長編小説|Another Horizon #10
【第3部】 #10 伝わらない心
航太が母親と和解したのは、大学を卒業して社会人になった年の冬である。
理由なんて、些細なものだ。高校の同窓会に出席するために、諏訪へ帰郷することにした。その際に宿泊費を負担するのが嫌で、実家に泊めてもらおうと母親に電話しただけのことである。正直、母親に対する憤りなど残っていなかった。
『翔太郎は帰ってこないの……?あの馬鹿息子、まさかあんたにまで迷惑かけてるんじゃないでしょうね?』
母親の翔太郎に対する評価は、辛辣だ。
今思えば、母親の心境も理解できなくはない。母親である自分ならいざ知らず、12歳も年齢の離れた弟であれば決して負担をかけるようなことはするまい。そう、信じたのか。
「別に、迷惑は……かけられてないよ」
ただ、うんざりしてるけどね、と航太は胸中でひとりごちる。
翔太郎の現状を、率直に告げることは憚られた。あなたの息子は、相変わらず寝室から一歩も出ずにVR空間に入り浸っています。歩けなくなった肉体と対峙することを拒み、来る日も来る日もあのゴーグルを装着し続けているんです。
そんなことは告げる必要などない。もう、息子たちは独立したのだ。母親は子育てから解放されて、残りの人生を意気揚々と生きればいい。
いつ、帰ってくるの?何日間いられる?何か、食べたいものはある?
心なしか母親の声が弾んでいる。ごめん、と航太は反射的に謝ってしまいたくなる。母親に会うために帰郷するのではない。同窓会で旧友と再会するためでもない。
目的はただひとつ、茅野あかりと会うためだ。
別れたくて、別れたのではない。少なくとも、航太は望んではいなかった。
高校を卒業して、航太は横浜の大学へ。あかりは松本の短大へと進学した。遠距離恋愛といえど、今の時代は仮想空間で会うことが可能だ。問題は、あかりがデートの場所に、翔太郎の運営する『Another Horizon』を希望してきたことだった。
その申し出を、航太は頑なに拒否した。
もう、あの場所には行かない。翔太郎が閉じ籠もっている美しい穢れのない世界には、二度と行かない。行ってしまえば、戻れなくなるのではないか。現実に広がる灰色の日常を受け容れがたくなるのではないか。その忌避感が、航太に首を縦に振ることをさせなかった。
そして結局、遠距離という弊害に負けて、大学1年の冬には別離を選んだ。
同窓会に彼女が出席するという噂を聞きつけて諏訪に帰郷した航太であるが、彼女と再会した途端にその判断を激しく後悔することとなった。
「航くん、すごい、かっこよくなってる‼︎ すごい、垢抜けた!」
すぐ傍らで、懐かしい声がした。かっこよくなってると褒められて口許を緩ませた航太は、横を向いて絶句する。
あかりが纏っているのは、腰を締めつけないデザインのジャンパースカート。それがマタニティウェアであることは、職業柄すぐに判断できた。
都会に出ると違うのかな、とあかりは首を傾げている。ホテルマンだからだろ、と適切な突っ込みを入れるのは、航太の旧友である佐々木国廣である。
「今ね、5ヶ月目に入ったとこなの」
微かに頬を染めて、あかりは愛おしげにお腹を撫でる。
「そうなんだ……。おめでとう……」
かろうじて、お祝いの言葉を述べることができた自分を褒めてやりたい。
喉がカラカラに乾いていた。どういうことだ。結婚したなんて初耳だ。っていうか、同窓会の知らせと同時に教えてくれよ、と絶叫したくなる。妊娠してると把握していたら、断じて帰郷しなかったのに。不意打ちで知らされる、俺の身にもなれ。
「航くん、こんなにかっこよくなってるんだったら、別れなきゃよかったかなー」
あかりは航太の心中も知らず、残酷なことを呟いている。
いつかウユニ塩湖に一緒に行くって、約束してませんでしたっけ?
月日の流れは無慈悲だ。約束は反故にされる。いや別れてしまったのだから、約束は無効か。いつまでも未練がましく彼女のことを想い続けていたあいだ、あかりは新しい男を見つけて子供までつくっているのだから、現実はかくも厳しい。
そのあとは、ひたすら飲み続けた。酒に弱いにもかかわらずである。
あかりの口から出てくるのは、旦那の愚痴ばかりである。あれもしてくれない、これもしてくれない……。その度に、航くんのほうがよかったと比較対象にされる。
最初のうちは、旦那の悪口に胸がすく思いがした。だが、そのうちにテーブルの真向かいに座っている白石麻美の白けた眼差しが視界に入った。
旦那の愚痴に見せかけた、惚気なのだ。自らの幸福を見せびらかすのは気が咎める。だから愚痴という体裁をとっている。実際は、あれもこれもしてくれない旦那を許せてしまうほどに想っているのだろう。
もう、そこからは我慢大会だ。妊娠中だからと彼女が途中で退席するまで、酒で思考を麻痺させて耐えた。酒の味など、はなから感じない。
「飲みすぎだぞ、航太……」
隣に座る佐々木のたしなめる声。その声には同情が混じっている。ポンポンと労るように肩を叩かれたときには、堰を切ったように涙腺が崩壊していた。テーブルに突っ伏して号泣する。
あーあ、泣いちゃったよ、と誰かの声。
「でも、私には理解できないな。こんな時代に子供を産もうとするなんて……」
どこか冷めた口調で告げるのは、白石麻美のものだ。『 No More Child 』ね 、と誰かが彼女の意見を象徴する現在の風潮を指摘する。
それは、主に先進国を中心として若者のあいだで蔓延する思想である。
もう、この地球は保たない。歳月を追うごとに過酷さを増していく環境で、子供を求めるのは残酷ではないのか。終焉のときを、生まれてきた子供は目撃するのではないのか。ならばいっそ、自分たちが最後の世代になろう、と。
「諏訪にいれば、大丈夫だろ」
佐々木の言葉には、選ばれた土地に暮らす優越と安堵がある。
既に、世界規模で移動は始まっている。地獄と化した赤道直下の国の惨状が促した大移動。南から北へ。標高の低い土地から、高地へ。
そんな先行きの不透明な時代においても、子供を望むのだ。相手を想うが故に為せるわざだと思うと、さらに悲しくなった。相手の男を殴ってやりたい。
その後二度と諏訪に戻ることはなかったし、同窓会にも出席しなかった。このときの航太の号泣ぶりは、今でも語り草になってしまっているはずである。
♦︎♦︎♦︎
そして、現在に至る。あの頃と決定的に変わってしまったのは、翔太郎との関係だ。
高校生だったあの頃は、妻に手酷い捨てられかたをした翔太郎に対する同情があった。彼女をクソ女と罵るだけで、翔太郎自身を責める気持ちなど毛頭なかった。
どれほど時間が経過しようと仮想空間から抜けだせない彼の姿に、いつしか同情は疑問符に変化し、やがては軽蔑、侮蔑といった感情に成り果てていった。
もうすぐ10年だ。さすがに、長すぎないか?
金銭を稼いでいるのだから構わないだろう、と翔太郎は言う。そういう問題ではない。一定の期間だけガイドの予約を断り、自分の身体と向きあったらどうなんだ。どう考えても正論であるはずの航太の提言は、受け容れられたことはない。
「だから出ていくのは、おまえのほうだと何度も言っているだろう?ここの家賃を払ってるのは、俺だ。居候の身分なのは、おまえだろう?」
ああ、またか……、と航太は翔太郎の部屋にいる自分を自覚する。
その掌にあるのは、レモンサワーの缶。こんなので酔うのかと笑われてしまいそうな、アルコール度数で、航太は充分に酩酊する。酩酊すると、素面では絶対に近づかない翔太郎の部屋に押しかけて、身動きのとれない兄に絡みはじめる。
「だったら、てめえがひとりで生活できるって証拠を見せてみろよ。この前も、ロンが玄関で立ち往生してましたけど?ミネラルウォーターが増量になってんの、気づかずに注文しただろ?肝心なところで抜けてんだよ、てめえは……」
「これからは、気をつけることにするよ」
溜息とともに、翔太郎は殊勝な言葉を述べる。航太を部屋から追い出したいのが、手にとるように窺える。当然だ。自分は逃げたくとも一歩も動けないのだから。
翔太郎は、酒を飲まない。嗜むこともしない。文字通り、一滴も飲まない。
何故なのか、航太は承知している。彼は酒が嫌いだ。人を酔わせ、時として暴言を吐かせ、暴力的にさせる液体として嫌悪している。酒に酔う人の姿は、もっと嫌いだ。酒浸りの父親の姿を記憶しているから。両親の仲が破綻するのを目撃しているから。
わかっている。わかっているのに……。
働けと妻に罵倒され、面倒みるなんてごめんだ、と母親に愛想を尽かされ……。そして今、あんなに可愛がってきた弟に酒の勢いで暴言を吐かれている。なんて醜い家族の成れの果て。
病院に行こうよ。俺もついていくからさ。
航太の言葉は、届かない。聞き入れてもらえないたびに心は傷つく。『病院に行こうよ』は『病院に行けよ』という命令形になった。どれほど言葉を尽くしても、届かない。12歳も歳が離れていなければ、聞き入れてもらえたのだろうか。
思えば、翔太郎と喧嘩すらしたことがない。それを、航太は翔太郎の優しさだと勘違いしていた。そうではない。航太が喧嘩するに値しない相手なのだ。まだ子供だから。対等ではないから。面と向かって言葉を戦わせる相手としては、未熟だから。
なめんじゃねえよ、と言いたい。
もう、今では酒の力なしには、彼と言葉を交わすことができない。
「女でも、つくれよ」
突然の航太の提案に、翔太郎は驚いた表情をする。女で、痛い目にあっているのに?とでも言いたげだ。
「女にモテるのだけが、てめえの取り柄だろ?VRの中で引っかけてこいよ。それで一緒になって、俺を安心させろよ。そうしたら、心置きなくここから出ていってやるから」
翔太郎の口許に浮かんだのは、嘲笑だった。
「おまえが言っているのは、介護要員としての女だろう?……ずいぶんと、時代錯誤な考え方をするんだな。今の俺の状態で来てくれるのは、金目当ての女だけだろうな。半年も待たずに毒を盛られそうだ」
それはそうだろうな、と航太も思う。そして続いた翔太郎の言葉が、航太を激昂させた。
「そんな知りもしない女に財産を渡すくらいなら、おまえに渡すことを選ぶよ。今なら充分な額を遺してやれそうだ」
「誰がいるかよ‼︎ ……そんな金‼︎ 」
しまった、と思ったときには遅かった。掌に握りしめていたレモンサワーの缶の中身を、思いきり翔太郎の顔にぶちまけていた。缶ごと投げつけなかっただけ、まだ押さえたほうだ。
柑橘類の匂いが、周辺に飛び散る。
これが、嫌なのだ……。翔太郎がときおり仄めかす、死への憧憬。自殺願望。
「ふざけんなよ、てめえ。死にたいなら俺に迷惑がかからないようにやれよ。ここで死なれたら、俺がどれだけ苦労するのか想像しろよ。救急呼んで、警察呼んで、諏訪の母親に連絡して……。天寿を全うする以外に、人に迷惑をかけない死にかたがあると思うなよ‼︎ ここ以外で死にたくても、てめえの身体じゃどこにも行けないだろうけどな‼︎ 」
酒が、眼に入ったのか。航太の言葉を噛み締めているのか。翔太郎は、酒を拭うこともせずに固く瞼を閉ざしていた。
自室の扉を叩きつけるようにして閉めた。マンションを飛び出して行かなかっただけ、今回は自制心が働いたほうだ。
自室に入ってから思い直して台所へと足を運ぶ。レモンサワーの缶を取りだして、あおるようにして飲み干す。これだけで、アルコールのまわった身体は酩酊を通り越して眠りについてしまう。ずいぶんと安あがりな身体だ。思考を遮断するにはこの方法しかない。
繰り返される家出。家出と呼ぶべきなのか、定かではないが……。
翔太郎の態度に激怒しては、家を飛びだす。行きさきは晋平のところしかない。泊めてくれる彼女もいない。そうやって家出しても2日ももたないのだ。
ロンのバッテリーが切れているのではないか。いや今度こそ、翔太郎は死のうとするのではないか。いや、あいつは臆病だから死ぬ勇気すら持ちあわせていないはずだ。
煩悶する航太を見るに見かねて、晋平が『帰ろうよ、航ちゃん』と諭してくる。
もう最近では、自らマンションを去ることを諦めている。できないのだ。この状態の翔太郎を置き去りにして、自分の生活を始めることができない。こんなふうに暴言を吐くくらいなら別れて暮らしたほうが互いのためだろうに。そのほうが翔太郎だって、精神的に楽になれるだろうに。
航太の最大の懸念は、『停電』である。
もうすぐ、夏がくる。それと同時に到来するのが台風シーズンだ。
海水温の上昇に伴って、台風は異常なまでに発達する。台風の勢力の表現として、今までは『猛烈な』が最強だったが、今年に入って『非常に猛烈な』が追加された。台風の勢力を日本語で表現するのをやめて数字で表記したらどうか、という議論が紛糾しているのが現状である。
そしてこの台風のもたらす停電は、防ぎようがない。人間は自然の脅威の前に為す術がない。どれほど電力会社が奮闘しても、送電塔のある山ごと薙ぎ倒されてしまうのだから。
この高級マンションを住居として選択したのは、翔太郎自身だ。
諏訪から横浜へと転居したときのことだ。一緒に横浜に行こうと誘っておきながら、母親に兄の面倒をみると豪語しておきながら、航太は実際は何もしていない。歩けない翔太郎を新幹線に乗せるために、車椅子を押したぐらいだ。
VR空間に店を展開する不動産屋で、翔太郎は内覧も契約も済ませていた。決め手となったのは、自家発電設備だ。浴室がふたつ設置されていることも条件だったかもしれないが。それ以上に停電の心配がないというのが、彼に決断を促したのだろう。
ただし、翔太郎が失念していたことがある。
その自家発電設備は、『地球にやさしい』太陽光発電なのだ。無限に蓄電できるわけではない。地球にやさしいは、時として人に厳しい。台風が来れば、陽射しは遮られてしまうに決まっているではないか。
結論として、このマンションも停電の影響は免れないのである。航太が、翔太郎が肝心なところで抜けてると評するのは、こういうところだ。
停電してしまえばロンの充電は叶わない。大型ロボットだけあって、ロンは大量の電力を必要とするのだ。そのロンが起動しなくなったら……?
翔太郎が弟の負担にならないよう、最大限の努力を払っていることは百も承知だ。身のまわりの世話はロンに任せ、飲料も食料もすべてネットで手配している。日常の生活において、航太が翔太郎のためにしていることは皆無だ。
だから大丈夫だと、翔太郎は言いたいのだろう。おまえに迷惑をかけてないだろう?
そうじゃないんだよ、と航太の反駁は伝わることはない。
