、タラの心からたんまりと怒りのぶどう酒を取り出さないように――。

熟成しすぎたぶどう酒が酢に変わって飲めたものではなくなるように、熟成させた怒りも何かに変わっていくのだろうか――。

少なくともエステルは味わいたくはない。 

「今日は、タラの担当だったけど……。私が休んでってお願いしたのよ」

ミナは軽く「知ってるよ」と返し、エステルの気苦労などつゆ知らず、さらに言葉を続ける。

「私が言いたいのはね。髪が乱れてるからって、女官がいないわけじゃないでしょ。まだ出会ってないだけ。同じようにさ――悪があるからって、神がいないとは言えないんじゃないかな?」

その言葉に、タラはゆっくりと頷いた。思索に耽るような、静かな沈黙が部屋に流れる。

エステルは、ふと我に返る。

(そんなに……かな)

指先をそっと髪へと伸ばし、どうにもならない現実を確かめながら小さく溜め息をついた。

自身の髪を直すのを諦めて、エステルはずっと心にあった思いを言葉にしてみた。

「私の髪が乱れてるとして、それは私がタラを断ったから。つまり、私の自由意志によって結果が変わったってことよね? でも、今回のことはどうなんだろう」

これはずっとエステルの心の中で、蛇のようにとぐろを巻いている思いだった。自分の過ちによって、悪が生じるのであれば、納得もできるだろう。
だが、自分の置かれた状況はどうだろうか。何の悪をなしたというのか、何をしたから王の籠の中に閉じ込められ、彼の欲求を受け止める道具とさせられたのだろうか。

――エステルには答えがなかった。

そんなエステルの思いを察してか、今度はタラが口を開いた。

「父が言っていたわ。より良い善のために、悪が一時的に許されているということもあるのかもしれないって」

その言葉はエステルの心を刺した。エステルは口の中で、ゆっくり味わうように、その言葉を反芻する。

「より良い善……」

「そう。つまり、善神〈アフラ・マズダー〉と悪神〈アンラ・マンユ〉がいて、最後には救い主が現れて、善神が勝つのだけど、そのために一時的に悪が働いているということ。言ってしまえば、敵を引き込んで叩く戦略に似てるのかもね」

タラは手元の菓子を並べながら、まるで戦場の軍師のように言葉を重ねた。

「でもそれなら、さっさと悪神ごと悪を滅ぼしてほしいわよね。結局のところ、神は全能でないか、もしくはいないのかもよ」
ため息とともに、タラは言葉を吐き出した。悪を防げない神など、いないも同然――そう言外に滲む本音を、エステルは感じ取った。

「私が聞いた話なんだけど……」

少し躊躇いながら、エステルは口を開く。その言葉に、祈るような願いがこもる。

「うろ覚えなんだけど――。天の法廷で告発する者〈サタン〉がいて、神に私たちを訴えていて、それを神は擁護してくださっているんだって」

養父に聞かされた話を手繰り寄せるように、エステルは考えをまとめていった。

「もし、それが本当なら――神は全能でありながら、何かの理由で……自らの力を制限せざるを得ない状況にあるのかもしれない、って思ったの」

その言葉にタラが眉をひそめて、怪訝そうに言葉を返してきた。

「つまり……。すべての悪を防ぐことはできるけど、今はそれができない状況があるということ?」

エステルはその疑問に満ちた視線をまっすぐ受け止め、こくりと頷いた。

「そう。たとえば、ナヴァズを裁いたとき――。私は赦すことをすでに決めていたの。でも、あの略式裁判を開かなければ、ハタクを始め、誰も納得しなかったはず」

たとえ皇后アメストリスには遠く及ばずとも、皇妃としてのエステルには、それなりの権限がある。

王宮監査補佐官――王の耳たるハタクでさえ、皇妃の命令には逆らえない。略式裁判など開かずとも、内々で処理することは可能だった。

「もし裁判なしに、ナヴァズを赦していたら……。ハタクはあの事実を報告し、事態はより悪化したと思うの」

その可能性は、今も完全には消えていない。

だが――少なくとも今の彼を見る限りでは、あえて報告する気配は感じられなかった。 

「つまり――。生じた悪をどのように扱うかを関わるすべての者が納得してからでないと、取り除くことができないということ」

エステルの意図を汲んで、タラが言葉を補ってくれる。

自分の思いがきちんと伝わったことに、エステルはわずかに肩の力を抜く。
そして、穏やかに微笑みながら答えた。

「そう。まるで裁判のようにね」

ミナが呟くように言葉を添えた。

「それもこれも……救い主が来られたときにわかるのかな」

その言葉に呼応するように、エステルの脳裏に一節の詩がよみがえった。

――主はみずからひとつのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。

「エステル、その言葉は……」

いつの間にか、口をついて出てきていたのだろう。
不思議そうな顔でミナが問いかけてくる。

「預言者イザヤの書にある預言よ。救い主の……。亡国の危機に晒された時に与えられたものなの」

タラは身を乗り出すように、興味深そうなまなざしを向けてくる。

「面白いわね。私たちの教えとも、どこか似てる。おとめから救い主が生まれるなんて……」

ミナも目を輝かせながら、素直にその話にうなずいている。顔に浮かぶわずかな高揚が、隠しきれない期待を物語っていた。

救い主インマヌエル〈神我らと共にいます〉――。

その名が妙にエステルの心に引っかかった。

(共にいます神――)

独り言のように、エステルは思ったことをつぶやいた。

「ある先生が、こんなふうに言ってたわ……。救い主は、王族の中でもなく、貴族の中でもなく、重い皮膚病の人々の中におられるって……」 

重い皮膚病――ペルシアでも悪と罪の象徴とされ、穢れそのものとして共同体から隔離された存在。 

その共同体から隔離された、穢れの中におられる救い主――インマヌエル。
なにかが見えかけた気がした。けれど、それは濃い霧の奥にゆらめく光のようで、手を伸ばしてもまだ届かない。

ただ、なぜかふと、養父に繰り返し聞かされた詩をもうひとつ思い出したのであった。

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

▼次話


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