創作大賞応募作品| 寧々 《第9話》
《第9話》 邂逅と悔恨
階下から、寧々の笑い転げる声が聞こえた。
あの日以降、久しく聞いていなかった寧々の笑い声。続いて、柊生のものと思われる喚き声。
『縛っていいって言って、ホントに縛るヤツがあるかよ ⁉︎ あんた、SMの女王さまか?』
いったい、どういう会話だ。そもそも、何故このふたりが会話する運びとなっている?変な夢でも見ているのか。
透哉は目を覚まして確認しようとするのだが、身体が動かない。泥のような疲労を纏ったまま、ベッドに磔にされているかの如く、腕を持ち上げることすらできない。
♦︎♦︎♦︎
「もしかして、柊生さん……ここに居たのか?」
結局透哉がベッドを抜け出すことができたのは、時計の針が9時を指し示そうかという時刻だった。
階下に降りると、台所に寧々がいた。柊生の気配は既にない。ないが、あきらかに人が滞在していた痕跡がある。新品とおぼしきマグカップ。底に微かに残る黒い液体は、コーヒーか。寧々のものではない。彼女はカフェオレしか口にしない。
「そうだよ。透哉が酔っ払って歩けないからって、わざわざ送っていただいたんでしょう?しかも会社の寮に戻ればいいのに、『ここに来る』って言い張ったって……」
とんでもない醜態である。かなり度数の強い泡盛を飲んだ。それに加えて疲労困憊の身体と睡眠不足。それにしても、酷すぎないか?
「だからって、泊まっていくか、普通 ⁉︎ 」
「終電だったんだから、仕方ないでしょう?」
タクシーで帰ればいいだろ、と透哉は反論する。自らの醜態を棚に上げて柊生を責めるのは、御門違いであるのは承知している。
寧々が、なにを言ってるの、と眉を顰める。
「ここからタクシー利用なんて、とんでもない金額になるでしょう。始発で帰るって言うから、泊まってもらっただけ」
「……それで、あの妙な会話か?」
途端に、寧々の頬が赤く染まった。聞こえてたの?と、透哉を睨めつける。
「寝室に引きあげようとしたら、ここに居て欲しいって頼まれたの。見ず知らずの男と居るのが不安だったら、自分の手脚を縛ってくれていいからって」
寧々はどうやら本当に柊生を拘束したらしい。ソファに使用されたと思われるタオルが転がっている。それで、柊生のあの喚き声に至るわけか。
「自分で言い出しておいて、本当に縛るのかよって、文句言い始めて。挙げ句の果てに、SM女王って、なんなの、あの人……。失礼しちゃう」
失礼しちゃう、と非難しておきながら、実際のところ寧々は不快には思っていない。
「そんなこと……、初対面の女性に言うような言葉じゃないだろ」
透哉の言葉に含まれた棘に気づいたのか、寧々は首をすくめてみせる。そして、衝撃の台詞を口にする。
「今度会ったら、SMごっこしようって言われたけど?」
思わず、透哉は絶句する。
意味がわからない。初対面の女性に際どい言葉を投げかけてもなんのお咎めもないあたりが、柊生の柊生たる所以ではある。
ただ、寧々を相手にそれをしないでくれ。柊生が、アプリで出会うような女と一緒にしないでくれ。誰もが性的な会話を楽しめるわけではない。
「消せよ、連絡先」
寧々の顔から、表情が消えた。今度と言うからには、柊生は連絡先を告げているだろう。テーブルに置かれた彼女の携帯を顎で指して、透哉は削除しろと低い声で指示する。
「なんでそんなこと、透哉に指示されなくちゃいけないの?会うも会わないも、私の決めることでしょう?」
「それなら、SMプレイがしたいのか?」
「そんなこと言ってない ‼︎ 彼のただの冗談を真に受けちゃって、馬鹿みたい」
馬鹿の一言に、心が抉られた。埒があかないと悟った透哉は、テーブルに手を伸ばして実力行使に出る。寧々が顔色を変えて阻止してきた。透哉は力ずくで彼女の携帯を掴み、連絡先一覧の一番上にあった柊生の名を削除する。
頬を、爪で引っ掻かれた。それを振り払おうとして、腕を強く掴んでしまったかもしれない。慌てて手を離すと、渾身の力で平手打ちされた。
肩で息をしながら、寧々は最低、と呟いている。叩かれた頬をさすりながら、透哉は追い討ちをかける言葉を彼女に投げる。
「残念だけど、柊生さんのほうから連絡は来ないよ。あの人『来る者拒まず』だけど、自分からは行かないから。寧々から連絡がない時点で諦めると思うよ」
そこで、透哉を睨みつけていた寧々の表情が変化した。殻が捲れるように。非力な女の仮面をそっと剥ぐように。微かに笑いながら、寧々は立ち上がる。
「ねえ……、また邪魔するの?」
寧々は椅子に横向きに腰掛けて、背もたれの上で腕を組む。床に座り込んでいる透哉を、自然と見下ろす姿勢となった。
「邪魔って、なんのことだ?」
「男の人と会おうとすると邪魔してくるの、これで何回目?アプリで知り合った男の人と出かけてたら、血相を変えて駆けつけてきたでしょ?」
「ホテルに連れ込まれそうになってたのを、助けただけだ」
「助ける?誰も、助けてとは言ってないのに?」
部屋に連れ込まれてからでは、遅いのだ。そこでどれほど助けを求めて叫んでも、誰の耳にも届かない。
「じゃあGPSで私を監視するのも、私を助けるため?」
「監視なんてしてない。心配してるだけだ」
心配ね、と寧々は嘲笑う。
雨が、硝子窓を打つ音がした。そうだ、雨。今日が雨になると承知していたから、「寧々の家に行く」と自分は言い張ったのではなかったか。
「ごめん……。言い争うつもりはなかったんだ。寧々、どこか行きたい店とか、買いたいものとかある?」
せっかくの雨の日を逃すわけにはいかない。この家から出ることのできない寧々を、外に連れ出す絶好の機会なのだ。
「私が本当に雨の日しか外出できないって、信じてるの ……?私、『雨が好き』『人混みが苦手』って話しただけだよ?それを透哉が曲解して、雨の日に嬉々として連れ出して満足そうにしてるだけでしょう?」
寧々は、さらに言葉を重ねる。
「働くことに関しても、そう。私がバイトの面接に行こうとするたび、透哉は嫌なことばかり言うの。『中卒で雇ってもらえるわけがない』とか、『寧々はのんびり屋だから無理だ』『タダで暮らせる家があるからいいだろ』とか。そうやって私を社会不適合者だと自覚させて、この家に閉じ込めようとしておくの」
そんなつもりはない。近いことは……言ったかもしれない。中卒で採用が不利になるのは、紛れもない現実だ。寧々がのんびりしているのも、本人の性質だ。家賃不要のこの家があるから無理して働く必要はない、と告げた気がする。
あなたにとって、私はなんなの?と、寧々は糾弾する。
「自分のほうが歳下なのに、ずっと保護者気取りで。寧々は社会人経験がなくて、世間知らずで、子供っぽくて、ひとりじゃなにもできない。そう思わせて、頼りになるのは自分しかいないって、じわじわと外堀を埋めてくる」
外堀……。外堀って、何だ。いきなり弟への不満を噴出させた寧々の姿に、透哉は混乱に襲われている。
「外の世界を見せないようにして、他の男性と比較する機会を奪えば、私が透哉を選ぶとでも思ったの?」
「選ぶ……って。自惚れんなよ、図々しい。いつ誰が、そんなこと言った?」
核心を突かれて、思わず声を荒げていた。寧々は動じない。弱虫、と寧々の唇が、透哉を糾弾する。
「いつも私が寝てる隙に、こっそりキスしてるくせに?」
「……してない。寧々が、変な夢でも見てたんじゃないのか」
ふーん、と寧々は笑う。
「じゃあ、2階の透哉の机の引き出しにある指輪は?誰に渡すためのもの?」
社会人になったら寧々にプロポーズしようと、初任給で購入したものだった。最悪だ、と透哉は臍を噛む。これ以上ないほどに、最悪の展開だ。
そのとき、寧々が脚を持ちあげた。膝を抱えて座り込む体育座りの姿勢。透哉は、思わず目を逸らす。自分の座っている位置からでは、スカートの奥の下着が見えてしまう。
しばらくして故意に見せているのだ、と気づいた。透哉の部屋のベランダに干されていた、白い繊細なレースの ……。
「それとも、これからも私の下着だけ眺めて満足するつもりなの?」
