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無味メシ 第7話【タイムリミット】

 あの日、神田の老舗蕎麦屋で「冷たいゴム」を啜ってから数週間。

 馬淵の生活は、完全なる灰色の世界へと没落していた。稽古中も、アルバイト中も、何より食事の最中にも、彼の脳内には常に「肺の影」という不穏なカウントダウンが不気味に点滅していた。高級焼肉を奢られても「ただの焦げた肉片」にしか感じられず、差し入れのケーキも「甘い粘土」に成り果てていた。
 美食家としての魂は完全に死に絶え、ついに馬淵は「食べる」という行為自体を諦めかけていた。

 そんなある日の午後。馬淵の古びたスマートフォンが震えた。画面には、あの病院の電話番号。
 馬淵は震える手で通話ボタンを押し、死刑宣告を待つ罪人のようにスマートフォンを耳に当てた。

「あ、馬淵さんですか? 担当医です。いやー、この間の精密検査の画像なんですけどね」
 馬淵の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
「念のため別の技師にも確認してもらったんですけど……いやはや、あれ、ただの機械の不調によるノイズでした! 肺、めちゃくちゃ綺麗ですよ! アハハ!」

 ……アハハ、じゃない。
 馬淵は数秒間、そのふざけた宣告の意味を理解できずにフリーズした。機械の不調? ノイズ? つまり、俺の肺に影などはなく、死の淵にも立っておらず、この数週間の地獄のような無味乾燥な日々は、すべてあの医者の早とちりが生んだ「完全なる幻」だったということか。

 怒りが湧き上がる……前に、馬淵の全身を圧倒的な解放感が突き抜けた。地団駄を踏もうにも、重力を失ったように体が軽く、勝手にフワフワと浮き上がってしまう。

「……影は、ない。俺は、健康……っ!」

 馬淵は路上であることも忘れ、天に向かって昇竜拳を放つようにガッツポーズをした。着地した途端に、ぐうと腹が鳴る。数週間分の抑圧されていた食欲が、ダムの決壊のように押し寄せてきたのだ。
 馬淵は居てもたってもたまらず、劇団の後輩たちに片っ端から電話をかけた。

「今日は俺が連れてってやる! 腹がはち切れるまで食おう!」

 馬淵は、バイト終わりの後輩たちを引き連れ、夜の街へと繰り出した。選んだのは、豚骨とニンニクの強烈な匂いを通りまで撒き散らしている、いかにもジャンクな「野郎系ラーメン屋」だった。
 暖簾をくぐると、床は油でツルツルと滑り、厨房からはモウモウと湯気が立ちのぼっている。これだ、これだ。今の馬淵が求めていたのは、繊細な割烹でも気取った蕎麦でもない、こういう暴力的なまでのカロリーと塩分の塊だった。

 席に着こうとした馬淵の目に飛び込んできたのは、壁に貼られた一枚の禍々しいポスターだった。
『挑戦者求む! 7人前メガ盛りラーメン! 完食すれば無料(※失敗は罰金一万円)』

「うわっ、7人前ってヤバくないっすか?」
 後輩がポスターを指差して騒ぐ。そして、それから馬淵を見て、ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「でも、今日の馬淵さんならもしかして……。さっき『牛を一頭丸ごと食える』って豪語してましたよね」

 確かに言った。
 普段の馬淵なら、こんな大味で品のないフードファイトなど、美食家の風上にも置けないと一蹴していただろう。失敗した際の罰金一万円も、貧乏役者には致命傷だ。
 しかし、死の呪縛から解放され、「無敵の胃袋」を手に入れた今の馬淵は、脳内麻薬で完全にハイになっていた。

「……ったりめーだ。俺の解放された胃袋を舐めるなよ」
 馬淵は鼻息を荒くしてポスターを叩き、厨房の店員に向かって高らかに宣言した。
「すいません! このメガ盛り、ひとつ!」
 店員の驚いた顔の向こうで、湯切りをする強面の店主がニヤリと笑うのが見えた。

「おまちどう!」

 数分後。ドスッ、という地鳴りのような鈍い音と共に、馬淵の目の前に「それ」は置かれた。
 入れられているのは丼ではない。それはもはや、胡麻でも擦るのかと言いたくなるほどの巨大な「すり鉢」だった。

 茶色く濁った豚骨醤油スープの海に、雪山のようにそびえ立つモヤシと青ネギの山。その斜面には、分厚いチャーシューが何枚も地層のように重なり、頂上には刻みニンニクと粗い背脂が親の仇のように乗せられている。
 もうもうと立ちのぼる熱の湯気に乗って、殺人的なまでの動物性油脂とニンニクの香りが、馬淵の顔面を強烈に殴打した。

「すげえ……! マジで7人前だ……」
 後輩たちが、スマホで写真を撮りながらどよめく。
 しかし、今の馬淵にとって、この巨大なカロリーの化け物は恐怖の対象ではなかった。これだ。これこそが、俺が生きている証なんだ。数週間に及ぶ「無味地獄」によって干上がっていた細胞の隅々に、この凶悪なまでのカロリーの化け物が殴り込むのを想像しただけで、脳内では倫理観の崩壊したダンスパーティーが巻き起こっていた。

(まずは、レンゲでスープを一口……いや、ニンニクを少し溶かしてから、麺を下から引きずり出して……)
 馬淵が割り箸と巨大な木製レンゲを構え、この氷山のごとき塊をどう攻略するかシミュレーションしていた、その時だった。

「おう、兄ちゃん。準備はできたか」

 頭にタオルを巻いた強面の店主が、不敵な笑みを浮かべて馬淵の真横に現れた。無骨な手に何かを持っている。
 湯気を振り払ってよく見ると、それはデジタル表示のストップウォッチだった。

「……え?」
 馬淵が間抜けな声を漏らした瞬間、店主の野太い声が、店内に響き渡った。

「7人前メガ盛りチャレンジ! 制限時間は20分! 残したら罰金一万円! それでは……スタートッ!!」

 ピッ!と無慈悲な電子音が鳴らされる。

「……えっ? あ、ちょ、待っ……!」

 ルールを確認する暇も、心の準備をする暇もなかった。そんなこと書いてなかっただろ、と声を発する前に、突如として店内のスピーカーからけたたましいテンポのBGMが爆音で流れ始める。周囲の客や後輩たちが「いけ! いけ!」と面白がって手拍子を打ち始める。

 馬淵の脳内で、急速に算盤が弾かれる。
 20分で7人前。単純計算で、3分強で1人前を平らげなければならない。熱を冷ましている時間も、スープの余韻に浸っている時間もない。
 失敗すれば、極貧の舞台俳優にとって致命傷となる「一万円の罰金」。

 パチン、と計算結果が弾き出された。

 ——これは「食事」ではない。己の尊厳と財産を懸けた、物理的な「処理」だ。

「うおおおおおおっ!!」

 馬淵は悲鳴のような雄叫びを上げ、すり鉢に顔を突っ込むようにして、極太の麺を大量に鷲掴みにし、強引に口の中へと放り込んだ。

 ズズズッ!

「ゲホッ、ゴホォッ!!!」

 熱々で粘度の高い豚骨スープと、容赦ないニンニクの辛味がダイレクトに気管に入り、馬淵は激しくむせた。目からは生理的な涙が噴出する。
 しかし、止まるわけにはいかない。視界の端では、店主が持つストップウォッチのミリ秒の数字が、滝のようなスピードで流れ落ちているのだ。時間という名の「最悪のノイズ」が、馬淵の背中を全力で蹴り飛ばしてくる。

 馬淵は涙目になりながら、呼吸すら忘れたように必死で顎を動かし続けた。

 ズズッ、ズバババッ!

 極太の平打ち麺を、噛み切ることもせずに丸呑みする。豚の塊は、「喉を詰まらせる障害物」。大量のモヤシは「厄介なクッション材」。

 熱い。痛い。苦しい。
 数分前まで馬淵の脳を支配していた「数週間ぶりの美食への渇望」など、とうに消え失せていた。そこにあるのは、極度の焦燥感と、大金を失う恐怖だけだった。今、自分は、自分を守るためだけに食事をしている。

「馬淵さん、すげえ! そのペースならいけますよ!」
「ほら、水! 水飲んで流し込んで!」
 外野の無責任な応援が、今の馬淵にとってはうっとうしくてたまらなかった。彼らの声が耳に入るたびに、極太麺を無理やり口に突っ込んで黙らせてやりたくなる。しかし、そんなことをしたら失格、一万円を失うことになる。

 馬淵は限界まで膨れ上がりつつある胃袋の悲鳴を無視し、さらにひと掴みの麺を口に放り込んだ。

「ゲホッ、ゴホォォォッ!!」

 馬淵はまたしても激しく咳き込み、白目を剥いた。涙と鼻水が同時に噴き出し、右の鼻の穴から一本の極太麺がだらしなく垂れ下がっている。

 三十代の舞台俳優。かつてはシェイクスピアを気取り、芸術を語っていた男が、鼻から麺を出してすり鉢を抱え込んでいる。これ以上ないほど滑稽で、惨めな姿だった。

「残り十分! 半分切ったぞ!」
 店主の持つストップウォッチが、無機質な電子音を刻み続ける。

 馬淵は、涙でグチャグチャになった顔のまま、目の前の「茶色い地層」を睨みつけた。

(……味が)

 馬淵は、胃袋という名のゴミ袋に、ただただ熱を持った物理的な質量を投げ込み続けながら、心の中で血を吐くように叫んだ。

(味が………するわけねぇだろバカヤロウッ!!)

 馬淵の絶叫は、豚骨スープの濁った水面に虚しく溶けていった。いくら飲み込んでも味のしないそれは、もはやただの「熱くて重いだけの泥」だった。

「残り五分! 止まってんぞ兄ちゃん!」
「馬淵さん、鼻! 鼻から出てるから!」

 味のない泥の海で、馬淵は己の愚かさを呪いながら、すり鉢の底へと顔を沈めていった。
 彼が一万円の罰金を免れたのか、それともすり鉢の中で窒息死したのか。それは定かではない。確かなのは、彼がまたしても、この世界から「美食」という喜びを取り逃がしたという事実だけだった。


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