「政治の季節」から「戦争の季節」へ(「推し」から「恐怖」へ)
昨日は宇野書店に石破茂さん、山尾志桜里さんをお呼びして「憲法と安全保障」というテーマで話した。数日でPLANETSチャンネルに動画が公開されるので、議論の内容はそちらを確認してほしいのだけど、今日はそこで考えたことをまとめておきたい。
久しぶりに石破さんとゆっくり話して、改めて思ったのは、石破茂の一連の憲法改正論、ひいては安全保障論は「正しい」ということだ。
国家に軍隊は不要だと述べる偽善ブランディング左派の議論はもはや無視するとして、現実問題として最高法規である憲法を、時の政権の「解釈」、つまり運用レベルでどうにでもできてしまう現状は問題外であり、9条は、その「神棚に祀るもの(なので、運用でどうにでもできる)憲法」の象徴だ。
僕はやはり9条の正常化と国軍としての再整備は避けては通れないと考える(しかし、それは違憲審査機能の強化なしでは、あまり意味はないとも考える)。
石破茂らの9条改正論は、ショボい人生を「日本」と同一化すればごまかせると思い込んでいる人たちの感情論(「左」「リベラル」の泣き顔が見られると、自分が強いものの側に立った気になって安心する)とは全く異なる、準軍事的なリスクへの対応から要請されているものだ。
しかし、現政権の進める「改正」案は、憲法に「手を付ける」ことを手段ではなく目的としたもので、それは「憲法はこれまでも、そしてこれからも神棚に祀り、『柔軟に運用』します」というメタメッセージとして機能するだろう。
これは明らかに、9条をルールブックではなく、「物語」として、つまり戦後民主主義の「精神」を記述するものとして受容してきたことの弊害だ。
僕は、当時この「物語」が果たした役割を否定するつもりはまったくないが、少なくとも今日において、その「精神」が(それもトランプ「以前」のアメリカを前提とした)一国平和主義以上のものにはならないことは明白だと思う。
そして「トランプ以降」の現状を考えると、もはや「大国」ではない(少なくとも軍事的には戦後一度も「大国」ではなかった)日本の現実と、地政学リスクを正面から引き受ければ、日本が取るべき現実解の選択肢はそれほど多くなく、(アメリカの正常化を期待しつつもそれをもはや「前提」にはできないので)やはり、ミドルパワーの結集による軍事大国への対抗、新しい国連主義の構築という路線になる。そう考えると、当時は若干炎上気味に取り上げられた「アジア版NATO」の構想も検討に値するものだと分かると思う。
さて、そのうえで、昨日、僕が壇上で司会をしながら考えていたのは、なぜこの「正しさ」は負けたのか、ということだ。そして僕の結論は、「正しい」から負けた、というものだ。
昨日は楽屋で、石破さんと14年前に出した『こんな日本をつくりたい』を振り返りながら、「こんな日本」になってしまった……と洒落にならない苦笑をするところから始まったのだが、石破茂的なものの、安倍晋三的なもの、高市早苗的なものへの「敗北」というのは、端的に言えば「正しさ」「合理性」の、「気持ちよさ」「推し活」への敗北と考えればよいだろう。
「強い日本」という虚像を提示し、それへの自己同一化を進めてくれるリーダーを「推す」。強いものを推している自分も強いという錯覚を与え続ける。この「推し」の快楽が、「正しさ」や「合理性」を説く言説を圧倒したのだ。
嫌な話だけれど、いま「何もない」人たちが生きる意味を見出すためのもっともコストの低いアプローチは、SNSで誰かを攻撃することだ。こうしているいまも、世界中で「自分はバカじゃない」と自分に言い聞かせるように(自分は自分が望むほど賢くないと薄々分かっているがゆえに)誰かを貶める言葉を投稿している人で、XやYouTubeのコメント欄は溢れかえっている。
そして「政治」はその層にとって、もっともコスパの良い話題提供装置だ。「何もない」人でも、左右どちらかの立場に立ち、一方を貶めるようなことを旬の話題に絡めて投稿すれば(内容が稚拙でも)簡単に「仲間」から承認を得られる。この限界費用ゼロの承認獲得という麻薬的な快楽の中毒に陥った人々へのマーケティングを通じた世論形成が、今日の民主主義をもっとも強い力で動かしている。
誤解しないでほしいが、僕は負け惜しみで「安倍や高市を推している人間はバカで、自分たちは賢いのだ」みたいなことを言いたいのではない。逆だ。自分たちの戦略が甘かったと反省しているのだ。
つまり、全力でかなり強力なグーを出したのだけれど、それはどれだけ強化されていても、相手がパーを出したら負けるのだ。それに対して、もっともっと強いグーが必要だと考えるだけでは「足りない」と僕は思うのだ。
そして、更に誤解しないでほしいのは、かといってグーを強化することを怠ってはいけないと僕は思っている、ということだ。パーを相対化するために、勝つためにチョキを用意しつつ、そのチョキに自分たちが溺れないために、ちゃんと最強のグーの準備を怠らないことが大事なのだと思う。
では、この場合のグーが「合理性」や「正しさ」で、パーが「承認」や「推し活」だとすると、チョキは何か。
僕の考えでは、それは(残念なことだが)「危機感」……もっと言ってしまえば「恐怖」だ。そしてこの「恐怖」は、トランプ現象以降の「政治の季節」が「戦争の季節」に移行することで、現実のものになろうとしている。僕はこの「恐怖」に正しくアプローチすることが必要だと思う(なぜならば、これはかなり危険な回路だからだ)。
「推し」は人間に承認を与える。他人の人生を「推す」ことで、自分の人生にはない光を擬似的に得られるからだ。比喩的に言えば、2016年にアメリカの「忘れられた人々」はカネよりも尊厳を選び、自らオバマケアを捨てたのだ。つまり、合理性を承認が破壊したのだ。グーがパーに負けたのだ。
ではチョキは何か。そして「推し」などによる「承認」を相対化できる回路は何か。それが(おもに戦争に対する)「恐怖」だ。
考えてみれば、80年前の戦争はメディア上に醸成された「空気」がこの「恐怖」を実感させなかったために止まらなかったのだ。1945年に入り、日本中が焦土になるまで、人々は「推し」で「恐怖」を麻痺させていたのだ。しかし実際に日本が焦土と化したとき、そこで与えられた恐怖は、良くも悪くも「推し」(この場合はナショナリズム)を相対化させた。僕はここに手がかりがあると思う。
誤解しないでほしいが、僕は戦争の恐怖で国民を煽れ、と考えているのではない。むしろ逆で、「政治の季節」から「戦争の季節」への移行においては、「推し」(承認の分配)ではなく「恐怖」による動員が台頭する可能性が高く、それを正しく抑制できるように先手を打つべきだと考えているのだ。
つまり、こういうことだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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