長編小説|Another Horizon #12
#12 犠牲と献身の代償
俺も、おまえのいる世界に行きたい。
過去に、一度訪れただけの美しい世界。誰からも傷つけられることもなく。人の悪意を浴びることもなく。繭のように優しい世界に包まれていたい。
もう、航太はその切符を喪失してしまった。翔太郎が仮想空間に滞在し続けることを批判することで、自分はあの世界に行く権利を剥奪されてしまったのだから。
「飲みすぎじゃないのか……?」
翔太郎が自分を咎める声がする。
ああ、まただ……。また翔太郎の部屋にいる。
酒のもたらす酩酊と陶酔で、自分をごまかす。このままいくと歯止めが効かなくなるのではないか。父親の二の舞になるのではないか。危機感は募るが、どうにもならない。
「てめえにだけは、言われたくねえよ。俺が飲みすぎなら……、てめえはVR空間に浸りすぎだろ。人として終わってるヤツにだけは、言われたくねえよ」
人として終わっているのは、他でもない自分だ……。
翔太郎に暴言を浴びせるために、部屋を訪れたのか。違うはずだ。もう一度、俺をあの世界に連れていってくれ。あの穢れのない白い美しい世界を見せて、俺の心を慰めてくれ。癒やしてくれ。そうでもしないと、人の悪意に踏みにじられた心は発狂してしまいそうだ。
その一言が言いだせずに、また暴言を吐く。反吐が出そうだ……。
「仕事で、嫌なことでもあったのか?」
図星を突かれて、航太は呻きたくなる。
どんなに暴言を吐いても、翔太郎は怒らない。怒らないのをいいことに、航太は暴言を吐くことを繰りかえす。怒らせたいのか。怒るのを待っているのか。自分でも理解不能だ。
仕事で嫌なことがありました。客を怒らせて、怒鳴り声を浴びながらゴミに手を突っ込む羽目になりました。それで腸が煮えたぎっていて、兄に八つ当たりしてます。あまりの低次元に、自分でも呆れてしまう。なんという浅はかさ。
「てめえはいいよな。綺麗なものしかない世界で、綺麗なものだけを客に見せて……。汚いものとは無縁の世界だろ?」
立ち上げから10年近い歳月を経てなお、『Another Horizon』は一定数の集客に成功している。翔太郎の所得は、かつてほどではないとしても航太の所得をはるかに上回る。その成功は、彼に幸福をもたらしはしなかった。
妻に捨てられてからというもの、翔太郎は自分自身を大切にしなくなった。自暴自棄、自分に対する無頓着……。また歩こうと努力することも、鏡を見て容姿を整えることも、栄養のあるもので身体を労ることもしない。翔太郎が身体に流し込むのは、必要最低限のカロリーにしかならないゼリー飲料やお粥だけだ。
そしてその無頓着こそが、翔太郎の傲慢さの裏返しとも言えるのだ。
人に愛されることに、慣れている。女に想いを寄せられることに慣れている。家庭環境が原因で恋愛とは無縁だったはずだ。おそらく、あの女は翔太郎がはじめて想い慕った女だ。その女をあっさりと手に入れて、結婚まで漕ぎ着けた。
航太は当初、翔太郎は被害者なのだと思っていた。その考えは、変貌しつつある。
あなたの夢を応援する……美雪の言葉を、翔太郎は文字通り真に受けたのだ。女にモテるからといって、女性遍歴が豊富なわけでも男女の機微に敏いわけでもない。むしろ、逆だ。
翔太郎自身の夢に過ぎないものを、夫婦共同の夢と取り違えた。生活費を負担させることに引け目は感じただろうが、妻を蔑ろにしているとは認識しなかったのだろう。
そしてその妻に捨てられて、ここまで自分を貶めた。
「汚いもののなかに身を置くことに、価値があるのか?」
一瞬、何を言っているんだろう……と、耳を疑った。
「だって、そうだろうが……。人に頭さげて、媚び売って、やりたくもない仕事して、おまえの別れた奥さんは生活費を負担してくれていたんだろ?そんなことにも気づかないから、捨てられるんだよ‼︎ てめえは‼︎ 」
想いは届かない。願いは叶わない。それが、当然なのだ。
はじめて想いを寄せた女性は、他の男と添い遂げその男の子供を孕んでいた。それを笑って祝福するしかない。誰も愛してくれないのなら、せめて自分で自分を大切にするしかない。
そんなふうにして、人は生きている。
「女に捨てられたからって……いつまでも辛気くさいツラして、迷惑なんだよ‼︎ どっか行っちまえよ‼︎ 俺の前から消えていなくなれよ‼︎ 」
言いすぎだ……、と頭の片隅に危険を知らせる信号が点滅する。消えていなくなりたいのは、俺のほうだ。こいつを殺して自分も死んでしまおうか……。危険な考えが脳裏をよぎる。
そのとき、突然冷たいものが顔面にかかった。
水を浴びせられたことを理解するまでに時間を要した。顔をあげると、翔太郎が空になったミネラルウォーターのボトルを手にしている。
「少しは、酔いが醒めたか?」
航太は顔を拭いながら、まだ信じられない気持ちでいる。翔太郎に、こんなことをされたことは一度もない。先日、航太がぶちまけたのは酒だったのだから、水であるだけ良心的だ。
いや、そんな問題ではなく……。
「人として終わっているのも、女に捨てられて当然なのも事実だから、反論はしない。だがそれを酒クサい息で叫んでいるおまえは、何なんだ。俺に言いたいことがあるなら、酒を持ってくるのはやめてくれないか。それこそ、迷惑だ……」
そりゃ、そうですよね、と航太は胸の内で同意する。
怒ったのかな、と不安になった。これだけ罵詈雑言を吐いておいて、怒らせたかもしれないと怖じ気づいている自分が滑稽だ。謝るべきだとわかっている。わかっているが、言葉が出てこない。
あのさ……、と航太の胡乱な眼差しは宙を彷徨う。
「あのさ……クリームブリュレ、ふたつあるんだけど、食う?」
航太の口から飛びだした一言に、翔太郎は怪訝な表情をする。当然だ。謝罪の言葉が何をどうしたらケーキの話に変換されるのか。誰もついてこれない飛躍した展開だ。
「クリームブリュレって……、ケーキか?」
「そう。晋平に、ストレス解消になるって薦められて、従業員割引で買ってきた」
さっきまで散々怒鳴り散らしながら、淡々と答えている自分にも驚く。
いただくよ、と翔太郎は笑う。もうその笑顔は、頬の肉が落ちていて笑ったことを識別するのも難しかった。
ベッドの傍らの可動式のテーブルに並べられたケーキに、翔太郎は目を丸くする。
並べられたのはふたつ。航太もこの部屋で食べるとは、思いもしなかったらしい。酒を持ち込むなと怒られて今度はケーキを持ち込むのだから、困った弟だ。
航太の職場のカフェテリアで販売されているケーキである。職業柄、洋食や洋菓子には詳しくなっている。ふたつ購入してきたのは、ただ単に見栄を張っただけだ。
「この上のキャラメリゼの部分をさ、フォークでパリンって崩すときの感触が癖になるんだって。同僚の料理人が教えてくれた」
翔太郎が興味を示すような表情をした。航太はすかさず手を伸ばして、キャラメリゼをフォークで砕く。自分のぶんだけではなく、翔太郎のケーキもだ。
パリンパリン、と小気味いい音が鳴り響く。
「俺がストレス解消のために買ってきたんだから、俺に割らせろよ」
翔太郎が、笑いを堪えている。垂れ目で、若い頃から笑うと目尻に皺がよる。久しく目撃していなかったそれを見て、流れた歳月の長さに悲しくなった。
翔太郎は、航太に砕かれたキャラメルの部分を口に運んでいる。
大丈夫か、と心配になった。彼は甘いものが苦手だったはずだ。本場のレシピを参照にしているとかで、このクリームブリュレは情け容赦なく甘い。
平然とブリュレを口にしている翔太郎の姿に、違和感を覚えた。甘すぎると顔をしかめることもなく、むしろ旨そうに食っている。
─── 翔兄ちゃん、甘いもの嫌いだろ?俺が代わりに食ってやるよ。
幼い頃の自分の声が、記憶の底から浮かび上がる。
今になって気づいてしまった。甘いものが嫌い、それは翔太郎がついた優しい嘘だ。
当時困窮していた家庭環境で、嗜好品を買う余裕なんてなかった。甘いものを欲する弟に、彼は自分の分まで分け与えたのだ。弟という名の特権にあぐらをかいて、当然のごとく人のものまで搾取する小さな悪魔。
( 違う……。子供だったんだ。そんな嘘まで見抜けるわけない…… )
両親が離婚して情緒不安定になり、泣き喚くおまえをおんぶして、学校に連れていってくれたのは誰だ?コンビニの御飯は食べ飽きた。お母さんの御飯が食べたい、と駄々をこねるおまえに、慣れない手つきでカレーライスを作ってくれたのは誰だ?
翔太郎だろう?それにもかかわらず、大人になったおまえは受けた恩をかえすこともせず、弱り果てた兄に暴言を吐いて、さらに鞭を打つ真似を繰りかえしている。
では、どうすればよかったのか。
いったい何を為せば、受けた恩をかえすことになるのだろう。あのとき、翔太郎が幼い弟のために受け容れた犠牲を、今度は自分が受け容れるべきなのか。ともに暮らした10年という歳月は犠牲と呼ぶに値しないものだったのか。
あとどれほど我慢や辛抱を重ねれば、彼から解放されるのだろう。
♦︎♦︎♦︎
休憩室で、航太は緩衝材を潰すことに専念していた。
例の客の一件から1週間が過ぎた。すでに、ワインボトルを叩き割るほどの切羽詰まったストレスは緩和されている。ただ、鬱屈とした感情が滞留しているだけだ。
扉が開いて、園田くるみが入ってきた。
休憩室は男女共用だ。休憩室を中央にして、左右に男女別の更衣室と仮眠室が設置されている。彼女の存在に気づいたが、航太は顔をあげない。
「また航くん、プチプチシート潰しちょる。……楽しい?」
窓際の椅子に腰かけている航太の隣に、くるみは座る。楽しいよ、とだけ返答して、航太は視線もあげずに緩衝材を潰し続ける。暗いヤツ、もしくは不機嫌なヤツ、と彼女の目に映るだろうが、構いはしない。
何故、いつも当たり前の顔をして、俺の隣に座るんだろう?
社員食堂で、休憩室で、研修のとき、乗りあわせた地下鉄の座席……。同性ではないのだから、遠慮すればいいのに。その距離感の近さに翻弄される男もいるだろうに。
「晋平にもらった緩衝材も全部潰し終わりそうだし、クリームブリュレのキャラメリゼも潰してみたけど……。それでも心が晴れない場合はどうすればいいと思う?」
暗いこと言ってるな、と自分で呆れてしまう。
いや、そもそも何かを潰すことで、心が癒されるはずがないのだ。根本的解決にはなっていないのだから。
「旅行に出かけて、綺麗な景色を眺めるとか?」
なら、温泉にでも行かないか……?心に浮かんだ言葉を、航太は寸前のところで呑み込む。
何故そこで温泉が出てきたのかも、わからない。ただ宿泊する場所として、ホテルでは同業者の視線で観察してしまう。旅館であれば非日常感を味わえる。それだけかもしれない。
同僚の女の子を温泉に誘うなんて、まちがいなくセクハラに該当するだろう。
「今ね、世界一周の最中なんだ。よかったら、航くんも一緒に行く?」
( …… 世界一周? )
航太の表情は、凍りつく。
世界一周……現実では不可能だ。それはもう仮想空間でしか叶わない。あまり詳しくはないが、翔太郎の手がけるもの以外にも類似のサービスは存在するはずだ。
「このまえはね、アフリカでヌーの大移動見てきたっちゃ。あ、でもヌーもいいけど、シマウマ‼︎シマウマのお尻が可愛くて好きって言うたら、ガイドさんに笑われた」
翔太郎……ではないのか。
ヌーの大移動なら、航太も見たことがある。乗っていたジープがヌーの大群に囲まれた。地響きと土埃とともに、黒い体毛を靡かせて駆け抜けていく。そのあとが、シマウマだった。
「それ、何て名前のサービス……?ガイドの名前は?」
くるみは航太の胸中も知らず、笑顔でその名称を口にする。
『 Another Horizon 』のミナヅキさん、と。
え……?と、くるみは瞠目する。それ、うちの兄貴。え?え?嘘でしょ?
要領を得ない会話が繰りかえされる。ミナヅキさんって、そうか航くんもミナヅキ……。え、ミナヅキって、そっちの漢字?ええー⁉︎
「皆月じゃなくて、水が無いほうの水無月だと思ってたの?」
思ってた、とくるみはかぶりを振る。心なしか頬が、薔薇色に染まっている。目が興奮を隠しきれていない。もう彼女の中で航太の心の晴れる方法など、記憶のはるか彼方にすっ飛んでいる。
航太の頭の中で、パズルの欠片が組み合わされていく。くるみにマラリアを疑えと進言したのは、翔太郎だ。そして、あのときも彼女は頬を赤く染めた。そのことが意味するのは、もうひとつしかない。
( なるほどね …… )
なるほど、と航太は胸中で呟く。幾度も。傷ついてはいない。失望もしてはいない。翔太郎のモテ男ぶりが健在であることに感銘を受けただけだ。
( 実物は、あんなことになってるけどね …… )
「驚いた……。まさか、くるみちゃんが翔太郎と知りあいだとは思ってなかったから」
「皆月さんって、名前……ショウタロウさんって言うの?」
VR空間では名字しか明かしていないらしい。翔太郎さん……、聞いていて恥ずかしくて蕁麻疹が出そうだ。憧れの男の名前は、宝物に等しいのか。
可愛らしいな、と思う。とても可愛らしくて……、愚かで滑稽だ。
くるみの考えていることが、手にとるように想像できる。仮想空間でしか会えなかった憧れの人が、同僚のお兄さん。まさしくドラマのような展開だ。しかも横浜在住だ。
どす黒い感情が、航太の胸に広がっていく。くるみは、航太の一言を待っている。仮想空間から現実の空間へと橋を架ける、その一言を。
そのとき、黒い感情の片隅に光明が見えた気がした。一縷の望みが……。
「……… 会わせてあげようか?」
