見出し画像

【連結経理課・和服ちゃん】(PMI編8営業日)それぞれの朝

 監査人は、財務諸表の重要なアサーションについて十分かつ適切な監査証拠かんさしょうこを入手していないと判断した場合には、追加の監査証拠を入手するため、監査手続かんさてつづきを実施しなければならない。
(監査基準報告書かんさきじゅんほうこくしょ240号F32-3)

「……うぅん、眠たい」
 頭が重い。昨日は少し早く帰れたけれど、連日の残業疲れがじわじわと響いている。しっかりしなきゃ、と自分を奮い立てる。
 布団から起き上がり、時計を見ると六時半を指している。少し寝坊をした。せめてお茶だけでも飲んで行こう。
 朝茶の福、今日も良い一日になりますように。

 会社に着くと、既に山口主任がデスクに向かいパソコン作業をしていた。私に気付くと作業をやめ、資料ファイルを持ち近づいてきた。
「和服ちゃん、おはよう。昨日まで、お疲れ様。帰りにね、私もちょっと売上と入金の流れ、考えてみたのよ。後で少し相談させて」
 とても明るい笑顔だった。昨日で少し肩の荷が下りたのかもしれない。でも私の頭からはパソコンにあった、仕掛中の文字が離れなかった。
「山口さん、おはようございます。あの、売掛金の件なんですが、もう少しだけ調査を続けさせていただきたいのです」
 その一言に、主任の表情が一瞬こわばった。
「昨日までの調査で、まだ腑に落ちないところがあって」
 山口主任は少し考え込むように視線を落とし、やがて、小さくため息をついてから言った。
「……まだ? 昨日までみんなでやって、終わったじゃない。
 それに何かやるとしても、和服ちゃん、顔に出てるわよ。疲れが」
 そんなに疲れている顔なのだろうか。朝、鏡を見た時はいつもとそんなに変わらなかったけども。
 山口主任がいうのだから、どこかいつもと違って見えたのかもしれない。でも、それで引き下がってはいられない。
「はい。でも、もう少しだけ」
 主任は小さく笑い、手に持っていたファイルを閉じた。
「仕方ないわね……でも、私と藤川さんは月末の処理で手がいっぱいよ?
 あと、少なくとも今日は定時に帰ること。これは命令。無理して倒れられたら、困るんだから」

 机に戻った私は、これまでの滞留債権の調査メモを広げた。
 ここニ年で一気に膨らんできたこと
 新規取引先への偏り
 梅雨から夏頃に計上した案件に多いこと
 これじゃまだ何も言えない。預金明細と売掛金元帳だけでは調査にも限界がある。
 そのとき、藤川さんが出社してきた。
 そうだ、普段資料整理をしている藤川さんなら、売上を計上するときの資料の場所には詳しいはずだ。
「藤川さん、おはようございます。出社して早々で申し訳ないんですけど、去年の五月から七月の売上伝票ってどこにありますか?」
 藤川さんはカバンを下ろしながら、「和服さんってば」と苦笑いし、棚を指差した。
 「去年の伝票なら右端の棚に……五月から七月なら中段くらいだと思います。でも、あまり無理しないでくださいね」
 藤川さんの声が、妙に胸にみた。

 ファイルは整理されており、すぐに見つかった。売上伝票を開こうとすると、山口主任が気付いたように私に言った。
「調査がまだ続くのは分かったから、部長にも言っておいて。明日以降、残業が続くなら部長に残っていただく日もあるでしょうし」
 そうだ、田端部長にもここ数日とてもお世話になった。今後の残業についてもだけど、まずはお礼を言わないと。
 そう思い、席を立ちあがり総務へ向かった。

 隣の総務課の部屋をそっと覗いた。部屋の奥にいる田端部長は――青白い顔をして、ぐったりしているように見える。
「おはようございます、部長。具合、大丈夫ですか?」
「ん?  あぁ、和服ちゃん。昨日はお疲れさま。ちょっとね、昨日軽く飲みに行って、伊原くんがあとから来てさ……。
 強いのよ、彼、酒」
 笑ってはいるが、その顔は本当に辛そうだった。私は同じ部屋にいた総務の方から薬箱の場所を教えてもらい、水と胃腸薬を持ってきた。
「これ、どうぞ。昨日まで色々ありがとうございました。……ただ、もう少し調べたいことがあって」
 田端部長は、薬を受け取りつつも、その言葉でぴたりと動きを止めた。
「え? もう……終わったんじゃないの?
 社長と神谷監査役にも、『調査完了』って報告しちゃったよ?」
「私の杞憂ならいいんです。ただ、念のため、確認だけさせてください」
 一瞬、目が合った。けれど部長はすぐに視線を逸らし、弱々しく言った。
「……仕方ないね。しっかり、やってくれ」
 私はお礼を言い、総務の部屋を出た。

 部屋から出ていく寸前、田端部長は大きくため息をつきながら呟いた声が偶然耳に引っかかった。
「やはり、昨夜、伊原くんが言った通りなのかもな」

→9営業日へ


いいなと思ったら応援しよう!

つきなみ いただいたチップは次のストーリー作製費として活用します。