「居場所」の条件
今日は改めて、居場所について考えてみたい。僕はよく、いろいろな地域に視察に行くことがある。まちづくりや地方創生に関する仕事で、いろいろな土地の取り組みについて学ぶのがその目的だ。都会もあれば、田舎もある。
そこでよく覚える違和感について、今日は書いてみたい。
たとえば、過疎の村や都市部でも人口減少が止まらない古い集落があるとする。そこに意識の高いアーティストやビジネスパーソンが入り込んでいって、意識の高い作品を作ったり、イベントをしたり、スローフード系のビジネスやソーシャルグッドなビジネスを始めたりする。その成果としてコミュニティーの、共同体の再活性化がアピールされる。
それはいいと思う。少なくとも、何もないよりずっと良い。僕はこの取り組みそのものを否定するつもりはまったくない。しかし、その一方でよく思うのが、そこに本当に弱い人の居場所はあるんだろうか、ということだ。例えば、かつての地方のイケてない学生だった僕のような人間の居場所があるんだろうか、ということだ。
例えば、その地方のスナックとか喫茶店とか、地元で何十年も愛されてきた地域の顔役のような人がやってるお店に意識の高い系のアーティストや企業家が入り込んで、コミュニティーが活性化する。僕はこういうパターンを死ぬほど見てきたのだけど、そのたびに思うのは、今、僕は「先生」扱いされてるから、この場所を楽しめるけど、20年前の僕のような名もなき学生だったら、絶対にこの内輪の空気に近寄りがたいものを感じただろうし、もっとはっきり言えば、あまり良い扱いも受けなかったと思うのだ。少なくとも僕のほうは、とてもじゃないけど入り込めないと感じただろうし、入り込んだとしてもかなりうまく立ち振る舞わないと「名も無きモブキャラ」や「救われるためにいるかいわいそうな人」の役になっただろう。それは間違いない。
要するに、外からやってきた強い人間と、その村の共同体の顔役みたいな強い人間との結託が起きた結果、少なくともよそ者や、弱く、何者でもない人間が近寄れない空間が、そこに出来上がるということだ。そして、おそらくその地域に暮らす弱い立場の人も、あまり良い気分はしないだろうと思う。少なくないケースで、東京から来た人間と村の中心にいる人間が結託して良い思いをして楽しく過ごし、その共同体の下位のカーストや端っこにいる人々は、その物語の主役はもちろん、引き立て役や下手をすれば悪役を与えられて辛い思いをしているのではないかと思うのだ。
だから僕は、こういった土地に関するプロジェクトは、やっぱりどこかでメンバーシップを問わず、よそ者や、その共同体の下位や隅っこにいる人も楽しめるタイプのものでないといけないと思う。それは要するに、その共同体の思い出(それは往々にして、中心や上位にいる人間たちを主役にした記憶である)のようなものを共有していなくても、楽しむことができる回路が備わっているということだ。象徴的に言えば地元の顔役たちがたまり場にしているスナックや喫茶店ではなく、単に美しい森や川や図書館があって、そこでよそ者が排除されないような状態が作られるということなのだ。十分に再分配が機能していれば、カジュアルな商業施設でもいいと思う(実際に商業空間がこういった機能を担っていた時期もあっただろう。しかしこの回路は今日の格差と、「買い物に街に出る」必然性の大きく後退した情報環境の変化で、かつてほど機能しない)。
僕が「庭プロジェクト」のような研究会を始めた理由は、実はここにある。
要するに、行く先々で、地元のある特定のコミュニティーの中心人物と、東京からやってきたクリエイターやビジネスパーソンが結びついて作る、強い人たちにだけ気持ちの良い(弱者はそこ入れないか、善意100%で「救われるべきかわいそうな人」扱いされ、主役たちの精神的養分になる)コミュニティーが多すぎると感じたからだ。しかし、本当にそれは良い場所になるんだろうか、と僕は疑問にいつも感じるのだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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