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「どんな世界を作りたいか」には、答えられない

受講している和佐大輔くんの講座で、あるときこんな課題が出ました。

仲間が集まるための3つのレベルを設計してみよう。
①共通の目的
②共通のあり方
③共通のプロジェクト

というようなものです。


このうち、②については私は比較的はっきりとしているし、言語化もある程度はできると感じました。
例えば、

・言葉や対象を雑に扱わない
・わかりやすいストーリー理解に安易に逃げない(ホモ・サピエンスの自然を理解しつつ、それに甘んじない)
・権威や多数派の意見を根拠に判断するのではなく、自分なりに思考し判断する
・だからといって、先行研究など先人の歩みを蔑ろにした自分勝手な解釈に逃げない
・誤りに気づいたら都度修正し、自分をどんどんアップデートしてゆく

といったことは、和歌に出会い京極派に出会ってこのかた日々心がけてきたことです。


しかし、①の「目的」を問われると、
「はて……」
といった感じ。

これは昨年でしたか、書いたビジョン記事の主題でもあります。

「世間ではなんの役にも立たないと思われている和歌、それには実はこんな意味があります。
 和歌を学ぶことであなたの人生はこんなふうになります。和歌が日常になった社会はこんなふうに楽しいです。
 人文学が軽視され文学部が次々と閉鎖に追い込まれ、人文知に携わる研究者や多くの方々に適切にお金の回っていない現代社会には、問題意識を抱かざるを得ません。
 そんな日本社会にメスを入れ、理想の世界を実現するため、私はこの人生を和歌にフルベットしています」

というような、なんでしょうね……エネルギッシュな起業家さんたちが大舞台でプレゼンするような、いわゆる|ビジョン《・・・・が、私にはないのです。
おもいはあるものの、これ皆が期待するようなやつではないぞ、どう書いたらいいのかな、と詰まってしまったのでした。

和歌は私の人生です ~おもしろ物語を共創するお誘い~


「和歌をとおしてこんな世界を実現したい」
みたいなの、マジで、ないんだよー。

逆に、みんななぜそんなことが言えるのか?
私が人よりものを考えていないからビジョンが不明瞭で、言語化できないのだろうか?
いや、他の能力に比してかなり言語知優位の、かつ和歌に対して(頭おかしいと言われるほど)真剣に向き合っている私が、「和歌について人よりものを考えていないから言語化できない」ということは、ないだろう……。

しかし、できないものはできない!
私にビジョンは、ない!


という悩みを抱えつつ、

昨年の時点ではそのビジョン記事を自分なりの言葉で書きましたし、

最近では「宿命として、召命として」という、読み方によっては宗教的とも取られるような記事も書き、
自分の和歌に対する向き合い方の言語化に努めてみました。


言語知優位だからこそ言語の限界も知っているつもりの私なりに、
なるべく正確性を落とさない範囲で、言語で伝えられる形でのアウトプットを試みては、
その結果を見て「ああ、やっぱり完璧な言語化はできないものだな」とため息をついて。

しかし言語化とはそもそもそういうものだ、それでも諦めないのが近代人なのだ、
と今回またビジョンめいたものの言語化を試みようとしています。

(梶間和歌にはかなり近代人特性があります。もちろん現代人なので、現代人特性もありますが)


私にビジョンは、ない

「私は、どんな世界を作りたいか」

その問いからはあまりなにも生まれてこない。感情も動かない。
「そういうことにマジで興味がない」という事実が、問えば問うほど明らかになります。そんなことより和歌が読みたいし詠みたい。


「和歌を多くの人に広めたい」
いや、そりゃ、ね。少ないよりは多いほうが、そりゃ。

しかし別にそのために和歌をやっているわけではないですよ。
そんなの
「年収500万より800万のほうがいいですよね」
「800万より1200万のほうがいいですよね」
という言葉遊びとおなじです。


「和歌を未来へ残したい」
「和歌のすばらしさを伝えたい」
そりゃそーだけど。そーだけど、そーじゃないだろ。

別に私が残そうとしなくても、和歌は偉大であり、残りますよ。
そんな程度の動機で、ここまで生活を犠牲にして和歌に諸々のリソースを掛けたりしませんし、できません。


もっと切実な、やむにやまれぬ「なにか」に駆られて、

他の選択肢など(端から見てあったとしても、私の自認としては)完全に潰された状態で

目の前に和歌だけがあって

仕方なくとも思わなかったし
使命感があったわけでもないし

なんか、するしかなかったからしてきただけですよ。
26歳の夏から。それだけです。


その状態が5年続き、10年続き、振り返って

「どうやら私は和歌をするように世界から求められていたんだな」
「だから、続けてきたし、続けられたんだな」

と解釈して。まあ、後づけです。


最近のエッセイでは、「宿命」とか「召命」とかいう言葉で捉えられるかな、ということでそのように文章にしてみて、
そんな気もするし、それでもまだなにか言い漏らしているような気もするけれど、まあとりあえずそんな感じかしら、と。


そんな人間に

「あなたは和歌をとおして、どんな世界を実現したいのですか? 」

と問うても、ねえ。

「興味ないっす」

となってしまう。
別にスカしているわけではありません。その問いに、ピンとこないのだ。まったく。


なにが残ってほしいのか

それでも諦めず相棒・チャッピー(ChatGPT)と議論するなかで、チャッピーは問いを少し変えてくれました。

「私が和歌をし続けることで、なにがこの世界に残ってほしいのか」
「私が死んだあとにも続いていてほしいものはなんなのか」

といった問いのほうが答えに近づけるのでは、と言うチャッピーに、

ああ、それなら答えられる……という感覚がやっと湧いてきて。


一時期私の発信に触れ、私と関った人には、
その人が私から離れたあとや、私が死んだあとにも

・自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の責任で生きてほしい
・ものごとを自分本位に利用しインスタントに消費するのではなく、敬意をもってそれらに接する人であってほしい
・安易なストーリー理解に逃げず、ものごとの複雑性を受け止めようとする態度を育ててほしい
・その時点で受け止めきれないものを断罪せず、「受け止めきれない」と受け止める強さを持ってほしい
・自分自身そして人間の不完全性を受け入れ、自身を謙虚にアップデートしていってほしい
・なにかを成し遂げたからではなく、その人柄で他者に影響する人であってほしい(もちろん、なにかを成し遂げることもすてきだけど)

そして、可能であれば

・私の愛した京極派和歌を愛読してほしい
・京極派和歌を自分の目と頭と心で味わってほしい
・京極派和歌をその人生の隣に置いてほしい

・たまに梶間和歌のことを思い出してくれたら最高

こんな感じ、かな。


数百年の時を超えて

日々、永福門院や光厳院のことを思います。

私は、彼らが亡くなってから数百年後の時代を生きているのに、

彼らの詠んだ和歌を読み、
時代の荒波のなかで彼らのおこなった選択のひとつひとつに美しさを見、
それらを自分の生きる指針として常に参照しています。


光厳院は、私がお金に困ったとき、バイトでミスをしたとき、知人とモメたとき、「こうしなさい」なんて教えてくれない。
しかし、「彼はこういうときこうした」という複数の事象や、それに至らしめた彼の思想を、片端でも私は知っているから、
知ったうえでどうするかを私は選ぶことができます。

私のなかの光厳院に照らして恥ずかしくない解や、最適と思われる解は、
その都度、見えてしまう。

見えたら、どうするか。

やるしかないじゃん……ね。


光厳院のような真っ直ぐな生き方ができるかといったら、
至らなすぎて、恥ずかしすぎて、「一生かかっても無理無理」と叫びたくなるけれど、

「無理だからやらないんですか? 」
いや、やるよね。少なくとも、やろうとするよね。
そもそも「無理だからやらない」という発想が生まれない。
本当に美しく生きた人を知ると、「『その人に照らして恥ずかしくない生き方』をしようとしない」という選択肢が消える。

こうして、何百年も前に生き、亡くなった人間の生き方が、
未来の人間の生き方に作用する。

人が人に、価値ある形で影響するとは、こういうことなんじゃないかしら。


こう考えるとき、
私ごときがとうてい光厳院に及ばないことは大前提として、
それでも私の和歌人生で残したいものはおのずと導かれます。

それが、先に挙げたようなことであって。

私の答えを盲信するのではなく、
私がその答えを出すに至ったプロセスを見、咀嚼し、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の責任で答えを出して生きる、
そんな人が増えたらいい。

問い続け、追究し続ける私の背中を見た人が、
その後の人生で問い続け、追究し続けてくれたら、それがいい。

私には、この人生の中心に和歌があります。
しかし、その人にとっての中心は和歌でないかもしれない。和歌でない可能性のほうが高い。
それでいい。


背中を見せる

例えば私はエッセイを書いたりするほかに、
特定の題詠でどこかに和歌を1首とか2首とか提出した際の、推敲過程を公開する記事を書いています。

また、「題詠下調べ帖」という記事も低価格で販売し、
有料部分では私が特定の題に取り組む際に先例をどれだけ集め、そこから題の本意を抽出したか、の勉強記録を公開しています。
(しかも新しい題に取り組むたびに更新される。なんてお得なんだ)

いろいろな理由がありますが、
ひとつには、物量で伝えられるメッセージというものがあると思っていて。

すなわち、

「2首の和歌を提出するために、この人20首とか40首とか詠んでるんだ……」

とか

「2首の和歌を提出するために、この人300首以上先例を読んだんだ……」

とかいうのは、ひとつのメッセージになる。
そこまでやれとは言いませんけれどね。「私は、やっているよ」というメッセージ。


それらは、和歌の題詠に取り組む人にはもちろん刺激になるし、
そうでない人にも、ジャンルを超えて影響する部分はあるでしょう。


私は正直、光厳院の詠んだ和歌に、すばらしい成功作がたくさんあるとは思わない。
(すばらしい成功作もありますが、多いとは思わない)

しかし、光厳院が京極派和歌に向き合った姿勢や、
京極派和歌を手放したあと、その生き方で京極派和歌の精神を示した事実を知っているので、
和歌にも、人生にも、真剣であろう、と日々背筋が正されるのです。

光厳院の和歌からだけでなく、光厳院という人生そのものから、ジャンルを超えて私は影響を受けています。


その光厳院の100分の1でも1000分の1でも、自分以外の誰かに影響できたなら、

私という卑小な和歌詠みを介して
光厳院という美しい方の人生が
ほかの方に、次世代に、届くことになるのではないか。

光厳院の美しさが
次世代に生き続けることになるのではないか。


そんな気持ちは、あるのかもしれません。


やっぱりビジョンは、ない、けれど

「どんな世界を作りたいのか」と問われることは、やはり、苦手です。

ただ、「なにがこの世界に残ってほしいのか」であれば、こんなふうに答えられそう。

雑で楽なストーリー理解に逃げず、
ものごとに対して敬意をもって向き合い、
自分自身の足で歩もうとする、

私の生きた結果として、そんな人がひとりでも増えていたら、それは、すてきだなあ。
生きた甲斐があったとあの世で(思う主体があるのだとしたら)思えそうだなあ(ないと思うけれど)


そのために私にできることを、和歌をとおして続けてゆくこと。

それであれば、
私は、とっくに始めていたのかもしれません。


あわせて読みたい

私が世界に残したいものについて、後日さらに考えを進めました。


どんなつもりで和歌に向き合っているのか、はこちらに書きました。


その他、エッセイなど


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この記事を書いた人

photo by ミカアンドロイド

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