長編小説|Another Horizon #03
#03 横濱 CENTURY HOTEL
横浜元町から山手へと登った港を一望できる高台に、航太の勤めるホテルはある。
『横濱 CENTURY HOTEL 20 』
異国情緒の漂う街並みに融和する瀟洒な洋風建築である。
白亜の壁には蔦が絡まっており趣がある。彫刻の施された装飾窓。良く言えば老舗の佇まいのあるクラシカルなホテル、悪く言えば単に老朽化している。
「誰だよ‼︎ こんな蔦なんて壁に這わせようと考えたヤツは‼︎ 」
早朝6時。客室清掃係の嘆く声が響いた。
趣があるのは鑑賞する人の目線であり、管理する側には関係がない。地球温暖化のせいか、蔦の成長速度が異様に速い。切っても切っても成長してホテルを呑み込んでしまうのではないかという勢いの蔦と、清掃係は日々格闘している。
外注すればいいのに、と航太は同情を禁じ得ない。
庭園業者に委託すればいいものを、ハウスキーパーに任せている。ケチな社長の考えそうなことだ。社長自身も、ホテルの趣から洒脱な紳士を想像しがちであるが、その実態はただの外国かぶれの冴えないおっさんだ。
おはようございます、と航太は挨拶をして従業員用入口の扉をくぐる。
ホテルの客室の規模のわりには、従業員が多い。それもそのはずで、このホテルのコンセプトが『人の手による、ぬくもりのあるサービス』なのである。ホテルの名の示すとおり、20世紀の機械化・省人化が普及する以前のサービスを継続している、というのが売りなのである。
『ものは言いよう……って、このことですよね』
航太はさりげなく、上司に言ってみたことがある。
『人の手によるサービス……って機械音痴の社長が、自動チェックイン機も案内アバターの導入もケチって、時代に取り残されちゃっただけなんじゃ……』
それな……、と上司は笑いを噛み殺していた。概ね正解だ、と。
『老朽化したこのホテルのコンセプトを設定して立て直したのが、副社長だ。社長は言いなりになってただけだよ』
このホテルに就職した際の面接官を、航太は脳裏に思い浮かべる。元キャビンアテンダントという経歴のやり手の女副社長。社長の愛人だともっぱらの噂だ。
実際のところ、ホテルの客室の稼働率は高い。今月の宿泊予約状況を見てもほぼ満室である。観光客だけでなくビジネス利用も多い。これには、大型ホテルが相次いで撤退したという横浜の宿泊業界の事情が背景にある。
『晴れた日の洪水』という言葉がある。
近年、よく使用されるようになった言葉だ。満潮時の浸水を意味する。北極圏の氷床の崩壊に伴い海面は著しく上昇した。台風による波浪でもなく地震による津波でもない。
横浜の湾岸地区は、満潮のたびに浸水を繰りかえすようになったのだ。みなとみらい地区は既に封鎖され、有刺鉄線の張り巡らされた鉄条網で包囲されている。
横浜のランドマーク的存在であった、ヨットの帆を模した建物の外資系ホテルは撤退を余儀なくされた。それを契機とするように大型ホテルが次々と撤退した。
赤レンガ倉庫も、今では外観を遺すばかりである。商業施設はすべて潰れ、海浜公園が整備された。山下公園が拡大したと表現すれば適切だろうか。貯水池としての公園。
遠くない未来に、海に沈むことが予見されている土地。
そのような土地は、国内に無数に存在する。東京、名古屋、大阪をはじめとする大都市すべてが海に近い。既に地価は暴落する兆候を見せはじめ、新たに開発の手が及ぶことはない。
それでも、人は集うのだ。ここまで築きあげたものを放棄して、ゼロから築きあげることなどごめんだと言わんばかりに、今暮らす土地にしがみつく。
その時代にあって、航太の勤めるホテルは高台に位置していたのが幸いした。満潮時においても浸水とは無縁である。稼働率の高さはサービスの賜物と自負しているのは副社長だけで、実際は安全な立地に対する評価だろう。
「おはようございます。……どうしました?難しい顔して……」
オリーブグリーンの制服の袖に腕を通した航太がフロントに向かうと、橘修一が電話を前に腕を組んで眉を寄せていた。
肩書はフロントマネージャー。直属の上司である。すらりとした長身に、ワックスで丁寧に整えられた髪型には一部の隙もない。
「607号室の斎藤様。さっきからモーニングコールしてるんだが、全然繋がらないんだよねえ。でも外線を使用しているわけではないんだ」
人の手による機械音声ではないモーニングコールも、サービスのひとつである。おもにビジネス客に需要が高い。目覚まし時計だけでは心許ないらしい。
「受話器が上がりっぱなしになってる、とか?」
多分それ、と橘は頷く。昨夜フロントに内線で問い合わせがあったからね、と彼は言う。
「俺が部屋に伺って、確認してきますよ」
「すまん、頼めるか。これで仮に寝坊されて、大切な会議に遅刻したとでもクレームをつけられても困るからな」
航太の提案を、困り顔をしていた橘はあっさり承諾する。その目が満足そうな光を湛えるのを、航太は見逃さない。
( 最初から、俺に押しつけるつもりだったくせに…… )
エレベーターに乗りこんだ航太は、階数表示を眺めながら胸中で呟く。
悪い人ではない、のは承知している。少なくともそれが理解できるほどには大人になった。
航太がフロントに配属されてからというもの、橘は事あるごとに、一癖あると思われる宿泊客の対応を任せてくる。そして、航太はその期待に応えられないことが多い。
おまえは感情がすぐ顔に出るんだ、と指摘を受けた。ふてくされた顔をするなと何度叱られたか、わからない。橘に対して子供じみた態度をとってしまう一因は、他にある。
兄と同年輩なのだ。去年の飲み会の席で隣に座った橘に事情を打ち明けてみた。12歳という年齢差に、彼は瞠目する。
『12歳差は、かなり離れてるな……。なんの仕事をしている?』
『個人事業主なので、自宅でIT関連の仕事を』
同居していると告げたら、さらに驚かれた。
ブラコンだったのか、おまえ……と、酒で頬を赤く上気させた橘の言葉が、航太の胸に突き刺さる。薄々承知していたが、成人した兄弟がひとつ屋根の下で暮らしているのは、やはり普通ではないらしい。
『ブラコン』の四文字に航太が打ちのめされていると、完全に酒に酔って普段のスマートなホテルマンの仮面をどこかに置いてきた橘が、航太の肩に手をまわしてくる。かわいいヤツだなー、などと呟いて。
『俺のことも、お兄ちゃんだと思って甘えてくれていいからなー』
ちなみにこの台詞が橘の記憶から消失していたのは、言うまでもない。後日航太が問い正したところ、俺、そんなこと言ったか?と怪訝な表情をしていた。
607号室の扉の前で、航太は息を吸い込む。
部屋のどこにいても聞こえるよう、トントンと明瞭にノックした。
「おはようございます、斎藤様。フロントでございます。……お目覚めでしょうか?」
しばしの静寂。次の瞬間、やべえという呻き声とともにベッドから人が転がり落ちるような音がした。どうやら、今起床したらしい。
ガチャリと音がして、扉が開けられた。ドアチェーンはされたままだ。
「先ほどからお電話を差し上げておりましたが、通話中になっておりまして……。おそらくは受話器が上がったままではないかと思い、念のため確認に参りました」
ああ、そう……と、航太と同年代だと思われる若い男性客は呟く。寝惚け眼をこすって、苛立たしげに寝癖だらけのボサボサの髪を掻きむしった。
「そんで?わざわざ起こしに来てくれたわけ?ちゃんとモーニングコールはしてましたって、ホテル側に非はないことを証明するために?」
「このあと大事な御予定があるのでは、と……」
理不尽な八つ当たりとしか言いようのない男性客に対して、航太は決して表情に出さなかったつもりではある。いや、もしかしたら眉が動いていたかもしれない。
ふーん、と航太を値踏みするように眺めた彼は、さらに言葉を重ねる。
「あのさあ……、人の手によるサービスがこのホテルの売りだって言うけどさあ。あんたらのやってんのって、ただのお節介じゃないの?」
ゴンゴンゴン、と航太の頭のなかで、釘を打つ音が鳴り響いた。
大変失礼をいたしました、と接客研修で叩きこまれた角度で頭をさげる。正直、頭をさげるのは苦ではない。腸が煮えたぎっていても表情を悟られることがない。
足早にエレベーターに向かった。スタッフが廊下を走ることは許されていない。通路に敷きつめられた上質な絨毯が、航太の靴先から滲みでる怒りを吸収してくれていた。
釘の音は、まだ続いている。
深夜の神社の境内。丑の刻参り。航太の脳内で、白い装束を着た自分自身が、斎藤と名の書かれた藁人形に五寸釘を打ちつけている。
はい、ブラックリスト入り決定……と、航太は独白する。スタッフに嫌味を吐いたぐらいで、ホテルのブラックリストに記載されるわけがない。あくまでも、航太の脳内のリストだ。覚えておいてやるからな、斎藤。
では、そのブラックリストの宿泊客に復讐するのかと問われれば、何もしない。チェックイン時に提供するウェルカムドリンクに唾を垂らす、なんて犯罪行為は御法度だ。
ただ必要以上にわざとらしい作り笑顔と過剰なまでに丁寧な接客で完全武装し、自分の心が傷つくことのないよう守るだけである。
恨めしげな眼差しの航太から報告を受けた橘は、忍び笑いを漏らしていた。
「そういう客に限って、起こさなかったら起こさなかったで、文句を言うんだよ」
夜勤を終えて帰宅しようとしていた先輩フロント係の中西啓子が、橘を咎めるように見た。
「だから、私が行くって言ったじゃないですか。斎藤様って、皆月くんと同じ年頃でしょう?同年代の子に起こしてもらって、バツが悪かったんでしょうよ……。女の私が行けば、いつもママに起こしてもらってるんだもの。恥ずかしくもないでしょう?」
この世の男性は結婚するまでは母親に、結婚してからは奥さんに起こしてもらっている、というのが彼女の弁である。
確かにな、と橘は頷き、航太の肩を労るように叩く。
「ま、これも勉強のうちだと思え。キレなかっただけ褒めてやるよ」
人の気も知らないで……、と航太は心中で溜息をつく。我慢大会かよ、と。
♦︎♦︎♦︎
本日の社員食堂のA定食のメニューは、『鱈の香草パン粉焼きと、桜海老と空豆のヴィシソワーズ』のはずである。
眼前に差し出されたトレイを、航太は凝視する。何の変哲もないコンソメスープ。俺の目がおかしいのかな、と 眼をこする。
「航ちゃん、ごめーん。桜海老が品切れ……って、いつものことじゃん?客の大量キャンセルがあった場合にまわされてくる食材なんだからさあ。そんな怖い顔しないでー」
白いコックコートを纏った一ノ瀬晋平が、両手を拝むように合わせて謝ってくる。航太の同期だ。最上階である7階のフレンチレストランの厨房の所属。今日は社員食堂担当の日らしい。
「これだけを楽しみに、今日という日を生きてきたのに……」
航太の恨み言を、晋平は肩をすくめて聞き流す。
小柄なせいで、コック帽がやけに重そうだ。金髪に染めているが、童顔とおっとりとした口調のおかけで、まったく尖った印象を与えない。
『元町や中華街のおいしいもの情報』を嬉々として報告してくれる、有り難い友人だ。しかも、お客さんに案内するなら自分も食べなきゃダメと豪語して、休日に航太を連れ出す。男ふたりで食べ歩きかと空しくなるが、自宅にいるよりは気が晴れる。
「航くん、久しぶりー。元気にしちょった?」
突然、傍らで明るい声がした。
驚いて振り向いた航太は、同僚の園田くるみの姿を目に入れる。
1階のカフェテリアの給仕係。彼女もまた同期だ。黒のワンピースに白のレースの縁取りのついたエプロンドレス。どことなくメイド服というヤツを連想してしまう。膝より少しうえに設定された短めのスカート丈は、絶対に社長の趣味だと断言できる。
「晋平くーん、私にもA定食下さーい」
くるみは航太の隣の席に小振りのトートバッグを置くと、厨房の晋平に声をかける。そのすらりと伸びた小鹿のような脚が視界に飛びこんできて、航太は思わず目を逸らす。
『女の脚は見世物じゃねえ』と、先輩女性社員がスカート丈を長く調整して着用しているなかで、彼女だけは規定の長さのままである。綺麗な脚を見せびらかしているというよりは、男の視線に無頓着というのが正解だろう。自分の魅力に気づいていないのが、魅力なのだ。
身勝手だなと、航太は思う。綺麗な脚を盗み見るくせに、脚を故意に露出する女は好きじゃない。可愛い女は好きなくせに、自分のことを可愛いと認識している女は敬遠してしまう。
「A定食、無事ゲットしましたー」
窓に面した長テーブルに航太は腰かけている。隣に置かれた彼女の器にさりげなく視線をやって、叫びそうになった。品切れのはずの『桜海老と空豆のヴィシソワーズ』が彼女の膳には添えられているではないか。
くるみに悟られないよう、思いきり晋平を睨む。航太の視線に気づいた彼は、口の動きだけで『レディーファースト』と伝えてきた。そう言われると反論できない。
「身体は、もう大丈夫?……宮崎に里帰りしてたんだっけ?」
大丈夫、大丈夫と、くるみはVサインをする。
宮崎に帰省していた彼女は、職場に復帰して程なくして、熱を出して欠勤していたのだ。
鱈の身をフォークで口に運ぶ彼女の横顔を、航太は眺める。顔色は悪くない。
「宮崎までは新幹線?何時間かかった?」
「8時間 ……。昔は、羽田空港から1時間ちょっとで行けたけんね。不便な時代になったもんや」
宮崎までの長旅を思いだした様子で、くるみはうんざりした表情で首を振って嘆いてみせた。どげんかしてー、などと呟いている。
それにしても彼女の宮崎弁は可愛い、と思う。
宮崎弁を編みだした先人に感謝したいくらいだ。彼女曰く、大学が福岡だったから宮崎弁と博多弁と標準語が入り混じっているそうだが、航太には区別がつかない。
「航くんは?お里、どこやったっけ?」
信州、と航太は答える。
「長野県の諏訪……って、わかる?諏訪湖って湖があって、花火大会で有名なとこ」
ヒューと、くるみが口笛を吹いた。そのひやかすような音色に航太は苦笑する。
「今の口笛の意味は?」
「だって、信州の諏訪って言うたら、遷都が噂されてる場所じゃない?」
ただの噂だよ、と航太はやんわりと否定する。
『遷都』 ── 首都機能移転。火のないところに煙は立たない。その噂があながちデマとは言いきれないことを、航太は同窓生からの情報で承知している。
海に沈む心配のない場所。リニア中央新幹線が開業してから、山梨から長野にかけての山岳に挟まれた土地が俄に脚光を浴びた。
第一候補としてあげられているのは、山梨県の甲府だ。ただし、甲府だけでは首都機能を受けいれるには狭小だ。そこで取り沙汰されているのが、甲府から長野県の諏訪、そして松本にかけて一帯が遷都の対象地域ではないかというものだ。
赤石山脈、木曽山脈、飛騨山脈、アルプスに囲まれた長野県は平均して標高が高い。標高が高ければ気温はさがる。理想的ともいえる環境なのだ。
そして遷都の噂を裏づけるように、環境省が突如として『中部山岳国立公園』の指定をはずした。それに追随するように『八ヶ岳中信高原国定公園』の指定もはずされた。
事実上の、山岳地帯開発を許可するゴーサインだ。
霧ヶ峰の車山。一面に咲き誇る橙色のニッコウキスゲの大群落が航太の脳裏に浮かんだ。昔、家族で眺めたあの景色も、ブルドーザーに薙ぎ倒されて消えてしまうのだろう。
「まあ、でも実際に開発が進んでるのは確かなんだ。移住してくる人も多いし、上高地なんて富裕層がこぞって別宅かまえているらしいし……。うちの母さんなんて、実家……ばあちゃんちのことだけど、そこの土地の値段が暴騰してるんで虎視眈々と相続を狙ってるよ」
羨ましいな、とくるみは淋しげに笑う。
「宮崎なんて廃れる一方やもん……。暑すぎていつまで住めるかもわからん」
笑った拍子にショートボブの髪が揺れた。頬杖をついて遠い瞳をする彼女を横目に見て、航太はどうしたものかと困惑する。自分の故郷の話を饒舌に語りすぎてしまっただろうか。冷めてしまったコンソメスープを口に含んだ。
押し黙っている航太に気づくと、くるみは取り繕うように笑って、話の矛先を変えてきた。
「そういえば航くん、うちのホテル……SNSで話題になってんの知ってる?」
「ああ、ぬいぐるみのヤツ?」
更衣室で誰かが喋っているのが、耳に入ってきただけだ。詳細は把握していない。
これこれ、と言って、くるみはタブレット端末の画面を差し出してきた。
黒猫のぬいぐるみがベッドに寝ている画像。置かれているのではなく、きちんとシーツを被って両手を出して、枕を背に仰向けに寝ているのだ。そしてもう1枚目は、椅子に座って万歳をしているようなポーズ。
「連泊のお客さんが部屋に置いていったぬいぐるみを、演出したってこと?」
「そう。1枚目はちゃんとお留守番して寝てましたバージョン。2枚目は飼い主におかえりなさいするバージョン。これね、由岐が仕掛けたんよ」
由岐というのは、彼女が親しくしている客室係のことだろう。その客室係の彼女の、茶目っ気あるサービスに感動した宿泊客がSNSにアップしたという顛末らしい。
大丈夫なのか、と航太は危惧してしまう。
客の荷物には極力触れないのが鉄則である。清掃の都合上触れざるを得ない場合でも、客に悟られないよう元の場所に戻しておくのが基本だ。
そして、航太は自分が彼女たちと対極の考え方をしている事実に思い至る。
客の喜ぶ顔を見ることより、クレームが発生しないことを前提に考えている。そのこと自体は悪いことではない。しかしそこに存在するのは自己保身だ。
「俺、この猫のいったいどこが可愛いのか、全然わかんない。目つき悪いし」
あえて、ぬいぐるみの演出の是非には触れなかった。
えー、可愛いじゃーん、とくるみはけらけらと笑っている。
彼女の尊敬に値するところは、同僚に向けるその嘘偽りない笑顔を客にも向けることだ。航太が常に着用している営業用の仮面を、彼女は必要としていない。殊勝な表情で謝罪しながら、心のなかで唾を吐いている自分とは根本的に違う。
俺と同じ轍を踏んでくれるな、と心のなかで願う。
新人のころ、彼女は接客時も宮崎弁がなかなか直らずに苦慮していた。その方言が親しみやすいと年配の宿泊客に好評だったのも、直らなかった一因だろう。休憩時や研修で顔を合わせるたびに、航太は彼女の標準語の習得につきあった。
そして、ある日を境に突然宮崎弁は消えた。客からクレームがあったのだ。
何喋ってんだか、わかんねえよ。俺たちにわかる言葉で喋ってくんねえかな。その変な喋り方、いったいどんなド田舎の方言だよ。
客から罵詈雑言を浴びせられて、頬を紅潮させて立ち竦んでいた彼女の姿を思いだす。
「航くん、もうそろそろ戻らんと……」
時計を確認したくるみは椅子から立ちあがろうとして、突然よろめいた。
航太は反射的にその腕を掴んで、くるみの身体を支える。そして、彼女が完全に回復したわけではないことを悟る。
「病名って、結局なんだったの?」
熱の原因が判明せずに、病院を何軒かまわる羽目になったと聞いていた。
くるみは、僅かに言い淀む。誰にも言わんでね、と航太に念を押してくる。
「マラリアだった……」
ついに日本にマラリアを媒介する蚊が飛ぶ時代になったのか、と航太は絶句する。しばらくして、感染地が宮崎であることに思い至った。潜伏期間があるはずだ。
「最初は、インフルエンザだと思い込んでいたから。ただ、マラリアを疑ったほうがいいって進言してくれた人がいたの。その人のおかげで、初期の段階で適切な治療が受けられて、重症化せずに済んだ……」
進言してくれた人、と語った際に、くるみが微かに頬を赤く染めたように思えたのは、気のせいだろうか。
決して、ありふれた感染症ではない。沖縄と鹿児島の離島で数名の症例が確認されているだけのはずだ。そのマラリアを疑え、とはどんな人物なのか。
( いや、ひとりいるか…… )
マラリアに感染したことのある人物なら、ひどく身近に存在している。兄の翔太郎だ。
ただし国内ではない。渡航先のアフリカのタンザニア……だったように記憶している。しかも10年以上も以前の出来事だ。
その奇妙な一致に、何故か心が騒いだ。
