見出し画像

創作大賞応募作品| 寧々 《第4話》

《第4話》 寧々の白い家


 寧々の家の鍵穴に合鍵を差し込むとき、いつも透哉の心は密かに高揚する。

 寧々の家。正確には、自分たち姉弟が暮らしていた家屋である。現在は、ともに暮らしてはいない。大学を卒業して交通局に就職したのを機に、透哉は会社の独身寮に入居している。

 寧々の家と言い表すのは、実際にこの家屋の名義人が彼女自身であるからだ。寧々の実父であり、透哉にとっての養父が購入した家である。

 彼が交通事故で他界した際に、透哉はすべてを寧々に譲った。養子縁組している自分にも遺産相続の権利はあるのだということは教えられていたが、透哉にとっては些末事に過ぎなかった。

 寧々は働いていない。働くことができない。だから、父親が他界してローンが免除されたこの家は寧々にとって必要不可欠なものなのだ。

「寧々、ただいま」

 玄関に脚を踏み入れて、透哉は奥の空間に呼びかける。

 吹き抜けとなっている天井窓から、午後の陽射しが降り注いでいる。玄関扉を開けた途端に視界に入る、螺旋階段。洒脱な造りだ。

 もともとは近隣にあるカトリック教会の西洋人牧師の所有だったそうだ。彼が帰国した際に売却したものを、建築に造詣が深い寧々の父親が買い求めたのである。

 築年数は古い。白亜の壁は雨に汚れてくすみ、部分的に塗装が剥がれ落ちている。それでも、家の中は塵ひとつ落ちていない。いつ来ても、丁寧に掃き清められ、清掃が行き届いた居心地の良い空間が維持されている。

 寧々の返事はない。寝てるのか、と透哉は思う。時刻は午後1時過ぎ。留守にしているという発想はない。

 リビングの革張りのソファに、寧々は横たわっていた。床には漫画本が転がり落ちている。読書中に、寝落ちしたらしい。

 透哉は漫画本を拾いあげて、ガラステーブルに置く。そして寧々の身体に、ソファの背にかけられていた毛布ブランケットを被せた。室内は寒くはない。毛布はあくまでも自分の視界から、寧々の身体を隠すためのものである。

 いつもここで止まれ、と透哉の心はブレーキを踏もうとする。が、そのブレーキは常に無効である。寧々の柔らかい髪に触れる。起きない。頬に触れる。起きない。無防備な寝顔を晒す寧々が悪い、と透哉の心は責任転嫁する。

 寧々が悪い、寧々が悪い。心に刻みながら、顔を寄せて唇を重ねる。血の繋がらない弟に悪戯キスされているのに、寧々が目を覚ます気配はない。

 寧々を、心の内で全身全霊で責める。起きろよ。起きて、平手打ちするなり罵倒するなりしてくれ。ここに二度と来るなと言い渡してくれ。そうすれば、この積年の想いに終止符を打てる。

( 終止符ね ……)

 透哉は、自虐的な思いに駆られる。終止符を打つ機会など、これまでに幾らでもあった。最大の機会は、この家を出たときだろう。

 寧々とひとつ屋根の下で暮らすことが耐え難くて、独身寮のある会社に就職した。寧々と離れ離れになるのが嫌で、地方転勤の可能性のない都内の交通局を選んだ。

 職員は、福利厚生として『職務乗車証』と呼ばれる実質地下鉄乗り放題のパスを支給される。これで寧々にいつでも会いに行けると、ほくそ笑んだ。

 寧々に、「ちゃんとご飯食べてるの?」と心配されたくて、自炊のできないだらしない男の振りをしている。

 実際のところ社食はあるし、食にまつわる環境には恵まれている。にも関わらず、ここで透哉が食事をする機会が多いのは、寧々の顔が見たいからに過ぎない。

 そして、寧々から離れることができずに、今日という日を迎えている。

♦︎♦︎♦︎

 螺旋階段を上り、2階にある自室に向かう。透哉がこの家を出てからも、寧々はもともと利用していた部屋をそのままにしてくれている。

 ベッドのシーツに倒れ込むように潜り込んだ。洗いたての柔軟剤の匂いだろうか。柑橘系の匂いが鼻をくすぐる。自分の来訪を見越していつでも清潔な状態に保たれている、その事実がまた透哉の心を高揚させる。

 太陽が燦々と輝くこの時刻に、ベッドに入るのは睡眠不足であるからに他ならない。

 駅員というのは、泊まり勤務が多い。拘束時間はおよそ24時間に及ぶ。日中に出勤して終電まで対応。仮眠時間を挟んで始発列車の対応。朝の通勤ラッシュを見送って業務終了である。

 僅か4時間に満たない仮眠時間では、到底足りない。泊まり勤務が明けるたび、透哉は独身寮に戻らずに、寧々の暮らすこの家まで来ては、惰眠を貪っているのである。

 だが、本格的な眠りは訪れなかった。透哉はうとうとと微睡まどろみながらも、ベッドのなかで煩悶する。

──  俺と、結婚してくれませんか。

 離れることのできない関係なら、いっそのこと進めてしまえばいい。血縁関係にないのだから、法的に婚姻は可能である。続柄が姉と弟から、夫と妻に変更になるだけだ。自分が独身寮からここに戻ってくれば、完了である。経済的にもなんの支障もない。

 自惚れているわけではないが、寧々は承諾するような気がしていた。弟に想いを寄せているわけではない。それだけは絶対にない。悲しいが、断言できる。

 寧々は、庇護されて生きていきたい女だ。妻という属性を欲している。誰かのものになって、誰かの保護下に置かれて生きていきたい人間だ。

 そして、寧々の世界にいる唯一の異性は透哉しかいない。自分は彼女に消去法的な選択の果てに夫として認定されることに、耐えられないだけである。

 懸念は他にもある。結婚して、関係は終わりではない。その先をどうすればよいのか。寧々は子供を望むだろう。性行為なくして、子供は望めない。

 あのとき性被害に遭ったかもしれない・・・・・・寧々を、どうやって抱けと?汚された女だ、などと思う気持ちは微塵もない。むしろ怖いのは、傷つけてしまうことだ。欲にまみれた汚い男だと厭われるのが怖いのだ。

 怖い。怖くてたまらない。欲望を抑えられずに寧々を傷つけてしまうのが、怖い。いや逆に萎縮して、男性として機能せずに醜態を晒してしまうのも怖い。

 だから『弟』という名の安全圏にしがみついたまま、どこにも行くことができずにいる。


 風が吹いた。洗濯物のハンガーがぶつかり合う音が響く。ガシャガシャという音が不快で、透哉はカーテンを開け放ってから、後悔した。

 勘弁してくれ、と項垂うなだれたくなった。俺の部屋に自分の洗濯物を干すな、と言いたいが……。思い返せばつい先日、女性物の衣類を庭先に干すのは不用心だからやめろ、と寧々に忠告したばかりだった。自分で蒔いた種ではあるが。

 寧々は、女性らしいものを好む。

 おそらく好んでいると思われるのは、ラベンダー色だろうか。もしくは薄紫。菫色ヴァイオレット。くすんだ感じの温かみのある色彩を好む。男性の自分は、まず手に取ることのない色だ。

 素材も違う。シフォン素材という呼び方で合っているだろうか。ふわふわとしていて柔らかい印象だ。少なくとも柊生が、この手の素材の衣服を着用しているのを目撃したことはない。

 繊細なレースに縁取りされた白い下着が目に入ってしまって、思わず透哉は目を伏せる。それを身に纏っている半裸の寧々の姿を思い描いてしまうのを抑えるのに、苦労をした。庭先だけでなく、弟の部屋に干すのも不用心だ。

( だから、違うんですよ。柊生さん …… )

 男に恨みでもあるのか、と柊生は尋ねてきた。痴漢撲滅にムキになっている、と。恨みがあるわけではない。正義の味方ではない。

──  普通車両に乗ってきた女が、悪い。
──  寝顔を無防備に晒している、寧々が悪い。

 馬鹿は自分だ。あの男たちのふりかざす理屈となんら変わらない。ただの同族嫌悪に過ぎない。違いは、少なくとも自分は欲望を恥じる気持ちだけは、かろうじて持ちあわせている点だ。

 好きな女に触れることができなくて悶々としている、ただの寂しい男だ。 



いいなと思ったら応援しよう!