創作大賞応募作品| 寧々 《第5話》
《第5話》 雨傘
ガラステーブルに置かれた漫画本を手に取ったのは、ほんの出来心からだった。表紙に描かれた男性の主人公らしき人物の顔が、どことなく柊生と似ているな、と思ったのだ。
夕刻。陽射しの温もりは失われて、突き刺すような寒気が外界を覆いはじめているだろう。
だが、この部屋は暖かい。さきほどからグツグツと音を立てて煮込まれているポトフ。鍋から立ち昇る湯気と、コンソメの香り。
「やだ、恥ずかしい。読まないでよ」
エプロン姿の寧々に気づかれて取り上げられそうになったが、透哉は腕を伸ばして阻止をする。
「恥ずかしいような内容なの?どうせまた、寧々の好きな恋愛ものだろ?」
「30代にもなって、そんなの読んで子供っぽいって言いたいんでしょう?」
言わないよ、と透哉は軽い口調で否定する。
言わないが、思ってはいる。ジャンルで括るなら少女漫画に分類されるだろう。壁面を埋め尽くす本棚に整然と収納された少女漫画や少女小説。一見したところ、一般文芸の類いの冊子は見受けられない。
「別に、なに読もうが個人の自由だろ。俺も話題作の漫画は読んだりするし……」
透哉はどんなの読むの?と尋ねられたので、ミステリーかSF小説と端的に答えた。
「暗めの話が多いかな。人が次々に殺されていくような救いのないストーリーが好きなんだ」
それのなにが面白いの、と寧々は眉をしかめていた。
おそらく自分たちは、対極の世界観に描かれている物語に没頭している。寧々は、穢れのない善意に満ちたキラキラと煌めくやさしい世界に。自分は、人間の醜悪さを極限まで描いた暗黒の世界に。
どちらが、より現実の世界に近いか?透哉だろう。言うまでもない。愚問である。
これ一晩借りてもいい?と漫画本を手にしたまま、透哉は寧々に承諾を取ろうとする。駄目、と即答された。その顔が困ったように赤らんでいるのを見て、透哉は可笑しくなる。そこまで、意固地になる理由とは……。
「過激な性描写でもあるわけ?だったら、余計読みたい」
図星だったらしく、寧々はまっすぐに睨みつけてくる。寧々に対して猥談は避けたい。避けたいが……、この表情。たまらなく可愛い。もっと困らせたくなる。もっと恥ずかしがっている表情を見たくなる。
「寧々、明日雨だって」
スマホの天気予報アプリの通知に目を通して、透哉はソファに脚を投げだす。雨の一言に、寧々は反論する余地を失ったように大人しくなった。透哉は、それを眺めて駄目押しとばかりに言葉を加える。
「近所にできた雑貨屋さん、寧々行きたいって言ってただろ?」
♦︎♦︎♦︎
寧々は、雨の日しか外出することができない。
陽の光を浴びることが害になるわけではない。雨の日は人が少なく閑散とする。郊外のこの街では、さらに顕著である。人の存在が恐怖の対象でしかない寧々にとっては、雨は鬱陶しいものではなく、自分を庇護するものなのだ。
「昨日借りた漫画、面白かったよ。男でも意外と楽しめた」
寧々の家の裏手を流れる川沿いの喫茶店。
ブレンドコーヒーを口に含みながら、透哉は告げる。寧々は、ホワイトショコラモカなるものを注文していた。よくそんな甘いもの飲めるな、と感心してしまう。
感想は、大嘘である。実際のところは、砂糖の塊で構築されたような甘さ全開の世界に辟易していた。寧々の羞恥心を刺激していたと思われる過激な性描写は、ただの……いや、若干激しめのキスシーンだった。馬鹿らしい。
「無理して面白かったなんて言わなくていいよ。少女漫画って、女にとって都合のいい夢物語だから。こんなの現実にあり得ないって承知したうえで、その世界に浸ってるんだから。思ってもないことを言うのも、作品に対する冒涜だよ」
完全にバレていた。寧々からの厳しめの指摘に、透哉は首をすくめる。
「だったら少年漫画は、男にとって都合のいい夢物語ってことか?」
「そうじゃない?だって少年漫画の女の子って必ず可愛くて胸が大きくて、主人公を支えるか、守られるかしている脇役的存在でしょう?」
それに、と寧々は言葉を重ねる。
「少年漫画のテーマって、『戦い』でしょう?それに対して少女漫画は恋愛がメイン。戦いって、仕事とも置き換えられると思うの。子供の頃から完全に異なる世界観で育つから、男と女は永遠にすれ違うんじゃないの?」
言い得て妙である。
男女の性差をなくそう、という取り組み。男だから女だから。職場ではその表現は禁句となっている。雄々しい、女々しいなどの表現もまた敬遠される。
教育現場では、ランドセルの色が皮切りだったように思う。黒や青が、男の色ではない。赤やピンクが女の色ではない。子供用の玩具もまた、男女の区別なく遊べるものを提供する取り組みが行われている。
「寧々の言うとおりだと思うよ。漫画って男女の棲み分けがされてるものの筆頭だ。それが非難されるべきことなのかは、わからないけれど……」
寧々は、首を傾げて表情を和らげる。議論を戦わせるつもりはなかったらしい。でもね、と言葉を継いだ。
「男女で好みが異なるっていうのも、絶対的な事実だから。そこを無理して同化しなくてもいいかなって、気もするし……。今から行きたいお店も透哉にとってはつまらないと思うの」
それでも付き合ってくれる?と、寧々は上目遣いで尋ねてくる。いいよ、と透哉は承諾する。もとから承知であるから、何を今更、である。
北欧雑貨のお店で、モノトーンの苺の柄のマグカップと、リネンのキッチンクロス。天然岩塩のバスソルトを。
新装開店のベーカリーでは、蜂蜜とクリームチーズのパンとアールグレイの茶葉が練り込まれたマドレーヌ。
寧々が目を輝かせて購入に至るものは、透哉にとっては興味をひかない代物である。それでも心が浮かれているのは、店の窓ガラスに映る自分たちの姿が恋人同士以外の何者でもないからだ。
寧々が楽しそうなら、それでいい。
雨の日を心待ちにしているのは、透哉のほうである。非番の日と雨が重ならないかと、常に天気予報を気にかけている。
会計を終えた寧々の手から、持つよと紙袋を奪いとる。ありがとう、と寧々は笑顔を浮かべる。傘を広げて歩き出した彼女が車道側にいたので、肩を引き寄せて自分の反対側に移動させた。寧々は、また微笑む。
天より落つる、寒の雨。
その雨脚は激しい。雨が身を守るものなんて、考えたこともなかった。結界だ、と寧々は言う。人々の視線を遮る傘。傘から絹の糸のように垂れ下がる、線状の白い雨水。
誰にも侵されることのない雨傘の内側の世界。
傘より落ちる雨水は、灰色の地面の水溜まりに波紋を描く。それに伴うように、透哉の胸の内側にも、寧々に訊きたくとも訊けずにいる疑問符が波紋を生みだしていく。
── あの日、あなたは何をされたのですか。
ずっと一緒に育ってきた俺にも、告白することはできませんか。では、あなたにとって、俺の存在とはなんですか。あなたは、俺になにを求めているのですか。姉と弟の関係に甘んじていることがつらいのは、俺だけですか。
── もしあなたが被害に遭っていたとして、「女性としての自分」を搾取されていたのなら、今もなお女性らしいものを好むのは何故ですか。
そして、これこそが最大の疑問。
あの日も雨は降っていた。雨は忌まわしい過去の記憶を呼び起こすものではないのか。
── どうして、雨が好きなのですか。
