〈愛の本〉、及び、〈ドア〉について、あるいは、榎本俊二、森泉岳土、デイヴィッド・リンチ/David Lynch/、岡本啓okamoto kei、佐々木中、宮崎夏次系、
2025/02/10/21:07

深く潜行する、あるいは、軽やかに、宙を飛行する。本を携えて。いつも、わたしのそばに本があった。物質としての本という形式の終焉の時代の中、それでも、その手でその指で、触れることの出来る無限として、本は現在の時間の中で存在している。終わろうとする、物質としての本という形式。

しかし、文字が発明され本が作製され多くの人人が本に出会うことになったのは、20万年に及ぶホモ・サピエンスの歴史の極めて最近の事柄でしかない。ヨハネス・グーテンベルク/Johannes Gutenberg/が金属製の交換可能の活字で葡萄の絞り器を用いた印刷機を操作して印刷術を考案したのは、僅か、500年前の15世紀の半ばのこと。本という形式は決して人間に於ける、当たり前の事象ではない。それは飛行機の誕生と同じように、極極、近頃の出来事でしかない。本は読まれ/書かれる中にしか存在しない。本を、人間に於ける特権的な存在として崇め礼賛する愚鈍さと決別しなければならない。遠い未来の時間の中ではなく、もうすぐ、物質としての本という形式が記憶の残像へと変容し、本という形式さえも幻影になろうとしているのだから。

本という形式の、本を書くこと/本を読むことの、束の間の夢の時間。その夢の時間を守護するために、終わろうとする物質としての本を解放し、さらに本という形式も、解体し再構築しなければならない。言葉の束/集積である本という形式が崩壊し、散逸する言葉の断片たちが、絡み合う時間の濁流に翻弄され押し流されたとしても、わたし/たちには言葉の束が必要なのだから。

物質としての本という形式の終焉の時代の中、そんな、終わりの時間の中でわたしが、幸運にも、擦れ違うことなく遭遇することができた、いくつかの、本たち、映画たち、そして、無数の遭遇出来なかった本、映画たちへ。

〈愛の本〉、についてのメモ書き、あるいは、〈ドア〉、についての断片

No.1//聖なるものと俗なるものとをつなぐ回路〈ファミリー・ストーリー〉、あるいは、異次元と宇宙人とモンスターたちに愛され抱擁されし、榎本俊二の『ザ・キンクス/THE KINKS』
前触れもなく、忽然と、出現するものたちがいる。『ザ・キンクス/THE KINKS』を〈怪作〉という凡庸極まりない呼び名で、呼ぶことは許されざることでしかない。しかし、『ザ・キンクス/THE KINKS』が、榎本俊二という破格の才能が天才という暗黒の呪いをいとも容易く噛み砕き描き出した、その結実の漫画であることは明白だ。無数の天才・漫画家たちが自身の呪いに飲み込まれ自壊して行く凄惨な光景を目の当たりにしながらも、榎本俊二は漫画家であることを疑うことなく、平然と漫画を描き出す。漫画が人間の営為のすべて、さらに、宇宙のすべての事象を描き出すことが可能であることは既に実証され、漫画が描き出す事柄に限界がないことも明らかになっている。漫画は藝術/哲学なのだ。しかし、それ故に、幾多の漫画家たちが内なる無限の穴に足をすくわれ落下して行く。真白の無限の平面で、漫画家たちが、黒いインクとペンを矛、そして、盾として宇宙の事象たちと格闘する。

〈ファミリー・ストーリー〉は逸脱の排除されたこころあたたまる平凡な日常である、という甘美な幻想など、われらの時代には喪失の目録の中にしか存在しない。〈父〉も〈母〉も遥か昔に破壊されている。継ぎ接ぎの書割でしかない〈ファミリー〉の中で、人造の父と母と子供たちが〈ファミリー・ストーリー〉の劇を演技する。21世紀の日本に、異次元と宇宙人とモンスターたちに愛され抱擁されし漫画家・榎本俊二が漫画に描く〈ファミリー・ストーリー〉が〈聖なるものと俗なるものとをつなぐ回路〉として出現する。俗なるものであるはずの大人たちが、聖なるものであることを放棄せざるを得ない子供たちを、汚穢にまみれ、聖なるものであることの場所へと導く。漫画家・榎本俊二が、〈ファミリー〉と〈ファミリー・ストーリー〉の意味をアップデートし再定義する。うれいらずたのぼうなんらくんたかくいく!

『ザ・キンクス/THE KINKS』は、荒地に変貌してしまった21世紀の日本に現れた〈ファミリー〉と〈ファミリー・ストーリー〉を奪回する物語なのだ

No.2//灰色と黒と白の紙の結晶体、美しさ、/あるいは、『ソラリス/SOLARIS』(森泉岳土/スタニスワフ・レム/沼野充義訳/)
「我、思う、故に、汝、在り。」普遍的なるものが、愛の話のかたちを用いて、永遠の問いとして語られる。『ソラリス/SOLARIS』には解答はない。そこにあるのは、「人間が人間的であることとは、どのようなことであるのか?」という問い。『ソラリス/SOLARIS』が繰り返し表現の形式を超えて再・表現されているのか、の理由。時代と場所を超越し、問いはいつも、わたし/わたしたちの目の前に存在している。問いから逃れることはできない。
『ソラリス/SOLARIS』(森泉岳土/スタニスワフ・レム/沼野充義訳/)、物質としての本という形式でしか生み出すことのできない、灰色と黒と白の厳粛にして鮮烈な美しさ。終わろうとするそれ、終わっていいわけはない、と同時に、瞬間が、デジャブ(déjà vu)としてわたしを襲う。全く同じことがあった。過去の時間の浮の中に。終わっていいわけはない、終わろうとする、それの、美しさ、を、確かに掴まえ壊れないように厳重に容器の中に封印したはず、それなのに、終わったことさえわたしは忘れている。音響の欠けた叫び声を上げ、巨大な忘却の波の中、強く激しく『ソラリス/SOLARIS』を抱き締め崩落する。変貌の時代の残酷なる荒れ狂う時の流れの中で、漂流し、わたし/わたしたちは、灰色と黒と白の紙の結晶体、『ソラリス/SOLARIS』の美を、語ることができない/語ってはいけない。いかなる意味に於いても。






No.3//デイヴィッド・リンチ/David Lynch/の〈ドア〉について、あるいは、/mille-feuille/ミルフィーユ/千の葉/状の、それ、について
デイヴィッド・リンチ/David Lynch/のドア、について。ドアが開かれ、誰かが部屋の中に入り、ドアが閉ざされ、誰かが部屋の中から出て行く。わたしたちが気が付くことなく、ドアはそこに存在していた。名付けることが出来ない何かがドアを通過し、わたしたちの世界の中へと侵入し、わたしたちの幾人かが開け放たれたドアの向こう側へと踏み迷い込む。現実が単一の何かとしての姿を止め、無数のミルフィーユ/mille-feuille/千の葉/状の複層体へと変貌して行く。デイヴィッド・リンチ/David Lynch/が現実の皮をミルフィーユ/mille-feuille/千の葉/のように一枚一枚剥がして行く。デイヴィッド・リンチ/David Lynch/〈ドア〉とは幾重にも折り重ねられたパイ生地を貫くフォークであり暗闇の中で眩暈のように発光する映画のスクリーンである



ドアを開けて、デイヴィッド・リンチ/David Lynch/は、向こう側へ行ってしまった。彼はもう戻ることはない。しかし〈デイヴィッド・リンチ/David Lynch/のドア〉はそのまま残っている。デイヴィッド・リンチ/David Lynch/は映画がドアであることをわたし/たちに教えてくれた。ありがとう、デイヴィッド・リンチ/David Lynch/、ありがとう。ドアを開けまた逢いましょう。

No.4//〈愛の本〉、あるいは、『万人のための哲学入門/An Introduction to Philosophy for Everyone/この死を謳歌する』佐々木中
佐々木中の最新作、2020年の病から現在の回復に至り、2024年に書かれた『万人のための哲学入門/An Introduction to Philosophy for Everyone』本の帯の言葉を引用すれば、「最初で、最後で、最短の一冊。/The first,last and shortest introduction to philosophy./」、サブ・タイトルは「この死を謳歌する」となる。全89ページ、厚さ9mm、文字数:40000少し、とても、小さな、とても、薄い、しかし、深く広く、そして、とてつもなく、やさしい本発端の言葉は「それは、あなたが死ぬということです。さて、私たちの哲学入門は、ここから始まります。」、この本を「哲学=死を学ぶこと」の本、として、読まれることを、わたしは否定しない/否定することはできない。

しかし、死へと収斂して行く人の生が無意味であるか否かは問題ではない。極限として、「人間の生は無意味である。」と考えている愚者たちの醜悪さとは、〈愛〉とはいかなるものであるのか知らないことであるということ、が厳密に証明され、〈愛〉の根源が語られる。さらに、哲学から藝術へ。〈愛〉を知らない者たちがしたり顔で藝術を語ってはいけない。いや、そうではない。違う。そうじゃない。〈愛〉を知らない悲しみの者たちへこそ〈愛〉は惜しみなく降り注がれなければならない。藝術はそのためにある。
大切な誰かに、「決して、あなたの生は無意味ではない!」と「意味を与える」こと、それが、愛するということである、わたしたちは無力ではない。
あえて、わたしは言う。これは〈愛についての本〉であると。そう、佐々木中の最新作はわれらの時代の希望と絶望の波間に浮かぶ〈愛の本〉なのだ!

No.5//「言葉とともにうまれた沈黙に耳をすます。」、あるいは、『ノックがあった/a knock at the door』岡本啓/okamoto kei
ここが、いかなる場所のいかなる時間であろうとも、いつもひとのそばにそれはある。わたしたちの現在は行き止まりの場所ではない。「ひとひとりの生きた時間」を超えて行くものとして、それ、が、ひとのそばに存在する。>「詩を知って、遠回りしながら、人間という動物のとほうもない営みにようやく気づいたから。言葉とともにうまれた沈黙に耳をすます。あらゆる場所、あらゆる時代に、詩はひとのそばにあった。」2020から2023の終わりの時間が記録された詩集。少しだけ、ほんの、少しだけ、部分を、断片として

予報どおり
こぼれるもののない
ユーラシアのはずれの青々とした空に
だれだか
返信のない宙ぶらりんの日々が
ゆっくり前後に揺れていた

ききとれない
音像 はもん はじまりから
はぐれてかすむぼくら
発煙と鎮圧部隊
すぐいくと書く ともかくと書く
どこにある どこでもドア
けむりをくぐる
おおなみきくぐる
おおよそたちあがる
すると一メートトル七〇センチが、見上げるほど、おおきなきみ
きみは看取る きこえたか
埃まみれで運ばれていく
助からない青年の目
約束する 聖者にはしない
(シー)(シー)(シー)。(シー)。きみも。わたしも。あなた
も。よく考えた。沈黙を守って。重たい頭で。自分の頭でよく
考えたから、一歩前で立ち止まること、それが検閲なのか、思
慮深さなのか、もうだれにもわからない。肩をつかまれた。だ
れひとりいなかった。青空がなにかをたらしていた。頭蓋骨の
なか、雪は止んで、火傷しそうな意味が、三つ四つ転がってい
た。認証のさき。ずっとだれにもわからない。ずっとぼくはわ
かったふりをしていた。花の音。ムクドリの無垢。頭部のおも
さ。くすぶっている小さな朝が歯に挟まっていた。

うん なにかが ある なにか
とても あやふやで それは
ベーグルが 紙袋につくる 脂滲み それから
すりむいた手の甲が記す もみくちゃのデモと
警棒の 隙間にもれだす光
書き留めた これらの硬い筆跡 それが
湿ったスウェードの スニーカーのなかで 水分をすい
しずかにしみわたって いくのを きいているのか
沈みすぐるソファで きみは
入れ違いばかりのレコードに こうさんして
やわらかな紙をつまみあげ 丁寧にひろげ わからなさに濡れた
痕跡を もう何十分も みつめている
鍵をたすきがけにして 漕ぎ出した 刹那
にわかに あっ、と激しくなった 雨脚の 音が
とうとう とぎれたかのか
ようやく顔をあげれば 雨後へ動く雲がみえ
当惑する東京がみえ 怒りの反響のしない しずまりかえった
大いなるこの死に場所 みんな おーい
傘を鳴らそう おーい 混沌を
火にかけよう コップから
そ らから
肩ごしに
そっと一葉の話しかけてくるような
音もなく
音もなくさ 忘れられた 0のなかで
ねてもさめても ふくらんでいく果実や
たかあいたかい 0のなかで

No.6//あとがき// 漫画の紙の本の時代が終わり、漫画もデジタル配信しかしないのが普通のことになってしまう(だろう)。
紙の漫画の本が急速に入手困難になっている。新刊と思っていた本が次の年には早々と絶版となっていたり、信じ難い高価な価格で古本として取引されていたりする。何が起きているのか。そう。漫画は音楽の辿った道と全く同じ道を猛烈な速度で進行している。音楽がデジタル配信しか、しない、のが普通のことになったように、漫画もデジタル配信しか、しない、のが普通のことになってしまう(だろう)。紙の漫画の本へのノスタルジアに浸り嘆いているのではない。それでも、わたしは変貌する過程の中ですごくすごく重要な何かが排除され切り落とされているのではないかと胸騒ぎがしている。
No.7//あとがき// 漫画の固有の時間は/.ページをめくる/.行為の中で生成している。だが、やがて、漫画の時間は思い出として変貌する過程の濁流の中で忘れ去られて行く。 さよなら、わたしの愛する紙の漫画たち。
漫画という表現は物質としての本という形式に強く依存している。漫画をフラット・ディスプレイに閉じ込めると、//三次元の空間の中で//二次元のページをめくり//生成する漫画の固有の時間の根源的なありように、意図せず変更を迫ることになる。//三次元の空間の中で//二次元のページをめくり//生成する時間・物語と、//二次元の画面の中で//二次元のページをスクロールして//生成する時間・物語は全く異質なものとなる。現在の漫画の固有の時間は立体の中の/ページをめくる/行為の中で生成している。紙の漫画の本が演劇であるとすれば、デジタルの漫画は映画となる。漫画が映像に完璧に敗北する。だが、こうした事柄もやがて、過ぎ去りし過去の古き善き思い出として、変貌する過程の濁流の中で全て忘れ去られる。滅亡する漫画の時間
さよなら、漫画たちよ、
さよなら、わたしの愛する漫画たちよ、
ありがとう、愛しき、紙の漫画たちよ、ありがとう
絶対、忘れない、絶対、絶対、忘れない、きっと、たぶん、

