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PTL File.06 バロウズ『クィア』(1953)

 「クィア」という言葉は差別用語である。現代ではLGBTQ+の一角を担うが、かつては、「ヘンタイホモ野郎」的侮蔑の言葉だった。いや、今でも本質的には侮蔑的な意味で使われることも多い。
 第3回で取り上げたゴア・ヴィダルの『都市と柱』のクライマックスで、主人公のジムが、長年恋焦がれた相手からこう罵られて、絶望して相手を犯してしまう、と言う悲劇を招いた言葉である。人を傷つける言葉以外の何物でもない。

 本作品はかつて、ペヨトル工房から『おかま』というタイトルで訳出されていた。ストレートな邦題、そして何より、ゲイに対する偏見に満ちた「解説」(主に訳者の片方、山形浩生によるもの)が、ゲイの読者をムカつかせるに充分だった。

 おかまは概してもの悲しくて、少し滑稽な存在だ。これは洋の東西を問わない。夏目漱石の「それから」やトーマス・マンの「ヴェニスに死す」、あるいは「自由の代償」のファスビンダーや「特別な一日」でのマストロヤンニなどを考えていただければよろしい。フランクフルター博士と言う方がポピュラーだろうか。なぜもの悲しいかについては、橋本治の名著「蓮と刀」を参照。
 その橋本治が、「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」で指摘しているが、日本語の「おかま」という言葉そのものが、すでに何やら哀愁を漂わせている。そしてそれはまさに本書の原題の”Queer”という言葉の持つ語感と正確に対応している。Queerという単語をして男の同性愛者を意味せしめるのは俗用であり、通常は、ふうがわりな、おかしな、という形容詞である。決定的に異常、というのではなく、べつによいけど少しおかしい、といった雰囲気が、これを名詞として使ってホモセクシュアルを意味する時にもついてまわり、日本語のおかまという語の持つ、台所用品との連想から来るあたりの柔らかさと通じあっているのだ。先に「洋の東西を問わない」と書いた所以である。したがって、本書の邦題は「おかま」以外にはありえないのだ。
 ウィリアム・バロウズはおかま歴半世紀に及ぶ筋金入りのおかまだ。そのくせ二度も結婚して女犯をなし、子供まで産ませている。(ただし一度目の結婚は、ヨーロッパからの亡命者を逃がすための偽装結婚)

山形浩生、柳下毅一郎「解説」
『おかま』(ペヨトル工房)

 舐めたと言うかふざけたと言うか、ゲイを見下したこの「解説」は、いくら橋本治や『ロッキーホラーショウ』を援用しようとも、今までここで追求して来た翻訳者の無意識の差別意識、などという生易しいものではない。
 ペヨトル工房初版は1988年、バブル時代真っ只中である。あの頃はほんとに酷かった。テレビをつければ、ホゲるオカマが道化を演じ、周囲のノンケがそれを集中的に笑い者にし、ゲイは浮薄な時代のスケープゴートにされていた。
 今となっては経済的なバブル再来を望む人も多いようだが、あれ程色んな人を傷つけ差別化し蔑む事の発達した時代は、もう二度と来なくて良いと思う。二度と。

 気ぃ悪いんで長らく再読などもしていなかったのだが、近年映画化されて復刊されてしまった。解説文はもう一人の訳者・柳下による当たり障りのないものに刷新されていたので、まあ、取り上げようか、と思った次第。
 映画に合わせてタイトルも『クィア』と変更された。変更したところで差別的な題なのは覆い隠しようもないが、作者バロウズが意図して挑発的に使用した題なので、これは致し方あるまい。まあ、私はバロウズの非共感的な部分もあまり好みではないのだが。

 作品の紹介を。
 ウィリアム(ビル)・リーという中年アメリカ人が主人公である。リーは高等遊民。メキシコシティに滞在中だ。メキシコシティのグリンゴ(白人)コミュニティに顔を出して、日々を過ごしている。
 若者を好む性的指向で、常に若い肉体を欲している。バロウズはこの作品の前にハードボイルド仕立ての長編『ジャンキー』(1953)を執筆しており、そちらは名の如く麻薬中毒者リーの一人称で書かれた、一種のハードボイルドである。
 その続編に位置付けられた『クィア』は、作者によると、麻薬中毒が抜けた後の性欲亢進期の話だという。だから、常に男を求めているのだ。

 リーが、意中の相手がゲイかどうかを探る判断基準が、眼の輝き具合だというエピソードには、思わず笑ってしまった。確かに、今でも、お目々キラキラはゲイを見破るアンテナかもしれない。何故だろう、ゲイ特有の眼差しが存在するのだ。これは理屈で説明出来るものじゃない。長年、至道に生きてきた者が実感する方便かもしれない。

 リーはある時、ユージーン・アラートンという青年と知り合う。リーはアラートンを何とかして手に入れたいと願う。
 リーの男の好みは作者自身のそれと被るのだろう。少年が好みで、『裸のランチ』などでは、具体的に記すとNoteから18禁にされるのでアレだが、まあ、嗜虐的な傾向を擁している。その嗜虐性は麻薬の禁断症状から来るものか生来のものなのか図りかねるが、一種のポルノグラフィとして書かれているからしょうがない。
 『クィア』は『裸のランチ』よりも早い時期に書かれたため、表現はおとなしく、そして小説としての結構は成していないw。これは困ったことだ。書かれたのは1951〜1953年頃だが、長らく出版の陽の目を見ず、1985年に刊行されたと言う経緯もある。
 小説としての形があやふやなのは、作品が部分的に虫喰いにされているからで、冒頭部分は前作『ジャンキー』に組み込まれ、後半は次作から頂いて来て形を整えている。デビュー前後のこの頃から、バロウズはちゃんとした小説を書く気がなかったんだな、と苦笑するしかない。

 不充分な作品を世に出すに当たって、1985年に序文を書き下ろしているが、その序文もスキャンダラスで、1951年の妻の射殺事件を語っている。
 麻薬、少年姦、国外逃亡、とジュネ以上にお腹いっぱいなメニューだが、挙句、殺人である。ゲイ文学の一典型として取り上げていいものか悩むのはこういう部分だ。
 酒と麻薬に酔った状態でウィリアム・テルごっこをして、頭に乗せたグラスを射抜くつもりが、妻の頭部を射抜いてしまった。いやはや。
 妻とは関係が複雑で、ゲイのバロウズがどういうつもりで妻帯したのか分からないが、逃亡生活中の誤射事件。性根が腐っているのではないか、と擁護する気も失せるが、本人は至ってクールである。射殺事件をきっかけに小説家として開眼したと言わんばかりである。

 ここでバロウズのプロフィールを紹介しよう。ウィリアム・シュワード・バロウズ二世は、1914年、ミズーリ州セントルイスの裕福な家庭に生まれる。実家は同名の祖父が発明家、父もガラス工場経営で成功していた。母校ハーバードで教鞭をとったこともあったが、月額200ドルの信託財産があったので、各地を放浪し麻薬中毒となる。
 1940年代から、アレン・ギンズバーグ、ジャック・ケルアックと親しくなり、後にビート三巨人の一人と目される。ニューヨークで彼らは共同生活をし、その中で同居していたジョーン・フォルマーと内縁関係になる。
 1949年に麻薬所持で逮捕、出訴期限中を逃げ切るつもりで、妻子を連れてメキシコに移住。メキシコシティで、1951年9月、ジョーンを射殺する事件を引き起こした。
 一念発起して小説を執筆、その第1作が『ジャンキー』である。初刊はウィリアム・リー名義で刊行された。一人称の語り口を持つこの作品は、当時三文小説出版の代表格だったエースからエース・ダブル・ブックとして、他人の作品(モーリス・ヒルデブランド『麻薬捜査官』)と抱き合わせで一冊にして上梓された。
 このダブル・ブック、短めの二冊が逆様背中合わせに綴じられて、ひっくり返して読むと後ろからも前からも読めるというトリッキーなもので、初期のP・K・ディックなどもここに収められている。
 『ジャンキー』の続編として『クィア』が執筆されるが、エースから拒絶され、筐底に眠ることに。その後書き溜めた原稿を適当に編集した束を、パリのオリンピア・プレスに拾われて『裸のランチ』となり、1959年に刊行。刊行前から猥褻文書として当局に摘発されたり注目を浴び、アメリカ国内でもグローヴ・プレスから刊行され、一躍、実験文学の担い手として脚光を浴びる。
 1961年からカットアップ技法を用いたノヴァ三部作(『ソフト・マシーン』『爆発した切符』『ノヴァ急報』)を発表。SF界からも注目される。自作他作問わず、文章を切り刻みコラージュした作風で十年近く多作の時期を送る。
 1981年からレッド・ナイト三部作(『シティーズ・オブ・ザ・レッド・ナイト』『デッド・ロード』『ウェスタン・ランド』)でカットアップ以前の常識的な文章語法に回帰。1997年、83歳でカンザス州で死去。

 1984年、『クィア』の原稿が発見され、翌年、ヴァイキング・プレスから刊行された。これが本作の原著である。

 『ジャンキー』の初版には「A・L・Mに捧ぐ」という献辞が添えられている(現行版にはない)。この人物こそ、アデルバード・ルイス・マーカー、アラートンのモデルとなった人物である。
 『クィア』をバロウズ本人は、序文の中で「あんな痛々しい、不快な、心を引き裂く思い出」と振り返っている。アラートンへの報われぬ欲望、愛情。バロウズがルイス・マーカーに対して抱いたのもそんな気持ちだったのだろうか。

 粗筋など必要ない作品である。メキシコシティでリーは常に男漁りに明け暮れている。チムー・バーという「おかまバー」でメキシコ人の少年を拾うエピソードが第2章にある。『ジャンキー』でも全く同じエピソードが存在するので、この部分が移植されているのだと分かる。時代が時代であるので真っ向から描写はされていないが、リーが少年を欲望に任せて犯していることは分かる。
 バロウズ作品ではよく「KYゼリー」が実物も比喩でも登場するが、これ、セックスの時に使用する潤滑剤で、主にゲイの肛門性交に必要なものだ。メキシコ少年もKYゼリーを使用してリーに「カマを掘られた」ものだろうか(この日本語表現も今や死語に瀕している)。
 この場面は少年姦の衝撃もさることながら、裕福な白人が第三世界の幼少者を買う行為を連想させ、作品全般を覆う白人至上主義的な第三世界への侮蔑にも繋がる。幸い、ここではリーは少年には金銭を渡していない。自由な恋愛、自由なセックス、という訳である。

 アメリカの1950年代とは、赤狩りとマッカーシズムの時代だった。1950年2月9日、共和党上院議員のジョゼフ・マッカーシーが講演会場で突如として、「国務省に所属しながらスパイ活動をしている250名のリストが手元にある」と叫んで糾弾を始めた。そこから全米的に火が点き、共産主義者、政府に批判的なジャーナリスト、同性愛者、自由主義者などが公職追放、投獄された。
 第二次大戦後の冷戦下で巻き起こった集団ヒステリーだが、古き良きアメリカを求める反動主義と相俟って、様々な人物が被害を被った。そんな時代に『クィア』は執筆されて、静かにクローゼットに仕舞い込まれたのである。

 麻薬中毒者で同性愛者のリーは、合衆国政府から訴追されることを拒む反抗的人物でありながら、常に有色人種や第三世界を下に見る典型的ワスプでもある。そこに潜むアンビバレンツな傲慢さが、私にジュネでは感じなかった拒絶感を抱かせる。

 リーはやがて、ユージーン・アラートンと知り合いになる。

(前略)外国移住者特有の服装をした一団とすれちがった。赤のチェックのシャツの裾を出し、青いジーンズに髭、さらにまた、みっともない、とは言わないまでも陳腐な服を着た若者たちだった。その中にユージーン・アラートンという青年がいるのが見えた。アラートンは背が高く、とても痩せていて、頬骨高く、小さな明るい茶色の口で、琥珀色の目は酔うとほんのり紫に染まる。金茶色の髪は、いいかげんな染め仕事をされたみたいに、日光でまだらに白くなっていた。まっすぐな黒い眉毛で、黒いまつげだった。とても若く、清潔で少年ぽく、だが同時に化粧したようで、繊細で、エキゾティック、東洋風というあいまいな顔だった。

『クィア』河出文庫

 リーは仲間のたむろするシップ・アホイでアラートンに近づこうとする。だが、アラートンはアメリカ娘のメアリーとチェスに興じており、リーにすげない。先程引き合いに出したメキシコ少年とのセックスは、その後の出来事である。
 やがて、リーのアプローチが実り、アラートンとのデートに漕ぎつける。ロシア・レストランのテーブルでリーは、「で、デュメはぼくの、あー、嗜好のことは言ったよね?」とかまをかける。「リー家のものは、いつも倒錯者なんだ」「ホモ●●。おれはホモなんだ」と煽る。オカマの女王ボボの逸話を喋りながら、相手がどこまでそれを理解しているのか探りを入れる。
 その流れでリーは自分のアパートにアラートンを連れ込み、酔いの回った彼と…

 リーはアラートンの靴と靴下を脱がせた。ベルトをゆるめてズボンのボタンをはずす。アラートンは背を丸め、リーがズボンと下着を引っぱって、脱がせた。自分のズボンとパンツを脱いで、横に寝た。アラートンは反発も軽蔑もせず、応じてきた。けれどその目にリーが見たのは奇妙な無関心、赤ん坊や獣の、人間味のない静けさだった。
 終わって、二人横にならんでタバコをふかしながら、リーは言った。「ああ、ところで、質に入ってるカメラが流れそうだ、って言ってなかった?」今持ち出すのは利口ではないとは考えたのだが、アラートンは腹を立てるタイプではない。と思ったのだった。
「ああ、四百ペソで、今度の水曜日に流れちゃうんだ」
「じゃあ、明日行って、請け出してこよう」
 アラートンは裸の肩を片方、シーツから持ち上げた。「オーケー」

前出

 関係の始まりが金銭的授受の始まりとは、リーの愚かさに泣かされる。この関係の行く末が分かろうと言うものである。
 後にアラートンを独占するために、リーは幻の麻薬イェージ(アヤウアスカ)を探しに、南米旅行にアラートンを誘い出す。その旅の途中でリーは体の関係を求めては、アラートンに「契約条項違反のかどで苦情を申し立てたいな。週に二度って言ったぞ」と皮肉られている。どんな「契約」を交わしたんだか…
 バロウズの実年齢を鑑みるに、リーはこの頃四十代半ば、アラートンは二十代。決して愛情で結び付いていると言えない歳の差カップルの顛末は、分かりきっているのである。
 物語はエクアドルのプヨで、ぷつんと途切れる。イェージ探しが暗礁に乗り上げたのだ。カネの切れ目か、ヤクの切れ目か、男たちの関係も…

 そして、次作『イェージ』(のちに『麻薬書簡』として刊行される)から持って来た「二年後 メキシコシティへの帰還」と言う章が、放り出されるように付け足される。
 そこではアラートンは既にいない。彼との関係に挫折したリーは、アラートンの夢を見る。そこで小説は終わっている。

 切ないと言うよりは、あまり感情移入出来ないタイプの作品だ。リー(バロウズ)はこの物語の間で一言も、自分が妻帯していることを匂わせない。妻とは常に離婚を考えていて、同居しなかった時期も多かったと言うが、それにしてもである。まあ、作中人物が丸ごと作者のレプリカである必要はないのだが。
 正直とは言えないバイセクシュアルの像がここにあるのかもしれないが、この人物像は余りにもかつてのアメリカ上流階級白人の嫌な部分が表面に出過ぎている。私が積極的に再読したくなかったのもお分かりいだだけるだろう。
 一方で、ビートニクの巨人として、信奉者と言って良い読者を多数持っているバロウズである。だからこそ、若書きの不充分な分量の中編に過ぎないこの作品が、数十年の時を経て甦り、それから更に数十年を経て、映画化まで成されるという展開にもなるのだ。

 どこがどう良くて、この作品を映画化しよう等と酔狂な事を思いつくのだろうか。私には分からない。映画版の方も未見である。
 なんともしょぼくれた情けない「おかま」のビル・リーの役を、007ジェームズ・ボンドを演じたダニエル・クレイグが務めたということで、ルカ・グァダニーノ監督の映画は注目されたのだが、クレイグがかつて、『愛の悪魔/フランシス・ベイコンの歪んだ肖像』(1998)で、実在の画家フランシス・ベーコンの家に侵入した泥棒で、ベーコンに魅入られてモデルとなり恋人になって、最終的にベーコンに自殺に追い込まれるジョージ・ダイアーという男を見事に演じた事を知っているので、なんの違和感もない。無骨な男の純情を演じさせたら一流なのかもしれない。

 バロウズに関しては私は適任者ではないので、ブックガイドとかも書かないが、お偉い翻訳者の方が大分量の研究書をネットで公開されているようなので、そちらを参照されたし。
 バロウズは1914年生まれ、先に取り上げだヴィダルやカポーティは1924、5年生まれ、十年異なると、ひと世代丸々違う。バロウズの露悪性は年長故の忌避感が、どうしても心の中に蟠って毒を吐かせるのだと思いたい。ゲイとして生きたのならなおのこと。

『クィア』(山形浩生+柳下毅一郎訳、河出文庫)

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