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日記:『白百合のような』の比喩は舶来品。江戸前期まで日本文学に白百合はなかった。

白百合のような女性。
その比喩に、自分は着物を着た和の女性をなんとなく思い浮かべるところがあった。黒髪に白い肌、華奢でたおやかな。
おそらく、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」のイメージからきている。

本投稿は『漱石の白百合、三島の松』塚谷裕一(東京大学大学院理学系研究科教授の植物学者)著からすべて引用する。こちらを読んでいただいた方が完全に分かりやすいと思う。
参考:漱石の白百合、三島の松近代文学植物誌 -塚谷裕一著|中公文庫|中央公論新社


まず、本の内容から離れて、自分の実感として象徴的な話をしよう。
私が9月、夏の東北旅をして撮った写真を以下に載せる。
・岩手の花巻・やまゆりの宿に泊った。↓

玄関
土間にいけてあった百合。

・平泉中尊寺までの山道で撮った写真↓

山百合。

ふたつを比べていただいて、
『やまゆりの宿』の土間にいけてある百合は、やまゆり(山百合)ではない。
ということがよく分かると思う。
百合と言われて思い浮かべる脳内の百合はまっしろで、派手なまだら模様はない
多くの現代日本人にとってそうではないか。
花屋で見かける百合、そして絵で描かれる百合、文学で象徴的に使われる百合は多くの場合、白い花だ。旅館の土間に飾られていた方。私も、もしこの宿の描写を手癖でやるなら「土間に清らかな白百合がいけてあった。」とでも書くだろう。百合といえば“清らか”で“白い”。

やまゆりの宿は大変結構な素晴らしい宿だった。
この東北旅から都内に帰ったら、百合の種類のこと全然知らないし調べておくか、とその日の晩思っていた。
ここまでが前段。
以降、漱石の白百合、三島の松近代文学植物誌 -塚谷裕一著|中公文庫|中央公論新社を読んで。




♢『漱石の白百合、三島の松』(塚谷裕一著


・まず、漱石の『それから』のなかにでてくる白百合は現実の白百合ではない、というところから。文中の特徴を現実の百合の特徴と照らし合わせ、白百合ではなく派手なまだらの模様のある山百合です、ということを説明している。
作中では鈴蘭の「極めて淡い、甘味の軽い、花の香」を現実逃避として、山百合の「甘たるい強い香」、「重苦しい刺激」を現実として比較しているのでそこをただの白百合として読むのは惜しい、という指摘だ。

幸い、この私説は複数の漱石読みの方々から認めていただけたが、問題はそれで解決したわけではなかった。というのも、その時点で私は寡聞にも、山百合に白い色のみを見る特性は漱石固有の問題だと思っていたのだが、その後注意して見ていると、これが実は激石に限ったことではなく、多くの日本の作家に共通したものであることに気づいたからである。もっとも、ほとんどの例は、テキストを読み解く上で「それから」ほど重大な誤解を呼ぶものではないから、その意味では問題は少ない。が、複数の作家がおしなべて山百合を白いと見なしていたとなると、これは漱石一人の気紛れではない。とすれば、この白百合は純白ではなく、実は山百合である、と単に指摘すればすむ問題ではない。しかもそうした例を見比べていくと、不思議な点が幾つも認められる。
一体なぜ、日本の多くの作家は申し合わせたように山百合を白百合と呼び、そのカラフルな花から白の色のみを抽出して描写したのだろうか。

引用

・そして三島由紀夫の『獣の戯れ』第三章は山百合の描写として満点だ、ということ。ただしこのような正確な描写がされているのは例外だと言っている。
「百合は油を塗ったやうにつややかな白い花蓋をひろげ、強い日ざしのなかに鬱然とした匂ひを放つてゐた。白い花弁の外れまで、しどけなく煉瓦いろの花粉に染つてゐた。内側深く淡黄に暗紅色のあざやかな斑らが見えた。
(中略)
山々やその上の晴れた空や輝やく雲は、今この一輪の百合に統括されてゐた。それらの色のおのおのは、すべて百合の中に凝縮されてゐる色が、拡散してできたもののやうに思はれた。すなはち森の緑は百合の茎と葉の色、土の色は花粉の色、古い木の幹は暗紅の斑らの色、かがやく雲は白い花弁の色、といふ具合に。」

・夢野久作の「少女地獄』の姫草ユリ子も紹介されている。
「あの名前の通りに可憐な、清浄無垢な姿をした」
「彼女ほどの虚構叩きの名人が、K大以来一度も変名を用いなかった心理も、ここまで考えて来ると想像が付いて来る。それは姫草ユリ子なる名称が、彼女の清らかな、可憐な姿の感じに打って付けである事を、彼女が自覚していたばかりでない。そうした彼女の気持の清浄無垢さを誇りたい彼女の心の奥の何ものかが、こうした名前に云い知れぬ執着を感じていたせいでは、あるまいか」

古事記、万葉集には確かに百合が登場しているものの、その後は、日本文化では、少なくとも散文学レベルでは、百合を対象としない空白の時代が非常に長かったことはすでに述べた。したがってこの間、百合に関しては、桜や梅、松のような日本独自の約束事が発達しなかったと思われる。恐らく山百合の花は、日本文化の中では万葉以降は食用の植物として、また人里離れた地の植物として無視され続けてきた日陰者だったのだろう。美術工芸品でも、百合の紋様はきわめて少ない。
もしかすると、東京国立博物館の今永清二郎氏が工芸品の百合紋について述べているように、キリシタン禁制の世は、百合はキリスト教の象徴としてタブーとなったということもあったかも知れない。ともかく、芸術分野に持ち込むには値しない、持ち込むにしてもその作法も確立していないものとして、顧みられることがなかったのである。
そういういわば無垢な土壌へ、キリスト教文明の公認と、その普及にのって、西洋で確立した「百合のように白い」という比喩が導入されれば、これが日本に定着するのはたやすいことである。身近にあって、しかも久しく忘れていた山百合をその気になって見れば、にわかにハイカラな概念が当て嵌められて、かわりに細かい斑紋や黄色い帯は都合よく無視され、夜目・遠目型に加え接近型の「白百合」が生じる。これは一種の舶来思想である。
山百合が白百合とされたいきさつは、したがって、百合のように白い、あるいは純潔である、無垢である、という比喩を日本に輸入するための方便だった、というのが私の仮説である。
(略)
いずれにせよ、山百合が伝統を持たないハンデをはねかえし日の目を見るには、実体とやや離れた姿をかぶせられる必要があったのである。

引用
※夜目・遠目で山百合を見ると白い花に見えるのは理解できるが……という文脈

・山百合の学名の種小名は auratum であり、「黄金の」という意味であることも触れられている。命名者 Lindrey にとっても白の花とは捉えられなかったということ。

一方、単に白百合という場合、この言葉は、山百合とは無関係の抽象概念としても使われることのほうが多い。そういう型の白百合を比喩・象徴型と呼ぶことにしよう。
この比喩・象徴型の「白百合」は、しばしば基盤に実体を必要としない純粋な比喩として用いられる。そうすると、白百合はもはや白という色以外の属性を持たなくなり、時には花であるどころか、純潔や聖なるものの象徴でしかなくなってしまう。

引用

・「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」も、俗謡由来で江戸後期の用例しか見つからないらしいから、本当に近代以降しか「白百合」の描写はなく、輸入概念であろうということが書いてある。

・多く引用してしまった。
気になる方はぜひ本著を読んでください。
白い百合はやはりキリスト教の聖母マリアの比喩。結婚式の白百合、白百合学園の乙女の純潔のイメージ。
私は中高一貫女子校のカトリック校出身なんですが、朝礼で歌っていた聖歌のレパートリーのひとつ、【いざほめうたわん】(聖歌31)に以下の歌詞がある。直喩ではないが、百合と薔薇のイメージを下敷きにしている。

野のしらゆりも 奇しきばらも
マリアにまさる 花にあらじ

薔薇にまで触れると長くなるので置いておいて、だいたいの疑問は綺麗に解決したと思う。
これからの人生では、源氏物語とかの平安の女性を思い浮かべるとき、着物の清楚な女性を見たときに、脳内で西洋の白百合を添えることはなくなった。事実に即しているのが絶対的によい、というわけでもないからまあ添えてもいいんだけど。日本の白い百合として鉄砲百合も一応はある……。しかしいろいろ学ぶに越したことはないだろう。紋切型の比喩は楽だけど、浅学なので変なときに使ってしまうのがこわい。
自分がふとした時に使ってしまう言葉、口と耳に馴染んでいるからなんとなく使ってしまっている時も多い。ちゃんとしたい。いつもなにも知らなくて間違いばかり。言葉を選びたい。

きちんと文意を反映できたか自信がなく、本著読了をおすすめします。白百合以外の章も面白い。おしまい。





20260310追記:水戸旅行にて、偕楽園の好文亭内に山百合の絵を見つけ思い出した。

♢湯島の名店、メゾンナルカミ

20260411追記:湯島のメゾンナルカミでランチ。素晴らしい器に出会う。

鹿児島の黒毛和牛、トマト、生姜、胡麻油のソース
そら豆、カラスミ、豆腐のムース、オリーブオイル
えんがわ、菜の花、芽キャベツ、筍、渡り蟹の魚醤
蛍烏賊、ふきみそ、さわら、黒舞茸新
牛蒡の土鍋ご飯
黒胡麻と酒粕の白黒のアイス

旧家屋をモダンにリノベした空間。フレンチジャポネーゼの名店、とサイトでうたわれているが、和の旬の食材とフレンチの技法を掛け合わせ素晴らしいコースを提供してくれます。
日差しの強い日だった。春なのに夏と惑うような。駅から店に辿り着いて引き戸を滑らすと品のいい香が薫った。あ、いいなあと思いながらカウンター席に案内され、すとんと席に着く頃にはちょうど消えた。あくまで出迎えのもてなしの香で、食の邪魔はしないようにとう意図がただしく適っている。
この時点でよいなあ、と思いつつコースが始まる。
板前?シェフ?どう呼べばいいかわからないが調理人は寡黙だった。連れと喋るのをいっさい邪魔せず、淡々とコースを勧めてくれる。
美味しさは写真と上に記した食材の取り合わせで伝わると思うので、器と内装を褒めておわります。

なんといってもこの山百合の皿。
山百合と肉は案外よく似合うんですね。知らなかったな、素敵。清楚なカサブランカの絵付けの器であればスイーツでも載せたいところだけど、山百合の猛々しいまでの芳香、赤の斑点に黄金の線の強い色彩が、レアな肉の野性味とぴったり。

隣を覗くと白木蓮の皿で提供されていた。こちらは、花の季節的にも今にぴったりの器ですね。山百合はすこし先取りの季節だが、こうも太陽が照りつけて暑いともはや今が初夏とすら思うのでかえっていいやと思うね。

そして、食後に私は紅茶、連れは珈琲を選んだ。
そのティーカップも素晴らしく、紅茶をひとくち飲むと隠されていたソーサーの中央部分があらわれる仕掛けだ。若い緑が、うす水色に伸びている。爽やかですね。(写真の右列参照)
隣の珈琲は、紺色で描かれた珊瑚があしらわれたティーカップ、ソーサーの中央部分は濃紺の一色で海を表し、持ち手も紺に塗られていた。そして、ソーサー中央部分の円周と、ティーカップの唇があたる円周にぐるりと金色の縁が塗られている。金と紺の二色使いが潔くていい。珊瑚というと紅か桃、白だけれど図像としては紺でも映えますね、海の底を想わせて。
どちらにそれぞれの器を出すかも、私と感覚が同じだ。なぜだか、珈琲は海、紅茶は森という感じがしますね。
市川春子の『25時のバカンス』という漫画作品に、「コーヒーの深い闇色 故郷の海」「真珠は貝の血でできる 白目は真珠色に黒目はコーヒー色に」というような言葉(一連で抜き出さず、台詞の一部を切り貼りしています。ぜひ通して読んでほしいから)がある。一部抜き出すとまったく作品の魅力が伝わらなくて惜しいのだけど。
そこからか、珈琲は海という感じがする。
紅茶は茶葉だからかな。珈琲豆が積み上がっていても作物という感じを受けるが、葉が幾千、幾万枚と重なればいずれ木、林、森へとなってしまうような感じがするから。

そして、お手洗いすらよかった。鏡がおそらく鎌倉彫で、おそらく山中漆器の唐草紋様の小箱が置いてあった。(写真の下段左参照)
石川は漆器の地だが、県内3大産地が「塗りの輪島」「時絵の金沢」「木地の山中」らしいです。洗い場はなんだろうな?有田焼の染付かな?わかりません。
鎌倉彫に関しては、下記に書いたのでよかったらこちらもぜひ。いいコースだった。御徒町で鉱物標本と磨かれた宝石たちをふらふら見歩いたあとに寄れる立地もいいし。ぜひ再訪したい。以上。


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