「傷つけない社会」は、誰の傷を隠してるのか ー柴田淳さんの件から考える、人権コンプライアンスの反転ー
柴田淳さんの発言をめぐって、ビクターエンタテインメントが「県知事個人を誹謗中傷する内容を含む」として抗議した、というニュースを読んで、ずっと引っかかっている。
もちろん、誰かの人格を傷つける言葉が無制限に許されるわけではない。公人であろうが私人であろうが、相手を人間として壊すための言葉はあるし、誹謗中傷や侮辱が問題になることは当然ある。だから、今回の件についても「政治家相手なら何を言ってもいい」という話にしてしまうのは違うと思う。
けれども、それでもなお、今回のビクターの声明には、かなり大きな違和感が残る。兵庫県知事である斎藤元彦氏は、明らかに公人だ。単なる有名人ではなく、選挙によって選ばれた行政組織の長でもある。彼の発言や態度、判断は、個人の好き嫌いの問題では済まない。兵庫県という行政組織のあり方そのものを、否応なく代表してしまう立場にある。その人物に対する市民の抗議を、どこまで「個人への攻撃」と呼べるのか、正直よくわからない。
とりわけ今回の背景には、兵庫県の公益通報をめぐる問題がある。県職員による告発文書、県の対応、懲戒処分、そして元県民局長の死。単に知事個人の評判をめぐる話ではなく、権力を持つ行政組織が内部からの声をどう扱ったのか、という深刻な問題がそこにはある。斎藤知事に向けられている怒りも、おそらく「個人としての斎藤さんが嫌いだ」という話ではない。公権力を担う者の責任を問う言葉として、受け止めるべきものだと思う。
にもかかわらず、その抗議の言葉が「県知事個人を誹謗中傷する内容」として処理されるとき、何かがすり替わっているように感じてしまう。市民から権力者への抗議が、いつのまにか私人同士のマナー違反のように変換され、公的責任を問う言葉が、「人を傷つける言葉はよくない」という一般的な倫理の中に、すっと回収されていく。
難しいのは、その一般的な倫理自体は間違っていないということだ。人権は大事だし、人格の尊重も大事だ。誹謗中傷をなくすことだって、もちろん大事なのだと思う。企業が契約アーティストの発言に対して一定の社会的責任を考えることも、今の企業コンプライアンスの感覚からすれば、避けられない部分もあるのだろう。DE&I、つまりダイバーシティ、エクイティ&インクルージョンの理念にしても、本来は必要なものだと思う。
しかし、その理念が企業コンプライアンスの言葉に置き換えられた瞬間、別の危うさも紛れ込んでくる気がする。多様性や人権の尊重という言葉が、誰を守るために、どの方向に向けて使われているのか。そこが問われないまま、素通りしてしまう。
そもそも、多様でインクルーシブな社会の基盤を担保しなければならないのは、まず権力の側のはずだ。行政組織であり公職者である以上、その責任は制度を運用する側にこそある。公益通報者が守られているか。職員が声を上げられる環境にあるか。そうした問いに答えられなければ、権力者に対して市民が批判できる余地も、結局は担保されない。そこまで踏み込んで初めて、「誰もが尊重される社会」という言葉も、実際に意味を持ちうるのだと思う。
ところが今回の件では、その構造的な非対称性が十分に踏まえられないまま、柴田さんの言葉だけが「人権」や「誹謗中傷」の文脈で切り取られているように見えてしまう。知事と市民は対等ではないし、企業レーベルと契約アーティストの関係も同じだろう。行政組織の長と、抗議する一人の市民という組み合わせも変わらない。その非対称性を見ないまま、「個人を傷つけてはいけない」という言葉だけを適用すれば、権力者の側が「傷つけられた個人」として保護され、抗議する側だけが「加害的な言葉」を発した者として処理されることになりかねない。
これは、考えてみればかなりねじれた状況だ。もちろん、抗議の言葉が常に正しいわけではない。怒りは、ときに人を傷つける。強い言葉は、聞く人に恐怖を与えることもあるだろう。「トーンポリシング」という言葉がある。たとえば、怒っている人に対して「もっと冷静に言え」「もっと礼儀正しく言え」と求めることで、怒りの中身そのものを見ないようにするようなすり替えの態度のことだ。この批判は、僕はとても重要だと思う。抗議の言葉は、そもそも穏やかな討論とは違う形式を持っている。声を上げても届かなかった人たちは、怒りという形でしか、あるいは同じ言葉を何度も重ねることでしか、時には自分の身体を張ることでしか、社会に声を届かせられなかった。それを「言い方がきつい」という理由だけで無効化してしまえば、抗議が抗議である意味そのものが、消えてしまう。
しかし同時に、怒っている人が怖いという感覚も、単純に否定できない。怒りが正義の側にあるとしても、その場にいる人にとっては圧力として響くことがある。だから、怒りの言葉をどう考えるかは、本当に難しい。必要なのは、「怒っているから正しい」でも、「言い方が悪いから間違っている」でもない。問うべきなのは、その言葉が何に向けられているのかだと思う。
たとえば「知事を辞めろ」「責任を取れ」「公益通報者を守れ」という言葉は、強い。場合によっては、乱暴に聞こえることもあるだろう。でも、それは政治的責任や行政責任に向けられた言葉であって、公職者としての行為や判断、その姿勢を問うものだ。一方で、容姿や家族、私生活や属性を貶めるような言葉は、政治的批判というより、相手を人間として壊そうとする言葉に近づいていく。この二つは、やはり分けて考えるべきだと思う。
ビクターが「県知事個人を誹謗中傷する内容を含む」と言うのであれば、何が、なぜ、政治的批判ではなく個人への誹謗中傷にあたるのかを、もっと慎重に示す必要があったはずだ。そこを曖昧にしたまま、企業が「人権」や「誹謗中傷」、あるいは「コンプライアンス」といった言葉で線を引くとき、その判断はおそらく政治的に中立ではいられない。政治的な抗議を、企業のリスク管理の対象へと、いつのまにか変換してしまうことになる。
今回の件で見えているのは、「傷つけない社会」を目指す言葉が、いつのまにか「怒れない社会」をつくってしまう、という危うさなのだと思う。個人の尊厳を守ることは、もちろん大切だ。ただ、その大切さが公職者の政治責任を覆い隠すために持ち出されるのだとしたら、それはもう人権の言葉ではなく、人権の言葉を借りた別の何かだと思う。企業の社会的責任についても、たぶん同じことが言える。契約アーティストの政治的発言をコントロールする装置としてそれが機能してしまうなら、それは責任という名の、もうひとつの権力にすぎない。
人を傷つけないことと、権力を批判すること。その二つは本来、対立するものではないと思う。権力を批判できる社会であることこそが、人を守る社会の条件でもあるはずだ。だから今回のニュースを、単に「柴田淳さんの言葉遣いがよかったか悪かったか」という話に閉じるのは当然違うし、問われているのは、怒りの言葉そのものというより、その怒りをどの位置から、誰が、どんなふうに裁いているのか、ということ(に対する自覚の問題)なのだと思う。
