創作大賞応募作品| 寧々 《第10話》
《第10話》 再会
最初にその中年女性の姿を見たのは、駅の監視カメラの映像だった。
懐かしいような既視感に囚われたが、すぐに気の迷いだと掻き消した。何故なら、その女性は閉鎖している改札を強行突破していったからだ。不正乗車である。
実際にその人物を目の当たりにする機会は、程なくして訪れた。有人改札にて、透哉が言葉の通じない外国人観光客への案内に四苦八苦している隙を突いて、横を擦り抜けていった。
透哉は改札業務を俊さんに任せて、彼女の後を追って階段を駆け降りる。その女性が自分の想定している人物か否か確認したかった。
「お客さま、お待ちください。切符を確認いたします」
止まらない。想定済みだ。このままホームに駆け込んで乗車してしまうつもりだろう。
「待てよ、母さん」
階段を降り切ったところで、女性の脚が止まった。彼女を母と呼ぶ人間は、透哉以外に存在しないはずだ。自分が捨てた息子の顔を見るのが怖いのか、女性は振り返らない。
追いついた透哉は、切符を拝見いたします、と彼女の手にしているIC乗車券を半ば強制的に奪いとる。案の定、定期の期限が切れていた。
透哉……、と呆然としていた母親の口から、自分の名が溢れるのを、透哉は複雑な思いで受けとめる。
時の流れを証明するように、透哉の身長は彼女を優に超えている。見下ろした彼女の頬には歳を重ねた分の皺が幾つも寄っていた。
再会した母親に向けた透哉の言葉は優しさに欠け、半ば脅迫じみた物言いになっていた。
「このまま不正乗車で警察呼ばれるのと、自分が捨てた息子と再会を祝してお茶するの、どっちがいい?」
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お茶をする場として、母親の住処を透哉は要求した。不正乗車をする程までに、困窮しているのか。その生活背景を知っておきたかった。
いや、もしかしたら平常心で対応する自信がなかったのかもしれない。喫茶店では、声を荒げて罵倒することもできない。周囲の目を気にせず会話ができる空間を必要としていた。
「ねえ、こんなとこまで来て、どういうつもり?まさか今さらその歳で、一緒に暮らしたいなんて言いださないわよね?」
郊外の団地の一室。単身者向けなのか、間取りは1Kで手狭な印象を拭えない。冷蔵庫に貼られたチラシや、テーブルに置かれた食パンの特売品のシールが生活感を醸しだしていた。
再婚して、新たな家庭を築いているわけではない。自分たちを捨てた母親の末路が、どこか侘しくて幸福とは対極の位置にありそうなことに安堵する。それだけで、赦せる気がしていた。
「心配しなくても、そんなこと言わないよ。せっかくの息子との感動の再会なんだから、水差すようなこと言うなよ」
感動の再会ね、と母親は心底嫌そうな表情をする。
警察への通報を見送った。定期券の購入費を透哉が代わりに負担した。それを笠に着るような振る舞いをする透哉が、気に食わないのかもしれない。
「立派になったとか、制服姿が見違えたとか、そういうことを言って欲しいの?」
「言わなくていいよ。むしろ、気味が悪い」
「じゃあ、あなたを捨てて家を出たことを謝って欲しいの?」
あなた、と母親は単数形で告げる。あなたたちの間違いではないのか。捨てたのは実子である自分だけか。寧々は含まれないのか。
透哉の沈黙を母親は非難と受けとめたらしい。ごめんなさい、と呟いてから、弁明らしきものを述べ始める。
「あなたに、一緒にあの家を出るかって訊こうとしたのよ。ただあのときの透哉は、どう考えてもあの子に心酔していて、首を縦に振ろうとはしなかったでしょう?」
寧々を、あの子と呼ぶ。透哉が寧々に向けていた感情を心酔と呼ぶ。それだけで、母親が寧々を快く思ってはいなかったのだということが窺い知れた。
あの日、ボタンの弾け飛んだカーディガンを纏っていた寧々に、同情の眼差しを向けない。同じ女性の立場でありながら、寄り添おうという姿勢を見せない。
それを透哉は、母親の薄情さからくるものだと信じていた。寧々は、実子ではないから。だが時を経た今になって、違和感を抱き始めていた。
「あの子、なんにもされてないわよ」
母親は、さらりと核心を突く。透哉が、寧々に訊きたくとも訊けずに長年胸のなかに秘めていた疑問だ。
すぐには言葉が出なかった。心を落ち着かせたくて、テーブルの上のほうじ茶を手にとる。口に含んだが、苦さばかりが舌に残った。
「私は寧々の嘘に付き合うのに、ほとほと疲れ果てたの。嘘だって気づいているのは女の私だけ。彼女の狂言だって言えば、私は悪者扱いだし。もう、うんざりして家を出たの」
結局のところ、自分は寧々のことが知りたかったのだ。だから、母親の自宅まで押しかけた。いつでも再訪できるように。母親の環境や経済状況など二の次に過ぎない。
「その根拠は?母さん、病院に同行してただろ?それに確か、警察にも被害届を出しに行ったはずだ」
口に出してしまってから、病院に同行していたからこそ確信しているのだ、ということに透哉は気づく。あまり想像したくはないが、被害に遭えば身体に痕跡が残る。例えば痣であるとか、男の体液であるとか。
それが、なかったということは……。
「病院には行ったけど、服を脱いで身体の隅々まで調べなくちゃいけないってわかった途端に、診察拒否よ。裸にされただけだから、緊急避妊の処方は必要ないって」
要約すると、寧々の訴えた被害は「裸にされた」「触られた」「写真を撮られた」とのことだった。
「その写真は……?」
裸にされた、触られた。これらは誰もいない密室では、証明することができない。いやだからこそ性犯罪は密室で行われるのであり、その閉鎖性が立証を困難にする。
だが写真は?写真は、明確な証拠物件だ。
「あったわよ。寧々が訴えた『あの子』の携帯に、裸の写真が保存されてた」
『あの子』とは、寧々の通っていたピアノ教室の隣の住宅に住む青年のことだった。
青年であるのに、何故あの子なのか。知的障害者だからだ。完全に成人した男性の体躯を持ちながら、その言動は幼い。
大人の身体に子供の言動。その違和感を嫌悪する人間もいれば、なんの拘りもなく受容する人間もいる。
「ピアノ教室の生徒さんのなかで、ちょっとした問題にはなってたのよ。腕を掴まれたとか、待ち伏せされたとか」
そういえば、寧々も「遊ぼう遊ぼうってしつこい」と言っていた。透哉は遥か昔の記憶を手繰り寄せる。
本人に悪意はないのだ、と母親は障害者の彼を庇う。子供が子供を遊びに誘っている。だが世間の目には、大人が子供に悪戯をしようとしているようにしか映らない。
ちょっと待って、と透哉は会話を止める。
「なんで、寧々が嘘をついている前提?どうしてその彼が無害な存在だと言い切れる?」
私の叔父さんが知的障害者だったから、と母親は弁明する。人によって違うけどね、とも付け加えながら。
「彼が逮捕された途端に、寧々が慌てたように『被害届を取り下げる』って言い出したから。それに写真は一枚しかなかったから。普通そういう性癖があるなら、何枚も所持しているものでしょう?」
「その写真、見た?」
「見たもなにも、今も持ってるわよ」
思いがけない一言に、透哉は驚愕する。母親はどこか後ろめたいような表情で言葉を継ぐ。
「あの子の母親に謝罪に来ていただいた際に、写真のデータを送ってもらったの。どうしても腑に落ちなくて……。それを捨てられずに今まで持っていたのは、あのときまだ幼くて蚊帳の外だったあんたが成長して、いつか訊きに来るんじゃないかって思っていたからかもしれない」
確かに蚊帳の外だった。あの日から、1ヶ月以上も祖母の家に預けられて、そこから登校していた。警察に被害届を提出して、彼が逮捕、そして被害届を取り下げるに至るまでの一連の流れのすべてが初耳だった。
「被害届を取り下げたってことは、無罪放免だろ?だったら、なんで……あの親子は……」
あの踏切で、轢死体となって横たわっていたのか。
理由は訊かずとも知れた。無罪であるか否かではない。警察に逮捕された時点で、もう犯罪者の烙印が押されたも同然なのだ。人は、自らの見たいようにしか見ない。信じたいようにしか、信じない。
「その写真のデータ、送信してもらえる?」
透哉の依頼に、母親は困惑したように眉を寄せる。まあ、当然だろう。血が繋がっていない姉の裸の写真を、実の息子である弟が要求している。抵抗があるのは無理もない。
「寧々の承諾がないと駄目?……もう既に男女の関係にあると言っても?」
溜息が聞こえた。あんた、やっぱり……、と母親は呆れたような呟きを漏らす。
嘘も方便のつもりだった。どうやら自分は、幼少の頃から寧々に恋慕の眼差しを送っていたらしい。
