見出し画像

長編小説|Another Horizon #09

#09  人が翼を喪失した日


 西暦2038年、地球温暖化の『臨界点』を迎えたその年を、世界中の誰もが記憶しているに違いない。

 北極圏における最大の大陸グリーンランドの氷河が大規模に崩落した。大陸を覆う氷床がことごとく融解して北極海に流れこんだ。海面は著しく上昇した。キリバス、ツバル……太平洋の島嶼とうしょ国は海の藻屑と成り果てていった。

 国連事務総長が、消滅してしまった国家の名を沈痛な面持ちで報告するのを、受験生である航太はテレビで目にしていた。

 漠然と、幼い頃に目にした哀しい映像を思い起こしていた。あれは地球温暖化の防止を啓蒙するためのものだったのだろうか。

 凍てつく海を、どこまでも泳いでいく北極熊。辿りつくはずの氷床は存在しない。獲物となるアザラシはどこにもいない。身を休める氷塊すらない。どこまでも泳いで、やがて力尽きて白銀の肉体は氷点下の海に沈んでいってしまう。

 異常な年だった。世界中の各地で気候変動デモが行われた。いや、それは果たしてデモと呼ぶべきものであったのか疑わしい。一種のテロ行為であり、暴動だった。

 魔女狩りと呼ぶにふさわしい、悪役探しが始まっていた。この際にわかりやすい標的として一方的に糾弾を受ける羽目になったのが、航空会社である。

 大量の二酸化炭素を排出して空を舞う旅客機。環境保護のために航空機利用を控えよう、という呼びかけがSNS上で拡散した。平和裏へいわりに進められたように思われたその行動は、いつしか過激さを伴い、航空会社を破綻させるまでに至っていた。

 航空会社の本社ビルに火炎瓶が放り込まれた。デモ隊が空港を占拠した。空港の出発ロビーならまだしも滑走路にまで侵入し、人々が手を繋いだ『人間の鎖』で旅客機の離陸を阻止しようとする。

 世界中でいくつもの航空会社が、破綻に追い込まれた。日本も例外ではない。フラッグキャリアであり政府支援のもとにある航空会社を除いて、すべて破綻した。

 航空業界における最大の逆風において彼らが明示した『地球を守るための対策』は、人々への報復措置とも受けとれるものだった。1年以内の定期便の廃止、チャーター便への移行。エコノミークラスの全撤廃。

 かくして、人々は空を飛ぶ翼を喪失した。

 飛行機という交通手段は、まるまる1機チャーターできるだけの財力を持つ超富裕層専用となった。一般庶民は、どれほど時間がかかろうとも地を這って移動するほかに選択肢がない。

 そして、海外渡航は……、海の向こうに渡り旅することは、未来永劫叶うことのない夢となったのだ。


 あのとき、翔太郎はなにを思っていたのだろう。もう、訪れることのできない世界を思っていたのか。過去に訪れたことのある海に沈んでしまった国を憂いていたのか。

 世間に蔓延する集団ヒステリー。人より多く二酸化炭素を吐き出しただけで、糾弾されそうな世の中だった。企業は躍起になって『地球にやさしい』を謳う。さもなければ、瞬く間に炎上して不買運動の餌食となってしまう。

 旅をすること、その行為そのものが顰蹙ひんしゅくを買う娯楽とみなされるようになってきていた。

 今思えば、誰もが生きるのに精一杯だったのだ。地球に迫り来る終焉の足音に怯えて、耳を塞ぐのに必死だったのだろう。

 海面上昇だけではない。世界規模で同時多発的に、殺人熱波が襲った。ありとあらゆる国で山火事が発生し、舐めるように覆い尽くす火焔地獄に人々は行き場を失った。

 このときの苛烈な気候変動の影響を、もっとも過酷な形で受けた国がある。どこか。インドである。

 ムンバイ、コルカタ、チェンナイ、海岸沿いに位置する大都市は、押し寄せる水面に呑み込まれた。いずれも膨大な人口を有する都市である。気候難民となって海抜の低い都市を離れて内陸部に向かった人々に、神は無慈悲だった。

 もう、そこは人の住める土地ではなかった。もとより、乾燥地帯である。僅かばかりの樹木は朽ち果て、井戸水は完全に枯渇した。殺人熱波の影響で、灼熱地獄と化した大地には人々のしかばねと牛のむくろが転がるばかり。

 この気候変動において、インドは世界一である人口のうち、約4分の1を喪失している。かくして、インドの悲願であった先進国の仲間入りは道なかばで絶たれることとなった。それでもインドという国が、国家としての機能を維持し続けたことは特筆に値する。

 航太には、皮肉に思えてならない。

 コルカタから西進せずに南下した……南インドを目的地に選んだ翔太郎の選択。

 航太が『Another Horizon』の世界で見せられた、南インドの美しい風景。もう、既に存在しない。すべて滅んでしまった。この世から消えてなくなってしまった。

 バスで隣に立っていた寡黙な青年も、道案内をしてくれた物乞いの子供たちも、生き永らえてはいないだろう。みんな、死んでしまった。翔太郎が虫歯を心配する必要など皆無だった。長く生きられないと承知していたら、飴なんていくらでも与えて構わなかっただろうに。

 日本が、気候変動の影響から無縁でいられたかと問われれば、決してそんなことはない。日本の各地で、沿岸部が浸水する現象が確認された。気温が連日40℃を記録するようになり、外出自粛要請が発令されたのもこの年の出来事である。

 そしてVRが俄に脚光を浴びたのも、この年だ。『仮想空間の活用』を提言したのは、政府の要人だったのか。いや、要人に示唆しさしたIT関連の識者の存在があったのか。

 空路という交通手段の喪失、叶うことのない海外渡航、滅んでしまった国の美しい風景、そしてVRへの注目、すべてが『Another Horizon』の成功に寄与した。そのすべてが、翔太郎の所有する映像の価値を爆発的に高めた。

 このとき翔太郎は、地球を襲った悲劇を踏み台にして莫大な富を築いていた。

 『Another Horizon』の自由入場者。翔太郎のあずかり知らぬところで、人々が行っていたのは葬儀フューネラルと呼ぶべきものだった。気候デモを行っていた若者たちは、仮想空間に集い、喪失してしまった風景を悼み、嘆き悲しんだ。

 人々の弔意を金銭に代えることを、翔太郎はどう思っていたのか。受けとる資格のない香典をどんな思いで受けとっていたのか。航太が記憶しているのは、翔太郎が歩くことができなくなったのも、この年であることだけである。


♦︎♦︎♦︎

 会うたびに、痩せていくように感じた。

 生気のない瞳。無精髭。伸びすぎている前髪。容姿に無頓着な性格ではなかった。金銭をかけずとも、いつも清潔感のある格好をしていた。……にもかかわらず、である。

 頻繁に会っていたわけではない。航太は諏訪市内の団地で母親とふたり暮らしであり、翔太郎は同じ諏訪市内の賃貸住宅で奥さんと暮らしている。車で10分ほどの距離だ。

 皆月美雪……もともと好印象を抱けなかった翔太郎の妻を、航太が徹底的に嫌いになる出来事があった。

「あなたの夢を応援するって言ったの。そうしたら真に受けちゃって、馬鹿じゃないの。人の汗水流して働いた金で、海外に行きやがって……」

 場所は、諏訪湖を眺めることのできるカフェテリアだ。湖面を一望できる眺望だけでなく、チーズケーキの有名な人気店だ。

 彼女である茅野あかりに連れられて訪れたカフェで、航太は美雪に遭遇した。遭遇したと言っても、向こうは気づいていない。たまたま案内された席の真後ろに、美雪と友人らしき女性が座っていただけである。

「しかもさ、海外旅行のお土産が、愛する妻へのお土産が……スノードームなんてあり得る⁉︎ そんな男、いる⁉︎ 免税店でブランドもののバッグでも買ってこいよ。せめて、いつも使ってる化粧品とかさ。気を利かせてもよくない?百歩譲って、高級チョコレートでもいいからさ。あいつが行くような辺鄙な国の空港にも売ってるんだから」

 翔太郎が美雪と暮らすアパートの玄関に飾られているスノードームが、航太の脳裏に浮かぶ。それ自体は確かに安価だ。安価だが、その国でしか購入できないものだ。

「でも、美雪。そういう人だって承知したうえで結婚したんでしょう?夢追い人だって、言ってたじゃない。バンドマンとか、絵描きの卵とかと一緒で……大器晩成するのを願って、生活費の負担もしていたんじゃないの?」

 初耳だった。いや、もしかしたら母親が、それらしきことを零していたかもしれない。奥さんに養ってもらってるなんて情けない、とかなんとか……。あかりが怪訝そうな眼差しを向けてきたが、航太はそれどころではなかった。

 大器晩成ね……、と美雪が揶揄するように笑う。

「やっと成功が見えてきたっていうのに……。これで、やっと投資を回収できると思ったのに。途端に怖気づいちゃって、馬鹿な男……。何のために人がタダでVR空間の作成してやったと思ってんのよ。ふざけんのも大概にしろよ」

 その瞬間、航太はガタンと音を立てて、立ちあがっていた。後ろを振り向いて、真正面から美雪を見据える。彼女と視線があった。そこにいるのが義弟であることに、気づいたはずだ。気づいたにもかかわらず、彼女は何事もなかったようにチーズケーキを口に運ぶ。

 この女は、こういう奴だ……と、航太は歯軋りする。

───  やだー、弟さん、まだ中学生⁉︎ かわいいー‼︎

 美雪は航太の姿を目にした途端に、歓声をあげる。結婚式は挙げないからと、母親と招かれた食事の席でのことだ。その猫撫で声が妙に気に障った。

 翔太郎が席を外し、母親も御手洗いへと席を立ってしまったときのことだ。終始笑顔を絶やさなかった美雪が、突然仮面をはずしたようだった。中学生である航太を、取るに足りない存在だとみなしたのだろう。

 加熱式たばこを取りだして口に咥えた。加熱式たばこのみ喫煙可の店だったから、問題はない。だが人に何の断りもなく、目の前で喫煙されることの印象は最悪だ。

「今さら、やりたくないなんて、絶対に許さないんだから……。今まで私から搾取してきたぶんを取り戻してやるんだから」

 その言葉は、明らかな宣戦布告だった。


♦︎♦︎♦︎

 翔太郎の指先が痙攣するように震えて、床に人参を落とすのを航太は眺めていた。

 箸を持つ手が機能していない。翔太郎の意思に逆らうように、不規則に痙攣を繰りかえしている。ごめん、と呟いた彼は立ちあがる。その動作は、彼の年齢からは考えられないほどに緩慢である。ひどく億劫そうに、台所に落としてしまった人参を捨てに行く。

「働きすぎなんじゃないの?」

 翔太郎と美雪が暮らすアパートの一室である。

 日曜日。航太の母親は、週末に大量に作りおきをする。これから三食筑前煮だからね、と宣言されていた。その大鍋に溢れんばかりの筑前煮を、航太は勝手にタッパーに詰めて持参してきていた。ついでに、コンビニでおにぎりも調達してきた。

「VR空間に入ってしまえば、疲労は感じないからね」

 翔太郎の返答は、危うい。そういう問題ではないだろう、と航太は危機感を強くする。

「『Another Horizon』の翔太郎がガイドするほうのヤツ……、予約で埋め尽くされてんじゃん。自分ひとりしかいないのに、いつ休んでんの?」

 先日の美雪の好戦的な言葉に懸念を覚えて、航太は『Another Horizon』にアクセスして予約状況を調べてみて愕然とした。ことごとく、埋まっている。

「おかげさまで、商売繁盛だよ。ありがたいことだ……。これでやっと、うちの奥さんにも迷惑をかけずに済む」

 では、今まで迷惑をかけていたというのか。その代償に、身を削るようにして働いているというのか。働くのは構わないが、ここまでして……と、航太は思わずにはいられない。

 窓から、午後の柔らかい陽射しが降り注いでいる。箸を持つ翔太郎の目は、虚ろだ。食が進む気配はない。むしろ眠たいのかもしれない。自分がこの場にいては、翔太郎は無理して起きているだろうと航太は悟る。

 帰るね、と告げようとした瞬間だった。ガチャリと、扉が解錠される音がした。そのとき、翔太郎から伝わってきたのは、紛れもない緊張感と恐怖心だった。美雪だ……と口走り、身体に抱える不調など忘れたように一目散に玄関に迎えに行く。

 早かったね、と翔太郎の声がした。

 台所に現れた美雪の荷物を翔太郎は受けとり、彼女が脱いだジャケットをハンガーに掛ける。甲斐甲斐しく世話を焼く旦那というよりは、従順な下僕といった印象を受けた。

 美雪は何も言わない。ただいまの一言も、ありがとうの言葉もない。航太の存在など、はなから無視している。

「お昼は、まだ?こんなに早く帰ってくるとは思ってなかったから、なんの用意もしていないんだ。今からすぐ用意するから……」

 翔太郎の態度が、卑屈だ。必死に顔色を窺っている。

 恐妻家なのかな、と感じたことはあるが、互いの年齢差がもたらすものだろうと思っていた。そして機嫌の悪そうな妻に対して翔太郎がとった行動は、労るように抱きよせて唇を重ねるというものだった。

(  弟の前でやるか、普通……  )

 航太は、ひたすら唖然としている。夫婦なのだから抱きあおうがキスしようが、問題はない。ただ少なくとも翔太郎は、人前でこんなことをするような人物ではなかったはずだ。

 帰るね、といたたまれなくなった航太は翔太郎に声を投げる。ふたりの脇をすり抜けるようにして、玄関に向かい扉を閉めた。

 翔太郎の返事はない。美雪が帰ってきてからというもの、翔太郎は航太の存在を忘れたように徹頭徹尾てっとうてつび、彼女に心を砕いていた。

 どういうつもり?と美雪の詰問する声。

「続きを見せたくないんだ……」

(  …… 続き? )

 翔太郎の自嘲するような弱々しい声がした。真っ昼間からお盛んなことで……と、航太は一瞬思ったが、何かが違うような気がした。翔太郎は明らかに体調が悪そうだった。

 皿の割れる音が、突如鳴り響いた。

 扉から離れようとしていた航太は、立ち竦む。そのあとも、ガシャンガシャンと皿の砕け散る音が聞こえた。偶発的にではない、故意に割っている。

 働きなさいよ、と美雪の罵倒する声がする。

「弟と、油売ってる場合じゃないでしょう?今日も予約が入っていたはずなのに、どうしてログアウトしてるの?航空会社が破綻した今が、千載一遇の稼ぎ時だって言ったわよね?」

 具合が悪いんだ……と、翔太郎は言い訳するが、美雪は、ログインすれば感じなくなるわよ、とにべもない。

「ねえ……。私にこれ以上、恥をかかせないで。もう子供じゃないんだから、わかるでしょう?私が何て言われてるか、知ってるの?『ヒモ亭主を養ってる可愛げのない女』なんだって……。年下の顔のいい男に懐かれて有頂天になって、喜び勇んで養ってやってるんだって。金で、年下の可愛い男を必死に繋ぎとめてるんだって……」

( ……………  )

 ずいぶんな言われようだ。まだ社会人ではない航太には、理解に及ばないことだった。

 さわらないでよ‼︎ と、悲鳴にも似た声が響いた。また皿の割れる音。ごめん、と翔太郎の狼狽うろたえる声。

「あなたの、そういうところ大嫌い……。抱きしめてキスすれば、全部解決すると思ってる。少し女にモテてきたからって調子に乗らないでよ。抱きしめて、そのあとどうするの?ベッドにでも行くの?………役立たずの不能のくせに⁉︎ 」

 ヤバイ、と背筋に鳥肌が走って、航太は慌ててその場を離れる。これ以上、聞いてはいけない。聞いてしまったら最後、翔太郎は立ち直れない。

 今すぐログインしなさいよ‼︎ と、美雪の絶叫する声を聞いたのが、最後だった。

─── 働きなさいよ……、あなたが働かなくて、どうするのよ。私たちを路頭に迷わせるつもりなの?こんなに小さい航太を見て、 守ってあげようと思わないの?

 家路につく途中、記憶の底から甦ってきた声がある。

 会社を辞めてしまった父親を難詰する母親の声。航太はロンの身体にしがみついている。耳を塞いでいる温かい感触は、翔太郎の掌だ。

 ひとつ確かなことがある。幼かった自分と異なり、翔太郎は両親のいさかいを鮮明に記憶している。彼は、女のヒステリーを起こす声が苦手だ。働け、と罵倒されるのは拷問に等しいだろう。その声から逃れるために、なんでもするのではないのか。

 航太の胸をよぎった戦慄にも似た予感。

 その予感が現実のものとなってしまうのに、月日は必要としなかったのである。


♦︎♦︎♦︎

 携帯が鳴った。放課後のことだ。母親からだった。

『ねえ、航太。悪いけど……。お兄ちゃん、運ぶの手伝ってよ』

 運ぶ……?と、航太は鸚鵡おうむ返しに尋ねてしまう。運ぶって、どういう意味だ。

 どういうことか問い詰める航太に、母親は鬱陶しげに、後で説明するからとしか言わなかった。航太は自転車に跨がり、翔太郎の暮らすアパートへと向かう。

 玄関を開けて、木っ端微塵こっぱみじんに割れたスノードームが目に入った。飛び散ったスノーパウダー。各国のモニュメント。故意に破壊されたことは容易に想像がついた。あの女本人があり得ない土産だと評価していたではないか。

 台所に足を運ぶと、母親の姿があった。

 困惑した表情で、航太を振り向く。無言で、テーブルに置かれた一枚の書類を指し示した。それがなんの書類か確認する必要もない。離婚届だ。

「美雪さんから連絡があったの。翔太郎を引きとってくれって……。それで来てみたら、お兄ちゃん……あの黒い眼鏡みたいなのかけて、一向に起きてこないのよ」

 なるほど、と航太は合点がいく。VR空間に没入中は、現実に声をかけられても気づけない。それならば心配不要だと、寝室を開けてみて愕然とした。



 結論から言えば、翔太郎は歩けなくなっていた。

 このときの、翔太郎のVR空間の滞在時間は1日あたり平均して12時間を優に越えている。仮想空間に入り浸ることによる身体への悪影響なんて、誰も知らない。眼精疲労や、頭痛。現実の肉体を動かさないことによる、血液の滞留。浮腫ふしゅ。筋力の低下。

 具合が悪い、と翔太郎は明確に訴えていた。3ヶ月前のことだ。

 彼の中に危機感はあったのだろう。あったにもかかわらず、VR空間に滞在し続けることを選択した。働けという妻の罵倒から逃れたかったのか。もう、その妻はいないというのに。働きさえすれば、愛情を取り戻せると思ったのか。

 こんな残酷なかたちでの成功など翔太郎は望んではいなかっただろう、と断言できる。

 仮想空間でやりとりされる仮想通貨。その暗号資産が高騰していた。それを予見していたかのように美雪は、財産分与を主張してきていた。クソ女はどこまでもクソ女だ。

 まさしく投資の回収。翔太郎の所有する映像が価値を持つことを見とおしていたのか。彼が成功するまで生活費を負担して、自らVR空間の作成にまでたずさわって、軌道に乗るや否や馬車馬のように働かせた。

 もう、休んでもいい。身体が壊れるまで働く必要なんてない。あの女はいないんだから。

 どれだけ諭しても、翔太郎は虚ろな眼差しでVRゴーグルを装着し続ける。そのうちに、航太は気がついてしまう。妻の去った現実の空間より、『Another Horizon』の美しい世界に身を置いているほうが翔太郎は幸せなのだと。

 このとき、航太は完全なる翔太郎の信奉者だった。彼の構築した世界に魅せられたひとりにすぎなかった。あの世界を、彼から奪うことなどできるわけがない。

 歩けなくなったとて、一過性のものだ。彼の若さを過信していたのは否めない。そして、最後の最後まで、VRゴーグルを取りあげることができなかったのである。



 翔太郎が、航太が母親と暮らす団地に戻ってきて一段落とはならなかった。

 航太は横浜の大学への進学が決定していた。年齢差のある兄弟の下のほうがやっと巣立ってくれる。まさか今度は兄のほうが離婚して戻ってくるとは予想もしていなかっただろう。機嫌が悪くなる、どころでは済まなかった。

 母親にとって、既視感のある光景だったのは想像に難くない。会社を辞めて日がな酒を浴びるように飲むかつての夫。その血を引き継いだ、寝室から一歩も出ることなくVRゴーグルを装着している息子の姿は耐えがたいものであっただろう。

「だからさ……、翔太郎は寝てるわけじゃないって言ってるだろ。仮想空間で仕事してるの。だからあのゴーグルつけてるときは、話しかけても無駄だって」

 父とは、決定的に違うはずだ。ベッドに横たわっているだけに見えても、怠惰であるのとは異なる。しかし、どれだけ母親に説明したところで無駄だった。仮想空間の概念が理解できないだけではない。世話が必要な息子の存在そのものが厄介なのだ。

「働いてるって言ったって、歩けなくなってたら意味ないでしょう。健康に勝るものなんてあるわけないじゃない。……そんなんだから、美雪さんに捨てられて厄介払いされるのよ」

 歩けなくなるほど働かせたのは、あのクソ女だろうが。

 今さらお兄ちゃんの面倒みるなんて絶対嫌だからね、と母親は呟いている。

「今までだって、いくら歳下だからって、美雪さんに甘えてばっかりで……。ろくに稼ぎもせずに、ほいほい海外をほっつき歩いて、挙げ句の果てに寝たきりなんて……。そりゃあ、誰だって愛想を尽かすでしょうよ」

 姑の立場なら、通常は嫁ではなく息子の味方をするものだ。だが、母親は一貫して嫁を擁護する。互いに共感するものがあるのだろうか。

「母さんの言ってるのってさ……、男は稼げなかったり、働けなくなったりしたら、おしまいってこと?」

 働け。一家の大黒柱であれ。私たちを扶養しろ。男女平等が叫ばれて、共働きが当たり前の世の中になって久しいというのに、なおも残存する価値観。

 航太の言葉は、あまりに直截的だったのだろう。そうは言ってないでしょう、と言葉を濁す。

 働けない男に価値はない。私たちを庇護しないのなら、離縁させてもらう。かつての母親の判断を、航太は批判するつもりは毛頭ない。批判する資格がない。

 ただ、これ以上翔太郎を傷つけるな、と願っただけだ。罵倒する妻が去り、今度は母親の罵倒を浴びるのでは、あまりにも救われない。

 ちょっと待ってて、と母親に告げる。寝室に入り、翔太郎の銀行の預金通帳を拝借してきた。財産分与のために、暗号資産を現金化したばかりだ。莫大な金額が通帳には記帳されている。

 無言で、母親の眼前に預金残高を突きつけた。
生まれてこのかた目にしたことのない数字に母親の表情が揺れ動くのを、航太は残酷な気持ちで眺めていた。

「金持ってるってわかった途端に、目の色変えてんじゃねえよ‼︎ クソババア‼︎ 」

 心の底からの怒号だった。金があろうとなかろうと、てめえの息子だろうが。頻繁に喧嘩はするものの、ここまでの怒号は浴びせたことはなかった。

 母親は一瞬狼狽えて俯き、そして開き直ったように顔をあげる。

「だったら、あんたがお兄ちゃんの面倒みればいいでしょう‼︎ あんたは昔から、翔兄ちゃん翔兄ちゃんって……、私が何を言っても聞かないくせに、翔太郎が言い聞かせれば一発で大人しくなるんだから。血の繋がった兄弟なんだから、最後まで面倒みなさいよ‼︎ 」



 寝室の扉を開けると、翔太郎は珍しくゴーグルをはずしていた。

 一緒に横浜に行こう、という航太の提案を翔太郎は承諾する。航太と母親が激しく諍う声を、彼は聞いていたのだろうか。自分を取り巻く世界のすべてが音を立てて崩れていくさまを、どんな思いで眺めていたのだろう。

「…… 翔太郎、これ、どうすればいい?」

 航太が恐る恐る差しだしたのは、あの日テーブルに置かれていた離婚届である。

 財産分与にはあっさり応じておきながら、翔太郎はいまだに離婚届に判を押していなかった。本籍地である諏訪で提出しておかないと、必要書類が増えるのではなかったか。母親に、あんたが何とかしなさいよ、と航太は押しつけられたのである。

「後で記入しておくから、置いておいてくれ」

 なんの感情も籠っていない平坦な声で、翔太郎は告げる。

 うん、わかった、と航太は頷く。そして部屋を後にしようとする。そのとき何故、振り向いてしまったのか、今でもわからない。

 薄暗い寝室で、翔太郎は身動みじろぎもせず天井を見つめていた。

 身を震わせて号泣するのではなく、嗚咽おえつするのでもなく。ただ一筋の涙が瞼から零れ落ちて頬を伝わっていくのを、航太は見てしまった。生まれて初めて見る兄の涙だった。

 翔太郎の両眼をまともに見たのは、これが最後だった。

 その後約10年もの長きに渡り、その両眼は漆黒のVRゴーグルに覆われてしまうことになるのである。
                   
                                                                                                                                      ─── 続 ───



いいなと思ったら応援しよう!