PTL File.09 ボールドウィン『ジョヴァンニの部屋』(1956)
ゲイである黒人作家が、自身のビルドゥングスロマン的第一長編『山にのぼりて告げよ』(1953)の次に、パリの白人のゲイの物語を書いた。黒人の登場人物は誰一人としていない。
なぜ、彼はそんな作品を書いたのだろう?
『ジョヴァンニの部屋』は悲しく歪んだ物語である。語り手の「ぼく」はアメリカ人の青年・デイヴィッド。背が高くブロンドの髪色。小説の冒頭、彼は南フランスの貸屋敷に立ち尽くしている。婚約者のヘラは去ってしまった。もう帰国の船の上だろう。
デイヴィッドが唯一愛したジョヴァンニは、もうすぐギロチンにかけられる。彼はそれを傍観しているより他ない。
語り手の身の上に、いったい何が起こったのか。
ジェイムズ・ボールドウィンは、1924年にニューヨークのハーレム地区に生まれた。トルーマン・カポーティと同い年である。生まれ月もひと月しか違わない。
幼い頃は周りから「牧師になる」と思われていた。頭が良かったので神学校に進み、地域のために尽くす人になると。彼の義父もまた、優れた説教師だった。だが、家では暴君であり、彼は義父との関係で悩み続けた。
義父、その姉である伯母、そして母親の三人の人生に想いを馳せ、彼らの人生を理解してなおかつ、教会権力を妥協的に乗り越えようとしたのが『山にのぼりて告げよ』だった。
彼は長じて文学に惹かれ、神を捨てた。それはおそらく彼の性向によるものもあったに違いない。ゲイとして目覚めていたからだ。『山にのぼりて告げよ』にも、14歳の主人公ジョンが、年長の少年説教師エリシャに肉体的に惹かれる場面が描かれる。
『ジョヴァンニの部屋』の語り手の「ぼく(デイヴィッド)」は、母を早くに亡くして父と伯母に育てられ、ジョーイという少年との経験を秘密にしている。パリで同国人ヘラと出逢い結婚の約束を交わし、いつかは国へ帰ると思っている、一応ノーマルな白人の青年である。
しかし、そんなデイヴィッドに転機が訪れる。父親に信託財産の紐を握られていて満足に受け取れないデイヴィッドは、金に困っていて部屋を追い出される事態に陥る。ヘラは長期間スペイン旅行でいない。帰って来るのがいつかも分からない。
ヘラは大戦後に現れた自由な女なのだ。前回のポール・ボウルズの回の主要人物、ジェイン・ボウルズを彷彿とさせる。
ジャックという歳の離れた友人に融通して助けてもらうが、ジャックは筋金入りのゲイで、彼にパリのゲイコミュニティの中を人寄せパンダのように連れ回される。ギヨームという有名なオカマの経営するバーで、デイヴィッドはジョヴァンニと出逢うのだ。
最初、ジョヴァンニを狙っていたのはジャックの方だった。だが、美男子のジョヴァンニはデイヴィッドを選んでしまう。おそらくジャックはデイヴィッドのことも狙っていたのだろうし、デイヴィッドもゲイ的にモテ筋の青年で(ギヨームの褒め科白に「アメリカのたくましいお方」とある)、それを重々承知の上で金を借りてしまう方も、ただのノンケとは言い難いふてぶてしさである。
ジョヴァンニをバーテンダーにスカウトしたのはギヨームだが、彼やジャックはとにかく若い男を食いたい欲求のゲイである。職や金をちらつかせて青年を食い散らかし、飽きたり逆らったりしたらポイと捨てる、欲望剥き出しの良くないゲイの典型だ。
ギヨームに見出されたジョヴァンニは、イタリアから来た青年。国に彼女を置いてきたというが、今のところ、パリのゲイシーンにどっぷりと浸かっているようだ。
自分の性的価値を知るジョヴァンニは、安売りはしない。中年のジャックには靡かず、見てくれの多分良いデイヴィッドに近付く。下宿を追い出されたデイヴィッドに手を差し伸べ、デイヴィッドは「ジョヴァンニの部屋」に転がり込む。
語り手の年長の友人ジャックが好むのは、「ジャックのエデンには、フットボール選手のようなたくましいおとこたちがあふれ」と語られるような、ステロタイプのアメリカ的な青年像である。語り手デイヴィッドもそんな特性を備えているのだろう。
ヴィダルの『都市と柱』でも、主人公と彼が憧れた相手は、二人してスポーツタイプの白人青年だった。エッセイや他の小説で「ブラック・イズ・ビューティフル」を掲げている作家の内面に、そんな典型的なWASP的肉体への憧れがあったのだとしたら。
ジェイムズと義父の不和の一因は、ジェイムズが白人の友人を作ることにあった、とエッセイ「アメリカの息子のノート」に書かれている。義父は根っからの白人嫌いであった。
実は語り手に与えられた「デイヴィッド」というファーストネームは、ボールドウィン自身の義父の名前と同じだ。母のエンマ・ジョンズは私生児としてジェイムズを産んだ。ジェイムズ3歳の時にエンマが結婚した相手が、デイヴィッド・ボールドウィンである。
デイヴィッドとエンマの間には、義父が結核で没する1943年までに8人もの異父兄弟が産まれた。多産な一家の「長男」としての重責が、ジェイムズにのしかかった。
義父の血を引く他のきょうだいとの葛藤が、『山にのぼりて告げよ』には色濃く現れている。だが、教会における説教師としての義父の職掌を期待された長男は、一度は宗教的法悦感の中に将来を見出したこともあったが、苛烈な差別に晒される黒人の境遇に疑問を抱きそれが神への懐疑となった。
故人である義父の名前が、『ジョヴァンニの部屋』のいささか身勝手な白人青年に与えられているのだ。これは意味深なネーミングである。
ジェイムズは、黒人の先輩作家リチャード・ライト(『ネイティヴ・サン アメリカの息子』新潮文庫)の知己を得て、幾つかの奨学金や賞を与えられ、それを元手に1948年に渡欧した。パリに腰を落ち着け、第1作の『山にのぼりて告げよ』を執筆した。
その頃、アメリカ文化人がパリをこぞって訪れていた。黒人ではなくアメリカ人というカテゴリーで差別や偏見を浴びることで、ジェイムズは白人主人公の小説を書くに至った。
『ジョヴァンニの部屋』は、第1作に顕著な黒人のアイデンティティの問題を全く無視している上に禁忌である同性愛をテーマにしているため、出版社を探すのに苦労した。
「ジョヴァンニの部屋」とは何だろう?
思い出してみると、あの部屋での生活は、まるで海の底で行われていたかのようである。時はぼくたちのうえをよそごとのように流れ去り、何時間がたとうと、何日が経過しようと、それらにはなんの意味もなかった。最初は、ぼくたちの同棲生活には、毎日あらたに生まれでるよろこびとおどろきとがあった。もちろん、そのよろこびの底には、苦悩があり、そのおどろきの底には、恐れがあった。その苦悩や恐れが、表面に出てこようとしなかったのは、最初のことだけで、やがてぼくたちの同棲生活が本格化し、いわば、ぼくたちの舌のうえの苦汁となったころには、それらは表面にあらわれでてきた。そして、そのうえを、ぼくたちは転倒したりすべったりしながら、平衡を失い、尊厳さを失い、誇りをも失っていた。ジョヴァンニの顔は、朝昼晩と、あれほど幾度も見おぼえていたのに、ぼくの目のまえで硬化し、隠微なところでくずれはじめ、ひび割れはじめた。目の光は、ぎらぎらとかがやくようになり、広く美しい額は、そのしたの頭蓋骨を暗示しはじめた。肉感的な唇は、内側にめくれ、心の底からあふれでる悲哀に、せわしなくわなないた。それはもはや見知らぬ人の顔になってしまった──というより、それが見知らぬ人の顔であってくれればいいと希求するほど、ぼくは彼の顔を見るたびに、はげしい罪の意識におそわれるようになったのだ。
(中略)
あの部屋を、どのように説明し描写したらいいのか、ぼくはその方法をほとんど知らない。ある意味では、あの部屋は、かつてぼくが入ったことのあるどの部屋にもあたるといえるし、また、今後、ぼくが身をおくどの部屋も、すべてあのジョヴァンニの部屋をぼかに想起させることになるだろう。ぼくは実際、あの部屋にそんなに長いあいだ、滞在していたわけではない。ぼくたちが出会ったのは、まだ春にならないころで、ぼくがあそこを出たのはその年の夏だった。それにもかかわらず、ぼくはいまでも、あそこで一生をすごしたような思いをぬぐい去ることができない。あの部屋での生活は、まえにも述べたように、いわば海の底でいとなまれたようなものであり、ぼくがあそこで、シェイクスピアのいう《海による変貌》を経験したことは、たしかである。
(大橋吉之輔訳、白水社uブックス)
「シェイクスピアのいう《海による変貌》」とは、『テンペスト』第1幕第2場の空気の精エアリエルの歌にある言葉"Sea Change"だ。ナポリ王とミラノ公の船が難破し、皆散り散りになった後、エアリエルはナポリ王子ファーディナンドの元に現れてこの歌を歌い、父が死んだものと思わせて王子を惑わす。
エアリエル (歌う)
水底深く父は眠る。
その骨は今は珊瑚
両の目は今は真珠。
その身はどこも消え果てず
海の力に変えられて
今は貴い宝もの。
海の妖精鳴らすのは、ひと時ごとの葬いの鐘。
(あちこちから囃し声)ディン・ドン。
お聞き! ほら、聞こえる──ディン・ドン、鐘の音が。
海の力、海による変貌。ジョヴァンニの部屋での生活を、デイヴィッドは何度も「海の底で行われていた」と語っているので、この比喩になったのだろうが、愛した男の顔を溺死した骸骨に準えるなんて酷いというか、あまりにも分かりやすい"Lovedeath"だ。
デイヴィッドは閉鎖的なジョヴァンニとの暮らしに倦み疲れ、父とヘラからの二通の手紙を受け取った日、街中で美しい水兵を見かける。
上から下まで白ずくめの水兵がひとり、大通りを横ぎってこちらへやってくる。水兵たち独特の、あの体を横にゆさぶって歩く滑稽な歩きかた、多くのことを短時間のうちに大急ぎでどうしてもやろうというあの希望にみちた一途なようす──ぼくは知らずしらずのうちに、彼の姿をじっとみつめながら、ぼくが彼だったら、と希求していた。彼は──どういうわけか──ぼくがどんなに若かったときよりも若く見え、ぼくより白皙金髪で美しく、まぎれもない男らしさが、皮膚のように身についているように思われた。彼はぼくに、故郷のことを思いおこさせた──おそらく、故郷というのは、場所のことではなく、ひとつの宿命的な状況に他ならないのではないだろうか? ぼくには、彼の酒の飲みっぷりや、友人たちと交際しているようすや、苦痛や女たちに困惑させられているありさまが、手にとるようにわかる気がする。ぼくの父も、かつてはあんなふうだったのだろうか? ぼくもあんなふうであったことがあるのだろうか? ──といっても、さながら光のように大通りを横ぎって威勢よく歩いてくるこの青年に関して、その素性や係累を想像することは、およそ困難なことだった。ぼくたちが接近したとき、彼はまるでぼくの目のなかに、なにかすべてを暴露するような狼狽の色でも読みとったかのごとく、さげすみをこめた猥雑な知ったかぶりの視線を、ぼくにむかって投げた。それはちょうど、もしかしたら彼が、わずか数時間まえに、町のどこかで、自分を淑女だとひとに思いこませようと極端に身なりを飾った淫乱女か売春婦に、投げかけたかもしれない視線と同じもののように思われた。そして、あと一瞬でも、もしぼくらがそのようにたがいに近接したままの状態をつづけていたら、その輝くばかりに美しい青年の口から、「おい、おまえさん。あんたの正体はお見とおしだぜ」といったたぐいの残酷なことばが、ぼくにむかって噴出してくることはたしかであるように思われた。ぼくは顔がほてり、胸がしめつけられ、体がわななくのを感じた。彼のむこうのほうをじっと凝視するように努力しながら、ぼくは急いで彼のそばを通りすぎていった。彼がぼくをそのように不意に恐れさせたのは、ぼくがなぜか、ほんとうは彼のことを考えていたのではなく、ポケットのなかの手紙のことを、ヘラとジョヴァンニのことを、考えていたからだった。ぼくは、ふりかえってみる勇気もなく、通りのむこう側までたどりつくと、あの水兵がぼくに近づいた瞬間、即座にさげすみの色をうかべたのはなぜか、このぼくになにを見たというのだろうか、と考えてみた。それがぼくの歩きかたとか、ぼくの手のかまえかたとか、ぼくの声とか──いずれにしても、彼はぼくの声を聞いてはいないが──そんなことと関係があると推測すればするほど、ぼくは幼稚ではない。それはなにかもっと他のものだ。だが、ぼくがそれをつきとめてみることはけっしてないだろう。また、あえてつきとめてみようともしないだろう。そうすることは、裸の太陽を裸眼で見ようとするのと同じようなことなのだ。しかし、広い歩道のうえを、通りすがりの男であれ女であれ、だれの顔をもあえて見ようとはせず、ひたすらに速い足どりで急いでいきながら、ぼくはふと、あの水兵がぼくの無防備な目のなかに見たものが、羨望と欲情であったことを悟った。ぼくはそれをジャックの目のなかに見たことが、それまでなんどもあった。そして、それにたいするぼくの反応とあの水兵のとは、同じものだった。しかし、たとえぼくが依然として愛情を感じることができ、彼がそれをぼくの目に見たとしても、それはもうなんの救いにもならなかったであろう。なぜなら、愛情──ぼくが目をむけることを運命づけられている青年たちにたいする愛情は、色情などというものよりも、はるかにはるかに恐ろしいものだからである。
ぼくは、予期していた以上に遠くまで歩いていた。あの水兵が、まだぼくをみつめているかもしれないと思われるあいだは、立ちどまる勇気がなかったのだ。
ジャックの好意に対する己の厚かましさ、ジョヴァンニとの息詰まる関係。自分のナルシスティックな愛の対象が何であるかを劃然と悟るデイヴィッド。ジョヴァンニの部屋を出て、ヘラとノンケの生活を取り戻すことも出来ない所まで来ていることを悟った彼は、美しい金髪の水兵への羨望に悶絶するのだ。
ここでは水兵は穢れなき存在のように描かれているが、それは単にデイヴィッド自身の過去の投影である。海から来た水兵がもたらすものも又、「海による変貌」である。
デイヴィッドはジョヴァンニを捨て、ヘラとやり直そうとするが、ヘラもジャックやジョヴァンニの存在を知り、デイヴィッドとの結婚に尻込みするようになる。
二人でやり直すために南仏に家を借りているさなか、ジョヴァンニは絶望のあまり、嫌っていたギヨームに身を任せるつもりで近寄り、ギヨームを手にかけてしまう…
パリはある意味、若い黒人作家にとって自由と引き換えの苦難の地でもあった。
『ジョヴァンニの部屋』には「ルシアンに」という献辞が掲げられているが、この人はルシアン・ハッパーズベルガーというスイス人画家で、ジェイムズのパリにおける恋人だ。ボールドウィンより七歳歳下で両親は裕福な環境。パリに来た当初、赤貧洗うがごとき惨状だったボールドウィンを救ってくれたのは、年少のルシアンだった。まるで、デイヴィッドに手を差し伸べるジョヴァンニのようだ。
ただし、この小説が出版された頃には、関係は終わっていた。この別れが『ジョヴァンニの部屋』の悲劇的な結末に影響している。
更に、パリ滞在の終わりに、ボールドウィンは黒人ミュージシャンと恋人になり、結局、その関係も破綻を来たし、1956年夏、自殺未遂を起こしている。黒人活動家としての経歴に傷が付きかねない彼のプライベートな側面は、日本では全くと言っていいほど紹介されていない。
"Interrace"というジャンルが存在する。いや、カテゴリーなのか。ゲイポルノの話題を振りたい訳ではないが、白人と黒人、ラテン系、アジア系、と言った様々な組み合わせのカップリングが売りのジャンルとなっている。
そこでは、自由と博愛という現代の理想と裏腹の、ある種淫靡なアモラルさで、異人種間のセックスが取り沙汰され、バイアスがかかった目で見られるのが、"Interrace"という組み合わせなのだ。
イタリア人のジョヴァンニと、アメリカから来たデイヴィッド。一見、作者とは異なる存在に見えるが、どちらも作者自身のアルターエゴである。おそらくは「白皙金髪」のデイヴィッドに惹かれるラテン系のジョヴァンニは、作者の性的対象を炙り出し、アメリカから逃げて来て異国でどっぷりと同性愛の世界に身を浸すデイヴィッドは、作者自身の行動そのものを物語る。
後に黒人民権運動家として頭角を表すボールドウィンが、己の中の同性愛の様相を凝視した結果生まれたのが、この長編である。だから、黒人が登場しようがしまいが、ここにはゲイの作家の魂の叫びが封じ込められているのである。
次の長編『もう一つの国』(1962)は舞台がニューヨークに戻り、パリ・デイズは遠い過去である。ゲイもストレートも入り乱れた長大な長編となり、語り手とジョヴァンニの出逢いと別れを描いた一直線な物語の前作とは異なった、ポリフォニーの様相を呈している。しかし作者自身はアメリカには定住せず、ヨーロッパに主に暮らした。その辺の事情は推して知るべし。
ジェイムズ・ボールドウィンは小柄な黒人で、主に白人が対象の性向を持っていたと思われる。やがて、そのことで同じ団体の運動家から激しく差別を受けて活動を追われる一因になる。性向や性癖は人間の重要な人格の一部であるのに、そこを責められるのは誠に忍びない。正当ではない不当な人格攻撃とはまさにこのこと。

カール・ヴァン・ヴェクテン撮影。
日本版Wikipediaのボールドウィンの項目は至って表面的だが、本国版はさすがに微に入り細に入り丁寧な頁となっており、今でも影響力のある作家だと分かる。日本では『ジョヴァンニの部屋』以外ほとんど知られていないのが嘘のようだ。彼の小説以外のエッセイ評論も、いずれもペイパーバックでリプリントされ、読み継がれている。
1960年代、高まる黒人公民権運動に積極的に関わりを持った彼は、友人のエヴァースやマルコムX、キング牧師を暗殺によって失った。批評やエッセイを通して万人に平等な権利を主張し、彼は黒人公民権運動の代表として見なされるようになる。
しかし思わぬ伏兵に背後から撃たれる。同じ黒人民権活動家のエルドリッジ・クリーヴァーによって、活動の第一線から追い払われてしまったのだ。
クリーヴァーは大のゲイフォビアで、作品に同性愛者を登場させ、あまつさえ、『ジョヴァンニの部屋』のような「白人主体のゲイロマンス」を書いた、オープンリーゲイであるボールドウィンを全く許容しなかった。
歪んだ人種的な絆を持つ黒人同性愛者は、矛盾を具体化する。白人は彼の男性らしさを奪い、燃える頭蓋骨の中で彼を去勢し、彼をこの変化に服従させ、白人男を「ビッグ・ダディ」として恋人にする時、彼は抑圧された魂の愛を全て「白人らしさ」に注ぎ込み、彼自身、彼に似た全ての人、彼自身を思い出させる存在、即ち「黒人らしさ」に、憎しみの剃刀の刃を向けることになる。
酷い言い掛かりである。白人のビッグ・ダディに体を犯されアイデンティティや魂を売り渡している、という非難である。オープンリーゲイではあるものの、プライベートを好んで語るタイプではなかったボールドウィンは、クリーヴァーの猛烈な批判によって痛手を受け、運動に関わる意欲を削がれ、ヨーロッパに逃避する結果になってしまった。
先ほど、"Interracial Porn"が未だに偏見を含んで取り沙汰されていることを敢えて指摘したのは、こういう露骨な性的批判が今でも往々にしてまかり通っているからだ。
ボールドウィンを白人ダディ好きと批判したクリーヴァーは、黒人活動団体「ブラックパンサー」の主力メンバーだった。だが、このような誹謗中傷を繰り返し、やがて団体を追われる。その後、「ブラックパンサー」のオブザーバーとなったのは、よりにもよって、あの過激な同性愛者のジャン・ジュネだった。
これは大いなる皮肉である。虐げられた人々に手を差し伸べる立場では、ゲイであろうとストレートであろうと、そんなことは関係ないし、むしろ被差別者同士の連携が必要なのだということを、よく分からせてくれる。
ボールドウィンは1987年12月に63歳で、ニューヨークで没するが、この文章で先に触れた『山にのぼりて告げよ』『ジョヴァンニの部屋』『もう一つの国』を初期三部作とし、後期三部作も存在する。
1968年の"Tell Me How Long the Train's Been Gone"、1974年の『ビール・ストリートの恋人たち』(早川書房)、1979年の"Just Above My Head"が、後期三部作と言われているが、うち二作が未訳のままだ。"Just Above My Head"は『ジョヴァンニの部屋』に並ぶゲイ小説らしいので、是非とも読んでみたいのだが、翻訳されそうにない。
日本では半ば忘れ去られた作家、かたや、本国ではますます存在感を増しているボールドウィン。フィクションでは他に、1965年出版の短編集『出会いの前夜』(太陽社)と、1964年発表の戯曲『白人へのブルース』(新潮文庫)が翻訳されている。
短編集の表題作「出会いの前夜」は、白人保安官補が妻との閨事でインポテンツに陥り、その原因を公民権運動で騒ぐ黒人たちのせいにする。彼は幼い頃は黒人の友人もいたのだ。しかし、ある時、大柄な黒人男が全裸で吊るされてリンチを受けているのを目撃して、その巨大な男根が切り取られるのを目の当たりにするが、
彼のインポテンツはその記憶のせいだった。
性を仲立ちにした無理解と理解の狭間を、ボールドウィンは書こうとしていたのだろう。だからこそ、性的抑圧をシンボル的に小説の中心に据えた。
黒人青年がレイプの冤罪で逮捕され、恋人が容疑を晴らそうとする『ビール・ストリートの恋人たち』や、ボールドウィンがかつて実父のように慕って、後に訣別したリチャード・ライトの『ネイティヴ・サン アメリカの息子』もまた、運転手の黒人青年が雇い主の白人娘をレイプして殺すというショッキングなプロットを持つ。
相手をレイプして時には子を産ませ、それを民族的な浄化とする考え方が、古くから洋の東西を問わず存在するが、そういう、性的行動を人種的、政治的な服従や蹂躙の道具にするのは、全くもって人道に対する犯罪である。
だが、それ故に、今でも低俗なポルノのコンテンツとして存在し続けている。色の違う肌が交わることに興奮を覚える向きは一定数いるのである。私はこの根源的なオブセッションに恐怖を感じる。だが、その手のものから目を離せない自分だって同罪だろう。
そして「ジョヴァンニの部屋」は、社会から隠れるクローゼット・ゲイの生き方そのものに思えてくるのだ。ジョヴァンニは貧しくてカーテンを買えないでいるが、目隠しで窓を白ペンキで塗っている。そこに転がり込むデイヴィッドは、そこが自分のセクシュアリティを閉じ込める牢獄であることに気付かされる。
街で見かけた金髪の水兵は、それを自覚させるきっかけに過ぎない。だが、デイヴィッドはこの先、ストレートの人生に戻ることなどないだろう。美しい男たちの間を渡り歩いて、ジャックやギヨームのように年を重ねてゆく。
断頭台に消えたジョヴァンニは、まるで、ジュネの描く死刑囚の英雄たちのようだ。サルトルやボーヴォワールとパリで知り合いだったボールドウィンは、もちろん、ジュネの作品は読んでいたのではないだろうか。
黒人公民権運動の影に隠されてなかなか見えてこない、ボールドウィンのゲイ文学への傾倒とその先見性をもう一度、はっきりと確認してもらえる時が来れば良いのだが。
今回敢えて公民権活動家としてのボールドウィンの側面にほとんど触れなかったのは、ここがゲイ文学のページだからである。そのことはよくご理解戴きたい。

ボールドウィン生誕100年を記念して。
元々は1964年に白水社より翻訳刊行。
