<植物画とは何か>(4)ー1:「植物画」の美の由来。博物画的図面の美、「生きている」植物の造形美
長文になります。
記事(4)では、西洋の「植物画」の美と東洋の「花鳥画」の美を扱いますが、長くなったために分割し、本記事は、前半の記事(4)ー1になります。
はじめに
本記事は、記事(3)で紹介した、荒俣宏氏の著書の説を受けて、私自身の考えを述べます。
記事(3)は、荒俣氏の説の引用が大半だったので、ルール上続けて自分の意見を書くべきでした。しかし、記事があまりにも長くなるので分けて書くことにしたのです。
なお、記事(3)の末尾で予告したように、東洋の植物図譜、花鳥画に触れるので、荒俣氏の著書だけでなく、次の二つの著書も適宜引用いたします。
(1)源豊宗、北村四郎監修・執筆、今橋理子解説「花木真寫: 植物画の至宝」淡交社(2005)
(2)今橋理子氏の著書、「江戸の花鳥画 博物学をめぐる文化とその表象」㈱スカイドア 1995
I.「生きている」:<茎と葉の空間配置>から美を考える:「花」ではない、植物画の美、日本絵画の美(私見)
さて、記事(3)の末尾、「さいごに」で、私が触発を受けた部分の荒俣氏の考えを1)~12)の項目に分けてまとめました。
その中でも私が日本絵画の特徴を考える上で一番大きくインパクトとインスピレーションを受けた部分を抽出し、以下に示します。
〇西洋植物図譜の花の図像は<ブーケ(花束)>と<薬種>の二種類に集約できる。その際博物学的意図を持つ花の図は、地面から切り離されることを要件とした。
〇東洋の花鳥画では、植物は天然自然の状態にある。植物に生気を与えている最大の要素は、茎と葉の微妙なゆがみにある。一方、西洋の植物画は、ブーケ型のアレンジメントにして生命感ではなく装飾性に美意識を集中させている。
〇16世紀に入り東洋の三つの文化圏のナチュラリズムが西洋に入り始め、西洋の花譜も茎や葉を重視するようになる。その三つは、1.ペルシア=インド文化圏の生物画:<ミニアチュール:細密画>、2.中国の花鳥画:<シノワズリ>、3.日本の絵画・花鳥風月:<ジャポニズム>である。
〇西洋の自然科学、植物学の進展により、植物同定のために花だけでなく、茎も葉も実も描く時代となり、フランスの絵師、スペンドクおよびルドゥーテにより現代の植物画の原型が成立した。
〇植物園の発展と温室の考案で生きた植物を描けるようになり、西欧の植物画は東洋花鳥画のようなナチュラリズムを獲得した。
私は「西洋の植物図譜では、地面から切り離された「死んだ」花を、中国の花鳥画では天然自然の「生きた」花を描く」という荒俣氏の指摘を読んで二つの意味で衝撃を受けました、
まず一つ目です。
西洋、中国絵画それぞれの荒俣氏の意見は一見あたりまえのようにも見えますが、私は両者の違いをこのように同時に指摘した例を、西洋絵画の専門家からも中国絵画の専門家から聞いたことがありません。
おそらく、それぞれの指摘は西洋絵画、東洋絵画それぞれの専門家にとって自明のことであって、わざわざ書くことすら不要だったからだと思います。
しかし、西洋絵画、中国絵画の違いを同時に書くことは、自分の専門外のことを書くことになり、責任が取れないので書かなかったのでしょう。
研究者ではなく文筆家であり、しかも博物学、図像学のように分野の領域だけでなく東洋、西洋をまたぐ仕事をしている荒俣氏だからこそ書くことが出来たといえます。
次に二つ目です。
それは、私のnoteの記事の柱の一つにしている、東洋絵画(特に中国の水墨画)と日本絵画の実作品鑑賞に直接関係することです。
これまで、日本絵画の特徴、独自性について多くの専門家の解説を読みましたが、理屈では理解しても、実作品からはどうしても実感できなかったのです。
ところが、荒俣氏の西洋の花の図譜と中国の花鳥図の描かれる植物の状態がそれぞれ「死んでいる」、「生きている」との違いの部分を読んだとたんに、私はこれまで永らく抱いていた心の中の「もやもや」が、一気に霧が晴れるようになくなったのです。
その「もやもや」とは、西洋絵画と東洋絵画における空間の処理の違いです。それに加えて日本の絵画と中国絵画の違いとその独自性についての専門家の意見です。
そして、いままで見た実作品の数々が納得をもって思い出されたのです。その新たな納得の数々を以下に綴っていきたいと思います。
「博物画(植物画)」は美術作品か? 荒俣氏は何故根拠を示していないのか?
さて、記事(3)において、私は「博物画は美術か?なぜ博物画は美術館で展示されないのか?」という節を立てて、私が今年になって訪れた植物画の展覧会で抱いた疑問の、まさにその回答を荒俣氏が述べているのを知り紹介しました。
ところが荒俣氏は「なぜ西洋でも日本でも、美術は博物画を排除してきたのか」に対する理由はのべているものの、肝心の「博物画は美術か?」に対しする理由は何も述べていないのです。
いや正確に言えば、荒俣氏は具体的な根拠を示すことなく「全ての博物画は美術である」と断定してます。
そしてその前提にたって、「なぜ美術(界)は博物画を排除してきたのか」だけの理由を述べているのです。
その断定部分を引用すると以下の太字部分になります。
しかし、動植物画を描いた美術作品のすべてが博物画とはいえないのに対し、すべての博物画は多かれ少なかれ美術作品と考えることができます。
太字は筆者による
私が考える「博物画(植物画)」が美術である理由
おそらく荒俣氏はきちんとした根拠を持っているのでしょうが、少なくとも著書「花の図譜ワンダーランド」の中には見つけることはできませんでした。
私自身はどうかと聞かれれば、私も「博物画(植物画)」は美術であるとする立場です。
そこで、以下その根拠を考えてみたいと思います。(なお、より具体的に考えるために、「博物画」の中の「植物画」に絞ります)
最初に西洋の植物画、そのあとに東洋の植物画の順に考えます。
(1)西洋の植物画の場合:
私が思う理由を文章にすると次のようになります。
博物的興味の対象となる、すなわち描写対象の植物自身が「美しさ」を感じさせる。その形態および内部構造が正確に、精密、精緻に細部に至るまで描かれることで、植物という生命体の造形が持つ「美」が露わになるため。
ここでいう「植物自身が持つ美しさ」の由来を二つに分けて考えてみました。
1)人間が抱く博物学的興味で植物の形態を観察すると、
●博物学的興味には、そもそも「生命」に対する驚き、謎、不思議があり、それが「美」を観察者に感じさせ、画像に反映される。
すなわち、正確に、精密・精緻にその形態を紙一面に隅々まで描き広げ、写し取った植物の画像はそれ自身が観察者に「美」を感じさせる。
特に白描画、すなわち線描画にその効果が大きい。
●「花」の植物画では、通常華やかな色を持つ「花」を植物の美の主な理由に考えがちだが、「花の美しさ」は植物の美しさのほんの一部にすぎない。
葉、茎、根を含む植物の全ての構成部位の造形は、人工の物では持ちえない生命の不思議さを感じさせ、加えて水彩絵具で丁寧に彩色した画像は、カラー写真にはない「美」を感じさせる。
なぜなら彩色は、「解説する」、「説明する」、すなわちイラストレーションという点で写真よりも有利であるだけでなく、色の美的効果においても勝っているからである。
おそらくそれはイラストレーションの効果を高めるために画家が意図して彩色している結果に他ならないだろう。しかも肉筆画だけでなく、銅版画という印刷媒体になっても、その「美」は保持される。
2)上述した博物学的興味とは別に植物の形態自身について考えると、
●人間が設計した人工物の形は幾何学的な直線や曲線からなり、多くは対称性を有するのに対し、植物の形は「大自然(あるいは「神」といってもよい?)」により形成されており、非対称で多くは独特の曲線からなる。
●そのため荒俣氏の意見とは異なるが、初期の植物画は装飾性を目的としながらも生命感は十分感じられると私は考える。
なぜなら、これまで植物を多くスケッチしてきた経験の中で、植物の造形から地球上の植物が重力の負荷に対抗して生きていることを強く感じるからである。すなわち樹木の枝葉、草の茎と葉のしなりやカーブが重力との相互作用の結果生まれたものであり、しかも重力に逆らって成長した結果であり、その結果生まれた造形は必然的に生命の力、逞しさを表すことになるからである。
以上述べた内容は、文章だけでは分かりにくいと思います。特に2)の重力と植物の形態との関係についての考えは、私自身が線スケッチの経験から考常々思っていたことなので、説明が必要だと思います。
それでは百閒は一見に如かず、実際に画像を示しながら説明します。
なお、例示した画像は、荒俣氏の著書に載った絵ではなく、記載された画家達の引用可能な画像を探して示すことにしました。順番はルネサンス期からルドゥーテの近代植物画誕生まで、年代順に示します。植物画の描写の歴史的変遷も同時にご覧ください。

出典:wikimedia commons, public domain
《寸評》どの画像も、レオナルドの有名な人体解剖図と同様に、精緻な筆致で植物の輪郭、部分構造を描いている。また、色んな向きの花や内部構造を紙一面に描いており、レオナルドが科学者の眼、強い博物学的興味で観察し、描いていることが感じられる。その結果、博物画に特有な精密な図面、製図的な美を有するが、一方迷いのない線描は、画家としての高い技量も示し、その結果、単なる図面以上の表情が生まれ、絵画的な美さえ感じる。

出典:See page for author, CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, via Wikimedia Commons.
《寸評》本書が発刊されたのは、図1のレオナルド・ダ・ヴィンチの素描から150年もあとの事である。にもかかわらず、その描写は素朴でリアルさに欠ける。しかし記事(3)、図11で、レオンハルト・フックスの「植物誌」の画像を示した、薬物図譜の描き方につながる描法であろう。あくまで説明のための画像、すなわち植物イラストとして理解できる。
曲線だけからなる植物の茎、葉、花を紙一杯に描いた図譜は、作成当時は単なる説明図にすぎなかったであろうが、植物の造形だけでなく後代の私達から見るとレトロ感が加わった美を感じさせる。
ここからは、彩色画像を示します。

出典:すべてwikimedia commons, pbulic domain

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図1で示したレオナルド・ダ・ヴィンチとほぼ同時代に生きたアルブレヒト・デューラーは、植物画的な水彩画を残しています。すでに、記事(3)で、《アイリス》、《シャクヤク》、《Great Piece of Turf》を紹介しました。以下、図3および図4の絵についての寸評です。
《寸評》素描と水彩画の違いがあるが、デューラーは、レオナルド・ダ・ヴィンチに比べれば、博物学的興味、関心は弱く、むしろ植物の茎、葉、花がもつ造形の美、魅力にひかれていたと感じる。しかもそれは「生きている」植物の造形美を。
確かに図3の植物は、茎を切り取られた「死んだ」植物であり、左端の絵では、花の部分図を配置するなど、博物画的な描き方をしている。
しかし次の図5以降に示す西洋の植物画に特徴の、紙面を埋め尽くす(余白なし)ことをしていないこと、すなわち東洋の花鳥画に近い余白を設けていることが分かる。
さらに「死んだ」植物にも関わらず、その茎は張りがあり、まるで生きていた時のように重力の負荷に逆らって地上からすっくと力強く立っているかのように描かれている。
実際、この当時の植物画では大変珍しいことに「根」ではなく、「土」を一緒に描いて、生きたままの姿を描いており(図4)、その生きた状態の茎の張りの様子と図3の茎の描写は同じである。
以上からは、デューラーが、画家として植物の「生命の力」を表す造形に限りなく惹かれていたとしか思えない。

出典:全てwikimedia commons, public domain
《寸評》図3は本の挿絵だが、もとは紙一杯に押し広げられた植物標本を描いたものであることが分かる。根付きであることから、荒俣氏の指摘する典型的な「死んだ」植物の標本、すなわち押し花標本である。もともと立体的だった根、茎、葉、花、実が余白なく、紙一杯に広げられており、標本の作者は自身の美的センスで配置を決めていると思われる。その結果、茎の曲線が際立ち、葉や実と共に非対称造形で分割された紙面が現代の抽象画のような美を生んでいる。さらに、均一な色面で彩色された画像は、カラー写真に比べて植物の細部まで明確にさし示すことが出来ており、イラストとしての美を感じる。

出典:Roland zh, upload on 4. Oktober 2008, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons
《寸評》wikipediaによれば、16世紀の碩学で、ルネサンス時代の学者らしく、博物学、書誌学、医学、神学と守備範囲が広い。この画像は「植物誌」に描かれたもの。ただし、刊行は死後の1751-1771年である。一見、学術ノート風だが、植物の描写は線描できちんとなされている。

出典:全てwikimedia commons, public domain
《寸評》植物画を知らなかった時でも、この女性画家の名前はどこかで見た記憶がある。それほど傑物(女性に対する形容としてふさわしくないかもしれないが)で著名人だったらしい。
蝶や蛾、昆虫や小動物と植物とを組み合わせた植物画であり、その描写はひと目で分かるほど特徴的で迫力がある。それは植物と蝶や蛾、昆虫などが主役で、紙面を埋め尽くすように描いていることから来る。
記事(3)で紹介した喜多川歌麿の『画本虫撰』と比べれば。紙面の余白の取り方の差は一目瞭然である。
この絵の美しさは、博物学的興味、関心の強さから来る迫力ある造形と茎、葉、花が示す曲線と紙面配置で、彩色も近代の植物画を思わせるほど美しい。

出典:左から1,2,3枚、wikimedia commons, public domain左から4枚目:National Gallery of Art, CC0, via Wikimedia Commons
《寸評》メリアンと違って、こちらは鳥とリスなどと植物との組み合わせからなる。
植物よりも鳥やリスの身体の大きさが目立ち、植物の比重が小さく見える。作者の個性なのか、植物の枝、茎の曲がり具合が直線的である。また葉もの彩色がプラスティック製品のようで不自然に感じる。ただ、これも作者の個性ともいえるかもしれない。

出典:左から1,2,4枚目、wikimedia commons, public domain
左から3枚目:Jacquin, Nikolaus Joseph, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons
《寸評》プラントハンター時代に重なる植物画である。描写もより学術的で、近代の植物画に近づいている。珍しい植物の造形の美しさだけでなく、イラストとしての美しさを兼ね備えている。

出典:左、Derbrauni, CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, via Wikimedia Commons
中、右、See page for author, CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, via Wikimedia Commons
《寸評》同じくプラントハンター時代の植物画。若くして亡くなった画家のようだ。未知の植物に対する博物学的興味、関心を感じさせる。ヒマワリの花の裏側を見せるなど、以前の押し花標本とはまったく異なる構図で見せている。図9のニコラウス・ヨーゼフ・フォン・ヤコインと同様、近代植物画に近づいている。

出典:いずれもwikimedia commons, public domain
《寸評》これまで示したの植物画(デューラーの絵を除く)と異なり、荒俣氏がいう「風に揺れる花の活き活きとした息吹」(記事(3))を感じる。それは植物園や温室で生きたままの植物を観察した、花を支える茎の反りの描写からくる。また葉同士、花同士の前後関係も見た目に自然で、解説するために無理な配置をあえてとっていない。明らかに次のピエール=ジョゼフ・ルドゥーテと共に新しい植物画の美を生み出している。この画家特有の強いハイライトも活き活き感を増しているのかもしれない。

出典:左から1,2,4枚目、wikimedia commons, public domain
左から3枚目:National Gallery of Art, CC0, via Wikimedia Commons
《寸評》ヘラルト・ファン・スペンドクの後継者らしく、生きた植物の観察による茎の自然な曲がりや葉の描写の美を感じる。全体から受ける印象は、エレガント、綺麗、おしゃれといった学術目的にはそこまで必要のない言葉が浮かぶ。植物自身が持つ美というよりも、植物自身が持つ美を最大限引き出すように配置し、彩色したルドゥーテの美意識が現れているのではないか。彼自身が開発したスティップル・エングレーヴィングという銅版画技術により、その美しさが多くの人々の眼に触れるようになったことも、植物画の美を広めることになったであろう。
以上、年代順に西洋の植物画を例に示し、私が考えた「植物画」の美の根拠に関連付けて見てきました。しかし、西洋の植物画だけを見ていては、不十分だと思います。なぜなら、記事(3)で紹介したように、荒俣氏によれば、西洋の植物画は、アジア文化圏、インドの細密画、中国、日本の「図譜」、「花鳥画」に影響を受けているからです。
次回の記事(4)ー2では、中国、日本の図譜、花鳥画を取り上げて、植物画の美についての私の根拠を述べ、最終的には、わが国の絵画の独自性についても話題を広げたいと思います。
続きは、記事「<植物画とは何か>補遺」をご覧ください。
前回の記事は下記をご覧下さい。
