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フィレンツェの春【6】:アルカディアの季節

あらすじ:
1473年冬、ヴェネツィア特使ピエトロ・ロレダンは、ロレンツォが演出する壮麗な祝祭の舞台に迎えられる。美と象徴に彩られた人工の季節をめぐり、二人の男と二つの都市の思惑が交錯する。

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■ 登場人物と目次


■ 大帆

アルノ川から吹く冬の風は、容赦なく皮膚を刺す。

ヴェネツィア特使ピエトロ・ロレダンの一行は、サンタ・トリニタ橋に差し掛かった。
目に飛び込んできたのは、夕闇を焼き払う白い巨大な光の塊だった。

ロレダン家はヴェネツィア海軍史に名を刻む名門である。
アドリア海の制海権を支えた提督たちを輩出し、その名は、潮の香りと硝煙の記憶を纏う。

ピエトロも例外ではない。
年齢は四十に近い。 海風で焼けた肌、 目尻には細い皺。
老いからではなく水平線を見続けた者だけに刻まれる皺。

ヴェネツィア共和国とオスマン帝国の戦いは、熾烈をきわめていた。
東地中海の覇権を奪われたヴェネツィアは、セレニッシマ(最も平穏で高貴なる都)と呼ばれ、繁栄を欲しいままにしていたかつての記憶を失おうとしている。

そんな中、数々の死線をくぐり抜けてきたピエトロは、海がどれほど残酷でどれほど正直かを知っていたが、それと同じように、人間がどれほど海と違うのかも心得ていた。

だからこそ、彼は特使に選ばれ、今、ここにいる。

ピエトロ・ロレダン、1473年

潮風で養われたピエトロの灰青色の目は、光の質を読む。
足元のサンタ・トリニタ橋の先に見える光は暗雲を切り裂く雷の白でも、沸き立つ波頭の白でもなかった。

それは、ガレア・ソッティレ(戦艦)の大帆が夕陽を受けて輝くときの白。
友軍のものか否かで、意味が正反対になりうる白


■ 虚構の舞台

橋を隔てた対岸、サンタ・トリニタ広場への入り口に巨大な凱旋門がそびえ立つ。光源はこの建築物だった。

三連アーチの中央は高く、冬空へ吸い込まれるように開いている。
アルノ川を地中海にみたて、丁度ヴェネツィアの方向に凱旋門を置くことで、その向こうを故郷と同じと思ってくれとの、海の民への粋なはからい。

ピエトロは嘆息した。
「見よ、フィレンツェの主(あるじ)がわれわれに用意した舞台を」

古代ローマ風の白亜の門。
もっとも、実際には木骨と漆喰による仮設建築にすぎない。しかし松明の光を受けるそれは、夕闇の中で本物の大理石と見まごう輝きを放っている。

門の頂部、どっしりとした浮彫の装飾がここからでも見える。

二頭の獅子が、オリーブの木を分ちあう。
ヴェネツィアの「サン・マルコの獅子」は福音書を手に翼を広げ、フィレンツェの「マルゾッコ」は百合の盾を支え、どちらもゆったりと座り、穏やかな表情で見つめあう。

ヴェロッキオによる確実な仕事。
大理石に刻まれるのは、二都市間の蜜月そのもの――静かな均衡と、計算された友誼の寓意である。

向かい合う二頭の獅子には、この彫刻家特有の生々しい重量があった。筋肉は過剰に誇張されず、それでいて肩から前脚へ流れる張力には、巨匠の観察眼が光る。鬣は細く深い鑿で波打つように刻まれ、光を受けるたび、風に揺れる繊維のような陰影を生む。

ヴェロッキオ、≪二頭の獅子(フィレンツェとヴェネツィア)≫、1473頃

■ 布陣

近づいていくと、柱の部分で踊るニュンペー(ニンフ)たちが見える。

雲のように軽いカミチャ(薄絹の衣)は、風が吹くたびに脚の線を浮きあがらせる。肩の真珠のブローチが、炎を跳ね返す。

と、凱旋門の奥からリュートとリコーダーの軽快な調べが聞こえてくる。

彼女たちは手を取り合い、円陣を組む。
その踊りは、軽やかさに満ちている。
金箔が散らされた髪が、火の粉と同じ速度で瞬く。
爪先で地面を愛撫しながら、一歩ごとに身体をわずかに浮かせ、空気を捉えるアイレの動き。

それは重力から解放された風そのもの。精霊の身のこなしだった。

Vvici, ≪ L'Aere », 2026

……特使一行は息を飲む。

ニュンペ―の踊りが絵であることに、ようやく気づいた。

それでも乙女たちの姿は、夜風を受けて本当に動いているかのように揺らめいている。松明の火がまたたくたび、顔料に混ぜ込まれた金粉が微細な光を返す。
絵が生きているのか、火が踊っているのか、判断がつかない。

ピエトロは目を細め、背筋を伸ばす。
いや、絵が動いているのではなく、火が、その光が絵のほうを操っている。

我あらず、引き込まれる。
光と影の支配関係から、この美は作られている。
すべては、計算しつくされた美だ。

―— これは「舞台」などという生易しいものではない

これは、フィレンツェとその主が敷く陣形だ。
しかもそこには寸分の隙もない。


■ 白馬の主

そこへ、ピエトロの緊張をほぐすかのように軽やかな蹄の音が響いた。
白馬の男が姿をあらわす。黄金の光を背負って顔は見えない。

まずそれと分かったのは、男が羽織る黒貂の毛皮
そのどこまでも深い黒は、青みを帯びた艶で濡れる。 毛並みは風に逆らわず、 炎の光を受けるたび、水面のように柔らかく波打つ。

そして白馬。
北方の血を引く見事な大型種
肩は高く、冬の空気を吸って膨らんだ分厚い胸から銀の霧を吐く。

磨きぬかれた大理石の獣の白と黒貂の漆黒とが、炎に合わせて呼吸する。

こちら全員の視線が人馬に焦点を結ぶ。
その後、たっぷりと一拍の間をおいて、男はゆっくりと馬を進めてきた。

Vvici, ≪ Zibeline et cheval ≫, 2026

ロレンツォ・デ・メディチ
この陣形を操り、フィレンツェを御する男。

思いのほか若い。
小男だと聞いていたが、光を引き寄せる姿は巨大に見えた。

「ようこそ、アドリア海の友よ」
第一声は、トスカーナ語の明瞭な輪郭を持ってはいなかった。
語尾が短く、柔らかく落ちる。水面を滑るような母音、ヴェネトの抑揚

「この都は、あなたがたが来てくれたこと大変光栄に思う」
“la xe” の丸く湿り気のある響きが、 石橋の上でアルノの風と混じる。

ピエトロも流暢なトスカーナ語で切り返す。
「花の都の心憎い御厚意、アドリアの女王に代わり、切に感謝申し上げる。ラティコーザ峠の空は御市の夜ほど明るくなく、この夢のような舞台に、道中の疲れも霧消いたした」
低く乾いた声。
海風に焼かれた喉が、 石の町の空気に馴染むまでには時間がかかる。

風の止み間に合わせた、波を読む者の自在な返答。

ロレンツォは笑みを浮かべ、ピエトロも口角をあげて応じる。
歓迎と感謝の色に丁寧にくるまれた微笑。そこには、相手の力量と双方の町の思惑を測る研ぎ澄まされた刃が二本、隠されていた。


■ 石の広場、炎の花

サンタ・トリニタ広場。

後世「正義の柱」が立つことになる中央には、まだなにもない。
この広場の由来である教会のファサードも、今我々の知るマニエリスム様式のものとは異なり、中世の修道院教会らしいどっしりとしたものだった。

南側に君臨するもうひとつの顔、パラッツォ・スピーニ・フェローニは、スピーニ家の要塞化された館だ。
教会の脇には、ジャンフィリアッツィ家の塔館が、古い騎士階級の威厳を高い影に映す。
名家同士の血みどろの派閥抗争期、フィレンツェで「パラッツォ(邸宅)」は「砦」と同義だった。
パラッツォ・ブオンデルモンティ、パラッツォ・ミネルベッティ。
何世代にもわたる都市貴族の誇りと執念と血の歴史が、幾重にも沈殿する建築の数々。

この時代、サンタ・トリニタ広場は、要するに中世の記憶が生々しく染み出す石の塊に囲まれていたのである。

しかし今宵、そこには一輪の巨大な花が咲く。

小ぶりな邸宅ほどもろうかという篝火の花。
花托をなすのはオークとブナの太薪を高く井桁に組んだもので、周りの花弁はオリーヴや松の細薪を円錐状に組んだ焚木。
火が上がると、 炎はゆっくりと太い柱のように立ち上がり、 橙から金、そして白に近い熱色へと層を変えながら揺れる。

「レオーネ・アラート(有翼の獅子)!アドリア海の宝石よ!ようこそ花の都へ!」
「パッレ!パッレ!イル・ノストロ・カポ(我らが主)!」

ロレンツォのエスコートでヴェネツィア特使一行が凱旋門をくぐると、広場の外延の市民の声、そして中で待ち受けていた来賓、執政官、踊り子、給仕に至るすべての人々が、炎の花とともに彼らを迎えた。
ピッフェリ(公式楽団)による歓迎のファンファーレもそこに加わり、宴の空間に熱気をもたらす。

ピエトロ・ロレダンは、海とはまったく異なる喧騒に身をまかせ、一瞬、瞼を閉じた。

フィレンツェは初めてではない。
しかし、それまで彼が感じたことのない石の町の心地よさが、体を満たす。


■ 狂い咲く

目を開く。

しかしそこで眩い炎の照り返しを受け、華々しい音を反響させるのは、中世の面影を残す石の塊ではなかった。

——緑の森

何百という常緑樹が広場のぐるりを囲う。
ただの森ではない。すべてが意味を持つ、象徴の森だった。

まず目についたのが、オレンジの木。
花々の白と果実の黄金が幻想的な光を返す。マーラ・メディカ(メディチの果実)とも呼ばれる果実をつけるこの植物は、メディチ家の繁栄と結びつけられる。今宵は、そのほのかな芳香で冬の冷気に陽のぬくもりを混ぜている。

ラウルス(月桂樹)も、森の主役を演じる。
詩神アポッローンがもたらした聖木。「ロレンツォ」という名の由来でもある勝利者の木。秩序だった枝ぶりと硬質で艶やかな緑で、森全体の印象を引き締める。

そしてイトスギの林。
揺れに強く、腐りにくい性質で、古来死と再生を象徴する。
夜空へ伸びゆく垂直線を描く幹は、新プラトン思想的な天上への「魂の上昇」を具象する。

視線をめぐらすと、ギンバイカの低く密な樹姿が、硬質な象徴の森に安らぎをくわえているのが分かる。
花をつける季節にはウェヌス(ヴィーナス)に捧げられる植物だが、冬のそれは沈黙している。冬の葉色は青みと灰色を含んだ緑で、触れると、乾いた苦みのある柑橘の香りが指先に残る。

よく見れば、木々には金銀の箔が施されている。
炎を受けるたび葉脈や枝先がちらちらと瞬き、それぞれの特徴を際立たせる仕掛けだった。

さらに足元に目を落とすと、数えきれぬ花々。
造花と実物の百花をゆうに超える色彩が、万華鏡の光を明滅させる。

絶対的な空間の圧力

心地よいめまいがピエトロを襲う。感嘆の念を押し殺す。

この町のあらゆる情報を、セレニッシマは欲している。
この町の正確な「海図」を……、何としても、読み解かねばならぬ。

そこへ、シナモンアカシアの香りが、黄金の甘露となって鼻腔をなでる。
ヴェネツィアが交易を独占するスパイスの芳香。
特使一行は刹那、望郷の念に捕らわれる。

そして、クローブの刺激の一拍。
ローズマリーラベンダーの青と紫の香気が被さる。

そのオッチデンテ(西方)の芳香がオリエンテ(東方)の薫香と交じり合ったかと思うと、最後にこれらすべての香りを乳香が立体的にまとめ上げた。

その奥深い神秘の甘みが、徐々にピエトロの意識を覚醒させる。

――ゼピュロス(西風)の息吹

理想郷アルカディアの陽だまりの空気が、冬の石の町の空気を一滴残らず完全に駆逐した。

ヴェネツィア特使は刮目する。

ボッティチェリ、≪プリマヴェーラ(春)≫、1478‐82頃、ウフィツィ美術館

冬のイタリアに狂い咲く、

フィレンツェは、その主は、季節すら手なずけるというのか!


Continua → フィレンツェの春【7】:祝祭の詩人

■ 登場人物と目次


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