大奥妖かし捕物帖|第十一話|鴉狐合戦
第一章:忍び寄る影
江戸城の夜は深く暗い。中務省陰陽寮の一角。老中・堀田の密命を受けた土御門忠明は、揺らめく燭台の下で静かに指を組み、印を結んでいた。
「松風宗四郎……その正義感、いささか過ぎたな。光が強すぎれば、闇に呑まれるのも道理よ」
忠明が冷笑を浮かべ、墨色の呪符を宙に放つ。符は生き物のように身悶えすると、漆黒の影へと姿を変え、夜の闇に溶け込んだ。目指すは、大奥と表を繋ぐ境界線――御広敷である。
宗四郎は、夜の静寂の中、巡回していた。秋の夜風が頬を撫で、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。だが、
その平穏は突如として破られた。
「……ん?」
背筋に、氷の刃を突き立てられたような悪寒が走る。視界がぐにゃりと歪み、心臓を直接掴まれたような激痛が宗四郎を襲った。
「くっ、何だ……体が急に……!?」
荒い息をつき、膝をつく。その時、暗闇の底から「カサ……カサ……」と乾いた紙が擦れ合う音が響いた。見れば、数枚の黒い形代が、毒虫のように地面を這い、宗四郎の足元にまとわりついている。抗う術もなく、彼の意識は深い闇へと沈んでいった。
第二章:白き護符の光
朝餉の支度の時間、御広敷女中のお久米が血相変えて、長局のお染の部屋へ駈け込んで来た。
「お染さん! 大変です!」
「どうしたの、お久米ちゃん。こんな朝早くに」
「松風様が…松風様が…!」
お久米は息切れで、うまく言葉が出てこない。お染は、お久米の話を聞き終わる前に部屋を飛び出していた。
お染が御広敷向の前に着くと、ちょうど御典医見習いの玄庵が宗四郎の診療を終えて帰るところだった。
「玄庵様!」
駆け込んできたお染を見ると、玄庵は無言で外へ出るよう促した。
お染の顔色は青く、不安で微かに震えていた。縋るように自分を見つめる彼女に、玄庵は小さくため息をついた。
「お染さんに言わないでくれないか?」
宗四郎が苦しい息で、玄庵に頼んだ。
「そんな事できると思いますか? 彼女は何でもお見通しだ」
「そうだな…。呪詛なんて聞いたら、彼女は自分のせいだと思うだろうな」
「自分の命が危ないのに、あなたはお染さんの心配をするんですね」
玄庵が呆れたように言うと、宗四郎が弱々しく笑った。
「惚れちまってるからな」
「…あなたは本当に正直だ。羨ましいくらい」
人目を忍び、彼は袂から一枚の黒い形代を取り出す。
「松風殿の衣に付いてました。おそらく病ではなく呪詛だと思います」
「……!」
お染が黒い形代を手に取ると、指先から禍々しい冷気が伝わってきた。
「松風殿には言うなと言われましたが、彼を救えるのは、あなただけでしょう。薬では治癒できない。この呪いの根源を断たねば、彼の命は明日を迎えられないかもしれません」
玄庵の険しい顔に、お染は形代を強く握りしめた。
その瞳が潤み、静かな怒りの火が灯るのが見えた。
それは宗四郎を襲った相手に対するものなのか、彼女自身に向けたものなのか…。
「宗四郎様は助けます。必ず私が」
自分に言い聞かせるように、お染が呟く。
「気を付けて下さい。呪詛を掛けた相手の情報は、この黒い形代のみなのです」
その夜、お染はお久米の手引きで、御広敷女中に紛れて宗四郎の部屋に忍び込んだ。
お染の目には、彼の体を幾重にも縛り付ける黒い霧のような影がはっきりと見えていた。宗四郎は息をするのも苦しそうな様子で、その顔からは徐々に生気が失われているようだった。
いつか、こんな日が来るんじゃないかと思っていた…。
もっと早く私が彼の手を離していれば…。
でも、どうしても出来なかった。
朦朧とする意識の中で、宗四郎が目を開ける。
「お染さん……? なぜ、ここに……」
「お久米ちゃんにこっそり入れてもらいました」
お染は宗四郎の頬に手をあてる。お染の体温が宗四郎に伝わる。
宗四郎は彼女の手に自分の手を重ねた。
「心配させたくなかったのに」
こんな時でも、この人は私の事を慮る。
「お染さん、熱に浮かされた戯言だと思って聞いてくれ」
聞いてはいけない…。聞いてしまったら、私は…。
「俺は、君のことが好きだ。もう、分かってると思うけど…」
…!
ふいに、宗四郎は目を見開いて驚く。
お染の唇が宗四郎の唇に重なったのだ。
ほんの一瞬が、永遠のように切り取られる。
やがて顔を離したお染が、懐から純白の護符を取り出し、静かな声で呪文を紡ぐ。
「六根清浄」
放たれた護符が光の奔流となり、宗四郎に群がる黒い影を吸い取っていく。影は苦悶の声を上げるように震え、再び黒い形代の姿へと戻った。
第三章:白と黒の激突
中務省陰陽寮では、忠明が異変を感じていた。
「…やはり来たか、滝川の密偵。私の呪詛を消し去るとは。なかなかやるではないか」
忠明は不敵に笑ったが、目は氷のように冷たい。
「いい機会だ、二人まとめて仕留めてやろう」
忠明が印を結び直すと、お染の目の前にあった黒い形代が膨れ上がり、巨大な鴉の姿をした式神へと変貌した。
鴉は不気味な咆哮を上げ、鋭い爪でお染を切り裂かんと襲いかかる。
お染は宗四郎を背に庇い、袖から形代を舞わせた。
「東方青龍、西方白虎……四神の加護をここに! 穿て、白銀の狐!」
眩い光の中から、お染の式神「白狐」が姿を現した。
漆黒の大鴉と、純白の狐。
相反する二つの霊力が激突し、御広敷の空気が震える。
大鴉が不気味な鳴き声を上げ、その嘴から呪いの霧を吐き出した。触れるものすべてを腐食させる死の霧だ。しかし、お染の白狐は怯むことなく、尾の一振りで清冽な風を巻き起こし、霧を霧散させる。
「おのれ、小癪な……!」
忠明が指を弾く。すると、大鴉は一気に上空へと舞い上がり、羽ばたくたびに鋭い刃と化した「黒羽の雨」を降り注いだ。
咄嗟に手負いの宗四郎が、よろめきながらもその身を盾にしてお染を庇った。
「宗四郎様!いけない!」
「くっ……!」
鋭い刃が宗四郎の背を裂き、鮮血が舞う。
「宗四郎様!」
動揺するお染の肩を、宗四郎が血に染まった手で強く掴んだ。
「しっかりするんだ、お染さん!君は最強の陰陽師だろ!」
その言葉に彼女は唇を噛み締め、天を仰ぎ大鴉を鋭く睨みつける。
「阿毘羅吽欠娑婆訶(おん あびらうんけん しゃらくたん)! 悪しき刃を燃やし尽くせ!」
お染の放つ言霊に応え、白狐が咆哮した。狐の口から放たれた蒼い炎が、降り注ぐ黒羽を次々と焼き払い幻想的な蒼光で染め上げる。
白狐は虚空を蹴り、雷光のごとき速さで大鴉の懐へ飛び込んだ。
だが、忠明は冷酷に笑う。
「愚かな。自ら闇に飛び込むとはな」
忠明が印を結ぶと大鴉は翼を広げ、白狐の全身を包み込むように覆い尽くした。
「終わりだ。闇に呑まれ、無に帰せ。お前は私には勝てぬ」
絶体絶命かと思われた瞬間、お染が不動剣印を結んだ。
闇の中で白狐の瞳が静かに光った。
「月は、深い闇があるからこそ、最も美しく輝くもの……。月華浄土!」
その瞬間、白狐の体から溢れ出したのは、太陽よりも眩しく、月よりも清らかな銀色の光の柱だった。闇を内側から引き裂き、大鴉は光に焼かれながら断末魔の叫びを上げて霧散する。呪詛の余波が弾け飛ぶ。
第四章:別れ
静寂が戻る。
「宗四郎様! すぐに玄庵様を呼んできます!」
駆け出そうとするお染の手を、宗四郎が強く掴んだ。
その瞳には固い意志が滲む。
「お染さん。俺は君の盾だ。この先、何があろうと、君を守る覚悟ができている。たとえ命を落とすとしても……」
その真っ直ぐな言葉は、お染の胸を深く突いた。
「……あなたはいつもそうやって、私の盾になろうとする…私の気持ちなど、置き去りにして」
お染は宗四郎の手を振りほどき、玄庵を呼びに走った。
幸いにして、宗四郎の傷は深くはあったが、命に別状はなかった。
しかし、呪詛の影響もあり、一月の絶対安静を言い渡されることとなった。
一月後。ようやく御広敷の詰め所に復帰した宗四郎は、真っ先にお染の姿を探した。だが、どこにも彼女の影はない。
「お久米、お染さんはどうした? 今日は非番か?」
「えーと、それが……私もよく分からなくて。急にいなくなっちゃったんです」
お久米は困惑した様子で視線を泳がせる。宗四郎の胸に嫌な予感が走った。
「頼む、教えてくれ! どこへ行ったんだ!」
宗四郎がお久米に詰め寄るが、彼女は下を向くだけだった。
「陰陽寮ですよ」
背後から声をかけたのは、薬箱を抱えた玄庵だった。
「陰陽寮!? 何故!?」
「呼ばれたのか、自ら行ったのか…、彼女は黙って行ってしまったので」
宗四郎は、体中の力が抜けていくのを感じ、上がり框に座り込んだ。
どうして俺に何も言わずに一人で行ったんだ……。
守るって言ったのに……。
黙って消えるなら、なんで口づけなんてしたんだよ…。
宗四郎の様子を見つめながら、玄庵は、陰陽寮に行く前に彼のもとを訪れたお染のことを思い出していた。
「本当に行くんですか? 一人で乗り込むなんて危険すぎる。私は反対です」
「でも、上様の呪詛と城の結界の弱体化、そして今回のこと、相当な力を持つ術師が関わってることは間違いありません。だとしたら、その者は陰陽寮の人間だと考えるのが妥当では?」
「なおさら危険じゃないですか」
玄庵が何を言おうと、彼女の決心は変わらないようだった。
「一番の理由は松風殿でしょう? 彼をこれ以上危険に晒したくないから」
お染の瞳が揺れる。
それほど松風殿のことを…。
「…彼には傷が癒えるまで伝えないで下さい。知ったら、傷をおしてでも私を助けようとするから」
「あなたは…。私が付け入る隙も与えてくれないんですね」
「…」
玄庵が悲しそうに呟く。お染は静かに瞳を閉じた。
陰陽寮の一室で、土御門忠明は月を眺めていた。
「……私の鴉を、これほど鮮やかに退けるとは。女の身で白狐を操る遣い手……。私の前に立ち塞がる者は殺すつもりだったが、お前を簡単に殺すのは惜しくなったよ…」
机の上には、真っ二つに裂けた黒い形代がある。忠明は指先に残る微かな霊力の残滓を確かめ、目を細めた。
狐に惑わされてしまったか…。
そこへ、騒々しい足音と共に老中・堀田が現れた。
「忠明! 首尾はどうだ。あの目障りな若造、松風宗四郎は片付けたのだろうな!」
忠明は椅子から立ち上がることもなく、不敵な笑みを浮かべて答えた。
「……申し訳ございませぬ。例の表使に阻まれました。松風宗四郎は、まだ生きております」
「何だと!?」
堀田の顔が怒りに歪む。
「貴様、土御門の名を冠しながら、たかが一介の御広敷役人一人殺せぬというのか!」
堀田の怒声が部屋に響き渡るが、忠明は動じない。
「案ずるには及びませぬ。既に次の手は打ってあります。奴の命を奪うより先に、奴の後ろにいる『守護者』を手に入れることにいたしました」
闇の中で、忠明の瞳が獲物を狙う鴉のように鋭く光る。
数日後。お染の元に、陰陽寮から直々に入寮を命ずる書状が届いた。
(完)
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