長編小説|Another Horizon #14
#14 罪と罰
7月10日夜、台風7号は近畿地方から太平洋沖を進み、非常に強い勢力を維持したまま関東地方に上陸した。薙ぎ倒される街路樹、河川の氾濫、浸水。頻発する災害に、人は既に慣れている。安全な家屋に閉じ籠り、ひたすら台風の通過を待つのみである。
では、安全な家屋を持たない人々は?
この際に避難所として指定されるのが、ホテルや旅館等の宿泊施設である。航太の勤務するホテルも例外ではない。閑散期である夏季における、貴重な収入源である。ただしそれを歓迎しているのは経営陣だけであって、従業員ではない。断じてない。
そこにあるのは、修羅場と化した空間である。
浸水想定区域に在住の人を優先に、部屋は割りあてられる。だが、自主的に避難してくる人間も多い。当然のごとく満室。そして従業員を悩ませるのは、台風の際に適用される包括料金である。
一泊三食つき。市に申請すれば還付されるこの代金を、ホテル側は一旦客から徴収する必要がある。面倒なことこのうえない。
ロビーに人がごったがえし、ときおり怒号が飛び交っている。その避難客に紛れるようにして、航太は橘の姿を探していた。
「あれ、おまえ……休み申請してただろ?病気のお兄さん、大丈夫なのか?」
全身ずぶ濡れの航太の存在に気づき、橘は目を丸くした。
いつのまにか翔太郎は、病気のお兄さん、ということになっている。
台風が関東地方を直撃しそうになるたびに、航太は休みを申請する。当然のことながら、ホテル側はひとりでも戦力が欲しい。理由はなんだ、と橘に詰問されて、事情を告白せざるを得なかった。
「もう、大丈夫です。今まで、御迷惑をかけてすみませんでした」
翔太郎の知らないことだ。停電を懸念した航太が、台風のたびに休みをとっていることも。そして、理由を知らない他の従業員から顰蹙を買っていることも。
病気のお兄さん……。あんなの、病気とは呼ばない。電力を絶たれたからといって、心臓が停止してしまうような病人ではないのだ。
着替えてこい、と橘に促されて更衣室に向かう。水分を大量に含んだシャツを脱ぎ捨てて、乾いた制服に腕を通すと、身体が軽くなった気がした。
やっと手に入れた自由だ。いとも簡単に手中にした自由を、航太は噛みしめる。こんなに単純なことだったのか。こんなに手を伸ばせば、すぐそばにあったのか。
何の障害もなかった。出ていけばいいと言われて、はい、そうですか、と出ていく。それだけのことを、どうして今まで実践できなかったのだろう。
ひどく晴れやかな心で、航太はロビーに戻る。そこからは嵐のような忙しさだった。客から宿泊代金を徴収し、食事時間の案内をして、ルームキーを手渡す。仕事に没頭しているうちに、翔太郎のことなど脳裏を掠めることもなかった。
♦︎♦︎♦︎
そして、暗闇が訪れた。停電だ。
深夜1時。既に宿泊客の大半は眠りについており、騒ぎにはならない。
仮眠室で浅い眠りのなかにいた航太は室温が急上昇するのに気づいて、覚醒する。背中に汗が伝わっている。エアコンが切れたのだ。陽射しのあたらない夜であっても、エアコンなしでは命の危険を感じるほどの暑さと湿気。
しばらくして何かが作動する音とともに、エアコンは息を吹きかえした。流れてくる冷気に安堵して、航太は再び横になろうとする。そのとき、脳裏に何かを知らせる信号が点滅した。
今の作動音は停電により、自家発電に切り替わった音だ。
エアコン。停電。自家発電。ブレーカー……。
それらの語句が頭の中を駆け巡り、ひとつの答えを導きだしたところで、航太は慌てて起きあがる。仮眠室を飛びだして、休憩室の扉を開けた瞬間誰かとぶつかった。
晋平だった。朝から晩まで働き詰めだったのか。目元にげっそりと隈をつくっていた。宿泊客に三食提供する必要があるのだ。メニューは簡易的なものになるとはいえ、厨房のスタッフの負担は普段の倍以上になっている。
「航ちゃん、どこ行くの?」
家に帰らないと……。航太は反射的に呟いている。家?と晋平は反問する。
「エアコンが……。停電したときは、自家発電に切り替わる。だけどそれには、手動で……。自家発電のほうのブレーカーを操作しないと……。そのブレーカーは、翔太郎の手の届かない位置にあるんだ。だから、誰かがそれをやらないと……」
ぽつりぽつりと、航太は懸命に家に帰る必要性を訴える。
「ロンがいれば、ロンに掴まって、翔太郎はブレーカーを操作できる。けど、ロンは……、ロンは俺が壊したから、もう使えない……」
風の音がする。窓を叩きつける暴風。激しく地面を打つ雨音。こんなときに帰るなんて、正気の沙汰ではない。
「無理だよ。なに言ってんの⁉︎ もう、元町から石川町にかけて一帯が浸水してるよ。こんな夜中にどしゃ降りのなか移動できるわけがないだろ?」
道理だ。そもそも交通機関が動いていない。終電を待たずに午後8時で運行をとりやめている。わかっている。わかっているけど……。
翔太郎は、航太が出ていくことを承諾していたが、ロンを破壊していいとは言っていない。
「殺すつもりなんて、なかったんだ……。死ねばいいとか、殺してやろうとか、何度も思ったりしたけど……。本当に、殺そうとはしていない。だから、戻らなきゃ……」
何故こんなことを、晋平に訴えているのだろう。
晋平は、航太の尋常ではない様子に眉をひそめている。そして、首を振った。
「エアコンが切れて、お兄さんが熱中症で危ないって意味だろ?言いたいことは、わかるよ。でも、今は駄目。こんな暗闇のなか歩いて、マンホールに落ちて自分が死にたいの⁉︎ 駄目だよ。絶対駄目。とりあえず、朝まで待とう?」
疲労困憊の晋平に、さらなる負担をかけている自分が情けなくなった。帰らないと。駄目。帰る。駄目だって言ってるだろ。押し問答が続いた。
とうとう、晋平に腕を掴まれて怒鳴られた。仮眠室へとずるずると引き摺られていく。小柄な身体で一生懸命、航太の身体を引っ張っている。その腕を振り払うことは容易い。だが、それだけの気力はもう残されていなかった。
♦︎♦︎♦︎
太陽が昇るのを、これほど待ち焦がれたことはない。
早朝5時。台風は去った。航太の眼前には、変わり果てた街の姿がある。至るところが浸水している。道路を塞ぐ倒木。へし折られた枝が散乱して茶色く濁った水面に浮いていた。
交通機関は動いていない。動くはずもない。地下鉄の構内に雨水が侵入して、改札まで水に浸かってしまっているのだから。
歩く以外に選択肢はない。軽く見積もっても1時間以上はかかるだろう。構うものか、と自分を鼓舞する。結局、一睡もしていない。ビニール傘と飲料水だけは確保してきた。
翔太郎とともに自分も熱中症で死ぬかもな、と漠然と思った。
♦︎♦︎♦︎
自宅に辿りついた頃には、息も絶え絶えだった。
台風一過の猛烈な暑さだ。持参したミネラルウォーターは既に消費してしまった。マンションに入ろうとしたが、自動扉が作動しない。すぐ脇にある非常口から入って、航太は絶望的な事態に直面する。
エレベーターが使用不可になっている。停電はまだ復旧していない。自家発電設備ではエレベーターを稼働させるほどの電力は供給できないのだ。夏場の住環境において、エアコンの稼働を最優先とする。命の危機に直結するのだ。電力の供給の重点をそこにおき、利便性は除外される。
仕方のないことだ。37階まで自分の足であがるしかない。エレベーターホールの奥にある非常扉を開ける。そこから無限に続く螺旋階段。
これは罰なのか、と自問してしまう。いや、罰としては生ぬるい。ぐるぐる、ぐるぐると航太は階段を巡り続ける。ようやく見えてきた37の数字。這いあがるようにして階段を登り、自宅の扉を開けた瞬間に疲労のあまり倒れそうになった。
「………… 翔太郎?」
航太の行った行為の結末が、そこにあった。
エアコンは稼働している。いかなる方法で、ブレーカーを操作したのか。死んではいない。生きている。生きてはいるが……。
部屋の惨状に、航太は息を呑む。悪臭が充満していた。饐えたような臭いの正体はすぐにわかった。嘔吐したのだ。それに混じるのはアンモニア臭だろうか。
床に広がる自らの汚物の海に、翔太郎は仰臥していた。
どうやって、ベッドから移動したのか。床を這いずって動きまわった形跡があった。冷蔵庫が開け放たれたままになっている。彼が何を欲していたのかは、すぐに把握できた。
水だ。冷蔵庫に保存されているミネラルウォーターが、いくつも散乱している。そのうちの数本は空になっていた。そうやって、水を確保してそれから?
廊下の蓄電式の非常用電灯は、無事作動している。その廊下にあるブレーカーの操作盤の下に、USBケーブルが転がっていた。翔太郎の利用している規格は2メートルのものだ。
ここまで死に物狂いで床を這いずって移動して、ケーブルを投げてブレーカーのわずかな突起部分に引っかけて操作したのか。
「……… ロン?」
翔太郎が、目を覚ました。はたしてそれは、何度目の呼びかけだったのだろう。廊下まで出たのなら、玄関で動かなくなっているロンの姿が目視できたはずだ。
「何、言ってるんだよ、翔兄ちゃん……。ロンはもう昔に老衰で亡くなっただろ?」
何故そのとき、翔兄ちゃん……と呼んだのだろう。
翔太郎は、ぼんやりと航太を見あげる。
髪が……、髪が嘔吐物にまみれている。洗わなきゃ、と航太は思う。服も汚れている。失禁したのだ。洗わないと……。この状況は、潔癖な翔太郎には耐えがたいだろう。
浴室に連れていこうと、航太は腕を伸ばす。
翔太郎が逃げるような動作をした。腕の力だけで、なんとか航太から距離をおこうとしている。
その動作に航太は衝撃を受ける。俺が怖いのか。弟が怖いのか。
「近寄らないでくれないか。汚いから……」
最初は、航太の人間性を汚いと糾弾されたのかと思った。だがすぐに、翔太郎の全身が汚れていることを指しているのだと悟る。汚いから近寄らないでくれ?その汚い環境に追い込んだのは誰だ?今、目の前にいる弟だろうが。
身体洗うから、と言って差しだした腕は、渾身の力で払いのけられた。
「俺にさわるな……。この部屋から出ていってくれないか?頼むから……」
その瞬間、血液が逆流する音が聞こえたような気がした。さわるなと言われたのにも構わず、航太は翔太郎の胸ぐらを掴みあげる。
「それで?俺を部屋から追いだして、どうするんだよ。てめえがロンって呼んでるあのカシャカシャうるさい機械はもう来ないよ。……なあ、薄々気づいてんだろ?誰のせいでこんな羽目になってるのか……。俺があの機械を壊したからだよ」
ひどく間近に、航太を睨み据える翔太郎の眼差しがある。足りない、と航太は思う。睨まれるくらいでは足りない。
「なあ、怒れよ……。それで憎めよ、俺のことを。いつもいつも暴言吐かれて、挙げ句の果てに介護ロボット壊されて……。俺のやってることって、虐待だろ?なんで、おまえはいつもそうやって聖人みたいに怒らないんだよ⁉︎ 」
ようやく、航太は自分のなかにある答えに辿りつく。
「翔太郎さ、恥ずかしくねえのかよ?五体満足の健康な身体で産んでもらって、勝手に歩けなくなって……。奥さんに捨てられて、母親に捨てられて……。この前は、俺の同僚の女の子にもおぞましいものを見る目で見られてたよ。今度は、俺が捨ててやるよ。いつまでも、自分の垂れ流した汚物にまみれたままでいろよ‼︎ 」
その瞬間、翔太郎の瞳に宿ったのは確かに怒りだった。叫び声が聞こえた気がした。胸ぐらを掴んでいる航太の腕を力ずくで離そうとするが、叶わない。
その痩せ衰えた細い身体を、航太は張り飛ばす。もう抵抗する体力の限界だったのだろう。呆気なく、翔太郎は床に叩きつけられた。
その傍らに、航太は膝をつく。脚が汚れるが構いはしない。
「なあ、悔しいだろ?弟に、ここまで言われて。悔しかったら、自分の足で立てよ‼︎ それで、俺を殴れよ‼︎ 」
どこまでも、航太は翔太郎を挑発する。怒れ。そして奮起しろ。床に這いつくばった翔太郎が何かを囁いた声が聞こえた。
航太は顔を近づける。その拍子に、頭突きをくらった。思わず、航太の口から笑い声が漏れる。
やればできるじゃないか。仕返しに、航太は容赦なく翔太郎を殴りつける。その一撃で翔太郎は完全に動かなくなってしまった。
一瞬殺してしまったか、と航太は息をとめたが、かろうじて息はしている。精魂尽き果てて気絶してしまったらしい。
翔太郎の脇に手を差しいれて、部屋に隣接している浴室に運んだ。
シャワーの勢いを最強に設定して、気絶している翔太郎の身体にお湯を浴びせる。そのときに、彼の左腕に残る鬱血の痕が目にとまった。腕を噛んだような痕だ……。
人としての羞恥心までは喪失していない。承知していたはずだ。その噛み痕が意味するのは、翔太郎が生理現象を極限まで耐えていたことだ。床を這いずったせいで管が外れ、いつも利用している防臭パックは役立たずになったのだろう。
どれほどの恥辱を与えたのか。またひとつ重ねた罪の重さに耐えかねて、航太は瞳を伏せた。
♦︎♦︎♦︎
ここを出ていくよ、と翔太郎は告げた。
翌朝のことだ。まだ憔悴しきっている青白い顔の彼は、もう航太と視線を合わせることもしなかった。
服を替えてくれてありがとう。部屋の掃除もさせてしまって、申しわけなかった。ひどく他人行儀に、感謝と謝罪の言葉だけを述べる。
「あと2ヶ月分の家賃は振り込み済みだ。悪いがそれまでに、自分の住むところを見つけてきてくれないか。保証人には、俺がなるから」
施設へ入居する、と翔太郎は説明する。
うん……、と航太は返事をするが、頭は追いついていない。
「え、いつ?送ってくけど……」
必要ないよ、と翔太郎はそっけなく返答する。一週間後だ。施設の送迎サービスを利用するから大丈夫だ。おまえは普通に出勤していればいい。
「一応、施設の資料は渡しておくから。新しい住所が決まり次第教えてくれ」
事務的な翔太郎の口調に、航太は困惑する。電気、ガス、水道の手続き……云々云々。
もはや、航太の耳には届いていなかった。
♦︎♦︎♦︎
一週間後、本当に翔太郎は姿を消していた。
もぬけの殻になった彼の部屋を眺めて、航太は途方に暮れる。この一週間というもの、航太は翔太郎と話す暇も謝罪する機会も与えられずに、この日を迎えてしまった。
とぼとぼと自室に戻り、ベッドに潜りこむ。
翔太郎が入居を決めたのは、整形外科専門の病院付属のリハビリ施設だ。悪い選択ではないはずだ。病院に行け、と何度も諭してきたのは自分ではないか。
何故、こんなにも虚無感に襲われているのか。心を抉られるような思いがするのは、いかなる理由からなのだろう。
耳を澄ませても、ロンの足音はしない。静かな、ただひたすら静かな空間にとり残されて、航太はベッドに横たわり天井を見あげる。その視界に入ったものがあった。
壁に取りつけたコートを掛けるためのフック。壁から突き出ている僅かな突起。
ふと思いついて、携帯電話の充電用ケーブルを引っ張りだして、それに向かって投げてみる。うまくいかない。突起に向かって投げたところで、虚しくケーブルは宙を舞って落下してくる。もう一度。失敗。さらにもう一度……。
そのうちに視界が歪んで、壁のフックが見えなくなってしまった。
泣いているのだ、と航太は気づく。
なにを泣く必要がある?悲しいのか?翔太郎がいなくなって、寂しいのか……?おまえが望んだことだろうが、と航太は内心で吐き捨てる。ようやく手に入れた自由だ。喜べよ。自由を満喫しろよ。
ケーブルを投げる回数が、30回を越えたところで諦めて腕を投げだした。
翔太郎は、いったい何度投げたのか。エアコンが停止して室温が急上昇するなかで、命の危機を感じていただろう。何度呼んでも、ロンは応答しない。どんな想いで……。
ああ、そうか……と、航太は腑に落ちる。
おまえとは一緒にいられない。それが、翔太郎の出した答えなのだ。弟に殺されかけた兄の出した審判なのだ、と航太は思い至った。
