アクターネットワーク理論(ANT)に基づく「記述」のために 〜分離する述語と結合する述語で、中間項を媒介子に変換する
アクターネットワーク理論、「記述すること」の理論
先日、IAAB EDIT社さんのイベントで、伊藤嘉高先生によるアクターネットワーク理論(ANT)の二日にわたるご講義にオンライン参加させていただきました。
伊藤嘉高先生の講義を限定配信中です。 pic.twitter.com/9rsl9vLBpA
— 株式会社IAAB EDIT (@iaabedit) December 18, 2025
個人的に、アクターネットワーク理論(ANT)には、以前から関心があり、伊藤先生の訳によるラトゥールの『社会的なものを組み直す』も、読み込んだものである。
いま、この文章を書いている私は、もともと2000年代のはじめごろから「メディア情報学」ということを勉強していて、"情報通信メディアの様式に応じて、人と人との関係がさまざまに異なるモードで媒介される"、その様子をどのように記述し、分析し、設計の参考にしたらよいのか・・?!? といったことを考えてきた者である。
例えばインターネットとか、携帯電話・スマートフォンとか、動画配信とか、SNSとか、あるいは新聞を読むとか、地上波テレビ放送を視聴するとか、長電話をするとか…。私たちが一日24時間を、どのようなメディアとの接触に費やすかによって、そしてもちろんそれらのメディア技術を介して、「どこ」の「だれ」が送出した、「どのような」情報を得るのか、またそれをどのようなモードで視覚・聴覚の神経系に注ぎ込むのか…。

そういったことによって、私たちひとりひとりが経験する主観的に意味のあるリアリティというものの現れ方や、「主体感」の生産される様相がさまざまな姿を取る、と考えられる。
こうした一連の、仮にまとめるなら「コミュニケーション」とでも呼べそうな事態の全貌を、特に、そこで立ち上がってくる"私たちひとりひとりにとっての主観的に意味のあるリアリティの経験"とでも仮に呼べそうなことを、一体どのように「記述」することができるのか??・・・という、これが差し当たり私自身の勉強を進める上で、大きな問題の構えになるのである。
記述するということ
が、しかし、じっさい、地球規模に広がり動的に変化するネットワークを動かすコミュニケーションを、特にその個々人にとっての主観的に「意味ある」経験を「一体どのように記述することができるのか??」・・。
そこではなにやら、極めて複雑に変容する現象が展開されていることは容易に予想がつく。その動的な全貌を一望のもとに観察したり、一挙に掴み取り「これです」とシンプルに固定されたモデルですっきり説明し尽くすようなことは不可能だ、ということがわかる。
特に、意味あるリアリティの経験などという主観性の領域を学術的な「研究」で扱うためにどうするのか、というところがまず問題になる。その時に利用できるもっとも合理的な方法は、アンケートであったりインタビューであったりと、言語による記述である。
そしてもちろんこの言語による質問と、言語による回答文の作成は、それ自体が一つのコミュニケーション、あるメディア技術の布置に媒介されたコミュニケーションになる。この質問を受けることと回答をすることを通じて、被験者の主観的な意味の世界は何らかの変容を被るのである。
+ + +
このようなことを「やろう」と思ったところで、さて、実際に何をどうしたら良いのか、ということを考えれば考えるほど、なにをどうしてよいかわからなくなっていたのが2000年代の前半ごろの私の状況であった。
いまならば、そういう場合に強力な味方になってくれるのが、ブリュノ・ラトゥールによる「アクターネットワーク理論(ANT)」である、と言える。
ちなみに、伊藤嘉高先生の訳によるラトゥールの『社会的なものを組み直す』の日本語版が出版されたのは2019年、ラトゥールの原著が出版されたのが2005年である。
ちょうどこの2005年ごろ、私は上述のようなことを課題にしようと漠然と考えつつも、博士論文という形で、何を、どういう具合に落とし込んで行ったらよいのか、と悩んでいた(というか、まったく見当もつかないので、アイディアが降りてくるのを待つと称して放置する感じであった。よくわからなくなって迷った時には無意識からの声を待つ、というのが私の昔からの習慣なのである)。
そういう具合で、原著が出版されたばかりの『社会的なものを組み直す』の存在に気づくことも、2005年の時点では、すぐにはできなかったのである。もし2005年の時点でラトゥールをしっかり読んでおけば、ずいぶんと博論を作るのも着々と進行できただろうなあ、と思う。
そういうわけで、後日、2019年に伊藤嘉高先生訳の『社会的なものを組み直す』を読んだ時には、「まさにこれ!私が探し求めていた方法はこれだったのだ!」と感動を覚えたものである。そしてふと思い出して振り返ってみると、2020年、訳書を拝読し、下記の記事をnoteに書いていたりする。
アクターネットワーク理論について詳しく学びたい方は、こちらの伊藤先生らによる『アクターネットワーク理論入門-「モノ」であふれる世界の記述法』を精読されるとよいと思います。
この本の副題にある「記述」というのが、まさにキーワードであると思います。
+
記述する言葉とその「主語」
「記述」と「主語」の問題
アクターネットワーク理論(ANT)とは、大きく言えば記述の方法論ということになろうか。
* *
私たちは、自分が経験した何事かについて言語でもって報告する時、「とあるところに、Aがありましてねえ、このAが、なんというかf(x)をするわけでございますよ。そうするとですねえ、Βが反応してf(y)をして、Cになってしまうのでございますよ」といったような語りあるいは記述を生成する。
こういう誰かの語り・記述を、別の誰かが聞き、読む時、しばしば「ぐっ」とひっかかるところがAとかΒとかCといった主語である。
主語たちは「AはBだ」を繰り返し、動きを消す?!
主語は、それが名詞、特に固有名詞や専門用語の名詞だったりする場合、何だかわからない謎のものとして耳に、目に、飛び込んでくる。
そうした謎の主語について、私たちはついつい、
「Aとは何か?」
「Βとは何か?」
「Cとは何か?」
といった様式で問いを発してしまう。
そうしてAやBやCを次々と
「Aはpである。pというのは結局qだよね」
「Βはrである。rというのは結局sだよね」
「Cはtである。tというのは結局uだよね」
といったパターンで、別の名詞、主語的なものに置き換えていく。
この主語的なものの置き換えは、既知の主語的なもの(上の記述ではq、s、uと表現したもの)に行き着くまで繰り返される。
謎の主語的なものを、既知の主語的なものへ、次々と置き換えていく。
そうすることで私たちは何事かを言語的に記述して「理解した」「分かった」と思えるような気分になるのである、が、ここに大きな落とし穴がある。則、主語的なものが、q、s、uが、AもΒもCも、pもrもtも、ことごとく「実体化」してしまうのである。
主語的なものが実体化する
実体化するとはどういうことかと言えば、主語的なものたちそれぞれが、他と無関係にそれ自体の本質に依ってとして自ずから存在する、と信じられ疑われなくなるということである。
主語「人間」というものが存在するのは当たり前だ。
主語「社会」というものが存在するのは当たり前だ。
主語「我々と奴ら」が対立して存在するのは当たり前だ。
と。
+ + +
・・・「私」とか「社会」とか、そういうものがそれ自体として即自的に実体として存在するのは「あたりまえじゃないか」・・・
と思われるかもしれないが、そういう「あたりまえ」を信じて疑えなくなることが主語的なものの「実体化」ということである。
もちろん、私たちの言語的思考は、主語を実体化することで、複雑で多様に変化する世界を単純化して理解して、深く考え込まずに出来合いの与えられた選択肢から選ぶことで満足できるようになる。
しかし、出来合いの選択肢から選ぶだけでうまくいっているうちは良いが、例えば、用意された選択肢のうちのいずれにも選びたいものがないとか、そもそも選ぶことができる権利のある主体(主語)として「私」が呼び出されていない(もともと呼び出されたが、途中から呼び出されなくなった)といったこともある。
例として妥当かどうかわからないが、激務激務で自分の体の健康のことも家族のことも一切無視して仕事に邁進することこそが「ビジネスパーソンとしての私」だと信じて疑わずに頑張ってきた人が、ふと体を壊したり、家族の介護をすることになったりした場合、いままで当然のように選べていたものを選び続けることができなくなったりする。そうした時に、人はしばしば途方にくれる。
この様に主語的なものが即自的に実体として与えられていると考えたり、そうした即自的実体としての主語的なものが「原因」になって、さまざまな「結果」を自動的に生じると考えたりすることは、うまくいくときと、うまくいかないときがある。
+ + +

複雑で捉え難い動きの多様な様相を、アクターのネットワークとして記述する
アクターネットワーク理論(ANT)は、物事のあり方を問い、その答えを探そうというときに、複雑に生じつつある事態を、何らかのあらかじめそれ自体として存在する静的な主語に還元して理解しようとはしない。
アクターネットワーク理論(ANT)は、「アクター」の「ネットワーク」を考える。
結合し、分離し、意味が変わる
このネットワークは、さまざまな主語的なもの(「社会」でも「人間」でも「もの」でも)たちを動的に結合し、そのつながり方を変化させ、その変化を通じて主語的なものたちそれぞれの意味もまた変容させていく「連関 association」、「関係性 relationality」である。
アクターのネットワークでは、「アクター」というものが「ネットワーク」に先行して、所与の即自的実体として存在するわけではないということになるだろう。
どちらかといえば「ネットワーク」の方が先行して、関連性を結合していったり、分離して行ったり、結びつけたり、切り離したりする多様な動きを動かしている。その動的な分離と結合のパターンの中で、諸々の「アクター」がその姿を現したり、消したりする。
もちろん、単にネットワークが先・主で、アクターが後・従、ということでもない。アクター自身による結合しに行ったり分離しに行ったりする動きが、ネットワークのパターンを編み変えていく。
アクター・ネットワークを、「アクターなる主語的なもの」と「ネットワークなる主語的なもの」という、所与の即自的な実体だとは誤解しないように注意したい。
*
今回のIAABの会で伊藤先生は、アクターネットワーク理論 (ANT) について、次の様に解説されている。
アクターネットワーク理論 (ANT)は「世界の真理を遠くから照らし出す理論」ではない。
アクターネットワーク理論 (ANT)は「私たちが「何とつながり、何と縁を切るか」を実際に選び直し、このごたまぜの世界を少しでも「住める場所」へと組み直していくための、極めて実践的な道具箱」である。
アクターネットワーク理論は、いわばそこから主語的なものたちが次々と発生しては、そのつながり方が変容していく関係の動き方、特に結合をする動きと、分離をする動きの動き方を、丁寧に観察し、記述する営みであると言えそうである。
言語で記述することが可能になるために
言語的意味分節が可能になるために
実際にアクターネットワーク理論を実践してみようと思うときには、主語的なものたちが次々と発生しては、そのつながり方が変容していく「関係」の様相を、言語を用いて記述していく必要がある。
この言語による記述というところが勘所になりそうである。
私たちの言語は、あいにくというか、残念ながらというか、仕方ないというか、主語と述語の組み合わせを基軸にして諸々の形態素が線形に配列されていくものである。
Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ
所与の実体を完全に固めてしまうことのないネットワークの動きを言語でもって記述しようという場合にも、その記述する言語には必ず主語的なものが含まれる。そして私たちは主語を立てて語った瞬間、その主語を所与の実体的なものだと思い込んでしまい、またそれをついつい別の主語的なものへと置き換えて行って、既知の実体に強く結合して動けなくしてしまおうとする傾向をもっている。
そういうわけで、アクターネットワークを言語的に記述しようという場合には、言葉の用い方、特に主語の用い方に細心の注意をはらうことが必要になるはずである。

主語を主語ならしめる
つながり方を、結合したり分離したりする述語を観察する
私たちは主語を、あるいは主語の位置に固まりやすい名詞的なものを、ことごとく排除して言葉を語ることはほとんど不可能である。
アクターのネットワークの動きについて言語で記述する場合にも、主語的なものは登場せざるを得ない。
ここで重要なことは、主語が「わるい」ということではない。
主語的なものを「固めたままにしない様に気をつける」ということである。
*
主語的なものを固めずに言語を使っていく。
一体なにをどのようにすれば、そのようなことを実践できるというのだろうか。
ここで、鍵になるのがアクターネットワーク理論に登場する「中間項」と「媒介子」という考え方である。
媒介子(mediator)
主語的なものが、諸アクターたちのうちのあるひとつの(あるいはいくつかの)アクターとして、アクターの関係を結びつけに行ったり、切り離しに行ったりすることでネットワークのあり方を動的に変化させていく様相を記述されるとき(述語的様相を呈するとき)、その主語的なものは「媒介子」であるということになる。

関係を結び直したり切断したりする
結果は事前に決まらない
ネットワークを動的に変化させる
中間項(intermediary)
一方、主語的なものが、諸項たちの関係を固定したものとして観察記述されるとき、この主語的なものは「中間項」と呼ばれるモードになる。主語的なものたちが「AはΒでΒはCだ。以上、おわり」といった具合に、言い切り型の置き換えの中に固められ、分離したり結合したりと関係を変容させていく「動き」があたかもまったく動いていないかのように観察、記述されるとき、そこではアクターの動的ネットワークは見えなくなり、所与の即自的実体たちばかりが動かない様に整列させられた世界が見えてくる。

変形・翻訳を行わない
結果が事前に予測可能
記述上は「A → B → C」で完結する
* *
主語的なものを浮かび上がらせる、述語的なことを観察し、述語的に記述する
ありとあらゆる主語的なものごとは、記述のされ方次第で「中間項」にもなれば「媒介子」にもなるのではないだろうか。
ポイントは、この"記述のされ方次第で"というところである。
*
“中間項を媒介子へ” の記述技法の可能性
ここで一つの試論として、「中間項」を動かして、「媒介子」へとうまい具合にモードチェンジできるような記述の仕方というものを考えてみよう。
それはすなわち、主語的なものを見つけ次第、片っ端からその動き方、その主語が否が応でもその語りや記述の文脈で巻き込まれている、述語的様相に注目し、この述語を動詞的な言葉で表現してみるということである。
そして特にこの動詞的な言葉たちを、「結合する」系統の動詞と、「分離する」系統の動詞に整理して行ってみる、ということである。
ある主語的なものがぽんと登場したとき、その主語的なものが、その記述の文脈において、どのような「結合する系」の述語的様相にあるのか、あるいはどのような「分離する系」の述語的様相にあるのか、といったことを観察して、その様子を動詞を筆頭とする述語的な様相を記述できる語でもって、特に「分離する」、「結合する」という動詞を強く意識しながら記述してみるのである。

+
述語的なことと、「記述すること」を可能にする意味分節システムの発生
私たちが何かについて言語でもって記述するとき、そこには必ず主語的なものが登場し、その主語的なものと結合した述語的なものも出てくる。
私たちが、ある主語的なものを別の主語的なものへ、迷いなく滞りなく、直結していくように言い換えていくことで、主語的なものは固まった様に見えてしまう。
そうしてネットワークの動きの中からその主語をその主語として仮に出現させている動的なプロセスのことはすっかり見えにくくなってしまうのであるが、しかし逆に言えば、この主語的なものを、別の主語的なものへと短絡直結する様な言い方、「AはΒである」式の記述方法を少々沈黙させることができるなら、そこに自ずと、Aの述語的様相の震えが、ゆらゆらと浮かび上がってくる。
主語的なものAを、経験的に常態化している置き換え先の主語的なものΒへと言い換えたくなるところを頑張って沈黙させて、代わりに、主語的なものAが、自らに続く可能性のある述語をあれでもないこれでもないと探索しつづけるモードに励起するのである。
・・・・なんのこっちゃと思われるかもしれないが、ちょうど良い事例があるので紹介しよう。レヴィ=ストロースが『神話論理』で分析しているような神話たちの言葉である。
ラトゥールの話をしているところに、レヴィ=ストロースを持ってくると、フランスの思想史、特に人類学系の思想の系譜における両者のつながりはどうなっているのか気になるところであるが、そこは素人の私にはまったく手に負えない話題なので一旦置いておく。
ここでは単に、主語的なものを別の主語的なものへ短絡していく、という思考法ではなく、主語的なものを分離したり結合したりする述語を探索する思考法というものが有用であり、それを開発する上で「野生の思考」の神話の論理が手がかりになりそうだ、ということを論じてみたい。
+
主語的なもの同士を結合したり分離したりする述語的な言葉の例としての神話の語り
神話の語りとはどういうものか、一例を挙げてみよう。
造化の神のメネブシュは狩りに行ったが獲物を捕れずに帰ってきた。
祖母のノコミスとともに荷物をまとめ、さらに遠くに行き、あるカエデ林の中に居を定めた。
祖母は樹皮で容器を作り、濃いシロップのように流れ出ていた樹液を探った。メネブシュは喜んでそれを飲んだが、こんなに簡単に採集ができてしまっては、 人間たちがなまけものになってしまうと、文句を言った。
*
人間たちは樹液を後日も幾晩もかけて煮詰めるようさせた方がよい、そうすれば、それに専念して、悪い習慣を身につけることがないだろうから、と。
彼は、木のこずえに登って手を振った。そこから雨が落ち、シロップは薄まり樹液となった。こういうわけで人間は糖を食べたいと思ったときには、一生懸命働かなければならなくなったのである。
*
そののち、メネブシュは驚いたことに祖母が色っぽくなったのに気がついた。祖母を見張っていると、クマと交わっているのがわかった。
メネブシュはよく乾燥したカバノキの樹皮をとり、それに火をつけ、このにわか仕立ての松明をクマに向かって投げつけた。
下腹部にやけどを負ったクマは火を消そうと川に向かって走ったが、 たどり着く前に死んだ。メネブシュは遺骸を祖母のところに持っていった。
祖母はそのおぞましいものの受け取りを拒否した。そこでメネブシュは祖母の腹に血の塊を投げつけた。祖母は、これからは女たちは毎月、さわりに見舞われ、固まった血を産むことになろうと宣言した。
メネブシュはというと、彼はクマの肉をたらふく食べ、 残りは捨てた (Hoffman, p. 173-175)°
M501β メノミニー カエデ糖の起源(二)
さて、この神話から、主語的なものたちの述語的様相に着目して言葉を拾っていこう。
まずはざっと動詞を抜き出してみると、
行く
捕れない
帰る
荷物をまとめる
さらに行く
居を定める
作る
探る
流れ出る
飲む
文句を言う
なまける
煮詰める
専念する
登る
手を振る
雨が落ちる
薄まる
働く
食べたいと思う
といった具合である。
特に、
共に行く(メネブシュ+祖母)
居を定める(人+場所)
木が樹液を蓄える
飲む(神+樹液)
人間が糖を食べる
といったところは「結合する」系の述語である。また、
捕れずに帰る(狩猟と食物の断絶)
文句を言う(即時摂取への拒否)
煮詰めさせる(時間と労力の挿入)
登る/手を振る(地上からの離脱)
雨が落ちる(希釈)
シロップが薄まる(即物的結合の破壊)
といったところは「分離する」系の述語である。
+ +
これらの分離する述語と結合する述語が織りなす諸項を繋いだり分けたりする動きを意識しながら、この神話をみてみよう。
まず、この神話の冒頭「造化の神のメネブシュ」という主人公、主語的なものが出てくる。
ここで私たちはついつい「メネブシュって誰??」という問いを立てたくなるし、AIに尋ねたり、ネット検索したりするなどして、
「メネブシュとは、(xx主語的なもの2xx) のことである」
といったパターンの記述を見つけては、「なあんだ、メネブシュは、"(xx主語的なもの2xx)"だったのかあ」と思って納得した様な気分になりたくなるのであるが、そういうのは上述した通りの主語的なものを主語的なものに短絡結合していくやり方であり、アクターがネットワークを結合しに行ったり分離しに行ったりする動きを見えにくくしてしまう可能性がある。
ここは「メネブシュって誰??何?」という疑問を抱きつつ、とりあえずその言い換え先を探すことは中止して、先にこの「メネブシュ」の動き方、その述語的様相が、どのように記述されているかを観察してみよう。
取れずに帰ってくる
獲物からの過度な分離
この神話の冒頭「メネブシュ」は「獲物を取れずに帰ってきた」のである。この「獲物を取れずに帰ってきた」というのが述語的様相である。
ここでは、
狩猟者 / 獲物
この二項対立が浮かび上がってくる。
しかし、この狩猟者は獲物を取ることができない。
狩猟者が獲物を「取れる」とき、狩猟者と獲物は「結合」する述語的様相にある。
しかし狩猟者が獲物を「取れない」時、狩猟者と獲物の間は、遠く分離される。しかもいつもいつも何度狩に出ても「取れない」となると、その分離は過度な分離である。
狩猟者← / →獲物
この様相を仮に
β ←ーーー / ーーー→β
と、記号化して書いておこう。

祖母と男の孫のふたり旅
過度に結合しつつ、もといた地点から分離する
次の場面で、造化の神のメネブシュは、その祖母「ノコミス」と二人一組になって連れ立って、「遠くへ」の旅に出る。
まず、遠くへ旅するということは、もともと居た地点から分離して、もともと離れていたところへと結合しにいく、という動きである。
あちらと分離しこちらと結合する。この動きを担う主語的なものが、二人一組の祖母と孫のペアになっていることに注目しよう。
神話の言葉は主語を二人一組にする
磁石の同極を無理にくっつけるように
神話が分離と結合の述語的様相を語る時にも、その語りが言語である以上、主語的なものを引っ張り込まずには居られないのであるが、この主語の所与の固まった実体としての重さに引きずられて述語的様相が止まってしまわないように、あえて主語を、ちょうど磁石の同極を無理にくっつけようとしているような具合に、強く反発しながらも強く結合されている、といった状態にある二即一にして一即二のペアを持ち出してくる。
神話の語りでは、特にその冒頭、前半部では、主語が「二人一組」になっていることに注目しておこう。そのペアは、姉妹だったり、夫婦だったり、太陽と月だったり、あるいは祖母と孫だったりする。
この神話の場合の祖母と孫の男子は、遠く分離していると同時に近く結合している、分離すると同時に結合している、分離と結合という対立する二極のどちらか不可得な状態を作り出すペアである。
*
経験的に男/女は、「結婚」という述語的様相を呈することによって、ネットワークを結合していく動きを引き起こすことができる。述語的様相「結婚」によって、もともと分離していたところを結合したり、適度に結合しながら同時に適度に分離したりと、分離と結合を均衡させることができる。
つまり「結婚」することができる場合に限り「男/女」という対立関係は、分離と結合の対立関係を現実に、付かず離れずに均衡させることができる。
ところが、祖母と孫の男の場合、この二人は男女ではあるが、結婚することはできない男女である。つまり、結婚するという述語的様相を呈することができる男/女間の距離に比べると、祖母と孫の述語的様相は過度な分離を保とうとする傾向にある。
男←←←←←←/→→→→→→女
ところで、なぜ祖母と孫が結婚できないかと言えば、いうまでもなく祖母と孫はそもそも血縁があるからである。孫は祖母の子供の子供であり、二人は親/子系統の関係においては極めて「近い」関係にもある。
祖母→/←男の孫
この両者の間には、近すぎる故に遠くなる、という関係、家族か非家族かという軸上で過度に結合しているが故に、結婚できるかできないかという軸上で過度に分離する関係がある。

夫/婦を横の関係
と置いてみると、「祖母」と「孫の男子」との関係は、
縦方向を短絡結合し、横方法を遠く分離する
このようにある軸上では過度に分離し、別の軸上では過度に結合するという、過度に分離したり、過度に結合したり、伸・縮を同時に体現するような存在が、神話の論理を動かしていく。
神話の論理を分離と結合の述語でモデル化する
人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである。
Δ / Δ
|| ||
Δ / Δ
例えば、
人間 / 動物
|| ||
服を着る / 服を着ない
*
「野生の思考」は、この意味分節の最小単位となる四項を付かず離れずに結合しつつ分離する「/」と「||」の動きに注目する。そして「/」と「||」の動きが、Δ二項対立とその重ね合わせを発生させる(起源)動きのことを思考する。
このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておく。
このことが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

この「/」と「||」の動きを説くために、神話として現れた「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けるように動いたりつなぐ様に動いたりする四つの媒介者たちを登場させる。
先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ動きを演じる媒介項である。
/
|| ||
/
↓
β
β β
β
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する
両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり
両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。
いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。
神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
*
上の神話でいう、祖母と男の孫の二人だけで結合したペアは、分離/結合、というマンダラを描く伸縮運動の様相そのものを捉えることができる極基本的な分別、二項対立をめぐって、「ある対立(男/女)については過度に分離しているが、別の対立(同じ家族/違う家族)については過度に結合してもいる」という状態を言えるようにしている。これを分離と結合の対立に注目してみると、「ある軸では分離しているが、他の軸では結合している」様相が見えてくる。

夫/婦を横の関係
と置いてみると、「祖母」と「孫の男子」との関係は、
縦方向を短絡結合し、横方法を遠く分離する
つまり下図で「分離していること」をΔ1に、「結合していること」をΔ2に置くとすると、祖母と孫の男のペアは、このΔ1とΔ2のあいだを伸縮するように動き回るβ1の役割を演じていることになる。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり
任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり
2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり
という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

獲物と過度に分離するならば、
代わりに、何かと過度に結合するはず
先ほどの神話に戻ろう。
β1が祖母と男の孫が一体化したセットだとすると、このβ1をβ1として、「非β1ではないもの」として区切り出す動き・述語的様相が必要になる。
この動きを神話の語りの中にたどるためには、β1の反対側に非β1(β2〜β4のいずれでも構わない。β項たちは互いに変容し変身し、四即一にして一即四に伸縮するので、どれをどこに配置しても図式的には変わらない)を見つければ良い。
β1 ←/→ 非β1
それがどうやら「獲物」である。
この神話の冒頭で、主人公=男の孫である「造化の神のメネブシュ」は、その獲物と過度に分離していることが強調されている。
狩猟者と獲物の関係は、結婚する男女と同じように、経験的には付かず離れずに均衡している。つまり過度に結合しているでもなく(獲物になりそうな動物が、呼べばあちらから歩いてくるほど取り放題、ということはない)、過度に分離されているでもなく(全く獲物が取れないということでは、そもそも人間は生きていかれない)、もともと分離しながらも適宜結合できる、付かず離れすの関係にある。
狩猟者 / 獲物
この付かず離れずであることが経験的には正解である関係が、過度に分離されているのがこの神話の冒頭である。
β1祖母+男の孫 ← ー / ー→ β-1獲物たち
そうして「β1祖母+男の孫」のペアは、もともとの狩場、すなわち「β-1獲物」たちが潜在的にいるはずの場所から、わざわざ「遠い」ところへと移動していく。
β-1獲物がβ1主人公たちから分離するように、β1主人公たちの方もβ-1獲物あから分離していく。
食べられるものとの過度な分離から過度な結合への急転換
さて、獲物との分離の果てに、β1祖母と孫の男子のペアが行き着いたのは「カエデの林」であった。そこは加工も調理もせず、自然状態のまま食べることができる樹液、メイプルシロップが溢れ、飲み放題になっていた。
祖母は樹皮で容器を作り、濃いシロップのように流れ出ていた樹液を探った。メネブシュは喜んでそれを飲んだが、こんなに簡単に採集ができてしまっては、 人間たちがなまけものになってしまうと、文句を言った。
β1祖母+男の孫 β-1獲物
|| ← ー / ー→ ||
β1'カエデの林 ーーーーーー
このカエデの林では、先ほどの獲物の取れなさとは「逆」の述語的様相が浮かび上がってくる。
カエデから「濃いシロップのような」樹液が飲み放題とばかりに溢れ出ていたのである。獲物とは過度に分離されたβ1祖母と男の孫であるが、カエデの樹液とは過度に結合されている。
β祖母と孫と過度な分離 / β祖母と孫と過度な結合
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β獲物との過度な分離 / βカエデの樹液との過度な結合
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過度な結合・過度な分離から、つかずはなれずの均衡へ
神話の語りは、この分離したり結合したりする振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)方向に向かう。この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスすることで、分離と結合が「過度」ではなくなる様にするのである。
この動きもまた、分離し過ぎたところを結合する述語や、結合しすぎたところを分離する述語によって記述される。
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登場人物たち、主語的なものたちを結びつけたり引き離したりする述語の様相の、拡大と収縮の速度は限りなく減速していくと、β項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。

樹液を薄める
食べ物との過度な結合を、適度な分離と結合の均衡へモード転換する
この神話の場合、β項を四つに分けて正方形を描くよう、付かず離れずの距離感に均衡させる最初の動きは、主人公の「こんなに簡単に採集ができてしまっては、 人間たちがなまけものになってしまう」という言葉にあらわれている。
簡単に採集できるということは、採集者と採集対象物とが過度に結合していると言うことである。この過度な結合をやめて、付かず離れずの距離に引き離して置かなければならない、と、この主人公=神はいう。
人間たちは樹液を後日も幾晩もかけて煮詰めるようさせた方がよい、そうすれば、それに専念して、悪い習慣を身につけることがないだろうから、と。
彼は、木のこずえに登って手を振った。そこから雨が落ち、シロップは薄まり樹液となった。こういうわけで人間は糖を食べたいと思ったときには、一生懸命働かなければならなくなったのである。
そうしてこの主人公=神は、「木のこずえに登」り、「手を振っ」て、つまり天/地の対立二極の間を引っ張り寄せて結合して、そうして天から地へ、「雨」を落とさせた。
天
↑手を振る↑/梢/ ↓雨↓
地
天/地という、分離した二極の間で「手を振る」「雨が落ちる」という述語的様相を展開させて、これにより、天地のあいだを過度に分離したあり方から、付かず離れずに結合した状態へと転換する。
天/地のあいだが付かず離れずに、過度に分離するでもなく過度に結合するでもない様相に落ち着いたところで、人間と食糧のあいだもまた、過度に分離するでもなく過度に結合するでもない様相に均衡する。

こうして過度に濃厚な神話的なシロップは薄まり、人間が経験的に知っている加工することではじめて濃縮されるカエデのシロップ(Δカエデのシロップ)が起源したのである。
ここに過度に結合しているでもなく、過度に分離しているでもない、人間と自然由来の食べ物との付かず離れずの関係が、現実の経験的世界がそうなっているような、人間とメイプルシロップの関係が始まるのである。
Δ人間 / Δメイプルシロップ
+
過度な分離や過度な結合で、経験的感覚的な主語的なもののあり方を解除する
ここで注意しておきたいことは、β祖母と男の孫が最初にたどり着いた時点での「カエデの林」のカエデは、カエデという名詞で呼ばれてはいるけれども、今日現在私たち人間が経験的感覚的に知っているあの「カエデ」ではないということである。
ここを閑却して、β脈動モードにある主語たち(カエデでも祖母でも)を、ふつうの現世の経験的感覚的なカエデや祖母のことだと思って読んでしまうと、神話は単にわけのわからないものになってしまう。
βカエデかΔカエデか。
いや、二者択一の「どちらか」という頭の働かせ方はひかえよう。
Δカエデからβカエデへ、そしてβカエデからΔカエデへ。
このぐにゃりとずれる不思議な不可得感と、思考する私の心とを、共鳴するようにチューニングしておくのである。
このチューナーの感度を鋭敏にするのが、主語的なものたちが、他の主語的なものたちと、過度に結合しようとしたり、過度に分離しようとしたりする「動き」の述語的様相を観察することなのである。

付かず離れずの 天/地
付かず離れずの 狩猟者/獲物
マンダラ状の均衡へ
さて、雨のおかげでカエデの樹液は薄められたので、次に造化の神のメネブシュが行うべきことは、β項たちの過度な結合と過度な分離の動きが見えない様にして、現世の経験的な意味を安定化することである。すなわち過度に結合しているところを分離して、この分離を固定すること。過度に分離しているところを適度に結合して、この結合を固定することである。
Δ / Δ
この神話で最も目立つ「過度に結合しているところ」は、造化の神のメネブシュとその祖母の関係である。この二人の関係を分離し、また容易に過度な結合に転じないように引き離しておかないといけない。
この分離、この神話では、端的に祖母の異種間「結婚」話として語られる。
そののち、メネブシュは驚いたことに祖母が色っぽくなったのに気がついた。祖母を見張っていると、クマと交わっているのがわかった。
祖母は、メネブシュから分離して、家族外の男と「結婚」をする。
もともと過度に結合していたところから分離して、もともと過度に分離していたところと結合する。この伸縮の激しさ。
ただしこのくだりでは、まだ祖母はβ祖母である。つまり私たちが祖母という主語でもってイメージするような、おばあちゃんではない。
β祖母はΔ老/Δ若の区別さえ超えた高振動モードに励起された存在である。
この祖母の結婚相手となる男、それは人間の女性が経験的感覚的に結婚するΔ人間の男ではなく、動物の男、クマである。
動物と人間は、結婚という関係においては、経験的感覚的には遠く分離されている。
この分離を短絡するように、人間と動物の結婚、つまり過度な分離を過度な結合に転じる様相が語られる。
したがってこのクマもまた、我々がよく知っている経験的なあのクマではなく、神話論理が伸縮させるβクマである。
ところでこのβクマ、すぐに主人公によって、火で炙られて、焼肉にされる。そしてもちろん、βクマとβ祖母との「結婚」(過度な分離から転じた過度な結合)は、すぐさま過度な分離に転じる。
獲物との付かず離れずの関係のはじまり
この神話の冒頭の述語的様相は、主人公と獲物との過度な分離であった。
それがこの神話の終わりでは、主人公と獲物の間が付かず離れずに均衡するのである。
人間 / 獲物
メネブシュはよく乾燥したカバノキの樹皮をとり、それに火をつけ、このにわか仕立ての松明をクマに向かって投げつけた。
下腹部にやけどを負ったクマは火を消そうと川に向かって走ったが、 たどり着く前に死んだ。メネブシュは遺骸を祖母のところに持っていった。
メネブシュはクマに「火」をつける。
β「乾燥したカバノキの樹皮」にβ「火」を結合して、これをβ祖母と結合しているβ「クマ」に結合する。
ここで四つのβがぎゅっと凝縮する。
+
そしてここが、「料理の火」の始まり、生血が滴る野生の生肉とこんがり調理された肉料理とを分別することの始まりである。
そして料理の火の始まりこそが、自然と文化の分離と結合の均衡の始まりでもある。

*
「自然」と「文化」が付かず離れずの世界へ
このクマ、火がついた状態で「川」の水に結合し、そうして火を分離しようとするが、この火と水の短絡には失敗する。火と水は短絡されず、つまり経験的感覚的な火と水の対立が確定されたといえよう。
さて、ここでメネブシュは、クマの「遺骸」、というが要するに火で調理された肉料理を回収し、祖母と一緒に食べようとする。
祖母はこのクマ肉ステーキを食することを拒否する。
祖母はそのおぞましいものの受け取りを拒否した。
そこでメネブシュは祖母の腹に血の塊を投げつけた。
祖母は、これからは女たちは毎月、さわりに見舞われ、固まった血を産むことになろうと宣言した。
メネブシュはというと、彼はクマの肉をたらふく食べ、 残りは捨てた。
ここはかなり激しく分離と結合が伸縮するところである。
神話の語りの最後で、一挙に分離と結合の均衡をもたらそうとしているようである。
まずβ祖母は、火で調理されたクマの肉を拒む時点でなお、「火を通した料理を食べる者」、つまり経験的な現に存在するΔ人間になることを拒んでおり、β脈動し続けている。「火を通して調理されたもの」を食べることから分離するこの祖母は、Δ人間ではなく、β人間である。
*
ところが、このβ脈動する祖母に、「血の塊」が投げつけられ、これが祖母の身体に過度に結合する。
この「血の塊」は、文化に対する「自然」の結晶たるβクマのうち、火を通されなかった部分である。
野生の血の塊 + 祖母の身体
祖母は火で調理された文化的な料理「食べる」という様式ではなく、自然的な血をその体に「つける」という様式で、このクマ、野生の自然との付かず離れずの関係を獲得したのである。そして、このクマ(の野生の血)とβ祖母の結合をきっかけとして、女性の生理が始まる、つまり人間が子どもを産むということができるようになる。硬い分別に固着しがちな「文化」と「自然」の区別に対して、「文化」の中に、生命の「自然」の過程そのものである、新しい命を産むことができる可能性が結びつく。
食べること、産むこと
文化の中の自然、自然の中の文化
自然由来のものを火を通して食べることと、人間が子供を産むことができることは、どちらも自然/文化を区別しつつ、その間に一方から他方への通路を開くことである。人間は自然と文化を区別し、文化の側に閉じこもろうとするかもしれないが、「食べる」や「産む」ところでは、人間は自分の身体がやはり「自然」の生命であることを思い出すのである。そしてこの自然の生命として生き、次代へと命を継いで行くことにより、非自然たる文化もまた再生産されることが可能になる。
*
この神話では火を通して食べることと、出産できることとが可能になったと語ることで、自然と文化という経験的に意味ある世界を分節する基本的な対立関係を分離しながらも結合し、結合しながらも分離する、均衡状態へともたらしたのである。
Δ自然 =/= Δ文化
自然と文化の二項対立も、他の二項対立と同様、分離されると同時に結合されなければならない。
Δ二項関係は、付かず離れずである。この自然と文化の結合の様相のひとつが、人間が新たな生命、子どもを産むことができる、ということになる。
βクマ(の野生の血) + β祖母
↓
Δ子供を産むことができる人間
いままで散々「祖母」「男の孫」と書いてきたので、ごく普通に、経験的なΔ人間のΔ家族関係の話をしているようにみえていたが、改めて、この祖母は人間のおばあちゃんではない、β祖母だったことに注意を喚起しておこう。
食べ残し?!
全部食べない=獲物と過度に結合しない
ここで神話の最後の一文に至る。
メネブシュはというと、彼はクマの肉をたらふく食べ、 残りは捨てた。
残りは捨てる!
現世的には「もったいない!」と言いたくなるところであるが、見事な神話の論理である。
クマ肉ステーキは、「食べられた部分」と「食べられなかった部分」に二分される。
分ける述語と結ぶ述語が、続々と溢れていく。クマを狩ってステーキにすることができるΔ狩猟者となったメネブシュは、思い出してみればもともと、獲物を狩ることができなかったのである。しかし、このクマが最初の獲物になった。
そのクマの肉を、たらふく食べるも、しかし「残りは捨てる」。
なんともったいない!と思うが、ここはまだ神話の最後である。Δ現世の常識を持ち込む前に注意して分離と結合を伸縮させよう。β男の孫メネブシュとβクマのあいだには、付かず離れず、分離しながらも適度に結合し、結合しているがちゃんと分離する、という関係を均衡させたいのである。そうしないと、Δが安定的に析出される余地が潰れてしまったり、広がりすぎて行方不明になったりする。
そう言うわけでβ男の孫とβクマのあいだに、一部を食べ残す、と言う形で、食べるが食べない、結合してもいるが、結合してもいる、という関係が結ばれるのである。世界を創造する食べ残しである。逆に食べ過ぎてしまったら、その述語的様相は、カエデの蜜が濃厚で飲み放題というのと同じ様に、過度な結合になってしまう。
伸縮する述語的様相が背景に退き、実体化した主語が前面に静止する
二つのβ項が結合したり分離したりするその振れ幅のあいだに、Δ項が、経験的感覚的に分別された二項対立関係の両極をなす項が、その存在を現す。ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
そこにΔ項が浮かび上がってくる。
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。

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神話にみる主語と述語の精妙な関係
さて、ここで主語と述語の関係を考えるうえで、ちょうどよい教材が揃ったことになる。
神話では、冒頭から名前を持った主人公の「男の子(あるいは狩が下手な若者)」が登場し、またその「祖母」という人物が登場し、さらには「クマ」が登場したりする。これらはみな主語的なものたちであるが、それが何であるかは、他の経験的な主語的なものに置き換えようとしたところで、なんだかよくわからないものばかりである。
つまり神話の語りでは、主語的なものたちが、経験的には「ありえない」と思われるパターンで過度に結合したり分離したりする。そうして端的に「なんだかよくわからないもの」になっている。
そこで主語的なものの固さ、即自的実体として固着性が緩みに緩んでいる。
その代わり、その緩くなった主語的なものたちどうしの間を結合したり、分離したりする動き、述語的様相のほうが際立って見えてくる。
この述語的であることを実践しようとする時、それがどういう具合に動くのか、下記の有洲さんの記事に書かれていることも参考になる。
+ +
主語的なものたちを「中間項」に落ち着かせてしまわずに「媒介子」として、他のアクターたちと結合しに行ったり分離しに行ったりする動きとして記述しようというときに、主語が謎のまま、繋いだり(=結合)、切り離したり(=分離)する述語的様相を言語化していく神話の論理は、アクターネットワーク化の記述の方法にそのまま使うことはできないかもしれないが、何かのヒントになりそうに思える。
関連記事
今回ご紹介した神話は上記の記事で以前に分析したものです。
主語的なものを浮かび上がらせる伸縮する述語的なものの論理を「マンダラ」でモデル化する。そのエッセンスが凝縮された空海の『吽字義』については下記の記事をご参考にどうぞ。
レヴィ=ストロースの神話公式も、分離したり結合したりする述語の動きをモデル化したものとして読める。
分離する、結合する、述語の様相に注目することは「夢」に現れる私たちの無意識の動きを分析する際にも使えそうである。
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