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【歴史小説】星姫―名を隠したペルシアの王妃エステル#5

▼第一話


『星姫』主な登場人物

エステル(ハダッサ)

養父モルデカイと暮らしていた、十七歳のヘブル人の少女。王命によって後宮へ連れていかれ、皇妃候補となる。素朴で思いやり深いが、自らの出自と信仰を隠して生きなければならない。

モルデカイ

幼くして両親を亡くしたエステルを育てた養父。穏やかで親しみやすい文官だが、王宮の権力関係を見抜く鋭さを持つ。後宮の外からエステルを支える。

ハタク

エステル直属の宦官で、護衛と連絡役を務める。かつては辺境守備軍の指揮官だった。実直で警戒心が強く、次第にエステル個人へ忠誠を寄せるようになる。

フェリザ

エステルに仕える女官たちをまとめる女官長。冷静で判断が早く、後宮の規則と危険を知り尽くしている。厳しさと母親のような包容力を併せ持つ。

ナヴァズ

エステルの身の回りを支える中級女官。前皇妃ワシュティに仕えた経験を持ち、後宮の内情にも詳しい。エステルの出自を知る数少ない人物だが、複雑な事情を抱えている。

ミナ

エステルと同年代の下級女官。商家の娘で、舞踊を得意とする。明るく人懐っこい性格で、緊張の続く後宮の中でもエステルを笑顔にする。

タラ

ミナと同年代の下級女官。物静かで思慮深く、リュートの演奏を得意とする。人の苦しみに敏感で、何が正しいのかを深く考え続ける。

クセルクセス

広大なペルシア帝国を治める皇帝。圧倒的な権力を持つ一方、感情と欲望に流されやすい。その命令が、エステルたちの運命を大きく左右する。

ハマン

ペルシア軍の実権を握る将軍。高い能力を持つ一方、強い自尊心と権力欲を抱えている。モルデカイとの対立をきっかけに、エステルたちを大きな危機へ巻き込んでいく。



第五章 慈しみの手がもたらす苦杯


繕いきれない苛立ちが、アメストリスの双眸に滲む。鋭く研がれた刃のような眼光が、真正面からハマンを射抜いた。だが、ハマンはその圧を涼しげに受け流し、口元に薄笑いを浮かべる。

「陸軍次帥ハマン――。いや、大宰相ハマン殿とお呼びしたほうが良いかのう」

女帝アメストリスは皮肉まじりの声色で、不遜に呼びかける。

「アメストリス皇后殿下、軍総帥の任も、このたび正式に拝命いたしました」

悠然と返すハマン。その余裕ある物腰により、アメストリスの苛立ちは臨界点に達し、もはや隠すことがない語気で、アメストリスは刃のような言葉をぶつけてくる。

「卑しい敗者の王族の末裔が抜け抜けと――!」

怒声と同時に、彼女の側に控えていたアルタパノスが剣の柄に手をかけ、一歩踏み出す。

ハマンはその人物に視線を送りながら、微笑を湛えたまま、アメストリスの目の奥をじっと見つめた。だが、どうにも思考がまとまらない。

息を吐き、ハマンは頭に空気を送ることを意識し、集中を取り戻そうとした。次の一手が見えているのに、どうにも面倒なことをしなければならないというのは億劫なものである。

「アメストリス皇后殿下――。我々は愛国者です。このペルシア帝国を未曾有の国難から救うため、手を汚すことを決めたではありませんか」

朗々とハマンは演説するかのように、話し始める。その声音の中に自信と冷笑が滲んだ。

「時期早々にマスティスの暴発があったものの、結果として、状況は好転しておりますぞ」

「それはお前にとってであろう、ハマン」

噛み付くようにアメストリスは言葉を投げ返してくる。彼女は眼光をさらに鋭くして、ハマンの心の奥まで貫いて、その中のものを引きずり出そうと見てくる。

「マスティスの暴発……。よもや、お前は関わってはおらぬよのう――」

冷たい、それでいて粘つくような熱気を帯びたその声色で、アメストリスは舐め回すように語りかけてくる。殺気を敏感に感じながら、なおも微笑を返して、物分かりの悪い子どもを諭すように言葉を出した。

「殿下、一連の事件の火種は色恋沙汰。軍事しか知らぬ、わたくしのような男は疎くて、どうにも理解できませぬ」

心の内で、きっかけを作ったのは貴女だろうと、毒にも似た独白を吐き捨てながら、ハマンは、その本心を微塵も覗かせぬまま、静かにアメストリスを見返した。

「いずれにしても、殿下。我々は運命共同体です。それをお忘れなく――」
そう言い放つと、ハマンは身をひるがえして出ていった。

紅月の粛清――皇帝暗殺未遂という激震が、まだ帝都の空気に燻ぶりを残す中、大宰相ハマンは、寸分の迷いもなく次の一手を打ち始めた。

(皇帝を傀儡とし、実権を掌握するつもりではないか)

誰もが口を噤んでいたが、その動きは明らかで、そんな噂が、宮廷の陰に、街の片隅に、まことしやかに囁かれていく。

しかし、軍事の要としての手腕が確かなハマンに表立って敵対できる者はいなかった。

事実――。ハマンはギリシアの摂政パウサニアスと共謀し、先の大戦で虜囚となっていた皇帝クセルクセスの親族を奪還。それと同時に、ハマンはパウサニアスとクセルクセスの娘の政略結婚を目論み、ギリシアが帝国の属国となる旨を綴った書状をパウサニアスに書かせたのである。

唯一、ハマンに対抗できうる可能性があったであろう七貴族も、メムカンの粛清と共に牙を抜かれ、ハマンの独裁体制が築かれつつあった。

その一方で、皇帝クセルクセスはというと――。

ハマンの功績に目を留め、ギリシア情勢の鎮静を確認するやいなや、自らは政から離れ、後宮に入り浸るようになる。

特に寵愛を集めたのは、毒気を孕むアメストリスの影から、皇帝が自ら「守り抜いた」と語る少女――アルタインテだった。 

帝は彼女との時を惜しむように共に過ごし、極めつけに、二度目の皇妃選定の儀、その開催すら、皇帝の一声で中止されたのである。

さらには、その蜜月の時間を妨げられることを嫌ったクセルクセスは、王の召命なく謁見するために内庭に入る者は死罪としたのである。
それほどまでに、アルタインテは彼にとって代えがたい存在となっていた。


皇妃エステルが王妃として選ばれてから四年余り。

アガグ人ハメダタ様の御子息、ハマン殿下が大宰相に任じられた。皇帝クセルクセスの親族を戦地より奪還した後、王印を授かり、政務の決裁権を掌握。

着任直後、「王の権威は神より賜ったもの」との布告が出され、礼制の改革が始まった。

大宰相ハマン殿下の外套の胸には、叡智の主〈アフラ・マズダー〉の像を刻んだ金板が装着され、宮廷の者たちは、その像に対し跪くよう命じられた。

参考として、朗読された教義文書の一節を以下に記録する。

「大宰相ハマン殿下は、神の子の単なる代理人にあらず。その御身は、叡智の主〈アフラ・マズダー〉の光を帯びし器にして、殿下の御言葉はすなわち神意の顕現なり」

これに対し、宮廷内では、一部文官の反発が報告されている。

後宮への影響も否定できず。越権とは承知の上で、継続的な観察と調査の許可を願う。

――ハタク警備日誌第一五五二日目。

曇天の空を睨みながら、ハタクは足早に後宮へと向かった。〈王の門〉の前にある都の広場を横切る風は重く、朝の喧騒すらどこかよそよそしい。

遡ること、数日前、実質的に皇帝を傀儡としたハマンは、自らを〈神の子の代理者〉と称し、礼制の改革の名の下、ついには神の子とされる皇帝を差し置いて、自らに神性が宿っているかのごとく振る舞い始めた。

これが容認された背景にあったのは、民衆の熱狂的な支持だ。

ハマンはギリシアの摂政パウサニアスと共謀し、先の大戦での敗北を帳消しにするかのような外交勝利を収めた。

すなわち、クセルクセス王の親族を奪還し、さらにギリシアを帝国の属国とする密約を取りつけた功績が、彼を英雄へと押し上げたのである。

重苦しく立ち込めていた敗戦の匂いを吹き払い、経済的な抑圧からの解放を期待させる、この一報は民衆を狂わせるのに十分すぎた。

これにより、政敵たちは息を潜めるしかなかったが、その中で、ただ一人――モルデカイは屈しなかった。モルデカイは、ハマンの礼節への要求を「偽りの神への拝礼」と断じ、頑として拒んだのである。

ハタクをはじめ、多くの文官が忠告を重ねた。だが彼は、あくまで自らの信仰と信念に基づき、頭を垂れぬ道を選んだ。

その行動は、彼を快く思わぬ者たちにとっては、格好の材料だった。ハマンの耳には、悪意を込めた言葉とともに、誇張された報告が届けられたのである。

そして、ハマンは動いた――。

皇帝クセルクセスに対し、このように進言したと伝えられている。

「陛下の国の至るところに、諸民族の間に散らされて住んでいるひとつの民族がおります。彼らの法律は他のどの民族のものとも異なり、陛下の法律に従おうとしません。このままにしておけば、国家の秩序を脅かしかねません。もしお心に適うならば、彼らの根絶を命じていただきたく存じます。愚臣の忠誠の証として、銀一万タラントンを王の財庫に納めましょう」

これを受け、皇帝クセルクセスは親族の奪還と属国の密約を結んだ功を鑑みて、指輪をハマンに与えたのである。王印授かったハマンは、政務の決裁権を掌握。

王の書記官を招集し、ユダの民を滅ぼす法を発布した。

こうして、ユダの民は、ハマンが新たに築こうとしている政治体系の犠牲の祭壇に焚べられ、内乱を目論む勢力への見せしめとされたのである。

勅書の騒ぎを知ったエステルは、ハタクをすぐにモルデカイのもとへとつかわした。

「なんと、お伝えしたら良いものか」

ため息混じりの独白は、いつになく苦悩を滲ませていた。

自制の堰がわずかに決壊したように、感情がにじみ出る。苦痛に満ちた目は赤く歪んでいた。

モルデカイは、ユダの民に何が起きようとしているのか、事の次第をハタクに語り終えると、こう言った。

「エステルが、皇帝陛下に直訴するしかなかろう……」

(それはあまりにも――)

「無謀な……ことかと」

思わず声が漏れていく。

ひと月以上、エステルは皇帝から声をかけられていない――。しかも今の皇帝はアルタインテに夢中で、内庭への無断立ち入りに死刑を科す法すらしかれている。

賭けの代価として、エステルの命はあまりにも重すぎる。

それでも、彼の意思は変わらなかった。

「ハタク……。お前にもわかるだろう。ユダの民が最初の贄となっただけだ。その次は、東方のバクトリアか、西方のギリシアか、はたまた後宮に手を伸ばすだろう。その時に、お前が仕えるエステルが助かると、なぜ言い切れるのだ。声をあげる者がいなくなってから、声をあげても遅いのだ」

重い言葉であった――。

それだけに、エステルに伝えることを考えると胸が苦しくなる。
一息、深く呼吸をすると、気持ちを深くに押し殺し、務めを果たすべく、エステルの自室の扉をハタクは開けた。

  *

夜風が頬を撫でる――。

ひとつ息を吸い、嘆息する。けれども――胸に広がる暗い思いは吐き出されることはなかった。

「主よ……」

エステルはそっと呟く。

ハタクから受け取った手紙を手の中で開く。そこにはユダの民の窮状とスサで発布された法の書面の写しがあった。

「エステル。あなただけが他のユダの民と異なり、難を免れると思ってはならない。もし、この時にあなたが黙するならば、ユダの民のために石が叫ぶだろう。しかし、あなたとあなたの父の家は滅びるのだ。エステル――。このような時のために、主はあなたを皇妃へと導かれたのだ」

思わず力がこもる。

潰してしまった手紙を広げながら、また息を吸う――が、その息を吐き出すことができず、胸が苦しくなった。

(なぜですか――)

あの時に、暗殺計画を実行させていれば、こうはならなかったのだろうか。なぜ養父は声をあげてしまったのだろうか。

なぜ――。

様々な疑問と思いが交錯して、胸が押し潰され、不安が押し寄せてくる。

エステルは天を見上げて、また呟いた。

「主よ……」

しかし、その後の言葉が続かない。

どう祈ればいいのかもわからなくなっていた――。

ふと、気配を感じて横を見るといつの間にか、ハタクがそばに立っている。

今はひとりにして欲しい。ミナやタラであればまだしも――そう思い、エステルが人払いをさせようとすると、先にハタクが口を開いた。

「……エステル様。私はあなたにお仕えいたします」

何の話かわからず、エステルは戸惑うが、構わずハタクは続けた。

「私であれば、あなた様おひとりこの国から逃すことも可能です」

エステルは思わずハタクの目を見る。

――それは。あまりにも甘美な誘惑だった。

「私は帝国の辺境リディア出身で、ギリシアにも近い生まれです」

ハタクは目を空へ向ける。

「ギリシアは……帝国とはまるで違います。あの地のいくつかの都市では、民が自ら掟を定め、広場に集まって議論をし、声を上げることができると聞きました。王の命ひとつで運命が決まるのではなく、法こそが人の上にあると――。もちろん、すべての街がそうではありません。しかし……自由に息をすることが許される世界が、確かにあの先にはあると、私は信じています」

詰めていた息をそっと吐き出し、エステルは硬い表情のまま、ハタクを見上げた。

(何を……)

不安が疑念となって、心に溢れてくる。

(この人は信用できるのだろうか。皇帝に仕えるこの間諜を――)

それを感じたのか、ハタクは微苦笑を浮かべながら、言葉を続けた。

「私は確かに〈王の耳〉ですが、だれかれ構わず弑するわけではありません。と言っても信じてもらえないかもしれませんが……」

そう言いながら、彼は一冊の手記を差し出してきた。

「これは私の警備日誌です」

促されるままにエステルは受け取り、開いてみる。そこには几帳面な文字で、今までの自分の行動が仔細に記録されていた。

掃除をしていたこと、仔羊の料理を振る舞ったこと、踊りが苦手で密かに特訓していること――。

顔が熱を帯びるのを感じる。

「見てたんですか」

つい語気が強くなる。

慌てたように「いや……」と言い繕ろうとするハタクにもう一度迫る。

「いつも覗いてたんですか」

珍しくひどく慌てた様子で、ハタクは顔の前で手を振った。

「エステル様。そのようなことは決して……。夜警をしておりましたら、この時はたまたま窓が開いておりまして……。それによくご覧ください、こちらはエステル様の私室ではございません」

むうと膨れると、エステルは手記で軽くハタクの肩を叩いた。

軽い笑みが溢れ、感傷的な空気は霧散していた。

「私を追い回していた罰です」

エステルは悪戯っぽく言う。

「……エステル様」

疲れ切った様子で、からかわれたと知ったハタクが呟いた。

エステルは再び、日誌に目を落としながら思う。

(それにしても――真面目な人だ)

仔細な記録もそうだが、あのナヴァズの一件はエステルの思いを汲んだ表現で描かれ、それ以降は徐々に中立性を失っているようにも思われた。

おそらくは――あの時に問われて答えた忠誠に従っているのだろう。

やがて、エステルはここ最近の記録に行きつき、手が止まった。

「ハタクあなたは……」

エステルの言葉に、黙ってハタクは頷く。

警備日誌には大宰相ハマンへの調査願いが書かれ、その横にはそれを却下する旨が走り書きされ、乱雑に大判の印章が押されていた。

それでもなお、ハタクはその後数回に渡って申請を繰り返していた。それは自身を危険に晒す行為でもあるにも関わらず――。

「エステル様……。私の忠誠はあなた様のものです」

印章を触る手を止め、エステルは足下に跪くハタクを見つめた。

その夜――。

可憐な花弁がすべて散ってしまったかのような暗澹とした空気が、エステルのまわりに重く落ちていた。エステルだけでなく、女官たちも豪奢な衣裳を脱いで、憂いと悲しみの衣をまとった。

髪飾りをとった髪が乱れるのもかまわず、身を投げ出して祈る姿は、ハタクの心をひどく抉った。

「私たちの主よ……。あなただけが私たちの王。助けもなく、あなたのほかに助け手がない私たちをお見捨てにならないでください。生まれた時から、聞かされてきた奇跡の御手を今、差し伸べてください。主よ、思い出してください。この苦しみの時に、あなたご自身をお示しください」

青ざめた唇から漏れる祈りは、エステルが誰に仕えているかを明らかにし、そのエステルに寄り添うようにひざまずく女官たちが信じるものもまた、言葉でなく姿が語っていた。

まだ、ハタクにはわからないことも多くあったが、ただひとつわかることがあった。ハタクはこの上なく、エステルが好きなのだ。

心の底から、尊敬している。

そして、エステルのまわりに惹き寄せられている仲間が好きなのだ。
ハタクは、そっと一歩を踏み出し、彼女たちの祈りの輪に身を添わせた。

  *

「エステル? 何か、口にしたほうが……」

天真爛漫さが魅力のミナでさえ、その頬に疲労と苦悩の色を隠しきれなかった。目の下の影が、それを雄弁に語っていた。

三日三晩、彼女たちは断食をし、身を悩ませていたが、ついに今日の夜、皇帝の内庭へと向かうのである。

ヘガイから夜伽の召しが届くことを、どこかで期待していたミナにとって、それは希望の終焉を意味する夜だった。

王妃ワシュティの姿がどうしても、エステルに重なる。

「法に背くことですが、わたくしは陛下のもとへと行きます。もし死ななければならないのであれば、死ぬ覚悟はできております」

三日前、エステルがそのように宣言した夜、ミナは泣き出してしまった。後宮に生きる者として、常にあった恐れがついに目の前に現れたのである。

そのことを思い出すと、また目に涙が溢れてきた。

ふと、あたたかな温もりが目に触れた。

「大丈夫よ――」

エステルの穏やかな声が、頭上から降ってきた。凛とした微笑みをたたえたエステルが立っていた。隣には、晴れ着をまとったタラがぎこちない笑みを浮かべている。

胸が熱くなり、余韻に身を任せたくなった時、鋭くそれでいて温かみのある言葉が割り込んできた。

「さあさあ、化粧が落ちます。泣くのであれば、私が代わってもいいんですよ」

見ると、フェリザ女官長がつくりきれていない笑顔を浮かべている。そっと、涙を拭ったミナは表情を改めて、フェリザに向き合った。

「いえ、大丈夫です。このお役目、わたくしにお任せください」

そう言うと、ミナは静かにエステルの手を取った。

通常であれば、夜伽にはフェリザとロザナが付き添う。だが今夜は違う。ミナとタラがその役目を望んだのだ。

彼女たちにとって、エステルは、主従を超えて、よき友であり、家族であった。エステルが死の影の谷を歩くのであれば、自分たちも共に行きたいと懇願したのだった。

フェリザは困惑しつつも、試みが失敗したのであれば、どちらにせよ、連座して処せられることを考え、彼女たちの最後の願いを聞き届けることにしたのである。

壮麗な晴れ着を纏ったエステルは、ミナに手を引かれ、衣の裾をタラがそっと持ち上げる。頬を紅に染め、墓を破って訪れた朝日が差し込むように、静かに、しかし確かに輝いていた。

「王よ……あなたにはすべてが可能です。しかし、差し出された杯を飲まなければならないのであれば、たとい苦くても恐れず飲みましょう」
内庭へ踏み出す直前――。
ミナだけに聞こえるかすかな声で、エステルは呟いた。

  *

玉座に座る皇帝は、宝飾と金糸で飾りつけられた絢爛な衣裳を纏い、煌びやかさと威圧をまとわせていた。燦然と輝くそれは、非常な恐ろしさを持って、エステルたちを見下ろした。

その威容を前に、呼吸が浅くなり、冷たい汗が背中を伝うのを感じる。
必死に。

前だけを見て、エステルの冷たい手を握りながら、ミナは前に進んだ。

ところが、数歩と進む前に――。

突然、エステルがミナに寄りかかってきた。

抱きとめた瞬間、彼女の体が驚くほど冷たいことに気づいた。顔は蒼白で、唇すら血の気を失っている。肩が小刻みに震えていた。

「エステル……」

かろうじて、ミナが小さく声をかけると、後ろにいたタラも駆け寄ってきた。

「しっかりして、エステル……」

二人でどうにかその体を支えた次の瞬間。

空気が震えるような重い声が頭上から降りてきた。

「エステルよ。どうしたのか……。そなたは我のもの。安心するが良い」

その言葉に、ミナは反射的に頭を垂れた。

間違いない――。

皇帝クセルクセスその人が、玉座から自ら降りてこられたのだ。
だが、エステルを支えていたせいで、最敬礼の姿勢を取ることができない。どうしても中途半端な姿勢になってしまう。息を殺して震える指に力を込めた。

(エステル。主よ……お願い)  

やがて、金属の擦れる音が近づいてきた。

硬質な靴音が床に響き、皇帝の影がすぐそこに落ちる。

そして次の瞬間、彼は何のためらいもなく、黄金の笏をエステルの首元へと伸ばし、どこか所有物を扱うように、ゆっくりと笏で顔をもたげさせた。
まるでそこにミナがいないかのように、クセルクセスは自らの顔をエステルに近づけ、そして、エステルの耳元で囁いた。

「どうしたのだ。我に話すが良い……。何か望みでもあるのか」

その声は、先ほどの威厳に満ちた王者の声色とは異なり、耳の奥に不快な残響を残し、胸をざわつかせる。

エステルは縋りつくような目をクセルクセスに向けながら、すっと手を持っていき、それに応えた。白く細い指が震えている。

「王よ……。お優しいお心遣い、まことに恐れ入ります。あなたのご威光の前に心を乱してしまいました。どうか……もし御心に叶うなら、今宵、私のもうけますささやかな酒宴に、ハマン様とご一緒にお越しいただけますでしょうか」

クセルクセスは少しの間、何かを探るようにエステル様を見つめていたが、やがてゆるやかに視線を外し、不思議そうな、それでいてどこか残念そうな声で言った。

「ハマンを呼べ。今宵、エステルのもとへ行こう」

「凡人どもにはたどり着けん極みに立ったことを、今宵はしかと実感したわ」

豪快なハマンの笑い声が響き渡る。

その祝宴の中心に座した彼は、金細工の酒器を片手に、傲慢なほど満ち足りた顔で杯を傾けていた。きらびやかな装束、豪奢な料理、そして頭を下げる家臣たち――その全てが彼の栄光を証明していた。

「後宮に、それも皇帝と皇妃の酒宴に招かれた男などおるまいて……。しかも、皇帝と皇妃の酒宴に、二晩続けてだぞ!」

ハマンは椅子にもたれかかり、天井を仰いだ。得意げに鼻を鳴らし、続ける。

「皇妃エステルも噂に違わぬ美姫であった。いや、ゼレシュ……。そなたが一番美しい」

大仰な仕草でハマンは妻ゼレシュの腰に手を回しながら、自分の栄誉に酔いしれるように、独演会を続けていく。

後宮――それは通常、男が立ち入ることを許されぬ禁忌の地。

その聖域で、皇帝と妃に囲まれながら杯を交わすという異常な栄誉は、ハマンの中に渦巻く野心と劣情を、否応なく膨れ上がらせ、ハマンに燻んだ欲望を思い出させた。

「では、あとはあのモルデカイを始末すれば、それで終わりですわね」

ゼレシュは微笑を浮かべながら、夫の肩に身を預け、耳元にささやくように言う。ハマンは身をのけぞらせ、酒を啜った。
苛立ちが、酒の香りに混じって立ちのぼる。

「苛立つのであれば、明日の朝、モルデカイを磔刑にするように、陛下に進言するのはいかがでしょう。そして、陛下と共に、楽しい酒宴の席を楽しみましょう」

酒を注ぎながら、ゼレシュは耳元で囁く。

その言葉に苛立ちつつも、内心では納得をしている自分にも気づくと、ハマンは笑い飛ばすように、言葉を返した。

「では、明日の朝、陛下に拝謁しよう」

そして、乱雑に側仕えの者を呼びつけ、命じた。

「おい、柱を立てておけ。罪状など……あとで好きに決めてやるわ」

ハマンは目を閉じ、しばし喧騒から離れ、夢想した。

耳に届く笑い声や杯の音すら、もはや取るに足らぬものに思えた。さらなる高みへと昇る夢へと思いを馳せたのである。

この国で誰よりも重んじられ、誰よりも恐れられる存在――いや、それすら通過点にすぎぬ。

もっと上へ。高く――。

もっと、誰も届かぬ場所へ。

そして、静かに心の奥で誓った。

(あの秘密の園を、我が物にしてみせよう――)

突如として、夜の眠りから醒まされたが、どうにも眠ることができなかった。

闇の底から引き上げられるように、クセルクセスは目を覚ました。胸の奥に残る熱は、夢の名残か、それとも別の衝動か。

欲望が掻き立てられるが、眠りから目覚めて活力を得ている時を無駄にするのは惜しい。

ゆっくりと、身を起こすと、クセルクセスは侍従を呼びつけ、日誌を読み上げるようにと命じた。

「日誌を読め。ここ数年分、すべてだ」

羊皮紙がめくられる音に遅れて、侍従の抑揚ある声が記録をなぞっていく。
クセルクセスは目を細め、暖かくも乾いた香の匂いを吸い込みながら、遠い日々へと思考を漂わせた。

最近は、アルタインテと過ごす時を優先し、政務も後宮も遠ざけていた。しかし、燻っていた帝王としての責務と情熱が、胸の奥で不思議と膨らみはじめる。

記録が紅月の粛清まで至った時に、クセルクセスは突如として物思いから醒めた。

「待て」

侍従の声にひっかかりを覚える。

「なんと申した。文官モルデカイが紅月の粛清において大きく関わったと申したか」

日誌には、反逆を鎮めた功労者としてモルデカイの名が刻まれていた。しかし記憶をたぐっても、何の栄誉も与えた覚えがない。

「褒美か昇進か、我は何を与えた」

すでに夜は明け、暖かな陽光が侍従の頬を照らす。だが、その顔色は陽光とは逆に青ざめていた。

哀れな侍従は怯えた声でクセルクセスに言った。

「陛下……恐れながら。モルデカイ殿には、何も……。なされておりません」

皇帝を救った忠臣に報いがない――それは皇帝の威信を揺るがす、あってはならぬ失態だった。

クセルクセスは額に手を当て、短く深い息を吐いた。

「……ハマンはおるか」

言葉が落ちるや否や、侍従の一人が駆け出す。

衣の裾が石床を擦り、足音が廊下に鋭く響く。やがて息を弾ませて戻ってきた。

「外庭におられましたので、ただいまこちらに向かわれます」

必要な時、しかるべき場所にいる。

(忠臣とは、このことだ)

その価値は金銀にも勝る。クセルクセスは満足げに目を細め、庭の方へ視線を流した。朝の光が芝を照らし、風が若葉の匂いを運んでくる。

重い扉が開き、ハマンが姿を現した。

待ちきれぬように、クセルクセスはためらいもなく言葉を投げた。あたかも熟練の道具が手元に届いたかのような声音で――。

「王が栄誉を与えるにふさわしい者には、何をすべきか」

(王は私以外の誰に栄誉を与えることを望むだろうか――)

ハマンは膨れ上がった自尊心を感じつつも、その欲求を抑えることができなくなっている自分にも気づいていた。高ぶりは、抑えようとしても抑えきれず、熱を帯びて内側から突き破ろうとしている。

「陛下の御心のままに――。陛下が栄誉を与えることを望む者には、陛下が身につけていた王族の衣裳をまとわせ、貴族である大臣の一人に引かせた王冠をつけた王の馬に乗せたうえで、広場で陛下が賜る栄誉がどれほど寛大で素晴らしいのかをふれさせれるのはいかがでしょうか」

膨れ上がった尊大な欲望はもはや歯止めが効かなくなり、皇帝への提言もより大胆になっていった。

ところが、皇帝クセルクセスの口から出た言葉が、その欲望の膨らみを破裂させ、憎しみを掻き立たせる。

「よろしい。そなたの言葉のとおりとしようではないか。王の門におるモルデカイにその栄誉を与えよ。今言った言葉をひとつとして違えてはならぬぞ」

一瞬、空気が凍る――。

ハマンは珍しくも戸惑いと苛立ちを隠しきれず、思わず感情が乗ってしまった声でクセルクセスに問い返した。

「陛下。モルデカイはユダの民にございますが……」

ハマンの問いに対して、怪訝そうな表情をクセルクセスは浮かべるだけだった。

「他にモルデカイがおらぬのであれば、ユダの民のモルデカイに栄誉を与えよ」

「陛下……」

言葉が続かなかった。

ハマンの言葉はそこで途切れた。

気づいてしまったのだ。

クセルクセスの目は自分を見ているようで、見てはいない――。

いや、確かに視線は向けられている。

だが、それは「ハマン」という人間を認める目ではなかった。自らの膨れ上がった自尊心が何の土台に支えられているのかが、わからなくなる。

目の前の男は、ただ気まぐれな余興で世界を動かしているのではないか――。この男の思いつきによって、たまたま自分はここに立っているのではないか。

そんな恐れは、やがて燃えるような怒りと変わる。

そして、モルデカイを乗せた馬を引いて広場に出た時には、憎しみという言葉では形容しきれない感情となって、腹の底に沈澱していった。

家に戻ったハマンは、集まった仲間たちの前に立つなり、怒りを吐き出した。

その声は泥を掻き混ぜるように濁り、感情の底から吹き上がる熱を抑えきれない。

皇帝に仕える身であることも忘れ、ハマンは愚痴を大声で叫び散らした。酔漢に絡まれたような屈辱だ、と。

杯の酒は微かに揺れ、芳醇な香りが重く垂れ込めていた。

苛立つハマンによって、床板が軋むたび、その音が室内の沈黙を裂く。香と酒の匂いが混じり合い、胸の奥まで満たすような圧を伴って漂う。

やがて、その空気を押し分けるようにして、仲間と妻ゼレシュがゆっくりとハマンの前へ歩み出た。

「陛下のお心は変わり始めているのかもしれません。モルデカイに負け始めているのであれば、どうか気をつけてください。あなたとユダの民との因縁が示すように、負けるかもしれません」

その言葉が終わるより早く、ハマンは酒器を掴み、机に叩きつけた。陶片が飛び散り、鈍い音が室内を裂く。

「ふざけるな! この地位も、この家も、俺がこの手で築き上げた! 因縁ごときに邪魔はさせぬ!」

かつてユダの民が築いたイスラエル王国との戦に敗れた亡国の王家アガクの血筋を引く者、それがハタクであった。その血は誇りと怨嗟を混ぜ合わせ、ハマンの心に絶え間ない火を燃やしていた。

「負ける……? 俺が……?」

低く吐き捨てた声には、笑いとも怒りともつかぬ色が混ざっていた。

視線が彷徨い――やがて壁の一点を射抜く。

そこには何もない。

ただ、炎に照らされ己の中で膨れ上がる影が見えていた。

それは長年押し込めてきた怨嗟の塊――先祖の屈辱、敗北の記憶、そして何より、自らを嘲る者への復讐心。

「ユダの民……モルデカイ……」

名前を噛み砕くように呟くたび、声が低く深く沈んでいく。

心の臓の鼓動が、戦太鼓のように腹の底を震わせた。

その言葉は誓いというより、呪いに近かった。灯火が揺れ、壁に映るハマンの影が歪み、獣のように広がっていく。

「見ていろ……必ずこの手で葬る」

唇からこぼれた低い声は、血の味を含んでいた。かろうじて、残っていた理性が続きのさらに黒い言葉を腹の底で噛み殺した。

(クセルクセスすらも葬ってやる)

 皇帝とハマンは、二日目の王妃エステルの酒宴に臨んでいた。

磨かれた石床には薄絹の敷物が重ねられ、中央には黄金の燭台が並び、炎がゆらめきながら部屋全体を温かな金色に染め上げている。

瑠璃色の器に満たされた葡萄酒は、灯火の光を受けて深紅に輝き、表面で小さな波がきらめいた。

天井近くを漂う香は甘く濃く、花々と没薬の香気が重なり、息を吸うたびに胸の奥まで満ちてくる。

壁際の柱には銀糸の飾り紐が垂れ、外の陽光が透ける薄布越しに柔らかな光が差し込み、室内の影と光を縫い合わせていた。

皇帝クセルクセスは椅子の肘掛けに手を置き、穏やかに杯を傾けながら、エステルを真っすぐに見つめた。

「王妃エステルよ――求めるものは何か。必ず叶えよう」

その声は柔らかくも、空気を支配する力を帯びていた。

「願いは何か。たとえ国の半ばでも与えようぞ」

エステルは膝の上で指を組み、爪が白くなるほど力を込めた。

鼓動は耳元で鳴り、吐息は熱く、わずかに喉が乾く。

視線を落とせば、その重圧から逃れられるかもしれない――。

だが、それはこの場に立つ意味を手放すことになる。

(それはだめ)

エステルは小さく息を吸い込み、皇帝の視線を真正面から受け止めた。

「もし、私が皇帝の御前に恵みを得ており、皇帝が良しとされるなら――」

声はかすかに震え、しかし言葉を重ねるごとに、奥底の決意が輪郭を強めていく。

「どうか、私の命を、私の求めに従ってお救いください。そして、私の民を、私の願いに従ってお救いください」

その言葉のひとつひとつが、酒宴の甘い空気を切り裂くようだった。蝋燭の炎が細く揺れ、ハマンの手にあった杯の中の酒が波紋を描く。

(主よ――)

エステルの声はさらに静かに、しかし鋭く続く。

「私と私の民は、滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています」

息が浅くなり、乱れる。

「もし奴隷として売られるだけなら、私は黙っていたでしょう。その苦難は陛下の御心を煩わすほどのことではないからです」

最後の言葉を吐き出した瞬間、宴席の温度が目に見えぬほど急激に下がった。杯を持つハマンの手が止まり、蝋燭の炎が細く揺れる。

(――どうか)

エステルの耳には、自分の呼吸と心の臓の鼓動しか届かない。

皇帝の目が細まり、低い声が刃のように鋭く、部屋の隅々まで響き渡った。

「そんなことを企む者は誰だ。どこにいる」

昨夜、望まぬまま差し出した苦みが心を焼くが、それは皇帝の寵愛をまだ受けている証でもあった。

エステルは一瞬だけ瞼を閉じ、静かに息を整えた。

その沈黙の間に、彼女の中で迷いの最後の欠片が音もなく崩れ落ちた。ゆっくりと目を開け、凍てつくほどの冷静さを宿した視線を皇帝に向ける。

「その仇、その敵は――この悪しきハマンです」

その名が放たれた瞬間。

室内の空気は裂け、見えぬ刃が走ったかのように全員の表情が緊張で引き締まった。

後宮の奥深く――。

白磁の肌をした女帝アメストリスが玉座のような椅子に身を預け、冷たい光を宿した瞳でこちらを見据えていた。

「その顔……。久々に妾の前へ現れたと思えば、願い事を抱えて来おったか。まったく、図々しさもここまで来れば見上げたものよのう」

フェリザ女官長は、胸の奥で心の臓が速く脈打つのを感じながら、最敬礼の姿勢で静かに跪いた。床に触れる手のひらに、冷えた石の感触が伝わる。

緊張を、微笑に似せた口元の硬さで覆い隠しながら、慎重に口を開く。

「恐れ多くも、陛下……。何卒、聞き届けくださいませ」

アメストリスは、長く息を吐き、緩慢に脚を組み替えながら横柄に姿勢を崩した。その動きにすら、獲物を弄ぶ猛獣のように余裕を滲ませている。

「まあ良い。そなたの報せがあったおかげで、忌々しい女狐どもを狩ることができたからのう」

フェリザはその言葉に氷のような石床に額が触れんばかりに深く頭を垂れて応えた。

「ありがたき幸せにございます。恐れながら、もしあの娘が、分不相応とも見えるほどの高みに据えられる折には、陛下の英断とお力添えを賜れれば、これ以上の栄誉はございません」

その瞬間、まだ形を成さぬ怒気が女帝の周囲に満ち、空気そのものが震える。見えぬ重圧が肩にのしかかり、呼吸の間隔までも支配されていくようだった。

「あの小娘、近頃は陛下にも飽きられておるのではないかのう。それに、ユダの民とやらでもあると聞く。……そのような望み、まさしく分不相応にも程があろう」

反論する言葉を何ひとつ持っていなかった。それでも――。フェリザは思う。

(私はエステルを信じている――。そして、彼女が命を懸けて信じているものを、自分もまた信じ始めているのだと)

だからこそ、女帝の目と耳として培った立場を、エステルに賭けると決めたのだ。

「もし、苦い杯を飲ませられるのであれば、それまでの娘であったということです」

アメストリスの唇から怒りが引き、代わりに獲物を見定めるような微笑が浮かんだ。

「妾が知らぬはずはなかろう。今のお主はあの小娘と一心同体。それでもなお、賭けるほどの価値があるのか」

フェリザは迷いを残さぬ眼差しで、女帝を正面から見据え、静かに頷いた。

「アメストリス様の道を阻むことは致しません。あなた様の〈時〉がきましたら、あの娘は後宮では用済みでございますので、追い出していただければと願うばかりです」

唇が乾く。

心の奥で、呪詛のような否定が脈打つ。

(この小娘が、ユダの民だと――)

かつて気まぐれひとつで苦い杯を飲まされたワシュテイ妃の姿が脳裏に閃き、切り捨てたマスティスの面影がその隣に現れる。

胸の奥を黒い氷が締め付ける。喉が焼けるように熱い。口を開こうとしても、喉がひゅっと鳴り、声にならない息だけが漏れる。

(……バカな)

皇帝は杯も置かずに立ち上がった。衣の裾が重く翻り、玉座の間に響く足音は冷たい石を叩く。

その一歩ごとに、空気が重く沈み、壁の影までもが深くなる。背を向けた皇帝の輪郭は、怒りという見えない炎をまとい、やがて宮殿の園の暗がりに溶けていった。

(ここで――こんなにもあっけなく)

残されたハマンは、背筋を伝う冷汗を感じながら、足裏の感覚が消えるほどの恐怖に突き動かされ、王妃エステルにじり寄った。

「……どうか命だけは」

その声には、もはや権勢を誇った往日の響きは一片も残っていない。

ただ必死な哀願だけが、湿った息と共に漏れる。彼は悟っていた――。

皇帝の瞳に、すでに自らの死が刻まれていたことを。 

エステルは、杯を置く音すら立てずに立ち上がったクセルクセスが園庭へと一度出ていくのを目で追いかけていった。

立ち上がる時に、皇帝の瞳に映っていたのは、感情を制御し、権威を保とうとする者の意志であり、同時に、宰相の処刑がもたらす政治的な波紋を一瞬で見極めようとする、支配者の眼差しでもあった。

見ると、先ほどまでの尊大さが無惨にも消え失せた顔で、ハマンがエステルのもとに寄って来ていた。血の気を失い、かすかに震える唇を噛みしめながら、彼はゆらりとこちらに寄ってくる。

本能的に身体がすくむ――。

ハマンは膝を石床に打ちつけ、ずしりと重い体を寝椅子へ押し寄せる。
肘掛けに身を預け、半身を横たえていたエステルは、そのあまりに急な接近に息を呑む。

(お父さん!)

身を引く間もなく、必死に縋りつこうとする男の影に囚われた。

吐息は荒く湿り、握りしめた指は肘掛けの縁を掴み、白くなる。距離はあまりにも近く、腰元にまで迫った。

近くに控えていた皇帝警護兵が足音鋭く踏み込む。

だがハマンは、もはや周囲すら意に介していなかった。

「……どうか命だけは」

その声は掠れ、権勢を誇った頃の響きを完全に失っていた――。

だが、哀れなこの男が、エステルにそのように命乞いの言葉を出した時に、怒号が叩きつけられた。

「我の前で、皇妃をも手をかけようというのか」

次の瞬間、ふたりの兵士たちがほとんど反射のように動く。

片方は肩を、もう片方は腕をつかみ、膝を床につけたままのハマンを力ずくで引き離した。

寝椅子の縁から剥がされるように、ハマンの指が布地を滑り、かすかな擦過音が静寂の中でやけに大きく響く。

重い身体が床に叩きつけられると、鈍い音が石の間に響き渡り、その余韻さえも冷ややかだった。

「王よ」

それ以上先は、抑え込まれ、くぐもった声となり、聞こえない。

ビクタンとテレシュに代わって皇帝警護の任を受けたハルボナが、顔に覆いをかけたのだ。

「陛下――。陛下に良き知らせをもたらしたモルデカイ。その彼のために、ハマンが用意した高さ五十キュビトの木が、ハマンの家に立っております」

このハルボナの提言に対して、皇帝は一瞬もためらわなかった。

「それに掛けよ」

命令は冷たく、鋼のように揺るぎなかった。直ちにハマンを引き立てられ、宮殿の外へと連れ出された。

処刑台の影は、傾く陽を背にして地面へと細く、長く、果てしなく伸び、まるで運命そのものが形を持って横たわっているかのようだった。

しばらくして、皇帝クセルクセスは書記官たちを集め、二十七州の総督や地方長官に向けて、ユダの民を保護する勅書を発布した。

ハタクはその内容と、ハマンとその十人の息子たちが処刑され、スサで五百人、全土で七万五千人が剣に倒れたことを、エステルに静かに告げた。

「そうですか……」

喜びと悲哀とが混じり合ったエステルの表情を見ながら、ハタクは疑問を口にした。

「あの時。私がギリシアへの亡命を勧めた時。なぜ、逃げられなかったのですか……」

結果としては、エステルの判断は正しかった。

しかし、あの時点ではそれが最良であるようにハタクには思えたのだ。

「天の御国があるとしたら、ハタクはそこへ行きたい?」

エステルの意外な問いかけに、ハタクは戸惑った。

「どう?」

優しく微笑むエステルからは、答えをはぐらかそうとする雰囲気はない。

「そうですね……。行きたい……でしょうね」

「ひとりで?」

ハタクはしばし黙り込み、視線を落としたまま、口の奥で小さく舌を転がした。

ひとりで――。

たとえ、理想郷だとしても、孤独な場所が天国だとは今のハタクには思えなかった。

「そこはひとりで行く場所だとは思えません」

エステルはふっと微笑んで同意した。

「私もそう思う……。たとえ、籠の中だったとしても、ひとりで行く理想郷よりも、皆が共にいてくれる、ここが良いな」

なるほど――。ハタクはひとつ頷いた。

「それが理由ですね」

「ええ。私にとっては主が共にいてくださるところが天の御国なのです。そして、そこにはみんながいてほしい」

それはエステルの切実な願いなのだろう。

でも――。

ハタクはエステルの前に跪く。

「それでは、皆で御国へ行きましょう」

終章 渡河


「よかったのですか? ここに残ることにして」

フェリザは茶器を持ったまま、ナヴァズに柔らかな微笑みを向けながら、言葉をかける。茶を淹れる手を止めたナヴァズは、力強く頷いて応えた。

「後悔はありません――」

フェリザはアメストリスの「首輪」として縛られていたため、そこにいるのは必然だったが、ナヴァズは自由の身でありながら、自ら残る道を選んだ。

こうして二人揃って、モルデカイの付き人になったのである。

口にはしないが――。それはきっと、エステルへの恩に報い、高齢となった養父モルデカイを守るためなのだろうと、フェリザは感じていた。

ハマンの企てから数年後――。

皇帝クセルクセスは、女帝アメストリスの側近アルタパノスの手によって弑された。女帝がついに、権力の頂に登ったのである。

ナヴァズはフェリザの茶器に再び茶を淹れながら言った。

「それに向こうには彼もおります」

その言葉にフェリザは頷いた。

「今頃は……着いた頃かしらね」

窓辺に差し込むやわらかな陽光に目を細めながら、フェリザは小さく呟く。
権力の頂に立ったアメストリスは、あの日の願いを決して忘れず、静かに叶えてくれたのだ。

風が木の葉を空へと舞い上げる。

遠く、約束の地――その境目にある河の浅瀬を、笑い声に満ちた荷馬車がゆっくりと渡っていった。


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