【映画評】『スイート・イースト 不思議の国のリリアン』(2023) アリスのいない「不思議の国」

『スイート・イースト 不思議の国のリリアン』(ショーン・プライス・ウィリアムズ、2023)

評価:☆☆☆★★

 「不思議の国のリリアン」という日本独自の副題通り、『不思議の国のアリス』を下敷きに、現代アメリカをさまよう女子高生を通じて、アメリカのリアルな闇を描く――という体の映画である。
 映像は、16ミリフィルムで撮影されている。

 物語の主人公は、今どきの平凡な女子高生(ただし美少女)リリアン。映画が始まるや、いきなりボーイフレンドといちゃいちゃ、初々しくセックスする。何だよ、リア充かよ!と観客が思う間もなく、場面は変わって高校の修学旅行。ワシントンを訪れた高校生たちは、ハメを外してバーに繰り出し、カラオケ大会(?)で盛り上がる。そんな中、リリアンは何となくみんなのノリについていけず、一人、疎外感を抱えている。
 トイレに立ったリリアンは、洗面台の鏡に向かって、いきなりミュージカルよろしく歌い出す(オープニング曲)。
 ♪私は猫ー 黒をなくした黒猫ー
 自分を猫呼ばわりしてはばからない、なかなかの「痛い子」だ(ただし美少女)。
 と、アンニュイな気分に浸る間もなく、突如として洗面所の外で銃声が。バーでは男が銃を乱射し、マスターに向かって意味不明なことを叫んでいた。
 「地下室の鍵を出せ、変態野郎! 子供たちを虐待してることは分かってるんだぞ!」
 「この建物に地下室はありませんよ……」と困惑するマスター。
 そう、ピザゲート事件である。
 2016年12月4日、ワシントンで、民主党支持者が経営するピザ店に武装した男が押し入った、実際の事件が元ネタである。実際の犯人は、ピザ店の地下で子供たちが人身売買のため監禁されている、という陰謀論を信じていた。
 同年のアメリカ大統領選挙期間中、ヒラリー・クリントン陣営の選挙責任者ジョン・ポデスタのメールが流出し、その内容が、ネットユーザーによって、「児童買春取引についての隠語でのやり取り」であると推理されたことが、荒唐無稽な陰謀論の出どころだった。例えば、メールの文中の「ホットドッグ」は「少年」、「ピザ」は「少女」、「チーズ」は「女児」、「ソース」は「乱交」の隠語である――というのが、ネットユーザーたちの推理だった。なお、もともと「チーズ・ピザ(Cheese Pizza)」という言葉は、頭文字を同じくする「児童ポルノ(Child Pornography)」を指すネットスラングである。
 主人公リリアンは、冒頭から、いかにも「現代アメリカの闇」的なるものを象徴する事件に巻き込まれたわけだ。
 洗面所の扉から外をうかがうリリアンに、客席で息を潜めていたパンク青年が、足早に近づいてくる。
 「ここからさっさと逃げよう!」
 トイレの個室で青年と二人、天井裏に上れないかドタバタ試行錯誤している内に、ふとしたはずみで衝撃がかかり、洗面台の鏡が扉のように開いてしまう。するとその裏には、何と、地下に続くトンネルが……。
 まさか、陰謀論が正しくて、ピザ屋では本当に人身売買が行われていたというジョーク!?
 と、かなりブラックな展開にワクワクと身構えてしまったが、実際にはそんなことにはならず、単にこのトンネルを通って、二人はさっさと外に逃れ出る(この時リリアンは、スマートフォンをトイレに置き忘れてしまう)。
 青年は、アンティファ(反ファシズムを掲げる左翼運動)のメンバーだった。リリアンは、青年に誘われるままアンティファの共同生活スペースについて行き、そして、翌日の抗議活動にも参加することになり……

 と、こんな風に幕を開ける、現代アメリカ版『不思議の国のアリス』だ。
 この後リリアンは、アンティファとはぐれてネオナチの大学教授に拾われたり、教授が預かっていたネオナチの金を持って逃げた先で映画スターになったり、映画の撮影所まで追ってきたネオナチの銃撃から逃げてイスラーム教徒のコミューンに匿われたり……と、いかにも「現代アメリカの闇」的な諸々の出来事から出来事へ、彷徨する。

 さて、現代社会において、『不思議の国のアリス』的なるものがあらゆる場所で繰り返し消費されているのは、「文学性」とは何の関係もないジャンクな商品として、『アリス』のイメージが秀逸だったからに他ならないだろう。Qアノンの支持者たちが、「これはあくまで文学だ」という留保もなく、「白兎を追え」というメッセージに動かされた例を挙げるまでもない。現代社会で「文学」に変わって力を持つものは、徹底して文学性を削ぎ落とされた、ただ消費者の欲望を即時的に満たすだけの、ジャンクな商品の氾濫だ。
 つまり、文学作品が力を持ちうるとすれば、実際にはその力は、「文学であること」ではなく、ジャンクな商品であることによって得られたものでしかないだろう。
 ピザゲート事件から物語を出発させたことからも分かるとおり、ウィリアムズ監督は、かなりのところまで、『アリス』のジャンク性を自覚していたはずである。文学=芸術のジャンク化に対する「異化」を試みることは、あくまで芸術の側につく者にとって、ごく自然な方法論とは言える。
 当然、ここでいう「芸術」は、ジャンルとしては「映画」だ。
 一方、「映画」というメディアと対を成す、現代的「ジャンク」を象徴するメディアは、ここでは、スマートフォンとしてイメージされている。
 だからこそ、主人公リリアンは、鏡の裏にある「ウサギ穴」に落ちるためには、トイレにスマートフォンを置き去りにしなければならなかった。行方不明になるため――あるいは「孤独」という贅沢品を獲得するため、現代社会で欠かすことのできない条件は、スマートフォンから自由になることだ。いわば、物語の冒頭で、リリアンは、スマートフォンを手放すことで、「スマートフォン」的現実から「映画」的現実へと足を踏み入れるわけである。
 それはつまり、「スマートフォン」的な目を捨て、「映画」的な目で現実を眺めるようになるということである。そのような目によって発見される「現実」は、「スマートフォン」的現実と似ているが細部において異質な、そして異質であることによって批評的な、もう一つの現実であるはずだ――と、期待される。
 そこには、必然的に、スマートフォンの滑らかさと対照的な、16ミリフィルムの粗くザラザラした質感が伴うことになる。

 つまり、この作品は、映画を通じて映画というメディアそのものに自己言及する、一種の「メタ映画」だ。
 そして、リリアンは、メタ映画の主人公にふさわしく、一種の「メタ少女」である。

 この映画の最大のファンタジーは、リリアンが誰からもセックスを強要されないことだろう。――せいぜい、「セクハラ」止まりである。
 それでいて、リリアン自身は、高校のボーイフレンドとセックスを体験済みである。
 いくら美少女だからといって高校生にもなって「アリス」気取りなのは年齢的にちときつい、などというのはどうでも良いことだが、要するにリリアンは、本来、処女でなければならない「少女」アリスとして「不思議の国」を冒険する資格を持たない女性である。
 周囲の人々から無垢な「少女」性を投影され、またリリアン自身もそれを演じることで、リリアンは、『不思議の国のアリス』と似て非なる「不思議の国のリリアン」の主人公と化す。リリアンが彷徨するのは、住民がリリアンを性的に搾取しない限りで成立する、行儀の良い「不思議の国」だ。

 『不思議の国のアリス』がもはや「ジャンク」としてしか成立しないのと対照的に、「不思議の国のリリアン」は、「ジャンク」に堕すことなく、「芸術」にとどまろうとする。「芸術」とは、要するに、「行儀の良さ」――というより、「行儀の悪さ」の隠蔽――のことだ。
 「芸術」が隠蔽しようとする「行儀の悪さ」は、リベラリズムがポリティカル・コレクトネス(PC)によって隠蔽しようとする「行儀の悪さ」と相即的だ。この作品では、潜在的に、「芸術」と「リベラリズム」はほとんど同一視されている。
 リベラリズムにおいて期待される「芸術」の機能とは何か。近代的な市民が当然にも持つべき、社会に対する正しく批評的な「目」を、観客に養わせることである。言い換えれば、「芸術」の役割は、観客に「行儀の良さ」を身につけさせるということだ。
 しかし、「ジャンク」な商品の氾濫によって、「芸術」がそのように機能できる余地はもはやどこにもない。「ジャンク」に堕ちることなく「芸術」にとどまるということは、「芸術」の機能不全を隠蔽するということでもある。ある意味、非-少女「リリアン」が隠蔽しようとする少女「アリス」とは、リバタリアン的なアナーキーのことと言えるかもしれない(乱暴に言えば、リベラリズムでは、芸術活動を可能にする「表現の自由」とは政治活動の自由のことであり、リバタリアニズムでは、経済活動の自由のことである。「芸術」作品の「ジャンク」な商品による乗り越えとは、いわば、リベラルな価値観が、リバタリアニズムにおいて乗り越えられるということでもあるだろう。――無論、別の文脈からは別の説明が可能だろうが。当然、経済のアナーキーは、「芸術」のみならず「政治」をもジャンク化する)。
 そして、おそらく監督は、リベラルな「芸術」の限界を知りながら、そしてPCに違和感をいだきながら、なお、リベラリズムを通じて限界を乗り越えようとしている。すなわち、「リベラリズム」=「芸術」が力を失った現代社会を「メタ」的な立場から眺めることができる、ということ自体が、ここでは、「リベラリズム」=「芸術」を肯定すべき根拠と見なされている。
 リリアンが何かを(自分が「少女」ではないことを?)隠していることに薄々気づきながら、あえて気づかないふりをすること。――この作品で描かれるのは、そんなマゾヒスティックな共犯関係だ。それはつまり、「芸術」に価値がないと薄々気づきながら、気づかないふりをして映画を観続ける、ということと相即的である。「芸術」が力を失っているのだとしても、「痕跡を残しながら、隠蔽すること」や「気づかれるように、ごまかすこと」を可能にするためには、やはり、芸術作品を作らなければならないのだ――と、監督は考えているかのようである。
 それは要するに、「ごまかし」を嗅ぎ取ることのできる観客のリテラシーに訴えかけるということだ。リテラシーのある「映画」的な目で、現実社会を眺めること。――この作品はやはり、「行儀の良さ」を観客に求めている。

 リリアンが遍歴する「不思議の国」は、アンティファのコミュニティであれ、ネオナチ教授の邸宅であれ、映画業界であれ、イスラーム教徒のコミューンであれ、一般に想像される姿とは、似ているが、少しずつ異質である。
 アンティファは、抗議活動の現場でターゲットを発見できず、暴力を振るうことがない。
 ネオナチは、社会に居場所がない低学歴の弱者男性、などというステレオタイプとは真逆のキャラクターである。
 映画の撮影現場では、フィクションとして銃撃戦を撮影するところで本当に無差別殺人が勃発する(映画にはフィクションを現実に逆転させる力がある、ということだろうか)。
 イスラーム教徒は、山にこもって銃で武装しているが、テロリストではなく、単なるEDM好きである。
 当然、ここにはごまかしがある。これらの「不思議の国」の描写は、予期された姿とは異質だとしても、あくまで、リベラルな価値観へと取り込み可能な範囲からはみ出ることがないからだ。
 そもそも、物語の発端である「ウサギ穴」自体が、大きなごまかしであった。バーに地下通路があるとしても、子供たちが本当に虐待されているわけではないのである。際どいように見えて、ぬるいといえばぬるいジョークだ。だが、言うまでもなく、もしもそこに子供たちがいたとすれば、この映画は、物語の構造においても、単に「ポリコレ的にアウト」という意味でも、成立し得なかっただろう(PCを批判することによって、結果的に、「PCに配慮しながらPCを批判する」技法の幅を広げてしまい、PCをますます浸透させてしまう――と、これこそが、この映画も足を絡め取られている、PCの狡猾な構造だ)。
 おそらく、地下通路に存在しなかった子供たちの中にこそ、本当は、「不思議の国のリリアン」ならぬ『不思議の国のアリス』の主人公になれたはずの少女はいたのだろう。
 「アリス」とは、いわば、直接登場させた瞬間に映画が映画として成立しなくなってしまうが、しかし、直接登場させない範囲で、常に、存在をほのめかされていなければならない「何か」なのだ。「リベラリズム」や「芸術」にだって、そのような「何か」があるだろう。監督は、そのような「何か」としての少女・アリスの存在を嗅ぎ取るリテラシーを、観客に要求する。それは、スマートフォンでネット動画ばかり観ていては絶対に身につかない、「映画」という芸術と向かい合うために必要なリテラシーである。
 だが、あえて問うべきなのは、次のことではないだろうか。
 観客がなすべきなのは、本当に、リテラシーを身につけ、マゾヒスティックな共犯関係に身を委ねることなのか。
 観客がなすべきなのは、どのようなリテラシーを要求されているか知った上で、あえて「行儀の良さ」から身を離すことではないのか。
 「芸術のジャンク化」と言うべきネオリベラリズム/リバタリアン的現実に対して、リベラリズムは芸術の再建で応えようとする。しかし、リベラリズムは、現実(ネオリベラリズム)に対して無力であるばかりか、構造的には共犯的ですらあるだろう。
 いかなる意味でも芸術が力を持ち得ない現実を徹底的に否定し、なおかつ同時に、「芸術」を再建して「行儀の良さ」を行き渡らせれば事態が解決しうる、などという浅はかな考えをも、徹底的に否定すること――今日求められるのは、そのような態度のはずである。
 ヴァルター・ベンヤミン的に言えば、「芸術のジャンク化」に対する「ジャンクの政治化」が求められている。このことについては、別の機会に詳しく書くこととしよう。


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