長編小説|Another Horizon #11
#11 モンスター
年配者のID端末を強奪する事件が、都内で相次いで発生していた。
この事件の概要には、注釈が必要である。国民誰もが所持しているID。その情報が組み込まれたICチップを、誰もが皮膚の下に埋め込んでいるわけではない。あくまでも任意である。年配者を中心として、皮膚の下に機械を埋めることに抵抗がある人間は多い。
その場合に選択されるのが、腕時計型の端末。いわゆるウェアラブルデバイスである。
ただし、極めて高価だ。従って若い世代の大半は皮膚に埋め込むことを選ぶ。その際の手術代は無料であるし、短時間で済む。政府の思惑に嵌まっている感もあるが、利点はそれだけではない。
紛失の心配がないだけではない。皮膚の下にある。それだけで窃盗の標的になることから免れる。この国の治安は、かつてほど良くはない。窃盗など日常茶飯事だ。
皮膚の下のIDを強奪するには、手の甲に傷をつける必要がある。適用されるのは強盗致傷。腕時計型端末を盗むだけであれば、ただの強盗。敷居は一段と低くなる。以上の理由から、年配者が標的として狙われている。
ちなみに余談であるが、18歳以下の若年層に関しては、クレジット機能の付帯していないICチップの搭載されたカードが配布されている。
腕時計型端末を所持している宿泊客が現れた場合、注意喚起するように。セーフティボックスの案内も欠かさないように。
その通達を、航太は冷ややかな思いで眺めていた。
♦︎♦︎♦︎
一見して、タチの悪い客だということは判断できた。何故、判断できたのか。強いて言うなら、狡猾そうな眼差しだろうか。
「この暑いのに、オレンジジュース?何か、別のものに変えてちょうだい」
ごく普通のたいした特徴もない中年の夫婦。その妻のほうが、チェックイン時に提供されるウェルカムドリンクに難癖をつけてきた。
ウェルカムドリンクなんだから、黙って飲めよ。タダのものに文句つけるなよ。オレンジジュースといっても、生搾りだぞ。スペイン直輸入のバレンシアオレンジを贅沢に使った一品なんだから、有り難く頂け。
「喉が乾いているようでしたら、お冷やをお持ちいたしますが?」
実は、既に気がついている。別のものとはアルコールのことだ。ビールなりワインなり出せと言いたいのだろうが、航太はあえて気づかない振りを貫く。
午前11時。チェックイン時刻には、まだ早い。この時間に到着する宿泊客の大半は、荷物だけを預けて街に繰りだすパターンだ。その際にチェックイン手続きを先に済ませるよう促すのが定石である。午後3時のチェックイン時の混雑緩和のためだ。
カフェテリアから、くるみが銀のトレイに載せたグラスを持ってきた。スライスされたレモンが浮かんだ水である。航太の言葉が聞こえていたらしい。仕事が早い。
「チェックイン手続きは以上でございます。お部屋は3時から御利用いただけます。よろしければ、お荷物をフロントでお預かりいたします」
どっかりとソファーに腰かけて動く気配のない夫婦に、嫌な予感がする。
「3時までなんて待てるわけがないだろう。今すぐ部屋に案内してくれ。まさか、この炎天下のなかホテルから追いだそうとするわけじゃないよな?」
航太の予感は的中する。今度は夫のほうが尊大な口調で、部屋への案内を要求する。
追いだそうとする……、この被害者意識はなんなのだろう。暑いのは承知している。だが、チェックイン時刻を明示しているにもかかわらず、勝手に早く到着しているのはおまえらだ。
「アーリーチェックインを御希望でしたら、1時間あたり室料の10%をいただくことになっております。請求書を新たに作り直しますので、この場でお待ちいただけますか?清掃の終了している部屋があるかも確認いたしますので……」
マニュアルどおりの対応。この対応で客が満足するわけがない。
そもそもアーリーチェックインという仕組みを知らない客も多い。宿泊料金を払うことに抵抗を覚えることはないが、追加料金が発生することには断固として抵抗する。
一泊あたりの料金だろう?少し早くなっただけで追加料金?夜遅くチェックインしたからって割引になるわけじゃないんだから、おかしくないか?
「あなたって、まるで機械みたいな対応するのね……」
『機械みたい』という言葉に、航太は一瞬息をとめる。公園で交わした紬との会話が思いだされたからだ。
「今の世の中、どこに行っても相手してくれるのは機械ばかりで、あれもできない、これもできない……。挙げ句の果てに、お客様の言葉は認証できませんだって。ここは人が接客してくれるっていうから来てみたのに。これじゃ機械と大差なくて、がっかりだわ……」
融通を利かせなさいよ。清掃の終わってる部屋を追加料金なしに使わせなさいよ。
人が接客するからといって、規定の料金を踏み倒すことが許されるわけではない。
「それが当ホテルの規定ですので……。今すぐ部屋を使いたいというお客様の御要望にはお応えいたしかねます。もし御希望であれば、規定通りの料金をお支払いいただきます」
─── ですからお客様、『排泄物』を口にするなんて要求には断じて応じかねると申しあげているのです。
心のなかに突如として響いた声に、航太は戦慄する。
アーリーチェックインの追加代金の免除を求めるのと排泄物を食わせるのでは、その悪質さの次元からして異なる。異なるどころではない。一方はただの我儘に過ぎず、かたや一方は犯罪行為だ。それを同一視してしまっている自分の頭のほうが狂っているのだ。
ごめんなさい、紬さん……。助けてあげられなくて、ごめんなさい。
だから、客の我儘を毅然と断るのか?『珍獣』に復讐できなかった腹いせに、他の客を攻撃するのか?『モンスター』と接客業の人間が揶揄する客を狩り、供物として彼女に捧げるつもりか?いつ誰が、そんなことを頼んだ?
「……… どうなさいますか?」
憤然と、女性客に睨まれた。
どこに行っても機械、機械……。それはそうだろう。
( おまえらみたいな人間がいるから…… )
誰も接客業なんて、やりたがらない。少子化が進み労働人口が減少し人手不足が顕著になった局面において、あっさりと接客業はAIにおき代わった。機械と違って、人間は消耗するのだ。理不尽に傷つけられ客の不機嫌の餌食にされれば、摩耗する。ならば客の相手など、機械にやらせればいい。
機械みたいな対応……。それでいい、と航太は思ってしまう。
人間が相手なら、航太は人間になれる。人間でないものには、機械となって対応する、ただそれだけのことだ。
お客様、と背後から橘の声がした。柔らかい物腰で、テーブルにホテルの料金プランの印刷されたものを提示する。
「よろしければご提案なのですが……。今から部屋を御利用となると、かなり割高になってしまいます。お昼どきでございますので、まずはお食事を召し上がってはいかがでしょう?ちょうど最上階のフレンチレストランがオープンしますので、お薦めのコースを御案内いたします。その頃には客室の清掃も終了しております」
そして、料金プランを指し示す。
「昼食後であれば1時を過ぎるでしょうから、こちらのアーリーチェックインプランが御利用いただけます。このプランであれば僅かな追加代金で済みますが、いかがでしょう?」
航太より明らかに年齢も立場も上の人物が登場したことに、気を良くしたらしい。夫婦は橘に促されて、意気揚々とエレベーターに乗りこんでいってしまった。
とり残された航太は、客のスーツケースの取っ手に荷物の預り証を取りつける。引換証は橘が客に渡しているだろう。
とぼとぼとフロントに戻った航太を、中西啓子が愉快そうな表情で出迎える。修行不足、と一刀両断された。
「橘のヤツ……、ここぞとばかりに一番高いフルコース薦めてるわよ。もしくはギャルソンに指示して高級ワインをガンガン薦めさせてる。断言してもいい」
あいつは性格が悪いからねー、と中西は笑う。そして航太を一瞥して、性格が悪いくらいのほうが接客業は向いてるかもね、と呟いた。
航太は沈黙を保ったまま、客の荷物をフロント奥のクロークに運ぶ。そのときに、女性の荷物らしいトートバッグに入っているぬいぐるみの存在に気がついた。
航太の胸に一抹の不安がよぎる。それと同時に、思いだしていた。ホテルの宿泊料金を支払う際に端末へと伸ばされた男性の手の甲にチップは埋め込まれていなかった。その腕に嵌められていたのは、腕時計型端末だったのである。
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「どうしてくれるのよ‼︎ 確かに部屋に置いておいたのに、部屋に戻ってきたらなくなってたのよ‼︎ 客室係が盗んだに決まってるわ‼︎ 」
日付は変わり、次の日の夕刻の出来事である。
連泊中である例の宿泊客の腕時計型端末が、紛失したのである。こんなときに夜勤にあたってしまった自分の不運を航太は呪う。よりによって橘が不在のときに。
フロントで喚き声をあげているのは女性客のほうだ。その横で夫である男性客は憮然とした表情をしている。紛失したのは彼のデバイスだ。
「貴重品の管理は、お客様御自身でお願いしております。施錠できるセーフティボックスを御活用下さいと……」
そこで航太の言葉は、途切れる。そういえば、言ってない……。
隣に腰かけている中西が、電話を置いた。
「今、担当の客室係に確認しましたが、そんなものはなかったと……。もしよろしければ、お部屋にお伺いして探す手伝いはいたしますが、ホテル側としてはそれ以上のことはできかねますことを御承知おき下さい」
そのときまで沈黙を保っていた男性が、ぬいぐるみ……と呟いた。
「女房のぬいぐるみの位置が、変わっていたんだよ。客の私物を触っている確固たる証拠だろう?ぬいぐるみを触っただけで端末は知らない、なんて言いわけが通用すると思うのか?」
勘弁してくれ、と航太は心のなかで叫ぶ。
由岐とかいう客室係、この客に対してもやったのか。人を選べと言いたいが、客室清掃係は客と直接接する機会がないのだから無理な注文だ。
「客室から出たゴミは止めてあるんだろうね?もしかしたら、一緒に捨ててしまったのかもしれないだろう?」
止めてあります、と中西は即答する。
ああ、そういうことか……、と航太は腑に落ちる。おそらく、男性のデバイスは紛失していない。彼は単に、いけ好かない若い生意気なフロント係に意趣返しをしたいだけなのだ。
爬虫類を思わせる両眼が、航太を見据えてきた。
「今はまだ警察を呼ぶことは考えてない。ホテルに警察が来たら、他の宿泊客が何事かと心配するだろうからね……。女性にやらせるのも不憫だ。ゴミの中を探すのは、男性の君にお願いしても構わないかな?」
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そのとき航太の胸をよぎったのは、自罰的な感情だった。
制服のジャケットを脱ぎ捨てワイシャツを捲りあげて、ビニール手袋もせずにゴミ袋に手を突っ込む。表情を変えることも、躊躇することもしなかった。
場所は301号室。扉の前に、客室清掃係を統括するマネージャーである塚本の姿がある。こちらでゴミを識別して報告いたしますという、彼の申し出を男性客は拒否する。この部屋でやれ、の一言だ。そして航太の隣で一緒に探そうとするマネージャーは、部屋を追いだされてしまった。
まあ、そうなるだろう……。航太を貶めるのが目的なのだから。
ゴミに手を突っ込むことぐらい、たいしたことではない。排泄物を食わされそうになるよりは、はるかにマシだ。指先に得体の知れない粘性の物質が触れたが、航太は眉ひとつ動かさない。客の気が済むまで、いくらでもゴミの海に手を突っ込んでいてやる。
紬のことばかり考えてしまう自分自身に、思わず笑ってしまいそうになる。
( 惚れてたのかな …… )
脳裏に浮かんだ思いを、航太は断固として否定する。違う。惚れてなんかいない。男と寝るのが職業の女なんて、自分にはとうてい受け容れることなんてできない。自分が好きなのは……昔の彼女みたいな……そう、園田くるみのような女だ。
「このゴミのなかには、ないようですが……」
かれこれ5分以上探していただろうか。航太が頭をあげると、女性客と視線が合った。もっと真剣に探してちょうだいと、喚かれる。次は便器の中に手を突っ込めと言われそうだな、と航太はうんざりする。
そして不意に、ベッドの脇に置かれたぬいぐるみに視線が止まった。
熊のぬいぐるみ。パッチワークという名称だっただろうか。水玉やチェックなどさまざまな柄の布を縫いあわせている。想像でしかないが、既製品ではなく手作りだ。
その熊の背中が、奇妙な具合に膨らんでいるではないか。
「失礼ですが、その熊のぬいぐるみ……拝見してもよろしいですか?」
女性客が、明らかに狼狽した。立ち上がってベッドに近づこうにも、腕が汚れている。客室の洗面所を借りるわけにもいかず、航太はタオルを持参しなかった自らの不用意さを後悔する羽目になる。
一旦、退室する旨を告げた。廊下を渡った先にあるリネン室でタオルを借りた。渡してきた客室係の女性の目が、泣き腫らしたように赤くなっていた。もしかして、彼女が由岐だろうか。特に言葉も交わすことなく、再び301号室の扉を叩いた。
「もう、見つかったから結構よ‼︎ 疲れたから、いいかげん休ませてちょうだい‼︎ 」
扉の向こうから、女性客の声がした。扉を開ける気もないらしい。
かしこまりました、と航太は部屋を後にする。
ふざけるな。疲れたのは、こっちだよ。いいかげん休ませてほしいのもこちらだ。
やっと解放されたと思った瞬間に、掌が痙攣を始めて自分でも驚いた。武者震いのように身体の底から、震えが沸きあがってくる。それが今まで押し殺していた怒りの感情であることに、今さらながら気づく。
怒りを押さえようと、非常扉を開けて建物の外側にある螺旋階段を駆け降りた。駆け降りたが、3階からでは全然距離が足りない。
ちょうど降りた先は、カフェテリアの厨房に繋がるゴミ置き場だった。周囲に誰もいないことを確認して、航太はゴミ回収用のコンテナを思いきり蹴りつけた。それだけでは治まらずに、不燃ゴミの中にあった空のワインボトルを手に掴む。
渾身の力で、ワインボトルを壁に叩きつけた。
壁にあたり砕け散ったボトルの破片が顔に飛んできて、さすがにヤバイと肝が冷える。
航ちゃん、と突然後ろから声がした。
驚いて振り向くと晋平の姿がある。搬入口から台車で食材を運んでいる最中だったらしい。この先には最上階のレストランまで行く業務用エレベーターがある。
「航ちゃん、ワインボトル割るのは自分が怪我しちゃうからさ……」
晋平はそう告げて頬を指し示す。航太は慌てて、手の甲で自分の頬を拭う。そこに残るのは、鮮血の痕。痛みはない。たいした出血量ではない。問題は切傷を拵えてフロントに立つことの是非だ。
晋平は、荷物の中からなにやら懸命に取りだしている。はい、と手渡してきたのは緩衝材だ。指で押すとプッと空気を放出する音を立てて割れるアレである。通称、プチプチシート。
「ワインボトルじゃなくて、緩衝材にしようよ。嫌なことがあったら、いつでも言ってよ。こんなん厨房にいくらでもあるからさ……」
うん、わかった、と航太は素直に返事をする。毒気を抜かれる、とはまさしくこのことを指すのだろう。
「大きいのと小さいの、どっちがいい?大きいほうが攻略するのがラクだと思うけど」
「……じゃあ、大きいほう」
緩衝材の、盛り上がった円の部分の大きさの話である。
「このプチプチ攻略すれば大抵のストレスは消えてなくなるって、俺は信じてるけど。航ちゃん、なんだかつらそうだから……。フランス料理の世界に伝わる究極のストレス解消法を教えてあげるね」
「うん。ありがとう……」
とっておきのゲームの攻略法を教える顔で、晋平は航太にその方法を伝えたのだった。
♦︎♦︎♦︎
フロントに戻った航太を出迎えたのは、橘の冷徹な眼差しだった。非番にもかかわらず、中西が呼び出しをかけたようである。それで機嫌が悪いのかと思ったら、航太の早合点だったらしい。眉を寄せて、航太の頬を眺めている。
「勝手に怒って……怪我したところで、労災の対象にはならないからな」
何故、知っているのだろう。晋平から話が伝わるはずはない……と、そこまで考えたところで、ゴミ置き場が従業員出入口に隣接していることに思い至る。今出勤してきたのなら、現場を見られていたとしても不思議はない。迂闊だった。
報告は?と橘に促されて、航太は慌てて詳細を報告する。
「それで?ゴミの中に手を突っ込む羽目になって、怒り狂ってワインボトルを叩き割ったわけか。……アンガーマネジメントの講習の手配をしておこうか?」
アンガーマネジメント。怒りをコントロールする方法のことである。必要ありません、と航太は呟く。怒りを覚えることは恥ずべきことなのか、と思わずにはいられない。
「それにしても、自分で紛失しておきながら、ホテルの従業員にゴミの中を探せ……はさすがに行き過ぎでしょう?結局は本人の過失だったんですから」
中西は真っ向から、橘に反論する。
「最初から警察を呼べばいいだけの話だ。客室係は窃盗などしていない。こちらに疚しいことなど何もないんだからな。恥をかくのは紛失した本人たちだ」
そして橘は、航太に視線を向ける。おまえはもう帰れと言われて、航太は唖然とする。
「今日はこのまま俺が勤務を変わる。おまえが残ってたら、明日のチェックアウト時に例の客と鉢合わせるだろうが……。ついでだから、明日も休め。溜まってる有給を消化しろ」
