『歌合を読む――試みの和歌論』覚え書き ~和歌の読書記録~
あれこれ迷ってこれを読み始めました。#和歌の読書記録
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
「歌合は美的調和を尊ぶ平安びとの遊びだから、全体として極端な差がつかないように工夫する。
歌合が終わってみたら一勝九敗の大差だったら興ざめだ」p32
隠岐古典相撲と同じ精神!
歌合を読む 試みの和歌論 https://t.co/HXTP2YPVxv
『歌合を読む 試みの和歌論』錦 仁
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 10, 2025
書いている和歌本の参考・刺激になりそう、と友人に勧められ読了。そこそこ厚さがあるので読み切れるか不安だったが、大変おもしろく読んだ。
研究者の方の文章であるはずが、「あれ、錦先生、実は...#読書メーター #和歌の読書記録https://t.co/NAYJF7c11t
友人吉田裕子さんに勧められ、その分厚さに圧倒されつつも楽しく読みました。
「錦先生、和歌研究者ですよね? 和歌実作者ではないですよね?? 」と確認したくなる箇所がいくつも。
丁寧で誠実な研究を経ると、ご自分で歌を詠むわけでなくとも、歌詠みの実態がおのずと明らかになるのですね。
(現代短歌の歌詠みについては知らない。和歌詠みについてはそうである、とだけ言える)
理論についても精神論についても刺激になるのではないでしょうか。
和歌詠みの皆様におすすめします。
私も、動画講座や添削で「理由を聞かれても困る。これはこういうものだ。ダメなものはダメ」と押し切るしかなかったことの一部が、この本のおかげで理論武装できました。
今後説得力を増した形で指導、展開できそうです。
ご感想post楽しく拝読しておりました。刺激になりそう、という直感が当たって良かった……!
— 吉田裕子(国語講師、三鷹古典サロン裕泉堂の人) (@infinity0105) September 10, 2025
大大大大大正解でした! さすが裕子さん……梶間和歌の理解者……。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 10, 2025
「あれ、これ私が書いたかな? 」みたいな文もあり(畏れ多い)、本当におもしろかったです。
『歌合を読む――試みの和歌論』覚え書き ~和歌の読書記録~
あれこれ迷ってこれを読み始めました。#和歌の読書記録
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
「歌合は美的調和を尊ぶ平安びとの遊びだから、全体として極端な差がつかないように工夫する。
歌合が終わってみたら一勝九敗の大差だったら興ざめだ」p32
隠岐古典相撲と同じ精神!
歌合を読む 試みの和歌論 https://t.co/HXTP2YPVxv
隠岐一畑交通の赤路さん
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
「隠岐古典相撲では一勝一敗が決まりです。八百長ではないかと言われるのですが、島民は全員知り合い。取り組み相手がお得意先の息子さんだったり我が子の担任だったりします。そこでうっかり二勝してしまうと、翌日会社に席はなく、授業参観で目を合わせてもらえないかも」
確固たる美学に基づき歌の優劣を決定する場ではなく、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
君臣睦まじく親睦を深める場、というニュアンスのほうが前面にあったのだろうな。
鎌倉時代の歌合はともかく、平安時代初期のそれは。
社内の親睦目的で行く飲み会の二次会のカラオケでは、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
プロの歌手のような卓越した技術ではなく、場のニーズに即した選曲と、そこそこの歌唱力こそが求められる。
歌合もそういうものだったのかも。
隠岐一畑交通の赤路さんについてはこちらをご参照ください。
赤路さんがおもしろすぎるからって、この記事に戻ってくるのを忘れたらダメですよ。
それはともかく、社内のカラオケ。
私は純粋なお勤めをしたことがないので、純粋な社内親睦のためのカラオケには行ったことがないのですが、
学生時代に部活仲間でよく行っていたカラオケの様子を振り返るに、私のありようは明らかにその目的を履き違えていたな、と恥ずかしくなります。
お前の歌唱力を見せつけるでない。
調和と親睦を目的とするカラオケの場を梶間オンステージにするでない。
と、いまの私なら言ってやるのですが、まああれはあれで「カラオケの女王」なんてあだ名され楽しんでもらえていたので、良かった、の、か?
しかし、微妙な気持ちになった人もいただろうな~といまの私なら想像できます。恥ずかしい。
光厳院に鍛えられ成長した約20年後の私は、バイト先の、下手したら自分の子であってもおかしくない年齢の後輩たちとカラオケに行くことになった時、
ジェネギャで気を遣わせてはいけない、シラけさせてもいけない、と事前に一人カラオケで米津玄師の「Lemon」を猛特訓してから臨んだほどです。
自分の歌いたい歌を好き勝手歌う女王より、その場のマジョリティに合わせて努力してくれる女王のほうが絶対に好かれますからね。見た目年齢はそこそこ若いし。
「あえて言えば、(和歌に対して)短歌には共有し安住する基盤がない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
それに頼らないところに個人が存在する。
その意味で近代文学なのである」p42
個人、個性、大好き! ですからね。
「和歌は優美な「詞」で和らげて詠むべし。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
中国文学の単なる翻案ではない。
それと通じつつそれと対峙し異化つまり〈和化〉するのが日本の美であり和歌である(という文脈である)」p43
「二人(俊成と慈円)は根底において同じ思想を語ろうとしていることはたしかであろう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
私が興味をもつのは、二人とも、和歌で大自然を表現する、といった月並な考え方をしていないことだ。
二人は、和歌はその内部に大自然を包摂する、と考えている」p45
「歌はおのれの作意で詠む。そのために最大の努力をする。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
だが、本当に優れた歌は、人智の計らいを超えてあらわれてくる。
その場面を一枚の絵にすれば、『桐火桶』の俊成永吟シーンになるだろう」p57
この方が歌人でなく和歌研究者であるというのが、なんと、まあ。
きちんと研究をすれば、歌を詠まない立場でありながら歌詠みの営みが読み解けるものなのだ、きっと。きちんと研究をすれば。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 5, 2025
×永吟シーン
○詠吟シーン
スマホからの入力なので時々変換ミスがあります。申し訳ないです。
「現代の歌人は、なんと不自由なことだろう、と思うに違いない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 6, 2025
だが(略)尊重すべき共通の法則が生きている社会こそ、密度の高い文化・歴史を創りあげる。(略)
個人を大切にするあまり共通の価値観を失いつつある現代を思えば、和歌の強いた不自由を(略)笑うわけにはいかない」p75#和歌の読書記録
聞こえますか? 現代の(短歌の)歌人の皆さん。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 6, 2025
「技術論では言い括れない、その向こう側に、本当の歌の住み処がある。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 6, 2025
歌人が工夫して構築した「心」「詞」「姿」を超えて、
いや、あるところまではそれとともに進み、最後はそれを振り捨てて、歌はおのれの住み処から立ちあらわれてくる。
あたかも神仏が顕現するかのように」p79
「人が作ったものなのに、最終的に人の手を離れなければ本当の歌にはならない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 6, 2025
俊成は、そういう狂おしいともいうべき和歌の深部に潜む自己矛盾を思索したのだった」p79
「歌人は、だれも知らない、見たこともない新しい世界を一人の力で生み出すのではない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 7, 2025
だれもが知っている和歌の世界を追体験しつつ、おのれが何者であるかを深く語りだす。(略)
母の胎内に戻り、母を実感し、その子となってあらためてこの世にあらわれる」p88#和歌の読書記録
「この(古今仮名序『見るもの聞くものにつけて』の)「つけて」が曲者だ。通説では「託して」と解するが、おそらく違うだろう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 7, 2025
梅の花を見、鶯の声を聞いて歌が詠みたくなり、それらに託しておのれの心をうたうのであれば、主体は完全に詠む側の作者にある。
これは近代的な解釈だ」p96-97
「歌は半ば自由にならぬものとして存在している。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 7, 2025
歌は人が自由に詠めるものではなく、向こう側からやってくる。
そのとき人の心に歌が生まれる。
人は詞を選び、工夫をして、衣服を着せるように歌の姿を整える。
これが成熟した歌人である」p97
著者の錦仁先生、実はご自身お歌をお詠みになるのでは、と疑いたくなるほど和歌詠みの本質を正確に捉えていらっしゃる。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 7, 2025
きちんと研究を重ねれば、ご自身にその経験がなくとも、「史料によるとそうらしい、そうなのだ」と的外れでなく言い切れるものなのだ……。
「詞と心が一体のものであったら何も問題はない。近代の短歌のように、おのれの心をおのれ詞(ママ)で表現すると思えばよい。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 7, 2025
だが、古典和歌ではそれができない。歌の心を、歌に用いる詞で表現しなければならない。
詞も心も本来的に人間(作者)のものではなく、歌のものなのである」p97
「「六百番歌合」では、新派の慈円と旧派の顕昭が独鈷(略)と鎌首をふりあげて激しい論争をした」p120
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 10, 2025
慈円ではなく寂蓮では?#和歌の読書記録
誤植だと思われます。
「次の(大学生の詠んだ)歌は、「宿をながむれば」がよくない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) July 10, 2025
平安時代の和歌には、建物を外から見て詠んだ歌はないのである」p128
「庭をながむれば」「空をながむれば」よね、ふつう。
「歌合は何が何でも勝たねばならぬというものでもなかったのではないか。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
勝が多いほうがよいけれども、負けることもある。基本的に、そういう余裕もある場であったと思われる」p137
中世の勅撰和歌集の政治性、社会性を考えたあと歌合について読むと、どこか重なって考えられる。#和歌の読書記録
前回読み、まとめた『「和歌所」の鎌倉時代』も思いあわされる。
「2 歌合に出す歌は「我」「我が」といった個人性の強い詞を使わない。(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
歌合は集団で行う文芸だから、独りよがりな歌を出してはいけない」p138
個人性の強い歌は日記にでも書いて(自己)満足していればよいわけで。
あと、特に何も断らなければ、どんな景を詠もうが心を描こうが「そのように捉えている我」が想定されるわけなので、
ことさら歌のなかに「我」と詠み示す必要性はない。くどい。うっとうしい。
私、「平頭病」も「声韻病」もルールとしては知らなかったけれど、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
少なくとも「声韻病」は、感覚として気持ち悪いので、よほどの場面でないかぎりやらないように、結果的にしてきたと思う。
気持ち悪いから禁じられたのだと考えるのであれば、ルールそのものをを知らなくても結果的に守れるようだ。
「声に出して読んでいただきたい。(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
私が平安期の歌人ならば、AにもBにもならないように音韻を整えるだろう。
なぜなら、上句と下句の間に大きな裂け目を感じさせるからだ」p144
裂け目! それ!
「なぜ、こんなことが問題になるのか。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
そのわけは、短歌形式には上句と下句とに分離せんとするエネルギーがあるからだ。(略)
俊成や定家は(略)ともすれば短歌形式の否定・消滅にもなりかねない危険なエネルギーに気づいていたし、(略)下々同字は必ず避けよ、と促したのであった」p144
私が歌会や添削などの場でうまく言語化できなかったが確信してきたことの一部は、この本を読むことで言語化できそうだ。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
ここでは『古今集』の次の2首が良くない例として引かれています。
A み山には松の雪だに消えなくに 宮こは野辺の若菜つみけり(春上・読人不知)
B 花のごと世の常ならば過ぐしてし 昔は又も帰り来なまし(春下・読人不知)
理由は上に引いたとおりです。
この分断、断絶のエネルギーを逆に利用することもできますが、それにしても原則は押さえておきたいものです。
「初めから終わりまで漫然と言葉が続くズルズル短歌はつまらない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
散文から韻文へのジャンプ、そのための仕掛けを一首のどこかに工夫しないと良い歌にはならない。
古典和歌も現代短歌も同じだ」p145
錦先生、現代短歌のほうで選者を務めてくださらないかな……。
「「幽玄」は俊成が開拓した中世の美と信じられてきたのだが、実はそうでもなかったらしい。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
明治・大正から昭和にかけて日本帝国が躍進する中で、
日本を筆頭とする東洋の美であり、欧米のそれを凌駕する精神と思想を湛えている、
と標榜されてきたものの一つであるらしい」p148
この箇所の参考文献『新古今歌風の形成』は手元にあるものの未読なので、落ち着いたら読んでみよう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
積ん読が永遠に消えない。
「もしも読者が平安時代の歌人で「深雪」という題を出されたら、「雪深し軒まで積もるみちのくの……」なんて詠まないだろう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
そういう冒頭に題を詠み下した歌も多いのだが、下手な歌といわれてしまう」p154
「俊成はいう。(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
時代は変わり、歌の姿・詞も変わった。
『古今集』は「歌の善き悪しきをも、撰び定め」て優美な歌を厳選している。
仰ぐべきは『古今集』であって、まだ美的基準の定まっていない『万葉集』ではない」p158
これ! 美的基準の定まっていない『万葉集』!
「しかし、俊成は『万葉集』を否定してはいない。むしろ肯定した。(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 15, 2025
『万葉集』を否定すれば、神世に始まる和歌の歴史を信じないことになる。
『古今集』から突然始まる和歌史などありえないのである」p158
「和歌にとって詞より先に音楽がある」p162
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 16, 2025
それ。もっと大声で……。#和歌の読書記録
「(2の歌も)三句目で切らずに棒読みにすれば散文みたいになる。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 16, 2025
定型の内部から湧き出す美しい音楽の翼に乗らない、日常生活を説明するような文に堕してしまう」p163
現代の韻律ガン無視歌人たちに、このお声を……。
現代短歌の皆さんに聞こえる大声で……。
「私たちは、歌人は自分の力で詞をあやつり一首を作りあげると思っている。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 27, 2025
一見その通りだが、俊成は最後のところで、おのれの作為・作業を捨てて歌型の力に身を委ねる。それへの絶対的な信頼がなければ歌は詠めないと認識していた」p176#和歌の読書記録
まったくそのとおりなのだけど、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 27, 2025
レベルの低い歌人がこれを読み、自己の努力を放棄して歌型に身を委ねた場合、独りよがりな散文詩またはスローガンにしかならない、
ということは押さえておきたい。
俊成も錦先生も、そんな低レベルな歌人を想定していないからこそ、前提をすっ飛ばしたのだろう。
「(挙げた歌は)いずれも自然の現象・景物を切りとって人間の行為のごとく詠んでいる。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 29, 2025
(擬人法自体は)和歌によくある技法なのだが、「ふるまふ」と評された歌は、風景に穿った解釈を試み、意表をつく見立てを仕掛けて、いっそう巧みに表現している」p207#和歌の読書記録
私のあまり好かない技法である。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 29, 2025
「「ふるまふ」と評された歌には負歌が多い。(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 29, 2025
古語辞典に〈人目につくような勝手な行動をする〉とある。
作者は自信たっぷり、これ見よがしのつもりでも、読者に不調和な印象を与えてしまうことがある。
和歌は優しく美しくありたい。作者の手柄が目立ってはいけないのである」p210
現代短歌の皆さんにも届けたい。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 29, 2025
ドヤドヤやられても読者は興醒めするのですよ。
「歌合という集団の場で、おのれを強く打ち出してはいけない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 1, 2025
もちろん、「我」を用いても良い歌は詠める。(略)
しかし「我」を使うならば、ほかの人と共有できる「我」を表現しなければならない。(略)
近代の短歌とそこが違う」p224#和歌の読書記録
「(1の歌は)おだやかな歌いぶりで、露骨な自己表現が見られない。(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 1, 2025
2は我が身の不遇を嘆いた「述懐」の歌であるが、あくどく不幸を語る姿勢がない。品が良いとはこういうものかと感心してしまう」p226
錦先生とは、畏れながら、歌の好みが合う。
「本歌をバラバラにして詞にする。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 3, 2025
そのとき歌人に必要なのは、本歌の全体をしみじみと思う心である。(略)
本歌をしみじみと受け止める心があってこそ、本歌を切り刻み、詞を取って歌を詠む本歌取りは可能となる」p235#和歌の読書記録
「都を遠く離れた東国の古代の恋の情景が、旅人の目に映る霞に包まれた春の風景へと変わった。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 3, 2025
歌の姿はさほどでないが、歌の奥から万葉歌の情景があらわれてくる。
本歌と新歌が響きあっているのである」p236
「歌合の主催者である藤原良経の秀歌と番えられて負になったのはやむを得ないが」p237
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 3, 2025
? 兼実では? 主催者も、頼政を負かしたのも。
直後に「兼実の歌が相手でなかったら、と残念に思われる」とある。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 3, 2025
「良経」は「兼実」の誤植ということでいいのかな。
前後の文を読むに、誤植だと思います。
「定型には二つの力学が働く。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 3, 2025
ゆえに散文のような和歌でも和歌らしく聞こえたりする。
また、内容が同じなのに一方は和歌らしく、一方は和歌らしく感じられないことがある。
〈句〉の力をうまく活用しなければ歌は作れない。本歌取りをするときも同じだ」p245
和歌でも短歌でも、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 4, 2025
「歌だなあ……」というものと
「言いたいことを定型に収めた、それだけのものだなあ……」というものとがある。
言いたいことを定型に押し込んでいてはいけない。#歌の詠み方
原因は大きく
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 5, 2025
・そもそも言いたいことを言おうとしている
・韻律という概念の斜め上
で、どちらも
「我が強すぎ」
「この詩形への敬意が少なすぎ」
ということかと思われます。#歌の詠み方
言いたいことを歌にして成功するの、和泉式部ぐらいでしょう……。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 5, 2025
凡人が天才を真似てはいけない。
「短歌は作者の「私」から始まり、和歌は古歌という「公」に依拠して生み出される。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 5, 2025
「私」と「公」の前後が逆だ。
近代以降は和歌の古歌に相当する「公」がないから、その分だけ歌人の個人的体験にウエイトがかかり、短歌定型の力に頼らざるをえない」p254#和歌の読書記録
にもかかわらず五七五七七を数え間違う素人や、9音以上の字余りを平気でするベテラン歌人は、いったい何なのだ。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 5, 2025
問:いったい何なのだ?
解:論外です。
「古歌をふまえて新しい歌を詠むとは、一例をあげれば、こういう歌をいう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 5, 2025
古歌という「公」の世界をふまえ、その中に読者をどっぷりと浸らせ、しかも古歌にはない新しく美しい気分を存分に味わわせてくれる。
作者の「私」の体験を明確に表現する短歌とそこが違う」p256
「一見、なんともない平凡な歌であるが、当時の貴族でさえ、だれもがこんなふうに詠めたのではなかったらしい。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 6, 2025
五七五七七のマス目に文字を入れていけば、だれでも歌らしいものを作ることができるが、そういう歌がすべて優れているわけではない」p277
うん!!!#和歌の読書記録
あと、平安時代や鎌倉時代はともかく昨今は、五七五七七の数を数えることさえ困難な歌詠みが少なくないと見える(別に誰のこととは言っていない)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 6, 2025
「歌を詠むのは簡単だが上達するのはむずかしい」p284
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
うん!!!#和歌の読書記録
言いたいことを五七五七七に押し込めてなにかを言った気になっているうちは、訓練や上達という概念と無縁です。#歌の詠み方
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
「万葉風の「古躰」は熟練の末に詠むべきもの、初心者は手を付けてならぬ(『毎月抄』より訳)」p285
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
聞こえますか……現代短歌の皆さん……。
「古きを尊び、伝統を守り、それを土台に新しみのある歌を詠んで和歌史に加える。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
そのために歌人が求められたのは古歌の正確な知識であり、深く味わい、深く感動する心であった。
これがなければ歌は詠めない。
詠む前に過大な古典の学習・稽古を積む必要があった。
上達は大変なのだった」p286
これに耐えられる人は少ないだろうな。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
なんといっても現代人は自分大好き、他人や先人の歌に本質的に興味がない。
しかし、急がば回れとはよく言ったもの、これを先にやらなければ、おのれの貧弱な個性と数十年の個人的な体験にのみ依拠して歌を詠み挫折する道にまっしぐらなのである。#歌の詠み方
嫌ならせめて同時並行すべし。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
古歌を学びながら、自分でも詠むのだ。
私は少なくともそのルートでここまで来たひとりである。
歌の下手な人、だいたい、人の歌を読んでいない。古歌などほぼゼロ。
ぼーっとしていてもインスタントな楽しみが無限に与えられるSNS時代、和歌の修練なんてものに関心を持つ若者が少ない、またはいないのも、むべなるかな。
「古典を学ぶことは、知識を得て慢心することでなく、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
古典の気高さを知り、おのれの歌の拙さを悟り、さらに良き歌を目指して励むことだった」p289
「そういう精神は、信仰心に近いというべきだろう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
普通に考えれば、歌はおのれの心を発現するものである。ならば、「自分一人のために詠むのであって、昔の歌や他人の歌など関係ない」と思う歌人がいてもよいだろう。
そういう歌人はいないとするところに和歌の道が成立している」p298
「この国に生きていると信じて歌の稽古をする。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
こういう精神が薄らいだとき、ある意味で近代が始まったといえるのではなかろうか」p298
「歌は単なる心を晴らす慰みごとではない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
道であって、尊んで、学んで詠むものだ。心して稽古すべきである。師とともに励む道なのだった。
どこかしら宗教と通うものを感じさせる」p299
わかる。私も京極派を信仰しているようなものだから。
P313の「名取川そこさえぞ照る……」は「そこさへぞ照る」の誤植でしょうね。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
「現場に来て家隆の歌(秋の夜の月やをじまの天の原明けがたちかき沖のつり舟)を読むと、観念的な匂いが消えてしまう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
目の前に広がる風景が、新古今的な空虚な言語空間を満たして、きわめてリアルな印象を与える。
実景という肉体が詞という観念の衣服を着て読者の感覚を刺激する」p318
「歌は衣服のようなもので、旅はそれに合った肉体を見つける行為なのだった」p322
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 7, 2025
「順徳天皇は「みちのくの野田の玉川」に行ったことも見たこともない。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
それでも詠めるのは、そこへ行って詠んだ能因の歌があり、それに追随して詠んだ古歌がたくさんあるからだ」p339#和歌の読書記録
歌枕の説明でわかりやすいのは、吉田裕子さんの「行ったことがなくても、パリは花と芸術の都」。
「「野田の玉川」はみちのくに存在するが、存在していなくてもいい。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
なぜなら、順徳天皇の歌は、和歌の世界に存在するそれを詠んだのであって、実景を詠んだのではないからだ」p339
「和歌さんの見た瀬戸内の海を思いながら……」と言われ、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
「?? あ、名刺に書いた淡路島の歌のこと? 」となったことがある。
私は心が中世人なので、隠岐後鳥羽院大賞で評価された歌の淡路島も長良の海も観念としてしか知らない。
夕暮れの月を分け行く舟のあとを恋ふるながらのさを鹿の声
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
令和5年古事記編纂1300年記念大賞
むらむらになびく霞に淡路島見えみ見えずみ春は来にけり
令和6年城南宮鳥羽殿賞#隠岐後鳥羽院和歌大賞
「(本歌と本歌取りの)片方を味わっていると、もう片方が浮かんできて(略)
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
とすれば、真の作者は誰なのだろうか。
範光も経平も、それぞれ自分の歌の作者なのだが、二人に歌をうたわせたのは、「手枕の野」の喚起した和歌的イメージだ。
これこそが真の作者だといえるだろう」p354
「二人の口を借りて歌を詠ませたのである。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
和歌的イメージが二人の心に憑り移り、それぞれに歌を詠ませた」p354
この文章書いたの私かな?
昔から「歌人は歌の代理母であるべきだ」と主張してきました。
プロフィール小説もご参照ください。
「俊成の『古来風体抄』は、やはり仮名序をふまえて「人の心」と「歌の心」を区別して歌を説明している。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
その言わんとすることは、歌は「人の心」がただ詠むのでないということだ。
「歌の心」が「人の心」をして詠ませるものだというのである」p355
「本歌取りのコツや技術を覚えれば歌は詠めるけれども、それでは狭小な個人のものとなる。賢しら事にほかならぬ。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
和歌の海の底からおのずと生まれてくるような歌を求めたのである。
そういう歌を詠むとき、人はこの世に生きる一回限りの時代を離れて、永遠無限の和歌の道を生きることになる」p355
「現代短歌の歌人のほとんどには届かない言葉だろうな」と思ったところで
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
「現代の歌人はこうは考えないだろう。歌はおのれの生の証であるからだ」p355
とあって噴いた。
私が現代短歌に否定的なのは、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
もちろん同じ詩型でありながら比べものにならないほど魅力的な和歌というものを知ってしまったからではあるが、
「私の表現! 私の生きた証! 」と詩を書き散らしていた10代、20代の自分とそっくりなものをそこに見るから、
というものもある。
要は同族嫌悪、過去の自分の否定、つまりまだ統合できていない未熟さの表れなのだが、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
先日別の事柄について、尊敬する和佐大輔くんに
「自覚できてるなら、ペンディングして成長を待てばいい」
と言われたこともあり、堂々とペンディングしながら私の本分たる和歌に向き合う。
見て見ぬふり、問題の先送りはよろしくないが、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
問題をあるものとして自覚しつつ、本分のほうで自分が成長してしまうことで、過去問題だったものが問題でなくなる、ということを私たちはいくつも経験している。
小1の夏合宿でされた怖い話、未だに覚えているけれど、うなされることはもうないもの。
ペンディングの話題には触れていませんが、和佐大輔くんのグループコンサルでの会話はこちらに書きました。https://t.co/F0dITvfxMc#note #和佐大輔
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
「(松平)定信がいう。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
〈定家は、「情は新を先とす」と教えた。
「花を雲と見、雪を花と見」るのは古歌の模倣のように思われるが、「幾たび言ふとも、我がまことより言へば、いつも新し」い歌となる〉。
『花月草紙』(松平定信、全六巻三の巻)の一節である」p362
読み終えて気づいた。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 9, 2025
錦仁先生、お名前の読みは「ひとし」先生だったのか……。ずっと「じん」先生だと思っていた。「にしきじん先生の……」と、どこかで発言したかもしれない。大変失礼いたしました。
以上です。ありがとうございました。
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