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「ニュータイプ」の「終わり」 はどのように訪れたか——『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ガンダム ジークアクス)最終回について』

さて、やはり『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』(以下「ジークアクス」)については書いておかないといけない。明日早速、この作品については座談会動画を収録する予定なのだが、その収録に向けての考えの整理を含めて、雑感を書いておきたい(ちなみにこの文章を書いているのは、最終回放送終了後の約7時間後だ。なのであくまで観た直後の雑感だと思って読んで欲しい)。

先行公開された劇場版『ビギニング』について以下に書いたように、この『ジークアクス』は初代『機動戦士ガンダム』の二次創作(架空戦記の架空戦記)である中高年ホイホイのパートと、マチュやニャアンといったティーンのヒロインたちの冒険譚のパートの二層で構成されている。

前者を「正史」がどのように改変されたかを解き明かすための「考察」欲を誘うパートだとするのなら、後者は前者(架空戦記考察)に耽溺して何もできなくなっている「戦中派(オタク第一世代から第二世代=団塊ジュニア)」の現状を打破する可能性として対置されたパート、つまり「批評」的なパートだと言えるだろう。

単純な図式で提示するなら前者を庵野的な、後者を鶴巻・榎戸的なものと考えるとわかりやすいのだろうが、(当然のことだが)鶴巻・榎戸にも前者の要素は多分にあり、固有名詞で区別するよりは彼らの世代の二つの側面、つまり自分たちの楽園を作り上げ、砂場あそび(設定いじり)を反復したいという欲望と、それを内破してくれる若い世代への希望という、二つの要素によって構築された二層構造だと考えればとりあえずはいいだろう。

物語的には、前者はシャリア・ブルを中心としたおじさんたちの物語で、後者はマチュとニャアンによる少女たちの物語だということになる。

つまり、この『ジークアクス』は、架空年代記の中での砂場遊び(二次創作、設定考察ゲームの提供)しかできなくなってしまった中高年男性たちが、自分たちを「殺して」くれる存在としての少女性を設定するところからはじまったと言える。

しかし、結論から言えばそうならなかった。端的に言えば、シャリア・ブルを中心とした中高年たちの物語(設定考察遊び)が肥大し、マチュとニャアンの物語を押しつぶしてしまい、後者が十分に展開しなかったように思う。

『ビギニング』公開時に僕は、鶴巻和哉・榎戸洋司コンビの過去作(『フリクリ』や『トップをねらえ!2』)を参照しながら、以下のような「危惧」を表明した。

要するに無力感にさいなまれる中高年が少女性に希望を託す、という構図は90年代にイヤというほど反復されたもので、その脱出口としてイノセントな少女性を都合よく設定して救済のアイコンにするという構造は、(現代のジェンダー観から考えると搾取的な側面が糾弾されるだろうが、それ以上に)自己の問題を直視することなく、誤魔化してしまう効果しかもたらさないのではないかと疑問を呈したのだ。

要するに自分たちの代わりに若く、純粋な少女を設定して彼女らに一方的に希望の光を出して救済されるというのは、ただの誤魔化しではないか、ものを考えていない(何も描いていない)のと一緒なのではないか、本当に描くべきものから安易に目を背けているだけなのではないかということだ。そして、この『ジークアクス』がそういう展開になってほしくないと、僕は思ったのだ。

しかし昨晩の最終回を迎えて、僕はこの作品はむしろその「手前」の問題にぶつかってしまったように思う。

僕の危惧した通り、シャリア・ブルは自分たちにできなかったことをマチュに託す。しかし中高年男性の自己の問題からの逃避として、彼女が都合よく救済の回路として機能してしまう……という要素が少なくとも前面化することはなかったように思う。

いや、そう機能するはずだったのかもしれないし、詳細に見れば確かにそう描かれてもいるのだけれど、それ以前におじさんたちの物語(設定いじり)が前面化しすぎていて、物量的(尺的)に前面化しなかったのだ。

実際に、ほとんどのこの作品の視聴者は、僕が今書いているような物語の解釈には相対的に興味は薄く、古谷徹や池田秀一が出演したこと、つまり「物語外」のことなどに興味があったはずで、明らかに制作陣もそちら(物語外の快楽)にウエイトを置いていたことも間違いないだろう。

つまり僕は鶴巻・榎戸が架空年代記への逃避(メビウスの輪)から抜け出せない自分たち(オールドタイプのオタク中高年)を、90年代的な少女性の神秘化(性搾取的ファンタジー)「ではない」方法で解放できるのか、失敗してそこ(少女性の消費による誤魔化し)に留まるのかを見守ろうと思っていたのだが、その手前の時点で架空年代記の砂場遊び(メビウスの輪)の重力が今日の情報環境(SNS上の考察ゲーム)で肥大(ハイパー化)し、こうした主題が追求される場そのものを半ば押しつぶしてしまったように思うのだ。

実際に中盤からマチュとニャアンの物語がさすがに希薄すぎるのではないか、という批判は一般視聴者からも散見されていて、そこについては僕も同感なのだがこの終盤の展開は半ば「もうそんなのどうだっていいや」と開き直っていたようにも思う。

その結果が、最終回のシャリア・ブルのたどり着いた恐るべき結論で、ニュータイプとは「家出にためらいのない冒険心の強い人」という思わず笑ってしまうような解釈だろう。もしこれがニュータイプ論の最新版なら、「ニュータイプ」という概念はこの『ジークアクス』で、本当に「もうどうなってもいい」ものになったと言える。

誤解しないでほしいのだけれど僕は「こんな考察とかいっている連中に媚びたごっこ遊びなんてダメだ/もっと批評的な「作品」をつくるべきだ」と怒り狂っているわけではない。

むしろ逆で、どちらかと言えばおじさんが自分が戦わない代わりにアイドルに戦ってもらって救われた気分になるような物語が前面化しなくて(描かれてはいるが、中心に置かれなくて)、まだ良かったのではないかと思っているくらいだ。

しかしその一方で、僕は鶴巻和哉や榎戸洋司といった固有名詞に、彼らの円熟した力量をもって「あの頃」うまく描けなかったものや、目を逸らしてしまった問題に正面から取り組んだ作品「も」観たかったと思うのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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