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『オーロラより先に、君を見つけてしまった』/ 第一章①「古いジャズと深入りの店」


第一章① 「古いジャズと深入りの店」


神田遼平は、その朝、店を開ける前に三十分もかけて、看板の位置をあれやこれやと調整していた。

「決まらないなあ。昨日とは天気も少し違うしなあ」

五月に入っても仙台の朝はまだ少し冷えていて、路地の奥には引き締まった空気が満ちていた。

左へ三センチ動かすが、やはり戻し、また考える。
通りから見た時に、影が店名にかかる気がしてならなかったのだ。
それならば、いっそのこと少し斜めに置けばいい、と、彼は考えたのだが、そうすると今度はだらしなく見えてしまうかもしれないとも思った。

そう、彼は考え過ぎる男なのだ。

彼は濃紺のエプロンの腰紐を締め直し、店の前に立てた木製看板をじっと見下ろした。

看板には、白い文字で『MINOR SEVEN』と書いてある。
マイナーセブンとは、暗い響きのマイナーコードに少し大人っぽい「7度」の音を足したコードであり、少しおしゃれで柔らかく、ジャズっぽさを持っている。

彼は、そんな少しだけ陰りを帯びた響きが好きだった。
明る過ぎず、暗過ぎず、笑っているのにどこか寂しさもある、そんな音が、人間にはちょうどいいと思っていた。
若い頃は、ロックやブルースばかり聴いていたのだが、歳を重ねる毎に、音のひとつひとつに何かしらの意味を感じたがるようになっていた。
そのような彼の性格に、ジャズはマッチしていた。

店名を決める際、遼平は二週間悩んだ。

父が生きていた頃、この店は「珈琲 神田」という、いかにも昔の喫茶店らしい名前だった。
父は店の名前にこだわりは全く持っておらず、ただ何も考えずに苗字を当てはめただけだったのだ。
「ジャズ喫茶なんてな、ジャズが聴けてコーヒーが美味けりゃ名前なんかどうでもいいんだよ」
父はよくそう言っていた。

遼平には、それが出来なかった、というより、何でもいいと言い切る勇気を持ち合わせていなかったのだ。

父が倒れ、店を継ぐことになってから、遼平は壁紙を変え、椅子を張り替え、古いレジスターを直し、メニュー表の紙質まで選び直した。
店そのものは、父の時代から大きく変わっていないのだが、細部には遼平の迷いが染み込んでいた。

壁にはマイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、チェット・ベイカーなど、往年のジャズのレコードジャケットがずらっと並んでいる。

カウンターの奥に置いてある年代物のスピーカーは、父が骨董市で買ってきたもので、音の鮮明さは少し甘いが、その甘さが妙に人の心を緩ませていた。

店内は、カウンター七席に、二人掛けのテーブルが四つ、全部で十五席しかない。
大きな窓はなく、入口のガラス戸から射す光だけが、店の床に細長く落ちていた。

昼間でも、少し夕方のような暗さがあり、その暗さを好きだと言う客も居るし、陰気だと言う客も居るのだが、遼平はそのどちらの意見にも頷いた。
なぜならば、どちらも間違っていないと思うからだ。


午前九時五十八分、開店二分前になっても遼平はまだ看板を見ていた。

「マスター」
背後から声がした。

振り向くと、路地二本ほど西に行った先にある古本屋の主人、三浦が立っていた。
彼は、白髪まじりの髪を後ろへ撫でつけ、首に手ぬぐいを巻き、ちょうどサウナ帰りのようだった。

「看板見つめてどうしたんですか?」

「三浦さんじゃないですか、おはようございます。看板の位置が決まらなくて。こいつ、悩みの種なんです」

「はあ? こんなカッコいい看板、どう置いたってカッコいいですよ。それよりも、そろそろ店を開けた方がいいんじゃないの? 看板より客を相手にした方が儲かりますよ」

「今日も絶好調ですね。朝から正論言われるとは参りました」

「深煎りより苦いでしょ?」
三浦はそう言って笑い、歩き去った。

彼は、少し先にあるサウナで汗を流してから古本屋を開店するのが日課だった。

遼平は看板をもう一度だけ直し、結局、最初とほとんど同じ位置に戻した。
そこでようやく諦めるように息を吐き、ガラス戸の鍵を開けた。

父の代から使っているベルが鳴った。
チリンでも、カランでもなく、どこか寝ぼけたような間の抜けた音だ。
遼平はその音を聴く度に、店が勝手に目を覚まし、それに慌てて着いて行くような感覚になるのだ。

そして、急かされるようにカウンターに入り、ネルドリップの準備を始める。

店のオリジナルブレンドは、酸味を立て過ぎず、苦味の奥に乾いた甘さが残るように、深煎りのマンデリンをベースに、少しだけグアテマラ、ブラジル、コロンビア辺りを混ぜていた。
父の時代より、僅かに軽く、わずかに香りを前に出していた。
この「僅かに」に、遼平は何年もかけていたのだ。

湯を落とし、粉が膨らみ、やがて香りが立ち上がる。
古いスピーカーからは、チェット・ベイカーのトランペットが流れ始めた。


午前十時三分、最初の客が来た。
近所の薬局で働く佐伯という女性だ。
毎週火曜と木曜が遅め出勤なので、開店直後に来てブレンドを一杯飲み、一時間ぐらい本を読んでから出勤するのである。
彼女はいつも文庫本を持っているが、一度もタイトルを見せたことが無い。

「おはようございます」

「おはようございます。いつもので」

「はい」

遼平はブレンドを淹れた。
佐伯はテーブル席に座って本を開き、静かな手つきでページをめくる。

この店には、静かにするのが上手い客が来る。
遼平はそれを少し誇りに思っていた。


十時半を過ぎると、年配の夫婦が来た。
二人は毎回、同じテーブルに座り、夫は新聞を読み、妻は窓の外を眺めるのだ。

会話は少ないのだが、帰り際になると、必ず妻が夫の帽子を手渡し、夫は必ず「ありがとう」と言う。
その一言だけで、二人の人生がとても良く伝わる気がしたのだ。


十一時十五分、大学生らしい青年が入ってきた。
イヤホンをしたまま席に座り、ノートパソコンを開いて、何かを猛烈な勢いで打ち始めた。

彼の注文はアイスコーヒーだった。
今日のように少し肌寒い五月の仙台で、アイスコーヒーは幾分早い気もしたが、遼平は何も言わずに注文に応じた。


十一時四十分、常連の矢島が来た。
定年退職して三年になる男で、毎回、世の中がどれだけ昔より駄目になったかを語っていた。

「最近の若い人は、すぐ会社を辞めるでしょう? 根性が無いんですよ」

「そうかもしれませんね」

「でも、辞められる勇気があるのは、少し羨ましいですね」

遼平は思わず顔を上げた。

矢島は新聞を畳み、少し照れたように笑った。
「私はね、四十二年同じ会社に居ましたけど、辞めたいと思わなかった日は、たぶん無かったですよ」

「……そうなんですか?」

「辞めなかったんじゃなくて、辞められなかったんです。根性じゃないですね、臆病だっただけですよ」

遼平はカップを磨く手を止めた。

店には、こういう瞬間が時々あった。
何気ない会話から、急に深いところへ落ちて行き、落ちた本人もそれを言うつもりはなかったような顔をする。
コーヒーの香りと古いジャズのせいなのか、狭い店の暗さのせいなのかは分からないが、人は時々、こうやって自分の本音を口に出したくなる生き物なのだ、と、遼平は悟っていた。

「でも、今は毎日ここに来られて、いい人生送ってらっしゃるように見えますけど」

遼平が言うと、矢島は頷いた。

「それは悪くないですね。会社の会議中のコーヒーよもはるかに美味いです」

「比較対象が笑えますよ」

「仕事を引退するとですね、地位や名誉、役職なんて、実はどうでもよくて、結局のところ、くだらないことで笑った記憶ばかりが、やけに残るもんなんですよ」
矢島はそう言って笑った。



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