【歴史小説】星姫―名を隠したペルシアの王妃エステル#1
あらすじ
人はなぜ、理由の見えない苦しみに直面するのか。本作はその問いを軸に、アケメネス朝ペルシア帝国の宮廷を舞台として描く歴史小説である。
ユダヤ人の娘エステルは、ある日突然、後宮へ連れ去られ、自らの出自を隠して生きることを強いられる。
理由も行く先も見えない苦悩の中、彼女はユダヤ教やゾロアスター教の教えを手がかりに、自らに降りかかった試練の意味を問い続ける。
やがて、民の滅亡を命じる勅令が下され、彼女は沈黙を貫くのか、それとも死を覚悟して立ち上がるのか、決断を迫られる。
権力の残酷さのただ中で、祈りと友情に支えられた一人の娘が、今、歴史を動かす――。
第一章 英雄を支配するモノと星の姫
固く閉じられた門を見つめながら、エステルは胸の内で呻いた。
「国中から美しい若い女を集める」
町の市場で偶然耳にした役人の布令。ほんの数歩、足を止めただけだった。
けれどその一瞬で、運命はねじれた。
まるで誰かの人生に紛れ込んだように自分が自分でなくなり、気づけば運命は、別の水路を静かに流れ始めていた。
役人たちはエステルを見るなり、その黒髪の美しさと端正な顔立ちを一瞥して判断を下した。有無を言わさず腕を掴み、後宮へと引き連れていったのだ。
(人さらいと何が違うんだろう――)
だが、それがペルシア帝国の王命であるならば、誰も逆らえる者などいない。
役人たちは任務を果たした安堵の表情を浮かべ、晴れやかに後宮を後にしたが、後に残されたのは、暗闇の中に放り込まれたエステルだった。
目の前に広がるのは、この世で最も煌びやかな空間――。
後宮。
皇帝クセルクセスの遊び場と化した光の豪奢は、まるで闇を隠すための化粧のようだった。
天井まで届く金の柱、足元には大理石。香の匂いが重く、肌を焦がすような熱気が漂っている。
まわりに目をやると、皇妃の座を目指し、夢を膨らませて爛々とさせた女たちがいた――。
だが、エステルにはそんな夢などなかった。
火照った肌とは裏腹に、冷気が内側から這い出す。
立ちくらみを覚えたエステルは、息を整えつつ、歩き出し、隅にある石造りの花壇の縁に腰を下ろした。
ふと、養父モルデカイが作る仔羊料理を食べながら、静かに過ごす時間を思い出され、胸が締め付けられる。
幼い頃に両親を亡くして以来、モルデカイはエステルにとって唯一の家族で、その義父は後宮に関わる役人だった。
特に仕事について、エステルに多くを話さなかったが、後宮内が陰謀で渦巻いているのは、時折、顔に滲み出る苦労の端々から見え隠れしていた。
先の皇妃ワシュティが廃妃された時に街で流れた嫌な噂が、脳裏をよぎる。
彼女はふと、手に目を落とした。荒れた手には水仕事の痕が赤く浮いていた。考えてみれば、化粧をしたことなど一度もない。
(これじゃあね)
華やかな貴族や芸事に秀でた有力者の娘たちと比べ、平凡な自分が選ばれるはずがない。
役人たちも、結局は保身のために、目についた娘を適当に捕らえただけではないだろうか
選定はこれからである。そのまま家へと帰されるかもしれない――。
(夕餉には間に合うといいけど。でも――)
エステルは胸中に滲み出た暗い考えを振り払うように、短く息を吐いた。
視界の隅で、女たちが一斉に姿勢を正すのが見える。
エステルも反射的に平伏した。男が目の前で足を止めたのが、気配で伝わり、心の臓が一度、脈打つように跳ねる。
「君の名前は?」
静かに響いた男の声に、背筋がこわばる。
それが自分にかけられた言葉だと気づき、わずかにエステルは顔をあげる。
(本当の名前を明かしてはいけないよ――)
養父の暖かい声と忠告が脳裏をよぎる。
乾いた口をどうにか動かして、その男に名前を告げた。
「エステル……と申します」
*
激しい轟音が耳を裂き、橋桁が次々と流されていくのを、ハタクは呆然と見つめていた。ペルシア帝国の誇りとされる架橋が、荒れ狂う川に飲み込まれ、消え失せたのだ。
目の前の惨状に、ただ息を呑むしかない。
これから始まる大戦争の前に起きた凶事――。まるで、目の前に神が立ちふさがっているように思えた。
「自然を支配する神か、英雄を統べるクセルクセスが上か、明らかにしようではないか」
険しい声が響くと、威圧が場を支配した。
皇帝は、その名クセルクセス――〈英雄を支配するモノ〉にふさわしい尊大さで、海峡を睨みつけている。
ハタクは皇帝の後ろに控えながら、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
その威圧を最も間近で受けているのは橋の建設監督官だった。怯えきった男の顔は蒼白で、膝は震えている。だが、運命は容赦なかった。
「三百の鞭を入れよ」
心の臓が跳ね上がる。
一回でも失神し、五十回で死に至る拷問――それを三百。
哀れな監督者に同情の目を向けながら、ハタクが鞭を手に取ると、皇帝から鋭い言葉が飛んできた。
「違う。その者ではない。忌々しい海を刑に処せ」
哀れな監督官を処刑する代わりに、皇帝の怒りは無機質な荒れ狂う海へと向けられた。
動揺を必死に飲み込み、ハタクは鞭を手にした。恐怖と混乱を押し殺し、命じられるままに荒れ狂う海へと向かう。
冷たい波が足元を濡らす中、鞭を振り上げ、振り下ろす。
一振り、また一振り――。
それが意味を成す行為でないことは誰の目にも明らかだった。風に散らされる水滴が冷たく頬を叩くが、彼の頭は熱く火照るようだった。恐怖に背中を押され、振り下ろすたび腕に痛みが広がる。数を数える余裕などなく、ただ動き続けた。
「隊長、もう大丈夫です――」
部下の声が耳に届いた瞬間、ハタクは手を止めた。
「皇帝陛下は満足されて、宿営に戻られました」
その言葉に、ハタクは心底ほっと息を吐いた。緊張の糸が切れると同時に、肩から腕にかけて痺れるような痛みが広がっているのに気づいた。手は震えたまま動かない。
丘に戻ると、そこには刎ねられた監督官の首が転がっていた。
恐怖に引きつった表情を残したままの首――。それでも、その表情のどこかに安らぎが宿っているように思えるのは、自分の想像だろうか。
(斬首であれば、まだ苦痛は少なかっただろう)
ハタクは虚しさを抱えた目で、転がる首をじっと見下ろした――。
*
皇位を継いだクセルクセスは、当初は遠征に乗り気ではなかったが、次帥マルドニオスらの説得により、バビロニアとエジプトを平定すると、ギリシア遠征を決意。
それに先立ち、首都スサでは百八十日に及ぶ大宴会が催されることになった。臣民の忠誠を高め、軍部や貴族層の支持を盤石にするためである。
国の威信を示すこの大宴会では、贅沢の限りが尽くされた。
大理石で埋め尽くされた床を彩る、金銀や種々の宝石が煌めく豪奢な調度品。豪華な料理膳と酒が惜しみなく供され、考えうる限りの放蕩がそこに満ちていた。
その喧騒をよそに、メムカンはつまらなそうに杯を傾けていた。
「血税が泣いておるわ」
王権の光を受ける影でしかない自分――。
いくらこの国の七貴族のひとりであろうと、皇帝に仕える限り、彼は従属に過ぎない。
煌々と照らす太陽のようなクセルクセスの権力は、メムカンの存在をいっそう無力に感じさせるだけだった。
(忌々しいことよ)
皇帝の顔を見ることさえもゆるされないこの国において、皇帝に謁見し、助言をもたらすメムカンは国の頂点に立つ人物でもあったが――それでも満足はできなかった。
(やはり、愚王では帝国を治められぬ)
メムカンの野望はさらなる高み。国政の実権へと伸びていった。
ところが皇妃ワシュティ率いる後宮勢力のために、メムカンは権力の掌握にあと一歩のところで足踏みをせざるを得なかった。聡い皇妃は、一大臣を最高職に任じて国政のすべてを預けようとする皇帝に、その危うさを諫めていたのである。
慎み深く聡明な彼女は今も、奔放で堕落しきった王宮に足を運ばず、女性たちだけの酒宴を設けているのだという。
だが、状況は変わりつつあった。ヘレスポントスの海峡工事が頓挫したことにより、勢力図に動きが生まれた。
ギリシア遠征の軍議において、メムカンの影響力を強めることができたのだ。
(あの皇妃を引きずり下ろせる日も近づいたのだ――)
自然と口元が歪む。
「メムカン様、皇帝陛下がお呼びでございます」
メムカンの夢想は、慌ただしく近づいてきた従者に遮られた。
「何ごとか?」
「ワシュティ皇妃の美を見せたいとのことです」
心の中で「またか」と毒づきつつも、努めて微笑を浮かべる。
「それは、それは。さぞ美しく着飾られて来られるでしょうな」
侍従がさらに口を開こうとして言葉を詰まらせたのを見て、メムカンは眉をひそめる。
「どうした、何か言い難いことでもあるのか?」
「はっ、ワシュティ皇妃が御前に出ることを拒まれておりまして……」
努めていた平静は崩れ、メムカンの語気は強くなった。
「何があったのだ」
「皇帝陛下が、ワシュティ皇妃の美を損なわぬよう、そのままの姿でお越しになるよう命じられたのです」
「そのまま……?」
「お召しものをまとわず、とのご命令です」
メムカンは思わず天を仰いだ――。
口には出せない苛立ちを押し殺しながら、侍従に向き直る。
「それで?」
「七貴族の方々に、この件についてお知恵を賜りたいと仰せです」
誰も周囲にいなければ、メムカンは大声で叫び散らしていただろう。
(世界の覇者たるペルシア帝国の中枢にして、その頭である七貴族の当主たちが酔狂の相手とは)
メムカンは心の中で大きく息を吐いてから、努めて平静を保って答えた。
「王命とあれば、お応えするほかありますまいな」
ふと、彼の心に燃えるような期待が芽生えた――。誰かに囁かれたように湧き出た考えであったが、彼の夢想を実現に至らせる期待であった。
*
「時を知る知者たちよ。我が皇妃の愚行をどのように裁くべきか」
皇帝クセルクセスの声が響く。
皇帝の前に召されたのは、ペルシア帝国の中枢を担う七貴族の当主たちであり、帝国を代表する重臣たち。
しかし、今この場では帝国の大事に関わるリシア遠征ではなく、酔狂のために呼ばれた哀れな男たちだった。
メムカンはちらりと周囲を見渡した。
他の大臣たちは皆一様に押し黙っている。下手なことを言えば、皇帝の機嫌を損ね、宴会の余興に首を刎ねられることを誰もが理解させられていた。
メムカンは目を伏せながら、眉間にしわが寄っていくのを感じる。
(どうして、大戦を前に愚鈍な皇帝に悩まされなければならないのだ――)
忌々しく思いつつも、メムカンは突如現れた大博打に挑むか悩んでいた。
人望に厚く、クセルクセスの遊び場である後宮を取りまとめ、皇帝のお気に入りである皇妃ワシュティ。その彼女と後宮勢力を削ぎ落とし、他の大臣たちよりもさらに一歩上へと進むことができる好機である。
メムカンの手に力が入る。
賭け金は自分の命ではあるが、賭けるだけの価値はあるのではないか――。
それに〈彼の方〉の目を欺くことはできない。この手を動かさねば、いずれ命を賭ける場すら失うだろう。
(皇妃の力を削ぐ機会をみすみす見逃したと知れたら、どうなるだろうか――)
メムカンはひりつく喉を少しでも潤そうと生唾を飲み込んだ。
酔いで赤らんだ目で見回しながら、不機嫌そうに皇帝が言葉を投げる。
「みなの者、答えよ」
声が落ちると同時に、緊張が走る。その瞬間、メムカンは決意を固めた。
「恐れながら、皇帝陛下……。皇妃ワシュティはただ陛下に向か悪いことをしただけではありません。ん。皇妃の行いは、すべての大臣、そして陛下の統治下にあるすべての民に向かってしたことなのです」
静まり返った部屋に、メムカンの言葉が響く。
ざわめきが湧き上がり、大臣たちは動揺を隠せない。視線が一斉にメムカンに集中した。
「どういう意味だ、メムカン」
「はっ、陛下。皇妃の行為はあまねくすべての女性に知れ渡り、ついに彼女たちは夫に従わず、それは大臣の夫人たちにも影響を及ぼし、同じような精神があちらこちらで火を吹くこととなります」
「メムカン、そのようなことは……」
異議を唱えようとした他の大臣の言葉を、皇帝の怒声が遮った。
「我は口を開いていいとは言ってはおらぬ。その口二度と開けなくするぞ! メムカン、続けよ」
ぐるりと大臣たちの顔を見渡し、場の流れを完全に掌握したことを確認すると、メムカンは揚々と演説を続けた。
「もし陛下が良しとされるのであれば、皇妃ワシュティは再び陛下の前に出ることを禁じるという命令を下し、これを帝国の法律に加えてください。そして、皇妃の座を彼女に勝る者に与えるのです。この命令が全国に伝えられた時、取るに足らないような男にも女性たちは敬意を示すでしょう」
言葉が終わると、室内は再び静まり返った。
メムカンの法案が採用されるのであれば、ワシュティは廃妃とされ、支持基盤を失った後宮の影響力も大きく削がれることになる。
帝国ペルシアの法律は不変である。これは、皇帝であっても覆せない絶対の掟であった。
「ふむ、この件、我は良い案に思えるが、他の大臣はどう思う」
自身が怒りの矛先になることを恐れた大臣たちは、ワシュティ皇妃を切り捨てるほかなかった。
皇帝の言葉に、大臣たちはしどろもどろになりながらも、次々とメムカンの案に賛同していった。
しかし、それは皇帝を諫め、女性たちを庇護する唯一の存在を失わせる結果となった――。
時が経ち、頭が冷めてくると、クセルクセスの思考は徐々に冷静さを取り戻した。しかし同時に、皇妃ワシュティを手放した代償が彼を苛んだ。
慎み深さ、聡明さ、そして誰もが認める美しさ――それらを失った喪失感が、じわじわと心を蝕み始めていた。
だが、ワシュティはすでに彼自身が下した、ペルシアの絶対的な法に縛られている。その事実は覆しようもなく、自らが作り出した虚無だけが、目の前に重く垂れこめた。
それを察した侍臣たちは、その隙間を埋める提案を次々に持ちかけた。
「美しい若い処女たちを陛下のために尋ね求めましょう」
侍臣たちの提案は、彼の内なる空虚を埋めるかのように響いた。
帝国中から最も美しい女性たちを集め、皇妃の座を新たに与える――。
それは単なる慰め以上に、皇帝の権威を再構築する象徴的な行為でもあり、皇帝の失意と怒りを逸らす巧妙な策略でもあった。
皇帝はその提案を心地よく思い、すぐさま実行を命じた。ペルシア帝国の隅々まで役人が派遣され、美貌と若さを兼ね備えた女性たちが首都スサへ送られる手筈が整えられた。
こうして、王宮の巨大な扉が軋みを上げて無慈悲に開かれた瞬間、多くの娘の人生が奪われていった。
愛娘を暴君に献上しなければいけないという王命により、国中で涙が溢れ、街には嘆きが満ちた。
*
第一後宮の監督責任者である、ヘガイの目は自然とその少女を追った――。
隅にある石造りの花壇に腰掛けた彼女の瞳は澄み切っていた。
後宮の空気はどこか澱んでいる。煌びやかな装飾や金銀の輝きがその本質を覆い隠しているものの、その背後には怨嗟や欲望が渦巻いていた。
その後宮の騒がしさの中で、彼女の姿は不思議な静けさを持っているように見えた。
やや丸みを帯びた温和さが感じられる顔立ち、それでいて青い瞳の奥には静かな芯の強さが宿っているようにも見える。短く波打つ黒髪は柔らかな光を受けて艶やかに輝き、無造作な動きの中にも上品な気配を纏っているのが目についた。
「君の名前は?」
彼が声をかけると、少女は小さく肩を揺らし、驚いたように彼を見つめた。
その表情には、なぜ自分に声をかけるのかという戸惑いが浮かんでいる。その無防備さと正直さが、ヘガイには新鮮だった。
「エステル……と申します」
名前を聞くと、一瞬思案したようにも見えた。
聞けば、文官のモルデカイが育ての親らしい――。
(なるほど。だからか)
ヘガイも何度か顔を合わせたことがある。実直そうな男だった。彼は後宮調統補佐官を任されている王宮行政の中級役人で、第二後宮の監督者シャシガスの部下だった。
第二後宮――それはかつて皇帝に愛されたものの、今や名も呼ばれることのない女性たちの墓場だった。皇帝が気まぐれに名を呼ばない限り、そこにいる者たちが再び皇帝の前に姿を現すことはない。
一方、第一後宮はまさに権力の交差点だった。また名目上の華やかさに隠されながらも、第一後宮は常に陰謀が渦巻き、権力を巡る策謀の温床と化していた。
魑魅魍魎が跋扈している――。
ヘガイがその場をそのように表現したとしても過言ではないだろう。皇妃たちは自らの子を権力の座に押し上げようと画策し、外部の勢力はそれを利用して権力闘争を繰り広げる。
燻る火種は常に存在し、油が注がれれば、反逆の狼煙が上がる危険も孕んでいた。
その中でワシュティの廃妃は大きな変化をもたらした。
旗頭を失った後宮は不安定さを増し、さらにサラミスでの大敗によって帝国全体の基盤が揺らぐ中、後宮の緊張も頂点に達しつつあった。
かつて二百万の兵を率いたペルシア軍は、ギリシアとの戦いでわずか五千人となって戻ってきた。
その中には、わずか三百のスパルタ兵に足止めを食らった屈辱も含まれる。サラミスでの無惨な敗北は、皇帝クセルクセスに対する反感を生んだ。
表向きにはまだ抑え込まれているものの、その堰はいつ崩れるかわからない。
そんな不安定な均衡の中に立つヘガイにとって、目の前のエステルは一筋の光のようでもあった。
(彼女を無下には扱えない――)
その直感が心を支配した。
(モルデカイという男を懐柔するのは、利口な選択だろう)
自分の手が届かない第二後宮内に手駒を増やせるかもしれない。いずれにせよ、後宮という場所では、あらゆる方向に恩を売っておくことが保身の基本である。
だが、それだけではない。
彼女の素朴で純粋なその品性にヘガイは心を引き寄せられていた――。
エステルの惹きつけられる愛らしさと、言葉の端々に出てくる大切にしたくなる稀有な品格の香りは、ヘガイの目に留まるのに十分だったのである。その後、直感は揺るぎない実感へと変わっていく。
(この娘は守りたい――)
彼はすぐに決断し、信頼のおける女官を七人、彼女の世話役に任命する。これらの女官は、口が固く、出自も確かで、他の後宮の者たちと一線を画している者たちだった。
そして、第一後宮の良い部屋を割り当て、自分の目が届きやすい場所に置くことにしたのである。
*
南西に位置する小さな門を通らなければ入ることができない後宮は、外界から完全に隔絶された空間だった。
高い壁が周囲を取り囲み、内部を守ると同時に、まるで誰かの手で完璧に設計された箱庭のようでもある。
壁や柱には精緻な彫刻が施され、鮮やかな彩色が目を引く。足元には高価な絨毯が敷かれ、その柔らかさがかすかにエステルの歩調を乱す。空気には複雑な香料と花々の香りが漂い、鼻腔を掴んで離さない。
案内された部屋は、かつて前皇妃が暮らしていた居室のすぐ近くにあるという。
それを聞いた瞬間、エステルは心の奥底にざわめくものを感じた。後宮の政治に詳しくない彼女でさえ、この配置が単なる偶然ではないことを理解せざるを得なかった。
(どうしよう……)
この先に待つ不確かな未来に思いを馳せれば、不安という波が押し寄せ、飲み込まれてしまいそうになる。
エステルは、そばに仕えることになった女官たちの長であるフェリザの案内に意識を集中させた。
気を逸らさなければ、この場で足がすくんでしまいそうだった。
ヘガイがつけてくれた七名の女官たち――フェリザ、ナヴァズ、ミナ、タラ、レイラ、シーリン、ロザナの顔にはそれぞれ後宮での経験の重みが刻まれていた。
後宮に集められた女性たちほどではないかもしれないが、街に出れば、美しいと称される顔立ちをしており、知的な雰囲気を感じる。
それぞれ、商家や中級役人の家柄で、最年長のフェリザが五十代程度、他は三十代から二十代と幅広く、タラとミナはエステルと同じ十七歳であった。
少し前までただの町娘であったエステルにも、皇妃候補となったために敬称をつけ、恭しく接してくれる。それはエステルの現実が急転したことを否応なしに告げていた。
最後に、とフェリザがエステルを見つめて言う。
「エステル様、後宮の規定に従い、これから十二か月間はお身体の手入れと教養の学びに専念していただきます。その期間が終わり、もし陛下の御目に叶いましたなら、私どもは引き続きエステル様をお支えすることになります」
その言葉のひとつひとつが、これからの自分の役割を突きつけてくるようだった。
「ですが、そうでない場合――陛下の御前に出る夜が、最後の時となることをご承知ください」
女官長フェリザの静かな声が、空間に響く。
エステルが小さくうなずくと、「今日はゆっくりおやすみください」とフェリザは言い、他の女官たちもエステルに頭を下げた。
誰もいなくなった部屋にひとり取り残され、エステルはようやく張り詰めた緊張の糸が切れるのを感じた。
市井から連れてこられて、もう二日が経っていた――。
「お父さん……」
今まで溜め込んでいた感情が口から溢れる。
(神さま、助けて。お願い――)
息を吐き出すと、目尻から涙が伝い落ちた。
煌びやかな居室も、暗い獄にしか見えない。ひとりで寒くて、そしてどうしようもなく、苦しい。エステルは顔を手で覆った。
夕餉の時間、ナヴァズが食事を運んできた。
豪華な金銀で彩られた盆に整然と並べられた料理は、いつも義父と食べていた質素な夕餉とは比べ物にならないものだった。
新鮮な果物が彩りよく盛られ、スパイスで香り高く味付けされた羊肉の焼き物、そしてサフランの香りが立ちのぼる米――。
その中にはナッツとドライフルーツがふんだんに混ぜ込まれている。どれもが目を引き、香りだけで満腹感を感じさせるほどだった。
さらに、見慣れているはずのレンズ豆とひよこ豆のスープでさえ、豊かなハーブの香りが漂い、家庭で慣れ親しんだものとはまるで別物に感じられた。
エステルが見たことのないナッツの焼き菓子に目をやると、ナヴァズが穏やかな声で説明を加えた。
「エステル様、そちらは蜂蜜とナッツを使った焼き菓子でございます」
蜂蜜――その響きに、エステルの意識が引き寄せられる。
デーツを煮詰めた汁であれば、エステルも口にしたことがあったが、蜂蜜はなかった。
存在自体は、義父から聞いたことがあったが、とても庶民には手が出せる代物ではなく、市場でも見かけたことがなかった。
「甘さが優しく心を癒してくれるかと存じます。どうぞ、お召し上がりくださいませ」
ナヴァズは柔らかな微笑みを浮かべ、そう言葉を添えると、静かに一礼して退室しようとした。
その所作にはどこか丁寧さと親しみが混ざり、エステルをほっとさせる空気があった。
ふと、彼女が机の上にそっと置いていった紙――パピルスが目に留まった。
退室の際に何気なく置いたものだが、その気配にどこか特別な意図を感じる。
エステルは慎重に紙を開いた。そこに書かれていたのは日頃は見慣れない文字――。しかし、エステルにとっては大切な文字だった。
失われた故国の文字――ヘブル文字だった。
その瞬間、エステルの胸に静かな震えが走った。
(なんで……)
紙には、簡潔なメッセージが走り書きされていた。
『モルデカイ殿から聞いております。――願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように』
ナヴァズがモルデカイと繋がっていた事実よりも、その後の詩の一節と文字に衝撃をエステルは受ける。
その詩は、大預言者モーセが書いた祭司の祈りの一節だった。
*
しばらくすると、ナヴァズがミナとタラを連れて戻ってきた。食器の下膳をふたりに任せると、ナヴァズは中庭を案内したいと言い出した。
「もしよろしければ、中庭へご案内いたします。夜風が心を落ち着けてくれるかと思います。どうぞ、お付き合いくださいませ」
その言葉に促されるまま、エステルはナヴァズの後を追った。先ほどの手紙について尋ねるべきか迷いながらも、言葉にする機会を逃し、やがて中庭へとたどり着いた。
月光に照らされた中庭は、昼間とはまるで別の世界のようだった。彫刻のように整えられた樹々は、銀の光をまとい、噴水から流れる清流は宝石のように輝いている。
その光景に一瞬足を止めたエステルの視線が、ふと人影を捉えた。
見慣れた背格好の男――。
「お父さん!」
思わず声が漏れた。エステルは破顔し、全身の緊張が解けたように義父へ駆け寄った。
「会えてよかった――」
エステルの言葉に応えるように、モルデカイが静かに微笑む。
中年となった彼の顔には、これまでの苦労が深く刻まれていた。最近は緊迫した情勢のせいか、髪も白髪が増えてきている。それでも、その柔和な笑顔は昔から変わらない。
「今日は夜も遅い。長くは話せないが、手短に……」
モルデカイは周囲を警戒するように視線を巡らせながら、声をひそめて続けた。
「エステル、自分の同族のことを誰にも話してはならない。ナヴァズは信頼できる。彼女を頼りにしていい」
そして、エステルの肩に手を置き、静かに言葉を添えた。
「君は賢い。必ずうまくやれるさ」
言葉をかける時間すら惜しむように、モルデカイはナヴァズに一礼すると、足早に去っていった。
(もう少し……いてほしかったな)
分厚い手のひらの重みの余韻がまだ肩に残っている。
短い間だったけれど、大切な家族の声を聞けたために、少し心が軽くなり、自然と口元が緩む。
ふと横を見ると、ナヴァズが隣に立っていた。
「エステル様、恐れながらお伝えいたします。私の母は、ヘブルの民でございました」
静かな声でそう語るナヴァズに、エステルは驚きながら問い返した。
「あなたのお母様が……?」
はい、と優しく頷く月明かりに照らされた彼女の表情は穏やかだが、その瞳には決意の光が宿っていた。
(なぜ、ヘブルの民であった、と表現したのだろう――)
エステルの心にその言葉が嫌な感じで引っかかっていく。
「私どもの長フェリザとは付き合いも長く、信頼できる方です。他の女官たちも口が固く、不穏な者はおりません。ただ……」
ナヴァズは静かに言葉を続けたが、ふとその口調にわずかな影が差した。
「ただ……」
言い淀んだ彼女は、エステルの耳元にそっと顔を寄せ、声を落とした。
「噂では、皇帝陛下のもとにユダとエルサレムの民を訴える告訴状が届いたとか。事態は緊迫しております。信頼できる方以外には、誰にもあなたの出自を知られてはなりません」
その言葉は月光のように冷たく、エステルの心に染み入った。少し前にモルデカイから聞いていた話が思い出される。
近年、ヘブルの民に対する反感が高まっているのだ。その言葉が脳裏をよぎり、また心が重くなり、胸が苦しくなる。
エステルは目を閉じ、深く息を吸い込んだ――。
バビロン捕囚でこの地に連れて来られたヘブルの民は、長い年月を経て独自のコミュニティを形成し、今や帝国内の一部地域では人口の大半を占めるまでになった。
特に中央そして南バビロニアの地域で、彼らは商業活動に深く関わり、大きな商家をいくつも構えるようになった。
五十七年前、エルサレム神殿の再建が帝国によって認められた時、祖国へ帰還する機会を得た数万人の人々が新しい希望を胸に去っていった。
しかし、それは全体のごく一部に過ぎなかった――。
多くのヘブル人たちは、モルデカイの両親やエステルの祖父母のように、既に築かれた生活基盤を捨てる決断ができなかったのだ。それでも彼らは、祖国に残る者たちへの資金提供という形で神殿の再建に協力していた。
ところが、エルサレム神殿の建設を妨害しようとする勢力が存在するという話を聞く。
その首謀者は、驚くべきことに、かつては同じヘブルの民であった者たちだという。彼らは亡国の折に異教徒と婚姻を結び、信仰と出自の間で複雑な立場に立たされていた。
そこまで思い至って、思わずエステルはナヴァズの目を見つめた。
(もしかして――)
彼女は優しく微笑み、頷いた。
「私の母は、北の血筋のものです」
かつて、祖国は北と南に分断された。南の民は純血を守り、異国の地でも独自の共同体を築き上げたが、北の民は様々な民族と混じり合った。
様々な血の中にギリシアも入っているからなのか、ナヴァズはエステルとは異なる顔立ちをしており、このあたりでは珍しい明るい肌だった。
しかし彼女の言葉や振る舞いには、それらの人々との明確な距離感が感じられた。
エルサレム近郊で暮らす過激派の人々と、帝都で育ち、帝国の文化に馴染んだ彼女――。
その間には、もはや別の民族と言っても良いほどの隔たりがあるようにも思えた。
いずれにしても、血の混ざりなど、今の状況では些細なことのように思われたし、エステル自身、昔から出自の良し悪しで人付き合いを変えたことはなかった。
エステルは笑顔をナヴァズに向け、「ありがとうございます」と丁寧に礼を述べた。エステルの心を和らげるために、どんな思いで彼女は自身の秘密を打ち明けてくれたのだろう。
エステルは一歩、彼女に近づいて、耳元で囁いた。
「私の本当の名は、ハダッサです」
ナヴァズの目が優しく輝き、柔らかな声で応える。
「素敵な名前ですね。そして、エステルもあなたによく似合う名前だと思いますよ」エステルが心を許したのが嬉しかったのか、少し表情を和らげた彼女を見て、エステルも嬉しくなる。る。
エステルがまだ幼かった時に、モルデカイは情勢の悪化を懸念して、ヘブル語名のハダッサではなく、ペルシア語名のエステルと呼ぶようになった。
星〈エステル〉は、明けの明星〈イシュタル〉とも語感が少し似ていて、バビロンの宗教や文化によく馴染むように考えられていた。
エステルは、肉親から授かった名前に加え、育ての親であるモルデカイが愛情を込めて与えた名を持つことを、心から誇らしく感じていた。
また、救い主の来臨を思わせる意味が、明けの明星という響きには込められており、その名を持つことに特別な愛着を抱いていた。
その名はエステルに、偽の明星〈イシュタル〉ではなく、真の明星を指し示すものだった。
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