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『喝采』 40年前の未曾有の事故で親友を失った私が 語り継ぐ 鎮魂歌

◉あらすじ
1985年の飛行機事故で、響子は親友の奏音を失った。五回目の慰霊登山は生憎の雨天。降り頻る雨の山道を一人で尾根の頂上を目指す。道中の自身の心の葛藤と意外な出会い。そして山頂で起きた不思議な出来事。かけがえのない親友の死に向き合い続ける響子の生き様と、気付きを描いたノンフィクション小説。作者である私の実体験をベースに、事故の史実を語り継いでいくことを目的としている。


フロントガラスの雨粒を、ワイパーが左右に引き飛ばしている。その規則正しい音を聞きながら、無心にハンドルを握っていた。
あの山に登りたい。
その一念で、ここ数日間の喧騒からなんとかこの時間をもぎ取った。
山のあの場所を目指す心は、歓喜なのだろうか、焦燥なのだろうか。
今はよくわからない。

山間の国道を左折し林道に進んだ。
集落はない。
いくつものトンネルを抜けると、大きなダム湖に辿り着く。水面は白く煙っている。
道は蛇行を繰り返し深い緑の奥へと、更に吸い込まれていく。
こんな天気だからか後続車も対向車もない。
「今日で五回目か、やっと来られたな」
響子は独り言を言った。
これまで毎年この時期にここを訪れていた。
だが、一人で来るのは今日が初めてだ。
殊の外ハンドルを握る手は、迷うことなく道筋を覚えていた。
霧に包まれた登山口にタクシーが一台だけ停まっていた。
助手席の窓が開いた。
「これから登るの?」
運転手は意外そうな表情で、更に続けた。
「今、俺のお客さんが登っているよ」
「そうですか」
響子は必要だと思い付いた物だけを、少々忙しくリュックに詰めながら受け応えていた。
「足元が滑るよ、大丈夫?」
「初めてではないので、大丈夫です。それに濡れる覚悟で、ほらここに着替えも用意してきましたから」
笑みを浮かべてそう応え、車を降りた。
「大丈夫かな・・・気をつけて」
響子は、運転手に軽く会釈してリュックを背負った。


六年前の夏、親友が亡くなった。
テレビのニュースで訃報を知り、響子は衝撃を受けた。
郊外のカフェで過ごした六年前の今日は、あまりにも平穏で無防備だった。
あれが永遠の別れとなることなど露知らず、たわいのない会話を並べては、屈託なく笑い合っていた。
コーヒーの香りに包まれた穏やかだった時間が、二度と戻らぬ「最後」に変わったのは、それから一週間後のことだった。

奏音(かのん)は朗らかで優しかった。
響子が迷ったり悩んだりした時は、そっと寄り添い、背中を押すように励ましてくれた。
お互いの両親が名付けた名前の文字は、音楽好きな二人がシンパシーを感じ、距離を縮めるきっかけでもあった。
周囲が羨む仲の良い姉妹のように、たくさんの時間を過ごしてきた。
年を取っても続く、当たり前の関係だと疑いもなく信じていた。

響子はぬかるんだ山道を注意深く歩いた。
正午だというのに、辺りはもう夕闇が迫っているかのようだ。
腕時計の針は十数分程しか刻まれていないが、既に鼓動は激しく打ち鳴らされていた。
使い捨てのレインコートが突き破られるのではないかと感じるほど、雨は響子を叩き付けてきた。
大きな岩陰があった。
しばしの雨宿りを求めるが、巨岩を伝う雨は勢いを増し、むしろそこは瀑布の下だ。
ドラムを叩くような雨に打たれながら、小休止を繰り返すことしか許されない。

響子には悩み事があった。
奏音がここにいたら、堰を切ったように話すだろう。
会社での響子は中間管理職の立場にいた。
何かと重宝され、息をつく間も惜しい日々を送っていた。
待遇や人間関係は悪くない。
具体的な不満があるわけでもない。
響子は組織の歯車の一つでいる安泰より、冒険に憧れ挑戦に意欲を膨らませ始めていた。
自分の意思を地図にして歩みたい、という想いが強かった。
いつしかそれが高じ、起業したいという野望を持つようになっていた。
一念発起しての起業。
それはまさに「言うは易く、行うは難し」の典型であり、覚悟だけでは越えられない難関が待ち構えていることは判っている。
手帳に書きなぐったメモを思い浮かべた。
 事業の場所や物の準備。
 従業員の採用。
 マーケットの開拓と確保。
 法的手続きや行政への届け出。
 資金は足りるのか?
人里離れた山奥に、下界の世知辛さという現実を持ち込んでいた。
奏音ならアドバイスをくれるだろうか。

道のりは半道中ぐらいだ。
晴天ならば山頂で一息つくころだろう。
響子は大きめのため息をついて両肩を上下に揺らした。
リュックのファスナーに付けた鈴の音が鳴り響き、それを合図に響子は再び前に進んだ。
起業について周囲は反対の声ばかりだった。
世の中は甘くない。世間知らずの我儘だとか、子供じみていると窘められた。
今の会社勤めを続けて良縁に恵まれることが最良なのだ、という意見が多かった。
響子が求めるのは、誰かが運んでくる幸運ではなく、自分の足で踏みしめる硬い地面だ。
一度しかない人生だからこそ、自分の想いを地図にしたい。
会社という客船から小舟に乗り換え、大海原に出ていくような冒険に、果敢に挑む自分をイメージしていた。
思い巡らしていると、急に堰き止めていた思考の堤防が決壊し、響子は濁流のように本音を口にしてしまった。
「皆!どうしてわかってくれないのー!」

その声は森に響き渡った。
慟哭のほとばしりが、周囲に息を潜めていた‘何か’を刺激し一斉に沸き立った。
木々の枝葉が大きく揺れる。
野鳥がにわかに羽ばたく。
殺気だった気配すら覚える。
雨音だけだった森が一気に騒々しく、おどろおどろしい様相を呈した。
野生動物と鉢合わせするかもしれない。
半透明の簡易なレインコートを叩き付ける雨は、僅かな隙間から容赦なく入り込んでいた。
しかもコートの中は汗だくだ。
その場しのぎの濡れない対策は、全く用を成さない。
肩で呼吸をしていた身体の熱が、じわじわと山の冷気に奪われていく。
身体が冷える。
言いようのない心細さ。
得体の知れない恐怖感。
・・・怖い。
「戻った方がいいかな・・・」
自分の声とは思えない掠れた弱音が、湿った空気の中に溶けていった。
地を這う草の蔓に足元を掬われた。
咄嗟に掴んだ細い枯れ枝はもろく、泥道に叩き付けられた。
いつしか幼な子のように、ためらいのない涙が溢れ出していた。


霧の中に人影が見えた。
「こんにちは、ご苦労様です」
初老の男性が微笑んでいた。
「あなたは、お一人でいらしたの?」
彼の奥様だろうか、同じ年恰好の女性が少し怪訝そうな顔をした。
「はい、そうです」
響子は泣き顔を悟られぬよう繕った。
絞り出すように応えると、どうやら相手に涙は汗だと思われたようだ。
二人はこの春、長年の教員生活を終え、悠々自適な毎日を過ごしているのだと話した。
穏やかな語り口を聞いているうちに、響子は安堵している自分に気が付いた。
恐怖から救い出してくれたように感じていた。

「この山で、私達の教え子とお母様が亡くなったの」
夫婦は代わる代わる、ぽつりぽつりと話し続けた。
響子は静かに、相槌と頷きを繰り返していた。
話し終えると踵を返したように尋ねた。
「あなたは、どなたを亡くされたの?」
響子は、親友という光を失ったことを語った。
それは、三人それぞれの絶望を鏡写しにしたかのようだった。

束の間の会話の結びに響子は礼を述べて、再び山頂を目指した。
「あともうひと頑張りだ」
「気を付けて、上はもう誰もいないわよ」
響子の背中に向けた二人の声援は、冷えた身体を温めていた。

六年前、この山に飛行機が墜落した。
搭乗者、乗員の五百二十名もの命が失われた。
空港を離陸した数分後、重大なトラブルが発生し緊急事態に陥った。
操縦不能のまま迷走し、人里離れた山の尾根に墜落し、機体は炎上した。
後に公開された飛行機のボイスレコーダーには、必死で操縦管を握り、空港に戻ろうとした壮絶な努力が記録されていた。
コックピットの絶叫とともに、尊い命を守ろうとした戦慄の奇跡であった。
奏音はいつもなら新幹線を利用するのに、この日に限って空路を選んだ。
そして帰らぬ人となってしまった。
郊外のカフェで会った日から、一週間後のことだった。
名もない山塊のこの場所は、事故後に『御巣鷹の尾根』と名付けられた。


坂道の上が明るく見えてきた。
自分を鼓舞する。頑張れ、あと少し、と。
ようやく慰霊碑『昇魂の碑』の前に立った。
節目となる五周忌の登山は、過去四回の記憶を塗り潰す苦行と化した。
この苦行を成し遂げたところで、誰に誇るわけでもない。響子は今たった一人でこの聖域に立っている。
思い立ったようにリュックから取り出した折りたたみ傘を広げ、線香を取り出した。
火を灯せない。
すっかり湿ってしまっていた。
仕事の算段も、長距離運転も、響子を突き動かした熱情はどこへ消えたのだろう。
響子の心は凪のように穏やかで、ここに在る静寂に身を任せていた。

再び雨が激しくなった。
静かに見下ろしている昇魂の碑は、刹那の間に白く煙ってしまった。
尾根の広範囲に、点々と立ち並ぶ犠牲者の名前が示された墓標がある。
碑より更に上にある奏音の墓標に向かう道を、雨と霧が水神のベールのように全てを隠し、諸人も寄せ付けないにように行く手を阻んでいる。
「ごめん、今日はもう進めないよ」
響子は、奏音の墓標までの登山をここで中止することを決めた。

碑のすぐ上にある小屋を思い出した。
あそこなら雨が凌げる。
心を静めて合掌することが叶う。
奏音の好きなお菓子と小さな缶ビールを供えたい。
そう思い立ち、あと数メートル先のゴールを目指した。
小さな入口に辿り着くやいなや・・・。

何の音だろう?
一歩踏み入れた瞬間、音のシャワーが降り注いだ。
トタン屋根を打つ雨の音?
隙間風の音だろうか?
いや・・・。
拍手、そして歓声だ。
口笛やエアーホイッスルまで・・・。
鳴り止まない。
鳴り続けている。
その迫力は響子を圧倒した。
壁いっぱいに飾られた五百二十名のスナップ写真が、歓迎している。
雨の中の訪問者に向けて喝采を送っていた。

奏音の写真と目が合った。
水玉模様の夏服を着た奏音は、とびっきりの笑顔で語りかけた。

「響子、大丈夫よ。いつも応援しているから」

鳴り止まぬ喝采の中で、その声ははっきり耳に届いた。

雨雲は役目を終えたかのように稜線の向こうへと去っていった。
森を包んでいた白いベールのような霧も、はらりとほどけてきた。
山を下りると、夫婦とタクシーの運転手がいた。
「おお、良かった」
「ご無事で安心したわ」
「お疲れ様だったね」
響子の身を案じて待っていた三人に、響子は照れくさく笑みを浮かべ、申し訳ない気持ちになった。
「ここで会ったのも何かのご縁ね」
「そうだ、記念に写真を撮ろう」

一ヶ月後、郵便物が届いた。
写真と共に、一冊の詩集と手紙が添えられていた。

『(前文略)
山でお会いしたあなたが、私たちの心に強く残りました。(中略)
主人が詩集を出版しました。その中の一篇に、あなたのことを書かせていただきました。お読みになってくださいね(後略)』

深い緑色のカバーで美しく装丁された詩集は、どこかあの森をイメージさせる。
何篇も綴られた詩の一篇は、あの日の情景が思い浮かんでくる。
人里離れた深山。
土砂降りの山道。
響子の姿。
その姿を見ていた二人の複雑な感情。
失われた命へのレクイエム。
響子は読み繰り返した。
見知らぬ人なのに、旧知であったかのような懐かしさを感じていた。
この一篇のタイトルは・・・。
『御巣鷹巡礼』。


四十年が経過した。
響子は奏音の三倍以上の歳月を生きてきた。
事故から六年目の摩訶不思議を思い出すと、拍手と歓声、奏音の声が蘇る。
今思うと老夫婦との出会いは、偶然という名の必然に導かれた。
届いた詩集の差出人住所は、奏音がかつて住んでことのある街で、響子も何度も訪れた思い出の場所だった。
また教師だった二人同様に、奏音の両親も教師だった。
行きずりの出会いに、二つの共通項が隠されていた。

奏音は、孤高を気取った強気でいる響子の良き理解者で、姉のように優しかった。
響子は突然の別れを受け止められずに、いつまでも甘えていたかった。
響子の纏った強気という名の鎧は、透き通ったガラス細工のもろさだと、魂は見抜いたのか。
恐怖と後悔にひしがれた響子に、足を止め優しく穏やかな口調で励ましてくれた老夫婦は、奏音の代行者だと考えると筋が通る気がした。


仕事帰りの西の空が茜色に染まっていた。
二人が何度も一緒に見た色だ。
いつもは通り過ぎてしまう帰り道の公園に、なんとなく立ち寄った。
見晴台に登ると、二人が育った街が一望できる場所だ。
かじかむ手をコートのポケットに隠して、響子は思う。
かけがえのない親友の命を奪われた悲しみと怨嗟は、永遠に消し去ることなど出来ない。
だから・・・。
いや、しかし・・・。
バッグの底にある煙草を思い出して、久しぶりに火を点けた。
束の間、響子はくゆる煙りに戯れていた。
見晴台から眺める景色は、あの頃とだいぶ変わって
二人で行ったコンサートホールは市民広場になった。
若さほとばしる熱狂も、耳鳴りも、今はもうどこにもない。
憩いの場となった今、犬の散歩をする家族や、ウォーキングの二人連れの姿が見下ろせた。

古い建物は壊され景色は変わる。それでいい。
あの子が愛したこの街が、暗い箱のままであるはずがないから。

夕風が煙りを運び去ると、霧が晴れたあとの景色のように、刹那にその答えが浮かび上がってきた。
奏音は深い森の精霊となった。
御巣鷹の尾根で変わらぬ笑顔のまま、永遠に生きている。
悲しみに容易くピリオドを打つことは出来ない。
けれど止まない雨がないように、響子の鼓動は絶えず明日を求めている。
響子は深く息を吸い込んだ。
奏音のいない日常を、奏音の分まで愛するために。
ああ、だから御巣鷹巡礼を続けたい。
自らの足で歩み続けて会いに行く。
急ぐ必要はない。
泰然と一歩一歩を進めて行けば良い。
残された人生というステージにしっかりと立ち、五百二十の尊い魂から貰った喝采に、毎年応えるために。

西の空はもう薄墨のようになった。
家路に着く響子の心に灯火が宿った。
今日一日を締めくくる一歩一歩を、我が家の温もりへと預けに行った。
                  了

あとがき
最後まで読んでくださりありがとうございます。
この物語『喝采』は、40年前の夏、親友を亡くした私自身の経験をベースに書き上げました。
40年という歳月の中で、あの未曾有の事故が、世間ではモノクロ写真のような遠い記憶になっていくのは仕方のないことかもしれません。
ですが、あの日を目の当たりにした私たちには、何年経とうとも昨日の出来事のように脳裏に焼き付いているのです。
私の親友を含む520名の無念を語り継ぎ、命の尊さ、そして安全を愚直に守ることを訴え続けたい。
その一心で、一文字ずつ手書きの原稿に向き合ってきました。
お恥ずかしい限りの拙い文章ですが、こうしてたくさんの方々に目を通していただけたことが、私にとっては何よりの救いです。
もしよろしければ、一言だけでも感想を聞かせていただけませんか。
当時の記憶をお持ちの方、あるいはこの事故を知らない世代の方。皆様からいただく言葉が、私の次なる執筆(修行)の大きな糧となります。
またいつか、次の物語でお会いできる日を願って。

◯執筆後記はこちらから↓ お願いします。


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