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長編小説|Another Horizon #05

#05  兄の暮らす部屋へ


 飴を口腔内に大量に詰め込まれて、窒息しかけた女性客が救急搬送された。  

 夜勤明けの橘からの引き継ぎ事項に含まれていた内容に、航太は表情を凍らせる。

「飴、ですか?」

 滅多なことでは動じない橘の顔が、珍しく歪んでいた。

 紬……ではないのか。

 このホテルに航太が勤務していることを、彼女は承知している。あの日、彼女が手渡してきた膨大な量の水色の飴が脳裏に浮かんだ。

「頬がパンパンになるほどの大量の飴で、しかも溶けてしまっているもんだから、テニスボールみたいな球状になって、もう口から取りだせない。あんなの傷害罪か、ヘタすりゃ殺人未遂だろう」

 詰め込まれたことを前提に、橘は物事を語っている。当然だ。窒息しかけるほどの大量の飴を、自ら口に入れる人間はいない。

 異物を食べさせられるのを、防ぐ目的でなければ。

「警察に連絡は?」

 したよ、と橘は即答する。

「お連れ様は……自分がやったんじゃないと喚いていたが、信じられるわけがないだろう。まあ、ともかく、相手の男は警察に引き渡したし、女性客は駆けつけた救急隊員が飴を砕いて吸引してくれたんで、事なきを得た。まだぐったりした様子だったんで、搬送してもらったが…… 」

「そうですか…… 」

 これで一件落着、でよいのだろうか。

 はたしてそれは、紬の望んだ結末だったのだろうか。このホテルを宿泊先に選んだのは、フロントに航太が勤務しているのを期待してのことだろう。

 橘は、ホテル側の人間として為し得る最大限のことをしている……ように思える。ただ、漠然と込み上げてきた思いがあった。

 自分が非番のときでよかった、と。



 飴を詰め込まれた美女と、詰め込んだ『珍獣』の話で、休憩室は持ちきりだった。

 『珍獣』というのは、相手の男らしい。伴侶と呼ぶには、容姿的に釣り合いが取れていない組み合わせの男女だった、と。あれは水商売の女だ、と誰かが断言する声がした。

 詰め込まれそうになったのは飴じゃない、と何度も叫びそうになるのを、航太はかろうじて堪えていた。橘が隣にいたら叱責されていたであろう無気力な態度で業務をこなし、夜勤の従業員に引き継いで家路についた。

 繰りかえし繰りかえし、胸のうちで反芻している想いがある。

 どうして、あのとき縋りついてきた彼女を引き剥がすような真似をしたのだろう。

 何故利用されたなどと、思ったりしたのか。紬を悪女に仕立てあげ、彼女を救うことのできない罪悪感から逃れようとしたのだ。助けてくれれば寝てあげる、と明言されたわけではない。それはただの自分の下衆ゲスな解釈だ。

( もし、仮にそうだったとしても…… )

 地下鉄の車内で、航太は息苦しさを覚えて天井を仰いだ。痴漢撲滅を啓蒙けいもうするポスターが目に入る。

 女が男に助けを求めて、何が悪い。腕力で叶うはずがないのだ。体格差で劣る男から身を守るために、女の武器を使って何が悪い。いつもジャージ姿で航太に対しては女を見せることのなかった彼女が、突然媚態を示してきただけで悪女か。

 地下鉄の構内を抜けて地上に出ると、むせかえるような熱気が押し寄せてきた。

 あなたを買うつもりはありません、と人畜無害な欲のない顔をしておいて。お溢れに預かれないか、と果実が落ちてくるのを樹の下で待ちかまえている。その自分を見透かされたようで、ただひたすら恥ずかしかったのだ。

 そして結果として、ひとりで戦うしかなかった紬を思うと……、彼女がどんな思いで大量の飴を口に入れていたかと思うと、己の不甲斐なさに絶叫したくなる。

 そして思考は堂々巡りを繰りかえす。

 もしフロントに自分がいたとしても、何もできなかったはずだ。紬に目で助けを訴えられても直視できずに、橘の陰に隠れていただろう。そして部屋に入った彼女の現状を想像して、気も狂わんばかりになっていただろう。ホテルの制服に身を通した自分が、曲がりなりにも客である『珍獣』を殴れるのか。殴れるはずがない。

 橘にすべてを任せる形になって正解だったのだ、と航太は自分に言い聞かせる。

 反駁はんばくしようとする自らの心を押さえつけるように。幾度も幾度も……。

♦︎♦︎♦︎

 自宅マンションのエントランスを抜けて、エレベーターホールに向かう。

 管理人室を通りすぎると、管理人の初老の男性が挨拶してきたが、航太は視線を合わせることなく会釈をするに留める。感じの悪い住人だと思われて構わない。いや、むしろ思われたい。誰からも話しかけられたくない。

 奇異に、思われているだろう。ファミリー向けのマンションで暮らす兄弟。兄弟で暮らしているといっても、その兄の姿を目撃したことのある人間は誰ひとり存在しない。

 エレベーターが自宅のある37階に辿りつくまで、航太は誰とも鉢合わせしないよう息を殺して願っていた。昇降表示を睨みつけるように眺めて到着するや否や、一目散に自宅に駆け込んだ。

 玄関の扉を開けるなり、航太は思わぬ光景に遭遇した。

「……ロン、どうした?」

 『ロン』は航太の声を認証したのか振り向く。困った様子で首を傾げて、ワン!と鳴いた。

 本物の犬ではない。翔太郎の所有する犬型ロボット。そのロンが、翔太郎の発注した宅配便の荷物を牽引できずに立ち往生していた。

『俺のことはいいから。おまえは、いつでもここを出ていって構わないんだ……』

 頭の中で、翔太郎の声がこだまする。低い、落ちついた柔らかい声。

 ふざけんな……と、知らず知らずのうちに言葉を吐きだしていた。胸に込みあげてきたのは、猛烈な怒りだ。

「ロンが万能じゃないってわかってて……、もしこれでバッテリー使い果たして充電切れになってたら、どうするつもりだよ。俺が帰ってこなかったら、どうなってたか……わかってんのかよ」

 ロンの立ち往生の原因は、すぐにわかった。

 翔太郎のいつも注文しているミネラルウォーターの規格が変更されているのだ。増量になった影響で、ロンの牽引可能重量を超過してしまっている。

「ロン、これで動ける?」

 航太は試しにミネラルウォーターの箱を、1ケース持ちあげてみる。

 ロンは途端に息を吹きかえしたように動きだした。カシャカシャという軽快な歩行音と台車の軋む音を響かせて、奥の翔太郎の居室へと向かっていく。

 そして航太は手元に残されてしまったミネラルウォーターの箱を、忌々しげに眺めた。



 怒りに任せて、乱雑に箱を投げ置いた。

 職場では、こんな真似は絶対にしない。物は大事に扱え、と部屋の主が航太を咎めることはなかった。盛大に音を立てたにもかかわらず気づく気配もない。

 『お出かけ中』なのだ。

 翔太郎は、漆黒の革張りの椅子に身を委ねるようにして横たわっていた。

 その両眼はVRゴーグルで覆われていて、覗きみることはできない。両耳にはゴーグルと一体化したヘッドセット。そして身体に負担がかからないよう、さまざまな角度に調節可能な椅子の肘掛けにのせられた腕。その掌にはハンドトラッキングと呼ばれるグローブが巻きつけられている。指先に絡みつく触覚再現センサーのコード。

 拷問椅子に括りつけられている囚人みたいだ、と航太は思う。

 VR空間に没入している人間の姿は、無防備で不穏だ。今にも椅子から電流が流れて、その身体が激しく痙攣して悶え死ぬのではないか、と。

 窓のない陽のあたらない部屋。他に快適な部屋があるにもかかわらず、翔太郎は自らこの閉鎖的な空間を選んだ。ユニットバスが併設されているからだ。

 3LDKの間取り。まったく使用されることのないシステムキッチン。誰も寛ぐことのないリビングスペース。航太が利用しているのは、寝室とメインの浴室だけだ。

 兄弟で暮らしているといっても、兄弟が顔を合わせることはない。広すぎる空間で挨拶を交わすこともなく、ともに食事をすることもない。生存を確認するために、航太が翔太郎の部屋を訪れるだけ。

 そのとき、翔太郎の指先が僅かに痙攣するように動いた。『御帰還』だ。

 翔太郎の指先が手探りでVRゴーグルをはずし鬱陶しげにヘッドセットを振り払うのを、航太は息を詰めて見守っていた。掌を拘束されていることに気づいた様子で、顔を歪めてグローブを取りはずす。

 その顔色は薄気味が悪いほどに青白い。頬の肉が落ちてげっそりと痩せこけた顔。まだ30代だというのに、頭部には白髪が混じっている。理容室に行くこともない彼の髪は伸ばしたままで、ひとつに束ねられている。

 そして異常なまでに細い脚。筋肉が完全に落ちてしまった、棒切れのような脚。

「ただいま……。翔兄ちゃん……」

 あえて、昔の呼び方で声をかけた。

 誰よりも慕っていた頃の呼び方。もう戻ることのできない日々の。

 翔太郎は、傍らに航太が立っていることに気づかない。眼の焦点を合わせることに苦労をしているのか。疲労と眠気に襲われて、朦朧としているのか。

 翔太郎は、足元にうずくまっていたロンに何事かを命じた。

 その瞬間、ロンは変形する。四足歩行から二足歩行の姿態へと設定を切り替えたのだ。ただの犬型ロボットではない。愛玩用ではない。高性能介護特化型ロボット。

 翔太郎がロンにしがみつくようにして椅子からベッドへと移動するのを、航太はひどく冷めた思いで眺めていた。

「……… 航?」

 ベッドに横たわってから、そこで翔太郎は滅多に部屋を訪れることのない弟の存在を把握したようだった。だが、それ以上言葉が続くこともなく……。

 眠りについてしまった翔太郎の、細い首を航太は見つめる。

 仮想空間に入り浸り、現実を生きる自らの肉体を放棄してしまった男の末路がここにある。

 もう歩くこともできない脚。仮想空間に没入した脳に、肉体のあげている悲鳴は届かない。空腹や疲労、排泄の欲求すらも遮断して、何十時間も仮想空間に入り浸ることを繰りかえされた肉体は、完全に翔太郎の意思を反映しなくなった。

 正視に耐えないのは、下半身から伸びている二本の管だ。ひとつは尿管に、もうひとつのやや太めの管は肛門につながっている。そして、ベッドの柵にかけられた透明の防臭パックに集められている。

 では、はたして誰がそれを処理するのか。ロンだ。翔太郎の命令に忠実にパックを咥えて、ユニットバスのトイレに流している。

 ロンというのは、昔飼っていた愛犬の名前だ。家族で経営していたペンションの看板犬の、ラブラドールレトリバー。翔太郎だけの犬ではないはずの愛犬の名を介護ロボットにつける。その無神経さが、航太には許しがたい。

 人間が愛犬の糞尿の始末をするのは当然だが、自分の糞尿の始末を愛犬にさせる人間なんてあるか、と航太は心の中で毒づく。

 痩せ細って衰弱して死んでしまうのではないか、と心配する心の裏側に、死んでしまえ、と密やかに願う心がある。

(  それだけなら、まだいい……  )

 翔太郎の首を見つめていた航太は、これ以上の長居は危険だと判断する。

 いつか、殺してしまうのではないか。

 もう兄だとは思えない、翔太郎の名を名乗るだけの化物。激昂に駆られて、激情に身を任せて、いつか自分は手にかけてしまうのではないか、と危惧する心が航太にはある。

 翔太郎から逃げるように、自らの感情から目を逸らすように、航太は部屋を後にする。

 静寂が残された。薄暗い部屋で、ロンが充電ステーションに戻ろうとしていた。それはあたかも、犬が寝床に向かう仕草と瓜二つだった。

                                                                                                                                     ───  続  ───



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