記事<植物画とは何か>補遺:「植物の美」の由来を確かめに外に出る。そしてススキを描いた日本絵画の変遷を観た
予想外にかなりの長文になってしまいました。
今回の記事で私が気が付き訴えたいことは次の4点です。興味のある方は、時間の余裕のある時にお読み下さい。
1.昔(江戸時代以前)の日本列島の景観は園芸種は無く、(雑)草だらけだった。秋にはその旺盛な生命力から、一面ススキが原(および葛が原)だった(ゲーム、『GHOST OF TSUSHIMA』の例示』。
2.平安から江戸中期まで、余白を重んじる美意識のため、ススキが原をリアルに描くことは無く、多くても十本程度のススキで表現するにとどまった(《鳥獣人物戯画》の例示)、それが戦前(あるいは現代でも)まで琳派の意匠として続いた。
3.しかし日本絵画史でみると歌川広重がはじめてススキが原を描いた。それは革新的で、それだけでも広重の偉大さがわかる(すやり霞の大幅削減、線遠近法の駆使もあわせて)。ススキが原は明治の月岡芳年に引き継がれ、さらにリアリズムを増す。
4.ススキの美の源は、成長のベクトルと自重による下方ベクトルの相互関係からなる曲線にある。草の薬効も昔の人々は意識し、植物の不思議な能力、神秘も絵を描く動機になった。
はじめに
現在<植物画とは何か>と題して、記事を連載中です。10月13日付で下記の記事を投稿しました。
この記事の中で、私は「植物の形態」自身が美を有する理由として、私自身、植物をスケッチした経験から、
地球上の植物が重力の負荷に対抗して生きていることを強く感じており、樹木の枝葉、草の茎と葉のしなりやカーブが重力との相互作用の結果生まれたものであり、しかも重力に逆らって成長した結果であり、その結果生まれた造形は必然的に生命の力、逞しさを表すことになる
と以上の私見を述べました。
20年近く植物のスケッチを続けてきて、植物の上に伸びる成長の力、枝のたわみ、しなり、枝垂れや、細長い草の葉のカーブが、重力に対抗していることは感じていたのですが、その重力に抗して成長して形成された造形が、そのまま生命力を示して、それが植物の美を感じさせているのではないかと言う意見は、記事を書いている中で芽生えた考えです。
私が考えることは、大抵の場合、誰かがすでに述べているはずだと思うのですが、少なくとも私がこれまで目を通した著作物では見たことがないので、断定口調で書いたことが心配になりました。
そこで外に出て、あらためて植物の形態を自分の眼で見て確かめることにしました。
この記事では、上記記事を投稿した10月13日以降、上野公園、府中の森公園、武蔵野の森公園、神代植物公園、野川緑道、国営昭和記念公園などを訪れ、樹木および秋の草を中心にそれらの形態を改めて観察した結果を示します。
最初に秋草の形態、中でもススキとその仲間を中心に見ることにします。
ススキ
各場所で見たススキの写真を示します。
1)武蔵野公園のススキとその仲間


都立武蔵野の森公園は、調布飛行場の北と南の位置に存在しています。飛行場の西側の、南北に滑走路と平行に真っすぐ走るプロムナードと呼ばれる道路で公園の北地区と南地区をつなげています。
私はそのプロムナードには、味の素スタジアムの丁度北にある西ゲートからいつも入ります。
一昨年の秋、そこにススキが生えているのを見つけたことを思い出し、今回あらためて訪れたのです。期待通りススキが生えていたので、じっくりと観察しました。
◆セイタカアワダチソウを押しのけるススキの生命力
当時はプロムナードに生えているススキしか気が付かなかったのですが、今回西ゲートに入ると、プロムナードに入るまでの小道の北側の未開発の広場が一部おのころ草(エノコログサ)も生えていますが、全面ススキに覆われているのに気が付きました(図1)。
まさにススキが原です。しかも、ススキの勢いにおされたかのように、セイタカアワダチソウが隅の方に押しやられて咲いているのをみて隔世の感を禁じえませんでした。
「隔世の感を禁じえません」という陳腐な言い回しは安易に使いたくないのですが、敢えて使ったのは、ススキが勢いよく咲き誇っているのを見て本当に心の中でこの言葉が浮かんできたからです。
私と同じ年代(後期高齢者)の方ならば分かっていただけると思うのですが、高度成長期、私の記憶が確かならば、前回の大阪万博が開催されたころまで、セイタカアワダチソウは燎原の火のごとく全国の原っぱや土手を覆いつくし、一時は、古来から秋草の代表として絵画や工芸品に描かれてきた、わが国を象徴するススキが絶滅するのではと思うほどだったのです。若い私は心から「セイタカアワダチソウ憎し」と当時思ったのを覚えています。
ところが、いつのころからかススキは勢いを盛り返し、最近ではセイダカアワダチソウを押し返してしまったようなのです。
あらためて、その繁殖力、生命力の強さに感動しました。園芸種ではありえない野生の強さを発揮したのです。
実際、図1で示した未整備の広場ではなく、公園として雑草駆除をしているはずのプロムナードで見たススキは、サツキの植え込みの根元から成長したもので駆除し損なったものです。それはもはやさつきが隠れるほど繁茂しているのです(図2)。
実は、一昨年私はこの場所(図2の左)のススキをスケッチしています(図3)。

これは、通常の街歩きスケッチの一環で描いた作品ではなく、風にそよぐ葉の美しさを知ってもらうためにスケッチ教室の線描練習の題材として選んだたものです。その際デモンストレーションのために教室で写真を見て描きました。
次の章で、日本絵画における秋草図を紹介しますが、その造形の美の由来についてあらためてこの図についても述べる予定です。
2)神代植物公園のススキの仲間
さすがに、手入れのゆきとどいた神代植物公園、園内にはススキは見当たりませんでした。おそらく雑草扱いだからでしょう。
西洋からの品種としてフイリセイヨウダンチク(図4)、パンパスグラス(図5)がネームプレートの説明付きで植えられていた一方、梅園と竹林の間のサルスベリゾーンに向かう小道の脇に、外来種雑草のセイバンモロコシとおぼしき草が茂っていました(図6)



図4、5,6に示すように、それぞれの植物の葉の形はススキと同様に類似のカーブを描いています。1m程度の葉が、根元から立ち上がり、真ん中付近から重さのために弧を描いて下がり、それが群をなして独特の景観を形作っています。
実際その光景に惹かれ、数年前にこのパンパスグラスをスケッチしたことがあります。ペン画のみの画像が見つからないので、彩色途中ですが参考までに下に示します。

(彩色途中段階)
3)世田谷区立野川緑道のススキの仲間
国分寺市から始まり世田谷区の二子玉川の多摩川に合流するまで流れる野川は、その堤防の上が各自治体により人々が憩える遊歩道として整備されています。
特に片側が国分寺崖線、対岸にはきたみふれあい広場に接する、成城学園と喜多見に挟まれた世田谷区立野川緑道は、緑豊かな地域です。
そこではイネ科の植物として、川の中にヨシ、道路沿いにセイバンモロコシ(?)を見つけました(図8)。

4)国営昭和記念公園のススキとその仲間
広大な昭和記念公園は、無料の「みどりの文化ゾーン」とメインの有料ゾーンからなります。神代植物公園では雑草のためかススキの植栽
はありませんでしたが、昭和記念公園では、無料の「みどりの文化ゾーン」に人為的に植えられたススキの群生がありました(図9)。
パンパスグラスほどの高さではありませんが、背の高いタイプ、背の低いタイプ、花がシルバーから赤みがかったものなどが観察でき、意識的に種類の違うものを植えている可能性がありますが定かではありません。
一方、有料ゾーンではススキの姿はなく、エノコログサの群生だけしか見当たりませんでした(図10)。


(余談):江戸時代以前の秋の日本はススキで覆われていた?
さて、次の章で日本絵画におけるススキの描写を紹介する前に、数年前に気が付いたあることを紹介したいと思います。
そのあることとは、2020年に発売されたビデオゲーム、『GHOST OF TSUSHIMA』の中のとある光景です。
私はビデオゲームをしませんが、当時YOU TUBEの予告編が頻繁にお薦めに出てきたので中身を見てみたのです。
このゲームは元寇における対馬を舞台にしたものです。
ところが、制作はアメリカの会社で、外国人が制作したにも関わらず、日本人が見てもまったく違和感なく鎌倉時代の日本の光景が描かれていることが評判になりました。そして内容のすばらしさもあいまって全世界的な大ヒット作品となったのです。
私はアメリカの制作会社が、どこまで日本人が納得する日本の風景を描いているのか気になり覗いてみました。
その感想は、以下の通りです。
1)オープニングに近いシーンで、白馬に載った武士が夕陽に輝く一面のススキが原(Otsuna Grassland)に分け入り、疾駆する光景に眼を奪われた(動画の0:00~2:04までの尺八演奏舞台の広大なススキが原の背景、2:26~4:47のゲームの中のOTSUNA GRASSLAND(ススキが原)の場面を参照)。
2)しかも、人馬が進むにつれ、周囲のススキの穂の群れは風に泳ぎ、人馬を誘うように波打つ様が絵画的にも息を飲むほど美しい(動画の2:26~4:47の場面)。
私はこれまで見たことのない光景に驚きました。そしてなぜススキなのだろう? と疑問が湧いたのです。これまでのフジヤマ・ゲイシャの外国人ならば、もっとほかの日本らしいシンボルを使うだろうにと。
琳派の秋草図のように、日本的な風情を数本~10本程度のススキを映して表すのならともかく、このようにススキが原を全面に出した動画映像を見たことがありません。
しかし、こう書きながら、日本の時代劇映画を思い起こすと、黒澤明の映画にありそうだなとも思います。美術(絵画)にこだわった黒澤ならば十分ありえます。しかも、米国のビデオゲームの制作者が参考とするならば、まずは黒澤明の映像を参考にするだろうと思うからです。
さらに、こう書きながら私は急に、一人の日本の絵師がススキが原を描いたある有名な絵が脳裏に浮かびました。詳しくは次章の日本の絵画の中のススキ描写の中でご紹介いたします。
さて、このススキが原の映像で改めて私が思うのが、ついつい私たちは現代の人口1億2000万人がひしめく現代の日本列島の姿を思いがちではないでしょうか?
すなわち、北は北海道、南は沖縄まで都市化されたわが国では、雑草は駆逐され、一方、田舎においても、田畑や里山、植林など、隅々まで人の手が入っており、ススキが原が出現する余地はありません。もしあるとすれば、誰も人が入らない地域のみでしょう。
ここで、『GHOST OF TSUSHIMA』の時代13世紀の日本列島を想像してみることにします。江戸末期の人口、2000万人から推定して中世では多くて1000万人程度でしょう。
すると、対馬では、現在で言えば小さな村程度の人々が住むだけで、人間が開発した土地は、わずかな田畑しかなく、大部分は自然林か草原か岩山など、ほとんどが手つかずの自然景観ではなかったでしょうか?
そのように考えると、日本の中世を舞台とするビデオゲームの代表景観として、ススキが原を選んだ『GHOST OF TSUSHIMA』の外国人クリエーターの中世日本についての歴史的、地理的時代理解力と美的センスに感服せざるをえません。
なお、余談ついでに言えば、昨年クリエイティブ・アーツ・エミー賞 14部門受賞、今年ゴールデングローブ賞を受賞したテレビドラマ「SHOGUN 将軍」において驚くほど日本人から見て自然な衣装をデザインしたのがフランス人であり、映画「国宝」の撮影監督がチュニジア人という驚きの人選が最近続きました。
今にして思うと、私の若き時代の欧米人にあるあるのエキゾチシズム・ジャパンという見方は、少なくともクリエーターの分野では『GHOST OF TSUSHIMA』の製作開始ごろ、7年以上前からすでに変わりつつあったのでしょう。
それでは、上に述べた昔の日本の景観を念頭に、日本絵画の中で描かれたススキとその仲間を見てみましょう。
日本絵画でメインに描かれたのは、花々ではなくなぜ地味なススキや草なのか? 日本絵画における秋草モチーフについて調べ、推理する
日本美術史上に描かれたススキの絵画をすべて網羅できないので、ここでは便宜的に以下の中から選ぶことに決めました。
1)以前、私が訪れた日本絵画の美術展で、実作を眼にしたはずのススキが描かれた作品(実は、今回見直すとまったく覚えていなかった)。
例えば「若冲が来てくれました プライスコレクション江戸絵画の美と生命、「大浮世絵展」(2014)、「小村雪岱スタイル展」(2019)、特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」(2021)、特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」(2023)、国宝障壁画展示(智積院・宝物館)(2024)
2)本年訪れた東京国立博物館本館常設展、三の丸尚蔵館展
(1)国宝・鳥獣人物戯画甲巻(平安時代、12世紀)の全巻に描かれたススキ

原画像出典:wikimedia commons, public domain.

原画像出典:wikimedia commons, public domain.

原画像出典:wikimedia commons, public domain.
皆さんは、国宝・鳥獣人物戯画甲巻に、これほど多くのススキが描かれているのを気が付いておられたでしょうか?
実は図11に示したのはススキがメインに描かれた部分(図11ではその位置を赤い丸で示しています)で、桔梗、女郎花、萩、カヤツリグサなど他の秋の草も多く描かれているのです。
鳥獣戯画甲巻について書かれた多くの解説書では、ほとんどが擬人化された動物の描写についての記述で、秋草について触れていることはありません。私が図書館で調べた限り僅かに一例、コラムで触れていました。かくいう私も、今回の記事を描く前は全く注目していませんでした。
しかし、今回この秋草の描写をよく見てつくづく思いました。もし、この秋草の背景が描かれていなかったら、何という味気ない絵巻になっていただろうかと。
もちろん、多くの専門家が云う様に、闊達な筆の動きによる甲巻の動物の描写は素晴らしいものがあります。ですから、秋草が無くても絵の価値は下がらないでしょう。
しかし、今秋草を除いた絵巻を想像すると、私にはそこに北斎漫画のような絵柄が浮かびます。単なる動物の戯画集のようになってしまう気がするのです。
秋草の背景があってこそ、「絵」になるのではないのか。しかもそれは日本人がこの絵巻のあと1000年近くも絵画に描き続ける、日本の原風景を象徴する秋草なのです。
ここで秋草の描写を見てください。動物の描写と同様、筆の運びが見事だと思います。とても12世紀の作品とは思えません。
注意したいのは、すでに意匠化、装飾化が始まっていることです。ここには江戸琳派で完成されたと思われる秋草図の草の原型がほぼ描かれているではありませんか!
ススキの葉の曲がり、垂れ下がりや茎の風にそよぐ曲線は、リアリズムを保ちながらも、一つの草の塊(叢)としてあきらかに意匠化、様式化が見て取れます。
ただ、いわゆる古代、中世の絵と言えば、洋の東西を問わず、どこか線がたどたどしい、稚拙な感じを伴うことが普通だと思います。実際、この鳥獣戯画以降、即ち鎌倉時代~室町時代の絵巻ですら、ここまで闊達な植物、草の描写の例はないと思います。
唯一考えられるのは、中国の宋、南宋で完成を見た水墨山水の画家を習って、彼ら並みの筆力を持っている場合です。しかし、通説ではまだ平安、鎌倉期には水墨山水は入っていなかったというのですから、この鳥獣人物戯画甲巻を描いた画家は突然変異でできたとしか言いようがありません。国宝たる所以ではないでしょうか。
さらに、前章の(余談)で紹介した、元寇時代の我が国の秋の野原はススキや秋草に覆われていたということを考えてみてください。
もし、西洋風のリアリズムで描けば、この鳥獣戯画の画面は、まさに『GHOST OF TSUSHIMA』の動画で示した、一面のススキ(秋草)が原になるはずです。蛙や兎、猿はその草原の中に埋まってしまうのが本来の姿でしょう。
実際、私が描いている「線スケッチ」は、西洋リアリズムに従うのですが、前章の図3《武蔵野の公園・プロムナードのススキ》(下に再掲載します)では、実は写真そっくりに描いていません。かなりの数の葉と茎を間引いているのです。

もし、リアリズムで正確に描けば、全画面真っ黒になり、余白が生まれず日本らしさのない別の感じの絵になってしまうでしょう。丁度、デューラーやレンブラントの銅版画のように。
鳥獣人物戯画甲巻の作者が、本来ならば秋草の原だったのを、必要最小限の本数にとどめて意匠化したのは、すでに平安時代で完成した日本の美意識がなせるわざだったのではないでしょうか?
以下、『鳥獣人物戯画』以降の絵について簡単な説明を加えます。
(2)国宝源氏物語絵巻 宿木 (12世紀)

出典:wikimedia commons, public domain.
上に示した絵の左下隅にススキが描かれているはずですが、目を凝らしても草であることは分かりますが、ススキの穂がよくわかりません。
しかし、この宿木の場面では、「秋はつる野辺のけしきもてしのすすきほのめく風につけてこそみれ」という和歌が交わされることから、ススキであることがわかります。
同じ時代の鳥獣人物戯画 甲巻のススキの描写に比べ稚拙なのは、前者の作者はおそらく水墨画の素養があり、このやまと絵の作者はその素養がないためかもしれません。
(3)《日月山水図屏風》左隻 (16世紀)

出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

赤丸は上段、下段のススキが原描写の箇所を示す。
出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
典型的なやまと絵による屏風絵です。左隻の右上部に、ススキと群れ成すススキが原が、下部には刈り取られた田んぼと金雲との間にススキが原らしき群れが描かれています。
断言できませんが、このようなススキが原が広い面積で描かれたのは、この屏風以外にはないのではないでしょうか? 例外的だと思われます。
(4)長谷川等伯《松に秋草図》 国宝(1592頃)

出典:wikimedia commons, public domain.
2年前に智積院の宝物館で、この長谷川等伯の絵を見ていたことを全く忘れていました。
あらためてこの絵を見ると、絵の真ん中に巨大なススキが描かれています(穂が見えませんが、ススキだそうです)。
上記、記事の中では私は、松の描写はやまと絵に対し、実際より大きく描かれた秋草は、水墨画の写実的描写であることを指摘しました。
秋草を大きく描くのも、長谷川派としての特徴を出すためです。
明らかに、金箔の背景、水墨による草花、やまと絵風の松という和漢折衷の、このきらびやかな絵は、わが国が唐の絵画を取りいれて数百年にして、ようやく日本独自の美意識による絵画スタイルを生み出した例とも言えます。
(5)狩野探幽《草花写生図巻 秋(部分)》 (17世紀)

出典:筆者撮影
別の記事でも書いたのですが、東京国立博物館でこの写生帖を初めて見た時は、粉本主義のもとを作った江戸狩野の祖、狩野探幽が、このような写生帖絵巻を描いているとは夢にも思わずとても驚きました。
図15では、ススキまたはその仲間と思われる秋草を描いているところを抜粋しました。江戸の図譜とは違い博物学的興味で描いたというよりは、今日私たちがやるように、絵画制作のための日々の観察作業が目的のように見えます。
(6)土佐光起、土佐光成《秋郊鳴鶉図》(17世紀)

出典:筆者撮影
土佐派の絵にしてはやまと絵と言うより水墨画風の描写のように思います。
東京国立博物館の説明文によれば「ここでは光起が鶉、光成が白菊や薄、桔梗などの秋草を描いています」とあるので、描かれているのはススキのようですが、それにしても、一つの穂の枝分かれの数が、通常の穂に比べてかなりまばらに描写されています。また、葉も細すぎます。
この絵は、典型的な非対称構図で描かれています。秋草は生きており、右側に大きくカーブを描くススキの葉と軽くカーブして数本右側に覗くススキの穂が、右半分の空間(余白)を支えます。
まさに、西洋の死んだ標本を描く場合は、意味のない余白になるので、紙面を埋め尽くすのですが、この絵のように生きた植物を描いた場合は、右側の余白は、「大気」を表すための意味のある余白になります。
記事「<植物画とは何か>(4)ー1」の中で紹介した荒俣宏氏の指摘を裏付ける例になると思います。
(7)四季草花図 伊年(印)(17世紀)

出典:筆者撮影
俵屋宗達工房の印である「伊年」が押されており、この秋草の描写は現代までも続く琳派デザインの始まりです。
(8)柴田義菫《鹿図屏風》 19世紀

出典:筆者撮影
この柴田義菫という画家の名前は初めて知りました。鹿が主役ですが、その足元には秋草(ススキ、葛、カヤツリグサなど)が描かれています。描写は琳派のような意匠化はされておらず、写実的です。四条派の流れの画家でしょうか?
しかし、あくまで個人的な感想ですが、金箔による空間があまりに多すぎる気がします。 図14に示した長谷川等伯の《松に秋草図》が限度ではないでしょうか? 洛中洛外図で使われる金雲で覆い隠せば、まだ納得感はありますが、だだっぴろく平面空間が広がる様子は、おそらく西洋人ならば目を丸くするだけでしょう。
あくまで想像ですが、安土桃山時代が過ぎ、狩野探幽が始めた、余白の多い淡泊平明な絵の影響ではないでしょうか。
(9)酒井鶯甫《富士山草花図扇面散屏風》 19世紀

酒井鶯甫という画家を初めて知りました。
酒井抱一の住居を引き継いだとの説明があるだけで、弟子なのか、それとも名前だけ名乗っているのか不明です。しかし、琳派の流れを汲む画家であることは間違いないでしょう。
扇面散屏風と言い、意匠化されたススキの描写といい、典型的な琳派の絵柄です。
(10)歌川広重《木曽街道六拾九次之内・小田井》 19世紀

出典:筆者撮影
歌川広重の風景版画について、彼の描く植物、特に中景、遠景の樹木の描写がいかに優れているかについて、以前記事を投稿しました(下記)。
当時私が注目したのは、広重の中景、遠景の樹木の描写です。
当初私は、広重の絵は、やまと絵風、あるいは琳派のような様式化、意匠化された樹木の描写だと勝手に思い込んでいたのですが、なんとそれとは正反対で、極めて写実的で近景の樹木は種別が分かるほどだということに気が付いたのです。
さらに、多くの人が苦手な中景、遠景の樹木の描写では、幹と枝ぶりの特徴、枝ごとの葉の塊のリンカクの特徴を正確に捉えて見事に描き分けていることに気づき、広重の偉大さを知ったのです。
今回、ここに示す、中山道・旧小田井宿の風景では、樹木ではなく、旅人が歩く野原一面、ススキの群生が描かれています。
特に、注目したいのは、旅人の後ろ、中景にススキが原がハッキリとを描かれていることです。本来日本の絵画ならば、旅人の前と足元のススキは描いても、背後の中景、遠景は、すべて霞で覆い隠し、まったく描かないはずです。
実際、上で紹介した広重以前の、図14、16,17をご覧ください。秋草の背後には何も描かれていません。そして、広重の同時代の図18《鹿図屏風》ですら、鹿の手前と足元の秋草のみで、鹿の背後は何も描かれていないのです。
この日本絵画の伝統は非常に強固で、実は、明治の「日本画」の時代になっても、むしろその傾向が強まるのです。
そう考えると、広重と言う画家は、とんでもなく革新的だと思いませんか? むしろ、日本絵画ではなく西洋絵画であるといってもよいほどです。
事実、旅人の間を流れる小川の描写をご覧ください。正確な線遠近法で描いています。
もし、西欧絵画的ではない部分があるとすれば、旅人よりも数メーターの高さで浮遊した視点(俯瞰)であること、彼方の山の麓に霞がたなびいているその二点だけです。
地上から目線より高く浮遊した視点は、平安絵巻の吹抜舞台の描写から、桃山の洛中洛外図に見られる空中移動の視点による描写に至るまで日本絵画の伝統といってよいでしょう。
広重の風景画では、ごくわずかを除いて、西欧の伝統である地上に立った目線ではなくほとんどが数メーターから100メーター単位の高さからの俯瞰図になっています。
この絵の場合、数メーター旅人よりも高く浮遊することで、中景のススキが原が旅人にさえぎられることなく、すべてを見ることができるのです。おそらく、広重は、それを知っていて、この高さの視点を採用したと思われます。
(11)長谷川雪旦《月に秋草図》 (19世紀)

出典:筆者撮影
解説によれば、描かれたイネ科の草は、ススキではなく稗、稲、粟だそうです。
掛軸三幅で一セットなので、左右の植物の葉は、真ん中の月に向かって穂が向かっていると見なせます。けれど、一幅として見ると、右向きの茎と穂の群と下からもう2本のイネ科の植物が上に伸びている姿を配置した非対称構図です。
しかも、紙幅の制約を活かして、植物が半分切れていることで、左にも、下にも広がりを想像させる斬新な構図です。上空は大きく開いており、まさに大気を感じさせます。半分切れた描写といい西欧の絵画にはない余白の見せ方です。
なお、長谷川雪旦は、『江戸名所図会』が有名で私もよく見るのですが、このような本格的な絵を描いているのはこの絵をみるまで知りませんでした。
(12)月岡芳年《藤原保昌月下弄笛図》(1883)

出典:Colbase
さて、いよいよ明治に入ってからのススキの描写です。
私は、前章で「一人の日本の絵師がススキが原を描いたある有名な絵が脳裏に浮かびました。詳しくは次章の日本の絵画の中のススキ描写の中でご紹介いたします」と予告しました。その有名な絵とは、月岡芳年が描いた、この絵(図22)だったのです。
そして、月岡芳年を調べるうちに、彼が多くのススキが原の絵を描いていることが分かりました。例えば次の絵です。

出典:wikimedia commons, public domain
前章で、かつての日本列島は、旺盛な生命力を持つススキによって覆われていたのでないかと論じましたが、まさに明治になって月岡芳年は西欧リアリズムに従って、平安時代のススキが原の情景を描いたのです。
彼の描写がどれだけ現実のススキが原に近いのか、下記国営昭和記念公園・みどりの文化ゾーンで撮影したススキの繁茂の様子と比べてみてください。忠実にその群生の様子を描いているのが分かります。
平安のやまと絵、江戸琳派の余白の多いデザイン化された秋草の表現からついに、西欧写実表現にたどり着いたのです。

興味深いことに、芳年は、20年前、すなわち江戸時代最後の年(慶應)かつ明治元年の1868年に図22と同じ題材を描いています。

出典:wikimedia commons, public domain
一見すると、人物や秋草など伝統的な日本のやまと絵、琳派の様式に従っているように見えます。
しかし、やまと絵や琳派の絵と決定的に違うのは線遠近法の使用です。
まず線遠近法に従って地平線に向かって川が流れる描写は歌川広重の図19と同じです。
しかし、目線の高さ(地平線)は笛を吹く人物と同じで、西洋絵画と同じ構図になっており、図20で広重が採用した伝統的な俯瞰構図を破っています。
人物の前後の秋草をよくみると、最前面の右手前の大きなススキと左端の赤い実の秋草から、川の岸に沿って、地平線に向かって秋草が描かれています。
一見すると、琳派の秋草の描写に見えるのは、人物のすぐ背後の秋草が大きく描かれて横並びに描かれているからです。
しかしよくみると横並びではなく、川方向に沿って植えられた前後の位置関係にある秋草です。さらにその奥にそれらに眼を取られて気が付かなかったススキが原が淡く描かれているのです。
以上から、この絵における秋草は伝統的な描写に見えて、広重と同じく西洋の遠近法をベースに描かれていると言えます。
なお、興味深いことに、淡く描かれたススキが原は、白い霞(霧?)の中に描かれています。これは、わが国の伝統的な情景を隠すための白い霞であり、上に述べた琳派の絵を思わせる秋草の描写とともに、明治元年ではまだ伝統的な日本絵画様式に引きずられていることが分かります。
月岡芳年は人気が出たのか、あるいはよほど気に入ったのか分かりませんが、月を描いた浮世絵版画でススキおよびススキが原を多く描きました。 参考までに示します(図26)。

出典:浮世絵検索、https://ja.ukiyo-e.org/
(13)幸野楳嶺《秋日田家》(1892-1893)

出典:筆者撮影
月岡芳年と同じく明治期の画家です。多くの著名な日本画家を育てたことで知られます。確かかなり大きな絵でした。山が上部にせりあがる典型的な水墨山水の構図ですが、描かれているのは和風の山と村里です。
しかし、従来の描写と違うのは、最下部、手前に描かれたススキの群れが、真上から描かれ、心持ち遠近法を用いて穂と根元(地)面との遠近が強調されているように見えることです。
私の気のせいかもしれません。しかし、私にはここに日本画への西洋画法の取り入れを感じます。
まとめ
以上、外に出て現実のススキとその仲間を観察し、それが平安以降明治期まで日本の絵画にどう描かれてきたのかを見てきました。
ここでまとめを行い、私見を述べたいと思います。
園芸種は江戸中期以前はなかった! あるのはただ草の原。花は、梅、牡丹、桜そして野草の花
私は、普段「街歩きスケッチ」をするなかで、描くのはほとんどが道路、建物、標識など人工物が主で、自然のものはあまり描いていません。その自然物の代表格である植物も、例えば樹木は剪定された樹木であり、本来の自然のままの樹木は描いたことがないのです。例えば街路樹は植える位置までも等間隔にして人間が決定していますし、樹形は剪定して自然の造形とは程遠く、もはや樹木でさえも人工物と言ってよいでしょう。
さて今回のススキですが、植物園ですら、古来のススキは植えられておらず、むしろ「邪魔者」といわんばかりに刈り取られているのです。すなわち、雑草扱いなのです。
事実、公園で見たのはさつきの植栽の根元で、刈り取りが出来なかったススキで、伸びすぎてさつきを覆い隠しているケースと、昭和記念公園の無料ゾーンで意図的に野生状態にしてススキが原として残した例のみでした。
一方、私はこれまで多くの植物を描いてきましたが、それはいずれもサイズが大きく、また八重咲のような複雑な形状の花や、華やかな色彩の花、あるいは樹木全体が花になる花木(梅、桜、藤など)が中心でした。
例えばここ数年の間に描いた例を下に挙げます。

華やかな色かどうかは別にして、共通しているのはいずれも園芸種であることです。それらは花に目が行き、枝や茎、葉には目が向きません。
今回のススキの探訪で私は気が付きました。現代は都会であれ、田舎であれ、悉く園芸種の花々に囲まれていて、それは本来の自然の光景から逸脱しているのではないかと。
むしろ、昔の日本列島はアメリカが制作したビデオゲーム「GHOST OF TSUSHIMA」に描かれた、鎌倉時代の野草に覆われた、すなわち秋にはススキが原で覆われた光景が正しいのではないか。
実際歴史を振り返れば、園芸種が盛んになったのは江戸時代中期以降であり、それ以前は園芸種はあっても中国由来のボタンくらいでしょう(もともと園芸種が伝来したのかも)。あるいは、「梅」もあったかもしれません。それでも地味な「野梅系」が中心でしょう。また我が国で「花」と言えば「桜」ですが、それとても地味な「山桜」だったと思われます。
ですから、江戸中期以前の植物の主役は「草」であり、目にするのは、茎、葉、穂、花の総体としての植物の姿であったはずです。野生の花は小さく地味で、人々は花よりも地面を覆いつくす雑草特有の繁殖力に驚嘆していたのではないでしょうか。
実際「ススキ」の繁殖力の強さを今回垣間見ましたが、もっとすごいのは秋の七草の一つ「クズ(葛)」です。
機会があれば、クズについても記事を書きたいと思いますが、ここでは、高木の樹木でさえも飲みつくさんとする「葛」の写真を例に示したいと思います。

その圧倒的な繁殖力の例として、当初園芸植物、有用植物として、アジア(日本?)からアメリカに輸入された葛が、広大なアメリカ東南部全体を環境破壊するほど急速に飲みつくし、今や有用植物どころか侵略的外来種として恐れられていると、私が学生の頃ニュースで知り話題になりました。今でもかなりの方はご存じではないでしょうか。
以上に述べたように、ススキや秋の七草で覆われた秋の日本列島の光景を目にした昔の人々は、私達のように華やかな花の園芸種に囲まれた時代とはまったく異なる視点で絵を描いたと考えられます。
それでは当時の人々は何に感動を覚えて秋の草花を描いたのでしょうか?以下に考えてみます。
ススキ(秋草)の美はどこから?
私たちは、琳派の絵や工芸品、着物の柄に描かれた琳派デザインにより、秋草、特にススキの姿は特に目に焼き付いています。そして、日本といえば秋の七草デザインと言っていいほど馴染んでいるように思います。
実際、日本が学んだ中国では、ススキのような細長い葉の描写は、名もない草の葉、竹の葉、芦の葉そして蘭の葉が主体で、ススキの描写はまだ見たことがありません。
あくまで推測ですが、日本絵画特有のモチーフだと思われます。仮に中国でも描かれていたとしても、わが国ほどは重きを置いていなかったのではないでしょうか。
以下、昔の人々が秋の七草を描こうとした動機あるいは美の源について私見をまとめます(秋の七草のうちススキに焦点を絞ります)。
1.手入れされた庭以外は、外は秋の七草で覆われた光景が広がり、樹木以外は草原を描かざるを得ない。ススキは、長い葉、長い茎、長い穂を持ち、それらがたわみ風にそよぐ様子、特に群生全体がゆれ動く姿は大きく人々を魅了したと思われる。
2.ただし大草原をそのまま描写するよりも一叢の秋草、一叢のススキで草原を代表させ、余白(大気)を設ける美意識に進んだ。そして風に寄り動く時、中国絵画でいう「気」を感じさせることになる。
3.一方、中国では蘭が高潔な人物な象徴として水墨画が多く描かれたが、花だけでなく葉の曲線も魅力的に描かれる。その連想から日本人はススキの葉、茎、穂の曲線に同じ魅力を感じた可能性がある。
4.その葉や茎、穂の曲線の優美な造形の源は、植物として成長するベクトルと自身の重さにより下に向かうベクトルとの相互関係で決まる。それはピンと張られた綱をゆっくり緩めた時に得られる曲線と同じで、日本の寺院建築の軒反りの優美さを思い起こさせる。それは、中国建築の強い反りでもなく、朝鮮李朝建築の反りとも異なる日本人の感性に合う反りだと考える。
5.その曲線は、江戸琳派によりさらに意匠化されて日本人の美意識に定着する。
6.草は薬草としても昔の人々は意識してきた。実際、ススキもクズも薬効があるとされる。上述の植物の造形の観点ではなく「役に立つ」という観点でも草を見ていたであろう。それは植物の神秘、不思議な能力を意識させる。さらに強い繁殖力は、強い生命力の象徴としても見ていたに違いない。美とは別の意味で絵を描く動機になったのではないか。
7.以上は、東洋絵画の視点だが、西洋絵画の写実を入れた描写では「密集のエネルギー」もススキの繁殖力を示すことになる。
以上、今回ススキを題材に現実の光景を観察し、日本の絵画の例を見たところ、記事「<植物画とは何か>(4)ー1」で述べた私見と同じ意見が得られました。
ススキが原の描写はいつからか?
日本の絵画史において、ススキが原はいつから描かれたか?
この問いに対しては、日本の絵画をすべて網羅してみたわけではないので、第2章で紹介した僅かな作品からの推測になります。
第2章で紹介した16世紀の《日月山水図屏風》左隻に描かれたススキが原は例外ではないかと思います。
平安時代に描かれた《国宝・鳥獣人物戯画甲巻》の秋草の表現が後代の琳派の秋草に繋がり、一叢の秋草をいくつか描くだけで、昔の草の原を表現したのではと推測しました。
一方、徳川時代の1700年代、蘭学の解禁と共に西洋絵画の技法が流入して以降に大きな変化が起こり、従来の伝統を破る機運が生じました。
浮世絵師の中では、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳らが描く風景画にそれが顕著です。今回紹介した歌川広重の《木曽街道六拾九次之内・小田井》(図20)では、線遠近法の構図の中で、明らかにススキが原を描いています。おそらく、広重が新しい日本の絵画を目指して描いたに違いありません。
私は、同時代にススキを描いた絵師がいないかと、もう一人の天才絵師、喜多川歌麿の作品を調べてみました。
美人画を描く絵師が、ススキが原など描くことは無いと思われるかも知れませんが、私は《画本虫ゑらみ》の実作品を見て以来、花鳥画を描く絵師としてもただ者ではないと思うようになりましたので、ススキを描いているのではないかと調べたのです。
すると《武蔵野》と題する一枚が見つかったのです(図30)。
真ん中に描かれた巨大な月と草原の中に遊ぶ女性達、これまで見たことのない歌麿の作品です。しかも優品です。所有者はボストン美術館、どおりで日本の美術書には出てこないはずです。
私は、この草原の草はススキに違いないと思いましたが、どこを探しても穂が見当たりません。

出典:ボストン美術館
ところが、ボストン美術館はもう一枚の《武蔵野》を所有していることが分かりました(図31)。

赤丸は左、および右の部分図の範囲を示す。
出典:ボストン美術館
こちらの《武蔵野》は、月が大半欠けていて、状態がよくありません。しかし、大きく拡大して観ると、薄いながらもはっきりとススキの穂が見えるではありませんか! やはり描かれたのはススキが原だったのです。
興味深いことに歌麿は、広重の控えめなススキが原の描写に比べて、より密集した草原を描いていて、一層伝統的な描写から逸脱しています。私が予想した通り、やはり歌麿も広重と同じく革新的絵師でした。
そして明治の月岡芳年、ついにススキの密集度を深めて、西洋リアリズムによるススキが原の描写にたどり着きます。
(おしまい)
続きは、「<植物画とは何か>補遺2」になります。
前回の記事は下記をご覧ください。
