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「共同体」をウットリ語る人はどこがダメなのか

前述したように僕はこの一年余り、「あるタイプの共同体主義者」から攻撃され続けている。

僕は繰り返し述べるように共同体の存在そのものはまったく否定していないくて、だからこそ共同体の副作用をしっかり把握して対応するべきだと主張しているのだけれど、どうやら「生き方」として共同体をがんばっている人たちは僕の指摘する「共同体の副作用」が白日のもとにさらされるのが「嫌」らしく、『庭の話』の発売から一年以上経った今でも定期的に攻撃を受けているのだ……。

具体的には僕が共同体の副作用問題を取り上げると、左派の権威ビジネス系からは「リベラルなボクたちの取り組みの暗部や階級的欺瞞を指摘されたくない」的な反発を、右派の参政党的メンタリティの持ち主からは「伝統的」男尊女卑共同体を否定するお前は非国民だという罵倒を同時にいただく……ということが続いている。

改めて確認するが、僕の主張はシンプルだ。共同体は本質的に内部に階層制(上位と下位)と外部に対する排除性をもつ。これがないとメンバーシップが機能せず、そもそも共同体が形成できない。したがって無数に発生していく共同体たちの外部に、メンバーシップを問わず個人を尊重する「社会」のレベルでセーフティネットを設ける必要がある、というものだ。

少し考えれば分かると思うのだが、共同体でよい位置を与えられるには高いコミュニケーション力が必要で、そのコミュ力を得るには権威や経済力や文化資本が高いほうが有利になる。逆にその土地のよそ者や人種的、性的マイノリティや心身の障害をもつことは大きく不利に働く。

共同体を「答え」にしたい人たちは、この問題を都合よく隠蔽している。自分たちのムラは開放的で、フラットだから問題はないという。まあ、すべてのスターリンは自分のソビエト連邦を「労働者の天国」だと言い張り続けるだろう。仮に本当に開放的で、誰でも入り自由な共同体が存在した場合、その開放性のために求心力が下がることになる。両者を両立させようとすると、今度は階級的に限定されたりとか、ほかで歪みが生じることになる。これは共同体がメンバーシップ、つまりこの人は共同体のメンバーだが、この人はメンバーではないという「線引き」により成立しているからだ。同じ日本人である、職場の◯◯さんの派閥である、趣味のサークルのよく顔を出す中心メンバーである……といった具合にだ。

要するに共同体は、誰もが尊重されるの「ではない」から機能するのだ。この線引きを亡くしてしまうと、つまり誰もを尊重する(メンバーシップを問わない)集団になるとそれは共同体ではなく社会であり、そのためには個人の権利を可能な範囲で最大限に認める必要が生まれる(僕はこの「社会」が重要だと思う)。

だから「自分たちのムラは開放的でフラットないいムラだ」みたいなことを言う人がいたら警戒したほうがいい。それはその共同体で相対的にいい思いをしている人の素朴な感想(このケースが多い)か、影で泣いている人の存在を忘れているか、外部に「敵」を作ることで内部は仲良くしているのかのどれかだからだ。もちろん、縛りや階層が「緩い」共同体はたくさんある(そのほうが多いだろう)。しかしこういった共同体は強く人間を支えないので、あまり意味はない。

この「弱い共同体」をたくさん使い回せという議論もある。若い頃の僕もそうだった。しかし今の僕はそう考えない。

「弱いしばりの共同体に複数所属する」というスタイルは自己啓発的には正しいけれど、完全に強者のロジックだからだ。

つまり自分で縛りの緩い、そこそこ安定した共同体を複数探索して接続して、一つに深入りしないようにそこそこの距離を取る……なんてことができる人間が、どれだけいるだろうか? というか、ほとんどの人は否応なくそうやって生きていて、しかし実際にはそれは大変で、そもそもしばりの緩い共同体などあまりなく、ちゃんと支えてくれる共同体はしばりがキツく、それで苦しんでいるのではないだろうか?

同じように今の僕が一番悪質だと思うのは「いい話」ふうに「どこかにあなたの居場所になる共同体がある」ということを言う人で、要するにそれは「あなたが搾取される側に回れる共同体がある」と言っているの同じだからだ。そしてその探索コストに耐えられない状態に置かれた弱者のことを、まったく考えていないからだ。

僕は世界への信頼を人間に与えるのは「どこかに自分のメンバーシップを認めてくれる場所があること」ではなく「メンバーシップを問わずに尊重される場所があること」だと考える。要するに、共同体のメンバーシップとは無関係に人間が尊重される領域を社会に確保すること(共助よりも公助)だけが「解」なのだ。

バカな人は社会からこぼれ落ちた人を共同体が包摂すると考えるが、そういうのはハートフルなエピソードでブランディングする文化人や団体のプロパガンダの見すぎだ(そして真に受けすぎだ)。実際には(というか、歴史的に考えても)逆で、共同体の下位や周辺で搾取される人々が、共同体からの脱出口として今日の個人単位の権利に立脚した「社会」が要請されてきたのだ。

しかし、問題の本質は僕の共同体批判(正確には共同体の副作用の指摘)そのものを「黙らせたい」と彼ら彼女らの多くが考えていることだろう。実際に僕は共同体そのものはまったく否定していない。ただ、不可避に発生する共同体の副作用を指摘し、それをカバーできる社会(メンバーシップを問わず、個人を単位に権利を認める)のレベルで考えるべきだと言っているのだけなのに、多くの「共同体主義者」が左右を問わず僕の共同体の副作用についての指摘そのものをなんとか回避したり、無効化したりしようとするのだ。

まあ、その人に「後ろ暗いことがある」ケースが大半なのだろうが、

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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