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日本人とは何か?④ 夏草や兵なほ語る無言館 漫歩


はじめに

私は、政治的思想はどちらにも偏らず、特定の信仰もありません。有史以来日本の歴史、とりわけ、先の戦争について知りたいと願います。また、それに関わると思われることも覚書として取り上げています。

日本人とは何か③ 呪術と祝詞」でご紹介した「731部隊展資料」は三里塚の証言 悪魔の731石井部隊とのタイトルに続き、「我が内なるファシズムの思想を克服せよ(1)〜(6) 」と副題が添えられています。

三里塚大地共有委員会代表の加瀬勉氏(以下、加瀬氏)がこの資料の執筆者で、志は何かと問われれば、「有史以来、国家の本質を変革すること」と発言し、日本の歴史をとても分かりやすく説明しています(必読)。

加瀬氏は、1934年(昭和9年)5月5日、千葉県香取郡東條村牛尾327番(現多古町)の地に出生。日本の敗戦時、1945年(昭和20年)は11歳ですから、当時の記憶はしっかりと残っていたものと推測されます(戦前、戦中、戦後の日本人の変容など)。

そして、加瀬氏と小説家の水上勉(1919年/大正8年3月8日- 2004年/平成16年9月8日)との因縁は、長野県上田市にある無言館へつながります。

水上勉と加瀬一家の因縁話、無言館と反戦句人の碑

 加瀬勉さんの『加瀬勉 闘いに生きる』上巻はいわば三里塚島闘争60年の全体像を描いたものだ。そして下巻では、彼が生まれ育った多古町を中心とする北総台地の歴史と、加瀬家の沿革を中心にまとめられている。なぜ加瀬勉が、独身独居を貫きながら三里塚闘争を闘い続けているかを読者は理解できるだろう。

 私はこのなかで、作家水上勉と加瀬勉と無言館の因縁話にふれてみたい。あるとき加瀬勉さんが言った。「じつは俺の叔母にあたる加瀬えきは、作家水上勉の最初の妻だった。戦時中に子供が生まれ、太平洋戦争末期、産まれたばかりの幼子を連れて疎開してきた。その幼子の名は凌。戦後すぐに東京に帰ったが、水上勉は妻子を捨てて別の女性と同棲した。えきは、やむなく勉との間に生まれた凌を里子に出して、別の男と結婚し生涯を終えた。これは下巻「窪島誠一郎の母、加瀬えきの生涯」に詳しい。

 いわば捨てられた水上勉の一子凌は後年窪島誠一郎と名乗り、約30年前に長野県上田市の塩田平に全国の戦没画学生の絵や手紙などを集めて「無言館」をつくった。かつて加瀬さんから、その話を聞いて、無言館に共鳴して幾ばくかのカンパを送ったことがある。昨年の6月、無言館の一角に俳人の金子兜太を中心に「反戦句人の碑」が建立されたと聞いたので友人と訪れてみた。

 第二次世界大戦中、反戦の句を詠んだ俳人らが検挙・投獄された「新興俳句弾圧事件」を語り継ぐ石碑が長野県上田市に完成し、
2月25日に除幕式があったが、建立の筆頭呼び掛け人兜太は2月20日に九十八歳で亡くなった。東京新聞が以下のように伝えている。

 ――碑は、戦没した画学生らの絵を展示する「無言館」の敷地内に立つ。「俳句弾圧不忘(ふぼう)の碑 兜太」と刻まれた。その建立へ金子さんと尽力したのが、フランス出身の俳人マブソン青眼(本名マブソン・ローラン)さん(49)=長野市=だ。来日して俳句を研究していた二十年前に金子さんと知り会い、すぐ金子さん主宰の俳誌『海程』の同人になった。二〇一五年に対談した時に俳句弾圧事件が話題となり、「有志で記念碑を建てよう」と決めた。全国の俳人ら五百七十一人から三百万円あまりが集まり、碑とともに、弾圧を受けた俳人の作品などを展示する「檻(おり)の俳句館」と、訪れた人が投句できるポストも併せて設けた。「無言館」の館主で作家の窪島誠一郎さん(76)も金子さんと親交があり、マブソンさんが建立場所として提案すると、金子さんは「無言館なら大賛成だ」と喜んだという。

 <新興俳句弾圧事件> 戦時中の1940~43年、戦争や軍国主義を批判・風刺し、反体制的な句を作った俳人ら44人が、治安維持法違反容疑で検挙され、13人が懲役刑となった。対象とされた句では「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(渡辺白泉)などが名高い――(東京新聞 2018・2・22)

一人ひとりが声をあげて平和を創る「オルタ通信」


無言館公式サイトより


以前、何度か訪れた無言館は、フランスにあるマティス礼拝堂のような静けさと安らぎに包まれていました。だからこそ、その対極にある戦争の正体が、見る者に無言のまま問い続け、押し迫るような印象を私はもったのかもしれません。

日本の歴史については、上記「731部隊展資料」に重要な記述を見つけましたので、皆さんにもご紹介したいと思います。

私は奈良 「春日神大社」 を問題にする。それは空港反対闘争地域の芝山町住母家にある春日神社境内に731部隊石井四郎軍医揮豪の 「忠魂」碑が建立されているからである。空港反対老人行動隊に名を連ねた人々も多く建設委員になつている。

芝山町において731部 隊石井四郎軍医中将は郷土の偉人であり、「神様、仏さま、石井閣下さま、村の大恩人様」なのである。一方 もう一つの空港建設反対闘争地域においては天皇家の下総御料牧場の存在があつた。現代史における日本の悲劇の根源は絶対主義天皇制にあった。三里塚地区の人々にとって恐れ多いが内心おらが天皇であった。戦後開拓記念式典、農業構造改善シルクコンビナート施行式典には皇族が列席してお手植えの植樹をしている。全村挙げての花火の祝賀を行 っている。

<中略>

私は日本の近代、現代史は日清、日露、日中、朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして現在の南スーダン自衛隊派遣まで、直接的、間接的戦争の歴史であると理解 している。自らの戦争に対する罪科に対して総懺悔ではなく真に反省し平和を希求する普遍の価値を求めて奮闘する日本人民であり民族でなければならないと思っている。

大和政権東国侵略
「古語拾遺言」は平安前期大同二年 (八〇七)に成立した史書で、朝廷の神事をつかさどる齋部広成が一族の権威を誇示するために書 き表したものである。「天富命、さらに沃穣 をもとめんとて、阿波齋部を分かち、率いて東土に往き麻穀播殖せしめたもう。好き麻の生いたる所、故に之を総の国とゆう。阿波齋部の入るところ安房国と名ずく」。

千葉県は安房、上総、下総の三国からなっており、総とは古代語で麻を意味しており、奈良から近い方を上総、遠い方を下総と呼んだ。常陸風土記は東夷征伐に際して「杵島曲を唱ふること七日七夜、遊び楽ぎ歌い舞ひき。時に賊の党、盛なる音楽を聞き、房を挙りて、男も女もことごとく出てき、浜を傾 けて歓び会り、ことごとく種族を囚人へ、一時にして、焚き滅ばしき」大和政権が東国支配に積極的に進出してきたことがわかる。
房総半島の地名、安房、勝浦、白浜、奈良名等南紀の地名と同じである。黒潮暖流と親潮寒流が半島の沖合で合流する。千葉県の文化を黒潮文化 という。

ここに「7」を強調する「七日七夜」が登場します。

春日の神香取・厚島の農業祭神を盗む
鹿島神宮は多臣氏族の農業祭神であり、香取神宮は出雲族の農業祭神であった。それが物部の氏神 (経津抽主神、タケミカズチ神)を祭るようになり、大化改心によって物部の勢力は失墜、中臣が権勢を増大、大和朝廷を支配するに及んで、藤原の氏神である奈良の春日神社に香取鹿島神宮は合祀された。

春日神社縁起によれば「香取・鹿島の神が鹿にのってこの地にやってきた」とあるが、大和政権の中臣が香取・鹿島の神を盗つたのである。春日の神は東国を奪い取り、農業祭神を盗んだ泥棒の神託なのである。

香取.鹿島神富は侵略の神ヘ
武道場には必ず鹿島神宮、香取神宮の神が祭られている。戦場に出征していくことを「鹿島立」という。香取神宮の宝物は、道奥国の蝦夷の酋長の首である。これは香取神宮の軍事的侵略的性格をよく表している。香取神宮に隣接する利根川津宮河畔で蝦夷の酋長に対する申状祭が明治初年まで続けられていた。馬に乗つた蝦夷の酋長に拷間をかけて馬を奪い取る儀式である。

<中略>

農業祭神から武人にかわった香取神宮の神は第一の摂社側高之神に道奥国にいって馬を盗んで来いと命令した。その盗んできた馬を八〇〇匹隠したところが香取神宮の隣接する隠井集落である。この馬を放牧したのが牧野 (現香取市牧野)である。軍事基地としての北総台地の牧々 (佐倉小金井七牧)下総御料牧場の始まりである。

ここには「八〇〇匹」と「8」が登場します。

牧は古代から戦国時代まで強大な軍事基地で あった。馬を盗んできた側高の神は何物か、その祭神は古来秘密であつて氏子として知る人はない。知ることは許されない。

香取神宮から北に利根川を遡ること一〇キロ、神崎神社がある。香取神宮の先、神の先にあるから神崎神社である。この神崎神社 も香取神宮の摂社である。祭神は天鳥船命である。馬と船を用いて道奥国々を侵略し支配してゆくのである。

私が特に興味深く思ったのは、731部隊石井四郎軍医中将の生家の屋号「カネカ」。この地域で地主で金貸しの加茂の 「カネカ」を知らぬものはないというではありませんか。屋号の「カネカ」は大工が使う金尺の中の力であるようですが、金貸しはイスラム教の聖典コーランは、お金を貸し借りしてリバー(利子)を取ることを禁じています。また、キリスト教社会では、聖書の教えから利子を取る金貸しは元々「卑しい職業」とされ、中世ヨーロッパでは経済の必要性からキリスト教徒も金貸しとなり、13世紀頃には実質的に利子が認められるようになりました。

特に、ユダヤ人が金融業を担った歴史があり、旧約聖書では、兄弟(同胞)から利子を取って貸すことを禁じていますが、兄弟以外(異教徒、すなわちキリスト教徒など)に対しては利子付きの貸付が例外的に許されていました。現代の状況が透けて見えるようです。

私はすかさず 「南京大虐殺をやったのでは ないか」「中国の女性に対して強姦したのではないか」と問いただしました。「みんなはやったが、俺はやらなかった」との返事でした。

「天皇の命令」「軍律厳しい」なかで俺だけやらなかったで済むはずはないと思います。
ファシズムが巨大な歯車となって全力で回転しているときに、一枚の歯だけ逆転する良心の存在など許されるはずもない。それは言い逃れであり、逃げ口上であり、責任の回避だと思います。沈黙は傍観者は共犯者であります。真実、事実に対する反省が必要だと思います。

「みんなはやったが自分はやらなかった」との発言は、『赤紙と徴兵』にも同様の証言が記されています。その是非は当時を知らぬ者は憶測でしか語れませんが、人間は自己防衛本能がはたらくことは、想像容易いです(この証言者を否定する意図はありません)。

長くなりました。
最後に、こちらを引用して終わりにします。

紀元前五八四年、斉の国の重臣在叔は、かって自ら伐った晋の国の反撃を恐れ、自国の王の首を捧げて難を逃れようとし、王を自分の妻に姦通させておいて、その家を謀殺した。歴史官である太史は、その時、宮廷の公式記録に「桂叔は其の君を殺せり」ときっぱり書き綴った。桂叔は激怒してその官吏を殺害した。その弟が兄の後を継いで同じ文章を記録した。かくて殺されたものは二人、なおもその弟が事実を記録すべく史官の任務についた。流石に桂叔は殺すのをためらった。そのときである、史書補佐の家柄のものが、太史官の家系がことごとく尽きたりと聞き及んで、自ら同じ運命に至るべく鑑札をとり記録所にはせ参じたという。

「春秋」襄公二五の記録「五月乙亥、斉桂叔殺其君光」二一文字の記録の史実である。剣よりも弱い文筆が権威を確立したの謄ある。後世、正史の編纂が国家の事業とされて権力に対する歴史の審判の意味は削られ事実上消滅して現代に至っている。 

「晋の国」、この一字を父、息子の名に用いたのは安倍晋三氏。「晋」で思い浮かぶのは李晋。李晋(り しん、1921年/大正10年8月18日 - 1922年大正11年
/5月11日)は、李垠(り ぎん)の第一子・長男。母は日本の皇族・方子女王。肥前佐賀藩主・鍋島直正の玄孫です。李垠は大韓帝国最後の皇帝で、字は光天。ここにも「光」「天」が登場します。

人との相性 ―好き嫌い― を突きつめてゆくと、もしかしたら古代日本の歴史まで遡るのかもしれません。



※拙文のお目汚し、大変失礼いたします。
慎重に書いているつもりですが、記述の問題や誤り等がございましたら、ご指摘のほどお願いいたします。あらためて調査した上で、修正いたします。



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