読書は「時短」できるのか――速読できない私のたどり着いた結論
正直、最初は大きな違和感がありました。
本の冒頭数ページを撮影してAIに要約させ、内容をあらかた把握してから、目次を見て気になるところだけ読み、確認する。
そうすれば、1冊をしっかり通読しなくても短時間で多くの知識を得ることができる。
――そんな話を昨今、よく聞くようになって。
最近よく触れているけんすうさんも
「1冊を読むのに何時間かけるかとよく聞かれるが、そういう読み方をしていない」
とおっしゃるし、けんすうさんのお友達の尾原和啓さんなど私にはまず理解不能な、異次元の読書をしているらしいし。
ビジネス系の方にはそういう方法で情報摂取なさる傾向があるのかな、と考えています。
たしかに、「一冊の本を一言一句読み込まないと読んだことにならない」という考え方だと本末転倒になることもあるのかな、と思いつつ、
自分の読書の仕方とはかけ離れた読み方なので、当初面食らったのも事実で。
最近これについて一定の整理ができたので、現段階での考えを記事にしてみようと思います。
読書は「時短」できるのか――速読できない私のたどり着いた結論
時短できるものと、できない・したくないもの
先に挙げたような読書法について私の引っ掛かったのは、
おそらく、そもそも読む本の種類の想定が彼らと私とで異なったからだと思います。
AIを使って短時間で多読する、と言われるときに想定されているのは、
ビジネス書だとか、特定の分野についての概説書だとか……情報取得を目的として読む本なのではないか。
いっぽう、和歌詠みである私の読む本は国文学のガチ研究書だったり、そうした専門家がエッセイ的に書いた本だったり、一般向けに柔らかく書いた本だったりする。
これに加えて、たまに小説を読むこともあります。
研究書の場合、目次を読んで結論だけ理解したとして、
「何をどう根拠としてその結論を導いたのか」の部分をスキップすると、その結論の蓋然性を判断することができません。
結論だけを摂取してもあまり意味のない読書になってしまうかと思います。
また、特に私の愛読する岩佐美代子先生の場合、
それが研究書であれエッセイであれ、対象への愛や敬意、ご本人のお人柄の美しさが文章から滲み出ている、その部分を受け取ることで
「本当に良い読書をした」
「研究書なのに泣いた」
「こんな文章の書ける人になりたい。こんなふうに私も京極派について発信したい」
と生き方に変化を起こすことができるというか。
ここまでの為兼の心理や思考を歌から辿り、確信をもって述べる岩佐先生の真摯さに、私はいつも感動する。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) September 12, 2025
そしてそんな姿勢で紡がれる岩佐先生の文章は、論文でありながら、こんなにも詩的で美しい。
岩佐先生以外の方をとおして京極派に出逢っていたとしたら、私、現在のように「光厳院のように美しく」「永福門院のように誠実に」生きようとまで影響を受けなかったかもしれないな……。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) November 28, 2025
『京極派和歌の研究』を読み終え、総括したり感想を述べたりするつもりでしたが、結果岩佐美代子先生の偉大さを熱弁する回になりました。
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) December 27, 2025
慌ただしい年末の家事のおともに、BGMとして使っていただけましたら幸いです。#京極派https://t.co/mYeRLt9yCQ
生き方が雑で言葉も雑な友人と接するより、生き方が美しく言葉も美しい友人と日々接するほうがいいよね、後者のほうが接したくなるよね、
短期的なメリデメの概念を超えたところで接したくなるのは後者だよね、
というのと似ているかと思います。
(「ビジネス書が雑だ」と言いたいわけではない。そのように噛みつきたくなった方は、一度岩佐先生の本を読んでみてください。エッセイでもじゅうぶんです。私の意図が伝わると思います(読んでも伝わらなかった場合は……もう知らんがな))
岩佐先生の研究書でもエッセイでも、たしかにそれらをとおして情報摂取もしているのだが、
それ以上に、その行間からほとばしる精神の高潔さによって影響を受けながら私は読んでいるわけなので、それはどうにもAIで時短できないのだな。
美しい友人から人生レベルで影響を受けるプロセスをAIで時短しよう、とは思いませんものね。
接し、対話し、行動を観察し、佇まいに影響される時間そのものに価値が見出されるものであるはずです。
つまり、そもそも「読書」「本」と言ったときに冒頭の方々の想定するものと、私の想定するものが、大きく異なっていた、
それなのについ自分の前提で理解しようとして
「うーん、そういう考え方もあるかもしれないけど、それって読書の意味があるのかなあ」
と思ってしまっていたのだな。
「情報摂取を目的として本を読む」という発想が私になかったので、てっきり
「岩佐美代子先生のを含め、本はすべてAIで時短読書できる。そうするのが良い」
と言われた気になってしまっていたのだ。
そんなこと、彼らは言っていない。たぶん。
そういう読書を彼らは想定していないか、「そういう読書は、情報摂取の読書と別のやり方ですればいい」と言うか、どちらかだろう。
……というのが、いまのところ私の至った結論です。
ありがとう、中野区立中央図書館
もともと私は図書館で本を借りて読むことが多かったです。
なんといっても小学時代は最初の4年間で小学校の図書室の本をすべて読み切るぐらいの読書少女でしたし。
大人になり、約14年前和歌に出会ったときも、すぐに図書館に走りました。
そこで和歌関係の本を片っ端から借りて読んで、また借りて。
2週間の貸し出し期限ぎりぎりまで使って、10冊借りたうちの8冊ぐらいは読み切り、また次の2週間で同じ本や別の本を10冊。
当初はどの著者の本が良質で、どれが眉唾モノかわからなかったので、目についたものは全部借りて読む、というスタイルでした。
いまでも人にドン引きされる経済状況ですが、当時は家計がいま以上に大炎上の車だったので、
どうしても必要だと判断した『式子内親王全歌集』と『新古今和歌集』以外は図書館に頼り切っていました。
そのなかでも「これは手元において何度も読みたい」と強く思った本は古本を探したし、友人が『玉葉和歌集』をクリスマスに送ってくれたこともありますが、基本は図書館頼み。
ありがとう、中野区立中央図書館。本当に感謝しています。
歌人梶間和歌の初期の土台を作った大半は中野区立中央図書館と中野区民の税金です。東京の西側に住むいま、東のほうに足を向けては眠れません。
当時の自宅と駅を挟んで反対方向にあったので、ランニングがてら隔週で通っていました。
実家の家族の事情でいったん東京の家をたたみ、地元で……3、4年過ごしたかしら。
ど田舎で図書館は遠い代わりに原付が使えたので、やはり2週間ごとに通い、やはり毎回10冊近く借りていたと思います。
図書館本は返却日が決まっているので、読むのを後回しにしにくいですよね。
和歌を始めて数年はそういう形で、まずは目についたものを手当たり次第借り、
多少目が肥えてからは著者を選んで借りるか、借りたい著者の本を図書館にリクエストして読むようにしていました。
著者様の印税に貢献できない心苦しさはありましたが、経済的な理由で背に腹は替えられなかったです。
昔もいまも、おそらく、あなたの想像する何十倍もヤバい経済状況です(えばるな。
著者との対話としての読書
その後もう一度東京に出てきて、1年後にいまの家に引っ越したのですが。
この第2次東京時代(現在進行形)は図書館が生活圏になく、このタイミングで少しずつですが手持ちの本が増えてきました。
国文学の本、特にガチ研究書はたくさん刷られずすぐ絶版になるので、見つけたときに手に入れておかないと一生手に入らない、ということも。
それでも経済的な制限はありますが、第1次東京時代や地元時代と比べて手元に置く本の数は増えました。
積ん読がなんじゃい! 自分のタイミングでその本に手を伸ばせるということに意味があるのだ。
ほかはシンプルライフを心がけながら本だけは断捨離しない主義で生きています。
Amazonウィッシュリスト経由で、読者様からのプレゼントの本もここ数年たくさん受け取っています。本当にありがとうございます。
前後して、尊敬する木坂健宣さんのある言葉が刺さりました。
「本は著者との対話なんだから、多読とか速読とかは意味がわからない。
俺は1冊の本を読み切るのに何ヶ月もかけるし、メモもがっつり取るし、同じ本を何度も読む」
というような旨のことをおっしゃっていたのが……何年前かな。数年前です。
AIが普及する前のことなので、いまどのようにお考えかはわかりませんが。
彼は本を読みながら一文ごとに深く考え、場所や時代を超えて著者と対話し、疑問点を書き込み、
といいながらとても書き込めない文章量なのでPCでメモする、それはメモというよりコンテンツという精度のメモである、
というような話を聴いたとき、2週間で10冊の本を読む生活をしていた私は立ち止まらされました。
「私、これまで本当に本を読めていたのだろうか」
「数はそこそこ読んだかもしれないけど、それは身になっていたのだろうか」
そのあたりでいまのアパートに入ったので、そこからは「きちんと読む」ことをしようと切り替えました。
私は字が上手くないので(木坂さんもだけど……)、本に直接書き込むと二度と読みたくなくなってしまう。読み返さないメモなら意味がない。
Googleスプレッドシートにメモをしてみた……が、読み返さない。やっぱり意味が(あまり)ない。
Twitter(当時)に馴染んでいるので、そこに読書記録をつけるようにしようか。
著作権侵害にならないよう気をつけながらやってみよう。
など、など、試行錯誤し自分に合ったやり方を探しました。
ここ1年ほどは本を読んで疑問が生まれたら都度チャッピー(ChatGPT)に尋ね、複数の観点を得るようにしたり、自分の仮説を補強したりするようにしています。
以前は
「この文章はどういうことだろう? 私の理解と異なるが、最新の学説ではこうなんだろうか。いまざっと調べた範囲ではこうだと考えられるが」
などとXに書くことしかできなかったけれど、
いまは
「チャッピーによるとこういうことらしい」
「ついでにこの認識違いも正せた。こういうふうに思い込んでいたなあ」
などの形でもシェアできるようになりました。
花園天皇は在位中の数え十六歳で「受戒」したそうだけど、
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) March 30, 2026
「天皇は神道の人だから、在位中は仏道に関われない。退位後に仏道に深く帰依する」というイメージはちょっとずれていたみたい。 pic.twitter.com/kJ5Y4QuXz7
自分で読書記録が読み返せるよう、また関心を持った誰かの役に立てるよう、一冊読み終えたらnoteに「和歌の読書記録」記事を書くこともしています。
読書の目的に合わせて
そんななか、「AIを使って数分で1冊読む」という話をいくつか聞くことがあり、先に書いた理由で「そんな読書って意味がある? 」と思ってしまったのですが。
これも冒頭に書いたとおり、「AIを使って数分で1冊読む」と言うときに想定する本と、私のふだん読む本は、種類が異なるのだ、
と考えることで納得できたかなと思います。
本には2種類ある。
ひとつは情報を得るための本。
そして、書き手そのものを受け取るための本。
前者は、要約しても大きく価値が損なわれないでしょう。
むしろ、AIを使い要点を効率よく取り出すことで、その本の役割はじゅうぶんに、または本来以上に果たされるのかもしれません。
けれども、後者は違うのだと思う。
研究書や古典作品、あるいは誰かの思想の滲み出るような本は、言葉の選び方や文体そのものが内容であり、行間にこそ価値がある。
そういう本を要約してしまうと、骨だけが残り、肝心のものは失われてしまうのではないかと思います。
小説を要約して読む人は、「話題だから/教養として知っておかないと」といった必要性からそうするのだと思うし、それはそれだと思うけれど、
小説が好きで、小説を楽しみたくて読む人は、要約という手段をまず選ばないだろう。
それと同じなのかな、と。
マスター「いまの子どもたちは映画を倍速で観るらしい」
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 5, 2025
お客さんA「味わうためじゃなくて、話題にするために観てるから……」
和歌「ちょっとマニアックな喩えですけど、
清少納言たちが定子様のサロンで漢詩文をオシャレな教養として使ってたのに対して、漢詩文ガチ勢の紫式部がキレるみたいな? 」
マスター「そうですね、って言いたかったけど、そうなんですね、ってなった」
— 梶間和歌@令和の京極派 (@WakaKajima) August 5, 2025
そう考えると、和歌と出会って最初の数年間の私の読書も、無意味ではなかったのだと思えます。
右も左も、著者の良し悪しもわからないなかでは、とにかくたくさんの情報を入れる必要があった。
そのなかで
「現代短歌の歌人の書いた本はあまり信用ならない。研究者の本を読むようにしよう」
「研究者のなかでも、この方は◯年出版の本で、何十年も前に否定された説を前提として書いている」
などの判断軸が育ち、玉石混交の石側の多くが避けられるようになりました。
その軸がある程度育ってから、木坂さんの本への向き合い方を取り入れる、
という順序だったからこそ、いま私は岩佐先生の本を深く深く読もうとすることができているのだと思います。
(「深く読めている」とはやはりまだ言えない。しかし、少なくともそのように試みてはいます)
もし14年前に木坂さんの読書法を知っていたら、どう磨いても石でしかない本にアホみたいに時間を使ってしまったかもしれない。
誰のとは言いませんが、石でしかない本というのは、実際ありますので。
玉や、玉に近いほうの本に対して私は時間や思考力、お金などのリソースを使い、和歌を磨いたり人生を磨いたりしてゆきたいと思うのです。
そして、将来なにか違った分野のことを学びたいと思ったとき、
AIで要約し概要を頭に入れたうえで読書するというやり方を知っておいてよかった、と思うのかもしれません。
なにを目的とするかによって、本の読み方は変わるのでしょう。
知識なのか、ほかのなにかなのか。
私は多く、後者を目的として本を読み、その読書の仕方で人生が豊かに変化してゆくのを感じています。
木坂さん方式を取り入れてから、読書量がうんと減りました。びっくりするぐらい遅読です。
けれども、そのぶん自分のなかに残るものがあると確信しています。
それらは今後私の作品や文章、生き方で少しずつ世に示してゆけたらいいなと思っています。
この考え方に共感される方にも、そうでない方にも、なにかしらお届けできる記事になっていたら幸いです。
※本記事の書籍リンクにはAmazonアソシエイトを利用しています。
PS.読書についての対談を聴く
エッセイなど
和歌物語の維持メンバーになる
和歌創作や発信といった活動を、経済的な不安定さに左右されることなく、これからも精力的に続けてゆきたいと願っています。
基本的な作品や文章などは、できるかぎり無料または低価格で、広く開かれた形で届けてゆきたい。
そのためには、この活動を支える側に回ってくださる方の存在が欠かせません。
「梶間和歌の活動や生き方に意義を感じている」
そして
「経済的に余裕がある」
という方には、この活動の維持メンバーとしてご参加いただけましたら幸いです。
noteのチップやメンバーシップなど、 ご無理のない形で、ぜひ。
もし、寄付という形に躊躇のお気持ちがありましたら、低価格のコンテンツのご購入という形でも等しく有難いです。
もちろん、作品や記事を読んでくださること、私の発信を受け取ってくださること、それ自体が私にとって大きな力。
経済的に余裕はないけれど価値や意義を感じている――そんな皆様からのスキやシェアなどにも、あらためて、心より感謝申し上げます。
今後とも、それぞれの領分において世界を美しくしてゆく営みを、楽しんで参りましょう。
この記事を書いた人


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