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長編小説|Another Horizon #13

#13  台風の襲来した夜


 雨が、降りはじめた。台風のもたらす雨。

 7月10日、台風が本格的に襲来する時期には、まだ早い。南シナ海で発生した台風7号は、非常に強い勢力を伴って近畿地方に上陸している。その大型の台風の外側の雲が、既に関東地方までかかっている。

 午後4時。航太は園田くるみを迎えに横浜駅まで来ていた。

 傘を持つ腕が濡れている。大量の湿気を孕む不快なだけの雨。構内を行き交う人々の表情は憂鬱だ。この雨が、恵みではなく破壊を引き寄せるものであると承知しているから。

「ごめん。お待たせ。……行こうか?」

 くるみの手にしている赤い傘から、しずくが伝わり落ちていた。

 その色鮮やかな赤が目に眩しい。航太を見あげてくる彼女の表情を、直視することができない。赤……緋色は、英語圏では罪を表す色ではなかったか。

「別に今日じゃなくてもよかったのに。これから雨酷くなるよ?」

「うん、でも、翔太郎さんと約束したから……」

 いつのまにか、翔太郎さん呼びが定着している。皆月さんだと紛らわしいからか。それとも、もうガイドと客の関係ではないという自覚の為せるわざか。

 彼女の私服姿に、ふと違和感を覚えた。白のTシャツにデニムのサロペット。ボーイッシュな印象の彼女の容姿によく似合っている。

「もっと、可愛い服着てくればよかったかな?ワンピースとか……」

 航太の視線に気づいたくるみは、慌てた表情をする。

 大丈夫だよ、と航太は呟く。違和感の正体は既に把握していた。仮想空間で会った彼女は、肩や腕を露出するキャミソールワンピースを身に纏っていた。

 服装の与える印象ではなく、その中身が明らかに異なっているのだ。


♦︎♦︎♦︎

 その部屋の剥き出しの床を眺めた瞬間、くるみは奇妙な沈黙をした。

 生活の匂いのしないリビングルーム。家具の存在しない部屋。絨毯も敷いていなければ、ソファーもない。カーテンすらないのだ。そこから繋がる空間であるダイニングルーム、そして豪勢なシステムキッチンは、利用されている形跡というものがない。

「どこに行くと?私、ここで待ってるから……」

 私もこんなとこに住みたい!とさっきまで散々はしゃいでいたのが嘘のように、くるみの表情にはかげが差している。

 それはそうだろう。普通はじめて男女が会うのなら、外を……喫茶店やレストランを利用するのが常識的だ。百歩譲って自宅に招くとしても、リビングルームまで家主が来るべきだ。

「どこって……、翔太郎の部屋」

 さも当然という顔で、航太はくるみを廊下の奥へと促す。

 部屋……?と、くるみは明らかに動揺した。身の危険を感じたのか。男の部屋にのこのこと向かうほど無防備なわけではないだろう。帰るね、ときびすを返す。

 その腕を航太は掴む。女の力ではあらがえないほど、強い力で。

「おいでよ。翔太郎が待ってるからさ……」



 眼前に横たわるアバターとは似ても似つかない幽鬼のような男を、くるみは愕然とした表情で眺めていた。いつも笑顔を絶やさないその顔が、おぞましいものを目撃したかのように歪んでいくのを、航太は失望とともに受けとめる。

「翔太郎のアバターさ、『Another Horizon』を立ち上げた29歳の頃の姿なんだ。そこから一切更新してないはずだから……。ちなみに、実年齢は39歳。がっかりした?」

「年齢の問題じゃ……」

 年齢の問題ではない。そこに横たわっている男は39歳にも見えない。今にも老衰で亡くなりそうな……三途の川を渡りかけていそうな人間の姿だ。

「自分の若いころの容姿をアバターに指定するのなんて、誰でもやってることだろう?詐欺だと断罪されるいわれはないよ。それに、寝たきりの人間にも恋愛する権利はあるはずだ」

 医療の分野におけるVRの活用。難病を患いベッドから一歩も動けない患者、事故で下半身不随となった患者。仮想空間で自由自在に動かすことのできる四肢は、患者にとっての慰めであり、QOLの向上にもつながる。

「そうだけど……」

(  正直に、言えよ……  )

 障害者を差別するわけではない。彼らの権利を剥奪するつもりなどさらさらない。ただし、自分の恋人には望まない。寝たきりの男などごめんこうむる。それが嘘偽りのない本音だ。

 何を望んでいたのだろう、と航太は自らに問いかける。

 どんな展開を待ち望んでいたのか。くるみが憧れる男の実像を見せて、失望させたかったのか。可愛らしい笑顔の奥にある、身勝手な本質を引摺りだして暴きたかったのか。

「くるみちゃんさ……。よかったら、ここで暮らしなよ。俺は出ていくから。さっき、こんなとこに住みたいって言ってたじゃん。家賃なら、こいつが負担するからさ。……料理は、するんだっけ?くるみちゃんの愛情のこもったメシ、たらふく食べさせてやってよ」

 くるみの心情をかえりみることなく、航太は饒舌じょうぜつに語る。

「こいつさ、奥さんに捨てられてこんなふうになっちゃったからさ。もう、弟の俺が何を言っても無駄なんだ。くるみちゃんみたいに可愛い子がそばにいてくれたら、こいつも一念発起して人生をやり直そうとしてくれるかもしれないし……」

 そう。そういうことなのだ……。

 望んでいたのは、救いの女神だ。

 痩せ衰えた翔太郎の腕をとり、私がそばにいると誓う女神。眠れる王子様を覚醒させる、お姫様の口づけ。そんな童話あったっけ?。そして、自分は密かに抱いていた彼女への思慕に蓋をし、翔太郎のために身を引く。

 馬鹿か、と自分の愚かさに呆れ果ててしまう。夢みがちにも程がある。そんな都合のいい展開、ドラマのなかにすら存在しない。実際に航太の行っていることは、女衒ぜげんにも劣る。こんな薄気味の悪い男を引きとれと迫っているのだから。

「だって、そんなの知らんもん……。私が憧れてたのは、カメラを担いで世界中を旅してまわった皆月さんやもん。奥さんがいたのも初耳やし、寝たきりになってるって知ってたら、最初からここには来なかった……」

 ここにいるのは、カメラを担いで世界中を旅していた翔太郎本人にもかかわらず、くるみは冷徹に切り捨てる。

 ああ、まただ……、と航太は思う。また翔太郎は捨てられる。寝たきりの男に用はない。役に立たない男に、用はない。人の愛情を得るには、それに値するだけの価値が必要なのだ。

( こんな女、別に……好きじゃない ……  )

 航太は、恋情になりかけていた思念が、脆く砕け散るのを自覚する。可愛らしい容姿が、好みだっただけだ。昔の彼女を彷彿とさせるから。

 もしかしたら、と期待したのだ。職場でどんな客に対しても分け隔てなく接し、子供の吐いてしまった嘔吐物を嫌な顔もせずに片づける彼女なら、と。認知症の老人にも辛抱強く耳を傾け、知的障害を持つ客の言動も蔑みの視線を投げない彼女なら。

「なら、俺じゃなくて、翔太郎に直接言えよ。あなたみたいな男とお付き合いできませんって。多分もうすぐ、VR空間から帰ってくるからさ」

 翔太郎を救わない女に用はない。くるみが狼狽するのを、航太は残酷な気持ちで眺める。

 自分が傷つけるのは構わないくせに、赤の他人に家族が傷つけられるのは不愉快だ。この感情をなんと呼ぶのだろう。

「翔太郎に交際申し込まれて、承諾しただろ?なかったことにしてくれって、断れよ」

 どうして……と、くるみの唇から呟きが漏れる。

 どうして航太がそんなことまで承知しているのか。兄弟で逐一報告しあうものなのか。くるみを困惑させているのは、翔太郎だけではない。人畜無害に見える同僚の思いも寄らない一面だろう。

「どうして……って、交際申し込んだの、俺だから」

 翔太郎のアバターをね、乗っとったんだ。乗っとったって言いかたは、悪いか。ちょっと拝借したんだ。ふたりがうまくいくように、お膳立てしただけだよ。

 くるみの両眼が、静かに見開かれていく。

 モルディブだ、と航太は告げる。インド洋のもう既に沈んで消滅してしまった島嶼国。珊瑚礁で形成された高級リゾートの点在する観光立国。

 『Another Horizon』において、宿泊施設の映像は比較的少ない。翔太郎が世界中を旅していた際に宿泊していたのは、映像として残す価値のない安宿なのだ。清潔とは言いがたい、狭くて薄暗い空間。

 では何故、モルディブだけ映像があるのか。翔太郎とあの女の新婚旅行先だったからだ。

 珊瑚礁の広がる浅瀬の上に建造されたコテージ。海を一望できるそのデッキで告白して、部屋に移動した。そこにあるのは、天蓋てんがい付きのダブルベッド。

 翔太郎とあの女が愛しあったベッドだと思うと、さすがに萎えた。自分のやっていることのおぞましさに吐き気がした。現実に会う約束だけを交わして逃げるようにログアウトした。

「そうやって、人を騙すなんて、最低…… 」

 確かに、最低だ。弁解の余地もない。

 まっすぐに睨みつけてくる彼女の視線を、航太は何の動揺もなく受けとめる。そのまま彼女をベッドに運んで抱いていたのなら、やっていることはレイプだ。仮想空間だから法の裁きを受けないとはいえ、犯罪行為に等しい。

 だが、未遂だ。生憎そこまでできるほど、肝の据わった男ではない。

「人を騙してるのなんて、お互いさまだろ?自分のアバターを加工するのって、どこからが詐欺に該当するんだろうね?」

 くるみの顔が、歪む。指摘して欲しくなかったことなのだろう。

 自分の容姿に、完璧な自信を持っている人間なんて存在しない。その劣等感が加工という手段を選択させる。

 くるみが仮想空間で身に纏っていたのは、キャミソールワンピース。リゾート地にふさわしい服装だ。身体の線を浮かびあがらせるそのワンピースの胸元は、確かに盛り上がっていた。

 今着ている白いTシャツの下に、その盛り上がりは存在しない。

「ふざけんなよ……。おまえみたいな幼児体型の女、翔太郎が相手にするわけないだろ。翔太郎さ、胸のデカイ女が好みなんだ。別れた奥さんもそうだったし。わざわざ、アバターの胸を加工したのに、とんだ御足労だったね」



 航太の頬を打つ音がした。叩かれたのだ。 

 当然の報いだ。いや、これで報いを受けたと判断するには甘いだろう。帰ります、と身をひるがえす彼女を航太は引きとめる。駅まで送るよ、という航太の申し出を、くるみは固辞する。

「じゃあ、タクシー呼ぶから。雨、かなり酷くなってるよ?」

 結構です、とくるみは言い捨てて、玄関の扉を開け放ち飛びだしていく。航太はぼんやりとそれを見送ってから、彼女が傘を忘れていることに気づいた。

 追いかけようかと思ったが、もう既に傘が役立たずになるほどの降水量のはずだ。マンションからほんの僅かな距離に、コンビニもある。そこで雨ガッパを調達したほうが濡れずに済む。

 灰色の壁に、赤い色彩が浮かびあがっていた。

 航太の犯した罪の証だ。この傘を返却することは、叶わないだろう。職場で、いったいどんな顔をして会えばいいのか。もう会話をすることも許されないだろう。

 翔太郎は結局、VR空間に滞在したまま戻って来なかった。彼の傍らで、弟と自らの顧客がどんな会話をしていたか知るよしもない。

 ふらふらと台所に赴き、自分のしていることの自覚も定かではないまま、冷蔵庫を開けて酒を取りだした。プシュ、とプルタブを開けたときの、空気の抜ける音。もう、航太の耳には届いていない。ただ欲しいのは、脳を麻痺させる液体。

「紬さん……、助けてください…… 」

 知らず知らずのうちに、彼女の名を呼んでいた。

 今、気づいてしまった。仮想空間でくるみを抱かなかったのは、罪を犯すことを怖れたからではない。そんな善良な人間ではない。抱きたい女性なら、他にいる。もう繰りかえし繰りかえし、頭のなかで夢のなかで、彼女を抱いている。

 実際にもういちど会うことができたなら、どんな大金を払ってでも彼女を買っていただろう。それが叶わないなら、自尊心を投げだして土下座をして懇願していただろう。

 今なら、航太が気持ち悪いと揶揄した彼女の客の気持ちが理解できる。

 ただの赤子に戻りたい。ただ守られるだけの存在でありたい。常に戦うことを強いないでくれ。戦えなくなったからといって、そんなに簡単に見限らないでくれ。

 脳を麻痺させる液体。その先に、脱け出すことのできない蟻地獄は存在する。破滅することは、いとも容易い。もう既に航太は、その触手に絡みとられつつある。

 そのとき、インターホンが鳴った。

 航太の身体は、鞭で打たれたかのように震撼する。

 くるみが戻ってきたのかと思ったら、なんのことはない。宅配だった。航太が応対せずとも、ロンが玄関まで出向いて受けとってくれる。便利な機械だ。

 最初は、酒による酩酊のせいで把握できなかった。

 カシャカシャ。カシャカシャ。ロンの音がおかしい。玄関から移動している気配がない。

「……また⁉︎ 」

 また、翔太郎が牽引可能重量を越えて注文したのか。このまえ、気をつけると反省したばかりではないか。あの馬鹿の脳味噌はどうなっているのか。

 カシャカシャ。カシャカシャ。カシャカシャカシャ……。カシャカシャカシャカシャ。

「うるせえんだよ……‼︎ 」

 腹の底から怒号をあげて、航太は玄関へ飛びだす。

 立ち往生しているロンと視線が合った。首を傾げている。助けてくれと訴えている。

「知らねえよ……。もう、面倒みきれねえよ」

 航太の脳裏で、アルコールの伸ばす触手が、翔太郎の姿にとって代わる。いや、もうそれは既に翔太郎ではない。ただの化物だ。航太の四肢に纏りつく怪物。

 ここから出ていって、いいんだ。──  ここから出ていかないでくれ。

 おまえに迷惑をかけてないだろう?──  おまえに迷惑をかけて、何が悪い?

 受けた恩をかえせ。おまえを育てた恩をかえせ。俺から離れるな。ロンが立ち往生したら困るだろう?そのときのために、おまえは存在しているんだ。金なら遺してやる。だから、おまえは恋人もつくらず結婚もせず、未来永劫このマンションから出ていくな。

「嫌だ。俺は、もう自由になりたいんだ……」

 ひとつ、確かなことがあった。

 翔太郎は、人としての羞恥心までは喪失してはいないのだ。

 髪を伸ばしたままにして容姿に無頓着になりはしたが、かろうじて清潔さだけは保っている。元来の清潔好きが幸いしてか、ロンに介助されながら入浴もしている。翔太郎の部屋は空気は澱んでいるものの、悪臭が充満していることは皆無だ。

 ロンに下の世話を任せて平気なのは、ロンが機械だと承知しているからだ。自分の排泄物の処理を……、例えば航太や生身の人間である介護職員がやらなければならないとしたら、断固として拒絶するだろう。

 カシャカシャ。助けてください。

 カシャカシャ。マスターのもとに荷物を運ばなければいけないんです。

 カシャカシャ。カシャカシャ。カシャカシャ。助けて。助けて。助けて。

「おまえは、ロンじゃない。いなくなれよ……」

 毛並みに覆われているわけではない剥き出しの機械の脚を、航太は鷲掴みにする。かなりの重量だ。その遠心力にものを言わせて、力任せに壁に叩きつけた。

 ギャン!と悲鳴があがる。機械のくせに悲鳴をあげるようにプログラミングしたのは、誰だ。機械だ。ただの機械だ。壊されたところで、痛みは感じない。

 作動しなくなるまで、渾身の力で壁に打擲ちょうちゃくする。息絶えたように身動きしなくなったところで、腹の部分を探って強制的に電源を遮断した。

 激昂に駆られた勢いで、航太は扉を開けて外へ飛び出していく。

 傘も雨ガッパも持っていない。空を覆い尽くす鬱蒼とした黒い雲。叩きつけるような豪雨が、瞬く間に航太の全身を濡らしていった。


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