【マンダラ夢分析】海外の空港で拘束され、大混乱のライブ会場へ連行される夢 〜経験的感覚的様相を伸縮させてマンダラを動かす驚異の実例
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界というのは、心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動のパターンが、表層意識の一番底に、その底面の平面に写像されたパターンである。意識化できない深層の動きのパターンが意識が自覚的な相に浮かび上がってきた最初の姿こそ「マンダラ」である、と考えてみたい。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

これがなぜ「四」角形なのかといえば、それは人間の「心」の一番底がちょうど四角形を浮かび上がらせるように振動しているからである、ということになろう。
生命体としての私たちは諸々の感覚から器官、細胞ひとつタンパク質ひとつに至るまで、じつに微細な分別(特定の刺激の有/無を分けること)を無数に行っている。
=/=
これらの分別を連鎖させ、束、共鳴させ、フィードバック・ループのようなものをつなぎ合わせていった先に、私たちが「心」として経験していることが出てくる。ここである一つの分別を、他のもう一つの分別に重ね合わせて観察したときに(カップリングさせたときに、共鳴させた時に、同期をとったときに・・)、分別の分別、二項対立関係が二つ重なり合った「四」がでてくる。
この「四」は分別と分別にカップリングの仕方次第で無数のパターンがあり得る。空海が『十住心論』の第十住心について書いている曼荼羅の各各に「四種曼荼羅あり」、というところである。人間の「心」が動く時、無数の「四」が出てくる。微細な四から粗大な四まで、無量無数に。
視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
このマンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージなる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。
例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)で繰り広げる分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。

伸縮する述語
この動きは、夢の中で、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる。『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、運動、動き、動き方のパターン、つまり「述語」によって記述される出来事である。
以前、この「述語」的様相に注目して、ユングによる「パウリの夢」の分析を読んでみた。一連の記事は下記にまとめて掲載している。
神話論理と夢分析
マンダラは「神話」の語りとして、神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語化されることもある。
神話の場合は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだΔはない。端的にない。存在しない。何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず図1で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。一方、あくまでも言語による表現を追求する神話では、「登場人物」たちの行動に託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離するという動きをあらわす。
この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験敵に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。


私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを「夢」のビジョンにもみることができる。
おそらく人気があるのであろうバンドの海外公演に行く夢
以上を踏まえ、ある夢を分析してみよう。
今回の夢見手は私自身である。
少々長くなるがまず全文を示す。
夢
私は仕事で外国の空港に来ている。東アジアの某国らしい。
私は、空港で入国審査を受けようと行列に並ぼうとする。
すると突如、その国の官憲(黒い制服に「公安」と書いてある)がぞろぞろと現れ、私を拘束する。私は身体を押さえつけられ、連行される。
私は公安車両に乗せられ、どこかへ運ばれる。
外の様子も見えず、「終わった」と思う。
やがて公安車両はどこかに到着する。
車から降りるようにその地の言葉で命じられる。
私はその地の言葉を理解することはできないが、自動小銃を突きつけながら怒鳴ってくるので「車両から降りろ」と言われているであろうことは推測できる。
公安車両を降りてみると、そこは巨大なスタジアムの駐車場であった。
私はこの場所が、この日の私が向かおうとしていた仕事先であると気づく。
この日の私の仕事先は屋外の競技場のようなところである。
この日、この会場で、日本のとあるミュージシャンがライブを行う予定であり、私はこのイベントに関する仕事でこの地に来ている、ということを思い出す。
とすると、空港で、私はならず者として拘束されたのではなくて、逆に特別待遇で入国審査さえスルーして、最速で入国させてもらえたのかもしれない。公安車両も、私を拘禁施設に連行していたのではなく、親切に仕事先まで送迎してくれたのかもしれない。
いずれにせよ言葉があまり通じないのでよくわからない。
*
スタジアムの入り口は人、人、人で溢れている。
かなりの狂乱状態であった。
事故でも起きないかと心配になるほどである。
スタジアム入り口の広大な敷地には、何色かに色分けされて塗られた通路がひかれている。周囲の現地の人たちの動きをみていると、どうやら持っているチケットの種類に応じて、何色の線の上を並んで歩くか、決められているようだ。
周囲には武装した官憲が警備に立っており、少しでも自分の歩くべき色の線から脱線したり、自分の歩くべき色の通路ではないところを歩いたりする者を見つけると、激しく罵倒し、銃床で殴りつけてたりしている。
楽しい音楽イベント会場にしては実に殺伐としているなあ…と私は思うが、あまりにも人が多く混み合っているので、それくらい厳しくしないとダメなのだろう、と妙に納得する。
*
私も、自分が手にしている入場券に対応する色の線に従って、長い行列の中を進んでいく。
人混みに流される形で、どこへ向かっているのかもいまいちよくわからない。しばらく進むと階段があり、アリーナ席に登ることができた。
ぞろぞろと、無事に階段を登り切り、広いアリーナのに出る。
私はアリーナから、ステージの方を見ようとして驚く。
なんとステージは、アリーナ席のはるか下の方にある。
アリーナ席は階段状にはなっておらず一面のフラットな平面なのであるが、この平面がステージよりもはるかに高いところに設置されている(普通、アリーナ席といえばステージより低い位置にある。そうであるからこそ、アリーナのみんなで見上げるようにしてステージを見ることができるのである)。
この「アリーナ」は単に高いところに設置された一面の平坦な台であった。これでは、アリーナの最前列で下を見下ろすことができる人以外は、ステージで何が行われているか全くわからない。
ひどく準備不足のイベントだなと思う。
*
相変わらずすごい人で、ぎゅうぎゅうと押し潰されながら、何が起こっているのかわからないまま呆然としていると、何やら大きな音が聞こえてくる。
ライブが始まったらしい。
当然、何も見えない。
しかも雑踏があまりにガヤガヤと騒がしく、ミュージシャンの演奏もほとんど聞こえない。
+ +
すると突然、アリーナ台の前の方から悲鳴が聞こえてくる。
悲鳴と共にアリーナ席の前方でステージを見ていた人たちが、大慌てで後ろへ押し寄せて、階段の方へ殺到しようとする。
なんという混乱だろう、これは大事故になるな、と思いつつ、前の方が空いてきたので、私はひとり、みんなとは逆に人波をかき分けつつ前へ前へと向かう。
おもしろいことに人は非常に多いのだが、みんなぶつかっても特に痛いとか、突き飛ばされるとかいうことはない。物と物の衝突による反発はないのである。砂が混じり合うように、ごちゃごちゃになりつつ不思議と衝突なく移動できる。
わたしはようやく、アリーナ観客台の最前列までくる。
ついにステージを見下ろすことができる。
そこには驚くべき光景が広がっていた。
*
動く歩道というかベルトコンベアマシンをぐるりと円形に繋いだような、真っ黒で光沢のある巨大な機械仕掛けがステージを大きく取り囲んで動いている。動く歩道はかなり高速で動いていて、演奏中のバンドはその歩道上で激しくドラムを叩いたり、ギターを振り回したり、マイクに向かって怒鳴っている。そして恐ろしいことに、このぐるりと円を描く動く歩道は、綺麗な円を描いているのではなく、巨大な蛇のようにのたうち回っている。
巨大な機械仕掛けのウロボロス!という言葉を思いつく。
のたうち回る動く歩道様の巨大機械は正円を描いたかと思うと、ぐにゃりとつぶれたり、∞記号の形に捻れたりと、ぐにゃぐにゃ動く。そしてうねりながらこちらへ、アリーナ舞台の方へと迫ってきている。
なるほど〜、これで前方の観客たちは、おそろしくなって逃げ出そうとしているのだな、と私は冷静に思う。
私は特に驚かず、逃げる人たちの流れに逆らって、アリーナの前方にあるスタッフ用の仮設足場を使ってステージの方へと降りていく。
階段を降りて、円環上の動く歩道がのたうっている方へと向かう。
ここでふと思い出す。
私はこのイベントの、この巨大な機械仕掛けの舞台装置に関するエンジニアであって、この動く歩道を安全に止める方法を知っている!
*
階段を降りてステージへ向かう途中、ここでも地面に、例の指定された色のラインが引かれている。ここで困ったことに気づく。私のもっているチケットの色を辿って行ったのでは、スタジアムの中心ののたうつ動く歩道の方にはたどり着けない。
こういう場合、色のラインなど無視して突き進めば良いはずであるが、先ほど、線を逸脱して歩いていた人たちが警備兵に殴られていたのを見ているので、どうしようかなあ、嫌だなあ、と思い、しばらく眺めている。
しかし、ウロボロス機械はますます激しく暴れ、アリーナを破壊し始めているし、逃げ出そうとする観客で大混乱になってきたので、流石にこれはまずいだろう、と思う。
この状況で動く歩道のウロボロス機械を止めることができれば、感謝されることはあっても、連行されて二度と帰ってこられないことにはならないだろう…、いやいや、言葉が通じない外国のことだから、やっぱりダメかもしれない。などとあれこれ考える。
*
よくみると官憲の皆さんも混乱して、呆然としており、誰も私のことなど気にしていないらしいということがわかる。
わたしは、何食わぬ顔をして決められた道を示す線を踏み外してステージに向かう。
官憲には何も言われない。
そしてのたうつ円環状の動く歩道の真横まで到着する。
のたうつウロボロス機械の上で、あいかわらず絶叫しながら歌唱しているバンドの姿を見て、私はそのバンドが、私があまり好きではないグループだと気づく。
「こんな状況になっているのに、歌い続けているなんて」と呆れる。
私は、のたうつ機械の下の空間に入ってって(ちょうど舞台の下、舞台装置の仕掛けがいろいろ置いてあるところである)、そこにある配電盤をあけて、非常停止ボタンを押す。
のたうつウロボロス機械は止まる。
そこで夢は終わる。
妙に疲れたが、なかなかおもしろい夢であった。
この夢について、「述語」に注目して、特に伸縮、伸び縮みする動きに関する述語に注目しながら分析を進めてみよう。
外国への旅立ち
元々結合していた場所からの分離
元々分離していた場所への結合
外国に行くということは、経験的感覚的にふだんいつもいる場所から遠く分離していき、逆に普段は遠く分離しているところへと結合していく、ということになる。もともと結合状態にあるところが分離状態に転換し、もともと分離状態にあるところが結合状態に転換する。これが旅が私たちの心をふるわせる理由であろう。
さて、この夢では、私は外国に入国したところで、いきなり官憲に拘束される。なにか入国の書類に不備があったのか、それとも私の名前がこの国のブラックリストに載っていたのか、理由はわからない。言葉が通じないからである。理由はなんであれ、私はここではならず者として身柄を抑えられており、もう下手なことはできない。
これはつまり、もともとの結合状が分離状態に転換し、もともと分離状態が結合状態に転換することがスムーズには動いていかない、ということである。
ちょうど到着地の空港の入国審査の手前という、まさにあちらとこちらの中間領域において、私は唐突にわけもわからず、言葉の通じない現地の官憲に無理やり捕えられ、体を押さえつけられて連行されていく。手荒いお出迎えである。こちらからあちらへ行った「私」の「あちら」側との結合の仕方は押さえつけられるという過度な結合である。

「終わったわ」感
スペシャルゲストなのか?招かれざる客なのか?
さて、私は官憲の車両で連行されていくのであるが、私が連れていかれ、車両から下ろされた場所は、もともと私がそこに向かう予定だった仕事先のライブ会場であった。
「あれ?」
「おや??」
私は拘束され連行されたのではく、特別待遇で入国審査さえスルーして、パトカー先導で(先導ではなく、中に積まれているが)送迎してもらえたのかもしれない??
私はこの国にとってスペシャルゲストなのか?
それとも招かれざるならず者なのか?
そのどちらだかはっきりと分別できない。
スペシャルゲスト ?/? 招かれざる客
私はこのスペシャルゲストと招かれざる客という経験的に対立する二極のあいだをあちらからこちらへ、激しく往復し、振幅を描いているようなものである。ここで私は、経験的感覚的な対立二極のあいだで激しく伸縮する両義的媒介項(β)へと励起されているといえよう。
*
多即一にして、一即多
さて、私が到着した先は、円形、あるいは楕円形をした巨大なスタジアムのような場所である。そこはこの日、日本のとあるバンド(現実に存在するバンドではない)の海外公演会場になっているらしく、現地の熱狂的なファンが数万人規模で押しかけて大混乱になっている。

ここでおもしろいのは、混乱しながらも、この大量の人の流れに分別をつけようとする力が働いていることである。
入場のためのルートが「色分け」されて地面に示されている。
そして官憲が、群衆がルートを守るよう、厳しく統制している。
S席のチケットを持ってれば赤い道、A席なら青い道、という具合である。
激しく流れる流体を、円形競技場の観客席に秩序づけて流し込むための流路を作ろうということである。マンダラの建立、とみることもできる。
キラキラしていない、どろどろとしたマンダラも心の底には動いているのだ。
あるいは次のようにいうこともできる。「多」なるものたちがごちゃまぜの「一」に混じり合いながら巨大な円形の中に吸い込まれようとしているが、そこに一定の秩序をもたらそうと、いくつかの「多」へと分けることが強制的になされている。
多即一にして、一即多
一/多
この経験的な対立二極のあいだで振幅を描くような振動が見られる。これもまたスペシャルゲストと招かれざる客との間で振動する私と同じく、経験的感覚的なΔ二項対立に対する両義的媒介項βとしてのあり方である。
見るための場所なのに見えない
次の場面もおもしろい。
夢のなかで私は、群衆と一緒にぞろぞろと階段を登り、アリーナ席に辿り着くのであるが、なんとこのアリーナはステージよりも高い位置にある。これではステージが見えないのである。ステージを見るための場所であるはずなのに見えない。見えるはずなのに見えない、見えるべきなのに見えない、という結合しているのに分離している、結合と分離のどちらともいえないβ不可得な状況である。
一般的にスタジアムをライブ会場とする場合の「アリーナ席」といえば、ステージよりも低いところにある。
アリーナ / ステージ
|| ||
低い / 高い
こういう関係になっていないと、アリーナの観客はステージで何が行われているか見えない。
しかし、この夢のライブ会場では
アリーナ / ステージ
|| ||
高い / 低い
という具合に、経験的な対立関係の組み方とは「逆」になっている。
下のはずが上、上のはずが下。
そして、見えるはずなのに見えない。

伸縮する円環運動の中心へ
私はこのような上下反転アリーナ席の後ろの方にいるので、当然、ライブが始まっても何も見えないし、群衆がうるさくて演奏もよく聞こえない。
もちろん、私はこのライブに参加しに来たわけではないので、見えなくても、聞こえなくても、特に何も気にならないのであるが。
*
すると、突然アリーナ前方のステージが見える位置にいた人たちが、一斉に後方へと移動してくる。なにか逃げ出さないといけないようなトラブルがステージの方で起こっているらしい。

おかげでアリーナの前の方にスペースが空くかたちになる。みんなアリーナ前方のステージよりの方からあわてて後退して逃げてきているのであるから、前のスペースが空く。
私も一緒に逃げた方が良いような気もするが、せっかくスペースが空いたのである。私は、わざわざみんなとは逆行して前へ前へと出て、ステージを見にいく。
夢なのでそこは大胆になれる。というか、私は最初から特に感情を動かされることもなく「ふーん、なるほど〜」と思いながら眺めているだけである。
*
ここで興味深いマンダラの具現化が見られる。
黒光りする蛇腹状の構造をした機械の塊が、スタジアムの中心に円環状に設置されており、しかもしれが高速回転している。

その回転運動する機会が暴走状態になり、客席の方へと迫ってきているのである。これで観客はおどろいて逃げ出しているのである。


この光景を眺めても夢見者私はまったくもって冷静である。逃げもせず、怖がりもせずただ「なるほど〜」と気楽に眺めている始末である。
なぜならこんなにも冷静なのかといえば、私は、この暴走しながら回転する機械仕掛けのウロボロスを止める方法を知っているエンジニアなのである。いや、もしかするとこの暴走する機械を作るにあたっては私も関与しているのかもしれない。

そうして私は、この暴走するウロボロス機械を止めようと前へ前へと進んでいくのであるが、英雄的なかっこよさはゼロである。
* *
進みたいけれど進めない
私は、まったくもって本質的では無さそうなことにこだわって、進むことを躊躇う。
私がいるところから機械へと近づくためには、チケットに対応して色分けされた指定された道を歩かなければならないという規則を、破らなければならないのである。そうなると、
「指定された道を外れて、監視の官憲に暴力を振るわれたらいやだなあ…」
とか。
「いやいや、このまま機械を止めないと大混乱になるぞ…」
とか。
「流石にこの機械を止めれば、指定された道を外れたことはお咎めなしだろうな…」
とか。
「いや、たぶん説明しても相手は理解できないだろう。私が機械を止めても、そもそも止める仕組みについてこちらの官憲は無知だろうから、私が何をやっているのかさえ理解されないだろう」
とか。
「いやいや、仮に怒られるにしても、やはり機械を止めに行くのが私のなすべきことなのではないか…」
とか。
「いや、でもやっぱり、怒られたら怖いから、何もしないで遠くから眺めていよう…。」
とか。
我ながら実に優柔不断である。
指定された道を外れるか / 外れないか
このどちらを選ぶかでくるくると迷っている。
冷静に考えれば「この緊急事態に何を言っているか!」という感じであるが、夢の中の私はあくまでもこのルールにこだわって、歩みを止めて悩む。
なぜここで迷うかといえば、次のような対立関係が重なっているからである。
指定された道を外れる / 指定された道を外れない
|| ||
私が官憲に殴られる / 私は殴られない
|| ||
みんなは助かる / みんなが酷い目にあう
これはつまり、
「自分を犠牲にして、みんなを助けるか?
自分を守って、みんなを犠牲にするか?」
というよくある究極の選択、「どちらも選びたいが、どちらも選べない!」という、まさに二辺のどちらも選べない「不可得」な状況なのである。この迷いは対立する二極のあいだを激しく行ったり来たり、振幅を描くβ脈動である。
動いているなら止める/(止まっているなら動かす)
さて、私は悩んだ挙句、こののたうつ巨大機械を止めることにする。この決断に至る理由は特にないが、強いて言語化するならば、「動いているのなら、止めなければいけない」といったような感じがしたのである。
動 / 静
この対立があるとき、どちらにせよ、いずれか一方だけに固まってこだわっていてはいけない。両極の間を行ったり来たりするのが「正解」なのである。
いま、動いているなら、一旦止める。
そしてまた動かせば良い。
*

決められた道を外れて、私は機械の方へ向かう。考えてみれば、私はこの機械のエンジニアなのであるから「関係者」である。一般客のルートに従う必要はないはずである。
実際、ルートを外れて機械に近づいていっても、警備している官憲もなにも文句は言わない。もちろん、私に気づいていないだけだという可能性もある。
そうして私はついに、のたうち回る巨大な円環状の機械のところに来る。
ここではじめて、私はこの機械の上で熱唱しているバンドの様子をまじまじと眺める。もしこのバンドの大ファンならば、ここは感激する場面であろう。関係者限定の近さで主役たちを眺められるのだから。
しかし、夢の中の私はあろうことか、このバンドのことを心よく思っていないらしい。というか、ようやくこの時点で、誰が歌っているのか気づくという、誰のライブだかわからずにライブ会場にいるという、とんでもない無関心ぶりである。
そうしてバンドのメンバーが引き続き絶叫パフォーマンスをしているのを無視して、私は機械の下、ステージの下の空間に入っていく。そして慣れた手つきで機械の電源を落として、止めてしまう。

のたうちまわるステージが突如止まって、ライブは一体どうなったのだろうか?大混乱になっただろうか。いや、もともと混乱しているのだから、むしろ静かになってよかったかもしれない。
いずれにせよ、あとのことはわからない。
こうしてこの夢はおわる。
**
この夢もマンダラ夢である。
円形競技場のような空間に、四角形の桟敷のようなものが組み込まれている。四角形とそれに外接する円。

この基本的なマンダラ状の枠組みの中で、下記のような二項対立関係、経験的感覚的な二項対立をなす二極の間が、伸びたり、縮んだり、一つに結合してどちらであるのか区別できなくなったりする。
スペシャルゲストなのか招かれざる客なのか不可得。
多即一/一即多。あるいは秩序でもなく無秩序でもなく。
アリーナ/ステージ×低い/高い。高いはずのところが低く、低いはずのところが高い。見える/見えない。
自分を犠牲にしてみんなを助けるか、自分を助けてみんなを犠牲にするか、どちらも選べない。
マンダラの中に現れる四つの不可得なものたち(細かくみれば他にも不可得なものたちが登場している。不可得は厳密に「四でなければならない」というものではない。いずれにしても伸び縮みしているので、一に見えたり、二にみえたり、三に見えたり、四にみえたり、さらに多くに細かく分かれて見えてもよい)。
β
β * β
β
ここで夢見者私が、マンダラの外から中へ入り込んだり、下から上へ登ったり、上から下へ降りたり、マンダラの中心に近づいたり近づかなかったり、マンダラ中央の過度な脈動を止めたり動かしたり(この夢では動いているものを止めただけだが、動かそうと思えば動かせる)する。
内/外
上/下
遠/近
静/動
夢見者が動き回りながら、四つの二項対立関係と、その各々の対立関係の二極のどちらであるか不可得な様相を浮かび上がらせていく。
この場合の夢見者私は、四つの二項対立関係が分かれてはいないが分かれつつあるところを見物して回る。この夢見者私は分かれたあとのものの一つとしての「自我」とは異なるあり方をしているようだ。
なによりこの夢の私は、ほとんど何も分別していない。
好き / 嫌い
どうあるべきか / どうあるべきでないか
近づきたい / 離れたい
こういった経験的にありえるはずの分別、判断を、この夢のなかの私はほとんど行っていない。ただひたすら、トラブルや大混乱を眺めながら通過していくだけである。
ちなみにユングが論じる意識の四機能では、「好き/嫌い」の分別は感情、「どうあるべきか/どうあるべきでないか」の分別は思考、「近づきたい/離れたい」は「直観」と「感情」が合わさったもの、と言えるだろうか。あともうひとつの機能は「感覚」(ある/ないの分別)であるが、この夢では私自身にとっての「ある」の重さも低減している。

*
この夢見者私の動きと対立関係にあるのが、おそらく激しく動き回るウロボロス状の機械であろう。激しく動く円環構造であるが、その上にバンドのメンバーが乗っている。ボーカルと、ドラムと、ベースと、ギター、この四名が少なくとも存在している。激しく回転する危険な「輪」の上の四即一の四者。この過度なβ振動を、夢見者私は止めたり動かしたりすること自在である。
ステージの中心で圧倒的に激しく動くウロボロス状の機械の「四」
客席の隅の方でうろうろしている小さな私の「四」
この二つの「四」がひとつに結びついて「八」になる。
そうして感覚的にその存在感が圧倒的に際立のはΔ的な四である機械状のウロボロスであるが、このΔ四を動かしたり止めたりできるのは、小さな私の「四」、細かい不可得(β)の四である。
このとき夢見者私は、万能の力を得たような感じは一切なく、官憲に殴られるのではないか、撃たれるのではないかとビクビクしながら、群衆に紛れ、気配を最小に抑えながらこっそり動き回っている。実に細かく小さい分別の間で右往左往することで「不可得」を、β項の伸縮する述語的様相を体現しているしている。
そして分別を動かす上で最大の障壁となる「どちらも選びたいが、どちらも選べない」という宙吊り状態を経験する。
実はそういう細かい不可得の組み合わせの隙間でうろうろしたり震えたりしている動きこそが、私たちが経験する大きく固まったものたち(Δ)が存在したり動いたりする世界を顕現させているのである。
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以上、人の心の源底の動きを知る手がかりになる、おもしろい夢であった。
おわり
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