暴走するバスを法力で宙に浮かべて、厳粛な神事の場を守る夢 【マンダラ夢分析】
はじめに
心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたとき、そこから浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じところ脈動から立ち昇る振動が表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンであり、そのパターンを意識が自覚できる相にまで浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図としての曼荼羅のように直接ビジュアル化される(視覚的なイメージになる)場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。

夢で、「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
神話論理と夢分析
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4、を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。Δは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項を表すものとする。

神話の語りはじめには、まだΔはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。
この、Δたちが収まる「余地」を切り開くように動くのが、β、両義的媒介項である。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものである(図1ではΔに対するβ)。
両義的媒介項
神話の語りは、まず図1で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。
ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離するという具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。
神話は、いま現在ここで生きる私たちからは時間的に空間的に遠くへだったものと感じられるかもしれない。しかし、神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここの私たち、これを書いている私や、これを読んでいるあなたの心の深みでも動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んだ方にこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
述語的様相にフォーカスする
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
神話や夢について報告する語りは、この心の深層の不可視の動きから浮かび上がる痕跡を、意識的に観測するうえで、ちょうどよい手がかりになる。
特に有効な手がかりになりそうなのは、神話や夢について報告する語りに登場する「述語」である。それも特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語である。この述語的な様相は、夢では、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンとしても「みられる」ものである。
分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。

夢に見られる分離と結合の述語的様相
マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、多くの場合、夢について報告する言葉の中では、主語の位置に据えられる。夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
分離したり結合したり伸縮する述語
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが、
うまく結合できない
あるいは
結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが、
うまく分離できない
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
◇
・
・
・
以上を踏まえ、今回は、私自身の夢を分析し、マンダラ状のパターンを描くように述語が伸縮する様を浮かび上がらせてみよう。
今回の夢の全体像を概括するならば、
「水」や「土」の気配に満ちた「下」の世界
/
「風」や「火」の気配に満ちた「上」の世界
この二つのあいだを、下から上へ、上から下へ、下から上へ…とみんなでぞろぞろ上がったり降りたりする、という述語的様相が展開する。そして夢の後半では、上/下のちょうど中間領域で「巨大な四角形」であるバスの
車体を宙吊りにして、「上に登って行こうとする傾向があるのに登れない、下に落ちようとする傾向があるのに落ちない」という「上に登っていくでもなく、下に落ちていくでもない」状態にする。
詳しく報告しよう。
夢の始まり
ビジョンの始まりは、イメージとして意識化できない。
深層の無意識から、立ち昇ってくるものがほとんどないのであろう。
それは無意識が「弱い」せいで励起力が効いていないことを意味するものではなく、むしろ逆に、無意識の底が、底へ底へと凝縮していくような方向性で「強い」力が働いているという感じである。
その深みの激しく高い振動数は、表層に伝わっているのだが、表層のテクスチャーの硬さとはあまり共鳴せず、表層を目にみえる形で振動させることなく通り抜けて行ってしまうような感じである。
その量子的な波が表層意識を揺さぶったときに生じる微かなゆれ、その波紋を感じ取ると、それは、私が誰かと会話をしているような感じ、として意識化できる。
*
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・
・
私は、誰かと会話をしている。
しかし、円滑な情報伝達ではない。
私は相手が何を言っているのかよくわからないし、相手も私が言っていることをちゃんと聞いているのか、聞いていないのかはっきりしない。
私は「話が噛み合わないなあ」というもどかしさを感じている。
詳しいことはよくわからないが、とにかく、もどかしい。
「ちゃんと話を聞いて、理解できれば、
もっとうまくやることができるのに」
という思いを、私は誰だかわからない会話の相手に対して抱いている。
次第に、その誰かが、おそらくひとりの男の子か、少年であるらしいことがわかってくる。
しかしそれは昼間の世界で知っている誰かではない。
誰がかよくわからない。
今回の夢の始まりは、本当に、無意識の深みから、形にもならず、言葉にもならない何かが少しづつ結像してくる様相を眺めている感じがした。

まだ感覚的なイメージはなにも現れてこない。
ただ気配だけで、「誰かがいる」「誰かが私に向かって話しかけているらしい」といったことが直感される。
これを報告できている私の意識は、ずいぶん、深く、降りていったものである。
そして次第次第に、その会話の相手が、男の子か少年であることが朧げにわかってくる。姿が見えているのではなく、声の調子とか、話している内容から、そう直感されるのである。
*
ところで、私は昼間の世界でも、現に父親として男の子を育てている。
そのため、「男の子が、私の話をろくに聞かないせいで困った状況に陥って、そして結局私に助けを求めにくる」という状況は、日々経験している。
もちろん昼間の世界の私はそのことに特に不満や困難を抱えているわけではない。むしろ、「人の話を聞かずに失敗し、結局人に助けを求め、しかしすぐに解決してはもらえず、悶々とするが、最終的にはなんとかしてもらえる…」という経験は、子どもが自/他の分離と結合をしなやかに動かすことを体感的に学ぶ上で、とてもよい機会だと思っている。
子供にとって、自分自身とは異なる他なるものとしての世界や他者を、自分が制御できないものとして自分から分離しつつも、しかし恐れたり、頼りにならないと諦めることもなく「どちらかといえば少々当てにならないが、最終的には信頼に足るものだ」と感じられるようになることは、とても大切なことだと思う。
*
好き勝手に遊ぶ男の子を見守る夢
ここでふと思い出す。
今回分析しようとしている夢とは別に、以前、別の日に見た夢で、断崖絶壁の崖の上にひろがる石がごろごろ転がる草地のようなところで、男の子(リアルな自分の子ではない、知らない子)がボール遊びをしたり、ラジコンの車を走らせている様子を、私が見守る、というビジョンをみたことがあった。

その夢で、私は、男の子に対して「こんな絶壁の上でボールを蹴ったり、ラジコンを走らせたりしたら、すぐにボールやラジコンカーを崖下に落として、取れなくなってしまうぞ。取ってくれと泣いても、取れないぞ」と言っていた。
しかし、そう私に言われても、男の子はおかまいなしにボールを蹴ったり、ラジコンカーを走らせたりする。
しばしば制御不能になるラジコンカーは、いまにも崖下へと落ちていきそうだった。
とはいえ、その時も、私は、「リスクがあるよ」と声をかける程度で、彼のボール遊びラジコン遊びを本気で止めるわけではない。
「言われたからといって、聞かないだろう」
と諦めて達観している。
あるいはそもそも「ボールやラジコンカーが崖下に落ちたからと言って、なんだと言うのだろう。」と思っている。子どもは、おもちゃを失ってしまったと残念がって泣くかもしれない。が、しかし、そもそも宇宙的なスケールでみれば、ラジコンカーが手の中にあろうが、崖の下の水中に沈もうが、地球上のそのあたりに転がっている程度の距離感であり、何も失われていないし、手の中にあるのと大してちがいはない。
今回の夢の男の子、あるいは少年との距離感も、これと同じような感じでもある。
*
ちなみに、この以前にみた、崖上でのラジコン走行の夢は、次のように展開する。
崖上でのヒヤヒヤする遊びの後、私は男の子を連れて崖下まで降り(階段の細い道が続いている)る。
崖下には、崖に沿って細く続く、砂がたまって歩けるようになった岩場が続いている。
私たちは二人で、そこを歩いていく。
子どもは相変わらず好きに走り回っている。
しばらく行くと、崖に大きな割れ目があり、洞窟のようになっている。
波に侵食されてできた洞窟だろう。
その洞窟の入り口には、建物がいくつか密集して建てられている。
ひなびた商店街か、温泉街のような雰囲気でもある。
個々の建物は粗末な木造で、かなりボロボロのバラックであるが、不釣り合いに看板が派手で、電飾で飾られていたり、のぼり旗がたてられたりしている。なにが書いてあるのかはっきりしないが、どうやら名物の土産物を売っている店が多いらしい。店の裏手には、人々が生活している気配が満ちている。
私は男の子を連れて、その参道の入り口あたりから商店街の様子を眺める。その参道の奥、洞窟の奥へ奥へとつづく道の先には、なんらかの神仏を祀った祠があるらしいことがわかる。
*
湿り気の強い、満潮なると水が奥まで入り込むであろう洞窟の奥には、白熱電球が連なって奥まで続いており、灯明、蝋燭のようなものもたくさん灯されているようだ。
不意に、私の後ろから、修験道の行者の格好をした僧侶が大股に歩いてくる。僧侶は参道の入り口に佇む私に軽く会釈をすると私を追い越して、洞窟の奥へ奥へとずんずん進んでいく。
私は「なるほど、この洞窟の奥は、護摩行を修するのにちょうどよさそうだ。ご本尊は不動明王かもしれない」と思う。
私も、すぐにこの行者についていきたいと思い、男の子に、「一緒に奥までいってお参りしよう」と声をかける。
しかし、男の子は相変わらず話を聞いておらず、また崖を登る階段ルートをみつけて、そちらへ走って行こうとする。
私は「ほらほら、お土産屋さんにお菓子が売られているよ」などと適当に誘ってみるが、そうは言ってもあの子は聞いていないだろうな、と思い、私は洞窟の奥へと入っていくのを諦める。
どこかへ走って行ってしまう子どもを見守る方が、いまは優先されると思ったのである。

この夢も動的マンダラ伸縮モデルでざっくり分析してみよう。
まず、崖の上、空へと開けた崖の上と、水中につながる崖下の洞窟との対比に注目しよう。天/地をむすぶ垂直軸状の伸縮が際立つ。
空
|
←崖の上の石が転がる草地→
|
↓/絶壁に取り付けられた急な階段/↑
|
←砂がたまって歩きやすい岩場→
|
水中に通じているような洞窟(奥に祠があるらしい)
場面全体は上記のように、空間的に分節されている。
私と男の子は、二即一にして一即二の対(ペア)になっている。
崖の上では、見守るように佇む私と男の子の間の距離は、転がるボールや走り回るラジコンカーに引っ張られて伸び縮みしている。ボールやラジコンカーを追いかけて、男の子が私に近づいたり離れたりするからである。
水平方向に伸縮する述語的様相である。
←β→ ←β→

次に、私と男の子は二人一緒に崖上から崖下へ、危うい階段を降りていく。この時は男の子は私の近くにくっついて歩いている。
β
↓
↓
ββ
↓
β
そして崖下に降りると、また男の子は走り回って、私から離れたり、また戻ってきたりする。水平方向の私と男の子の距離は伸縮する。
β
|
/
|
←β→ β ←β→
そうして私は、洞窟の奥、水中であり地中でもある深層が口を開けていると入り口に立って、その奥の様子を眺めている。神聖で清浄な感じを受ける。恐ろしさや嫌悪感は一切感じない。「ここから分離したい」などとは微塵も思わず、むしろ「さらに奥まで結合しにいこう」という感じ、興味津々である。奥で行者が護摩を焚いているらしいのだから、結界が張られており、とてもよい具合になっているはずだ。
しかし、見守り対象の男の子が、この洞窟の中へ入ることよりも、外で走り回る方を選んでいる。
男の子も、洞窟を怖がってる様子ではない。
単にいまは興味がないのだろう。
そして私は、また男の子を見守りつつ後に着いていく形で、洞窟に入るのは諦めて、つまり「地中・水中」の領域へと深く深く入り込み溶けていくことを諦めて、崖の上へと登る階段に戻ろうとする。
私と男の子は噛み合わないまま、つまり結合しつつ分離したまま、分離したまま結合するモードでその距離の遠/近を伸縮させつつ、上から下へ、下から上へ動く。これは水平面上にマンダラ状のパターンを描きつつ、そのマンダラを何層かに重ねていくような動き方である。

面白いのは、夢見者私の興味としては、この水中地中の深みへと行者の方々とともに入り込んでいく方を欲しつつ、しかし走り回る男の子を放って置けないという理由で、私はマンダラを示現する動きのほうにとどまり続けるのである。マンダラというのは、心の表層と深層の中間に自ずから、無意識のうちに、展開するものである。この夢はまさにそのようになっている。
* *

話し相手の少年が姿を現し、
私も彼の屋敷へ行く
屋敷には彼の家族の女性たちが大勢いる
そこから連れ立って
男性たちがいる山の上の社殿へ登る
さて、今回の夢も、全体の動的構造は、これと同じような感じである。
しだいにビジョンがはっきりしてくる。
(上掲のつづき)
私は、その話が噛み合わない相手、どうやら男の子か少年と連れ立って、彼を送って、彼の家に行くことになる。
彼の家は、建物が密集したどこかの漁村のような雰囲気の街にある。
彼の屋敷は、随分と立派な旧家という様子である。
網元か、国際航路の船長の留守宅、といった感じだ。
建物は洋館風で、室内は和洋折衷でよくできている。
少し寒い印象だが、家のひとたちが何人もいる。
*
一家の主人とおもわれる高齢の女性がおり、他に何人かの中年の女性がいる。この家の娘か、嫁らしい。ほかに使用人と思われる女性たち男性たちも働いている様子だが、あまりよく見えない。
あとは子供が複数いる。
子供は、少女が二、三名、男の子が一人か二人くらいである。
子供たちは大切にかつ名家の跡取りとして厳しくしつけられているようだ。
私と話が噛み合わなかった男の子、少年も、この家の中では、おとなしく、お行儀よくしている。
* *
私は家の主人らしき高齢の女性に挨拶をし、社交的な会話をする。
一見の訪問者である私には、けっきょくこの家に、男女それぞれが何人づついるのか、はっきりとしたことはわからない。
とにかく、たくさんの人がおり、老/若、男/女、まんべんなくそろっている。同じ人間という存在を、性別と年齢によってカテゴリーに分けることができるが、その全部が揃っているらしい。
いや、強いていえば、男性の気配が少ない。
主人も高齢の女性である。
とはいえ、男性がまったくいないということでもない。くだんの男の子は男性である。そして私も一応男性だ。
私はこの家の人たちと穏やかに会話をしつつ、どうも室内が薄暗く、少々陰鬱な感じではあるなあ、と思う。
= =
ふと、室内から、窓越しに外を見ると、
窓から見える、近くの山の稜線上にいくつもの古い木造の建物が密集しているのがみえる。
私は、「街があそこまで続いているのか」と思い目を凝らすが、よくみると、その建物群は日常的には利用されていない様子で、薄暗く、生活感もなく、非常にふるびた印象である。というか廃村の廃墟といった感じである。
稜線上に凝集した木造廃墟群に、私は一瞬、圧倒される。
しかしよくみると、その建物群のうちに、ひとつ大きな建物がある。
神社の社殿か、お寺の本堂といった様子である。
そこに目を凝らすと、社殿風の建物のなかにはいくつか灯明がともされており、白い束帯に黒い烏帽子の男性が、複数名、おごそかに座ったり、立ちあがってなにかお供物のようなものを運んだりしている様子が小さく見える。
私は「なるほど、人間からみると廃墟に見えるが、神様たちにとっては賑やかな暮らしの場所なのだ。あの廃墟が神々の宮殿に見えるかどうか、人間側の資質が問われるのだなあ」と思う。
〜 〜
すると、このいま私がいる家の人々も、いまからこの社殿に向かうという。
今夜、大切な神事が催され、それに参加するのだという。
私もぜひ一緒にと誘われるので、恐縮しつつ、一緒についていくことにする。見学させてもらうのである。
洋館を出て、庭からつづく鬱蒼とした薮にかこまれた斜面の道を登っていくと、稜線上の建物群の横にでる。
近くで見ても、やはり寒々とした廃墟である。
廃墟群の横を進んでいくと、あの先ほど家から見た、大きな社殿の目の前にたどり着く。
私は、建物の大きさに圧倒される。奈良の大仏殿のようだ。
今日はここで、この街の成人式、というか成人のための通過儀礼が行われるという。
*(下につづく)*
話が長くなるので、一旦ここまでを分析してみよう。
私と話が噛み合わない付かず離れずの少年、β〜β、二人セットで動いている。私は、話が噛み合わない男の子(少年)と二人で一緒になって、湿り気のある森の中を歩き、湿度の高そうな建物の中に入っていく。この「水性」の気配を念頭に置いておこう。

そして入った建物は、和洋折衷のデザインである。
西洋 / 東洋
この二極が付かず離れずになっている。
そして和洋折衷の建物の中には、たくさんの人間がいる。
老 / 若
男 / 女
人間は非-人間と区別される限りで、みな同じひとつの人間であるが、その中には色々な区別もある。人間の間にある区別のもっとも経験的に際立つものの一つは、年齢の違いであり、また性別の違いである。
この家では、年齢も様々、性別の様々なたくさんの人間が、一堂に会している。調和のとれたマンダラのようにも思える。
*
しかし、一見するといろいろな人がいるようで、よくみると、男/女の対立二極がアンバランス、女性が多めになっている。男性の気配が少ない。

しかし、すぐに男性がいることもわかる。
ただし、男性たちは、この屋敷には不在である。
男性たちは神に奉仕するために、稜線上の社殿の方に集まっていたらしいのである。
和洋折衷の屋敷を出て、より広いスケールで全景を見渡すと、
山の上 / 山の下
|| ||
空に開かれた風が吹き抜ける空間 / 湿った薮のなかのお屋敷
|| ||
男性 / 女性
という対立関係が見えてくる。
この対立二極はとてもよく調和している。
山の下から山の上はよく見えるし、移動しようと思えば簡単に移動できる。
これらの二極は分かれつつ、しっかりと結合し、付かず離れずになっている。

とてもよく対立が調和したマンダラになっている。

風が吹く中で、火の円陣を組む
湿った森の湧水の横で水の円陣を組む
さて、ここでなにやら儀式が始まるらしい。
「風」が吹き抜ける「上」の領域で、夜、真っ暗になるのを待つ。
暗くなるとそこに「火」が、篝火がいくつも灯される。先ほどまでいた「下」のお屋敷が、木々に囲まれ「水」の気配、「土」の気配に満ちていたのと対照的である。
私たちは稜線上の社殿の前の広場で、神事が始まるのを待つ。
あたりが暗くなると、なにやら厳かな神事がはじまる。
社殿の前の広場で、篝火に照らされて、浴衣のようなシンプルな白装束を身に纏った少年たちが数名、厳粛な、いや、恐れ慄いた様子で円陣を描いて起立して、なにやら祈っている。
少年たちの周りを、烏帽子に束帯の神官たちが急がしく動き回り、小声であれこれ、少年たちに指示を出し、次に行うべき次第を教えている。
少年たちは恐縮してそれに従っている。
私はその光景を見て、これはかなり貴重な通過儀礼の場に立ち会えたのではないか、と興味をもつ。
*
社殿の前での儀礼が終わると、その後、皆でぞろぞろと隊列を組んで、山の下へと降っていく。神官たち、白い浴衣のような少年たち、そして街の人たち、女性たち、私のような外部からの見物人も、ぞろぞろと山を降りる。
降り切ると、そこに井戸か、湧水があるらしい広場につく。
真っ暗でよく見えないが、湿度が高いことは肌で感じられる。
そこも神聖な領域らしく、潔斎されている。
そこでも引き続き、少年たちは白い浴衣のような簡単な装束をした少年たちは、どうやら水をかけられたか、自分であびたかで、水をしたたらせながら、不安げに円陣を組んで何か唱えたり念じたりしている。
私は、その少年たちの周囲に、先ほど訪ねた家の娘さんが二人、付き添い役のような形で控えていることに気づく。なにやら神事につかう道具か、布のようなものを両手で捧げ持って立っている。
なるほど、このあの家のおばあさんの主人が言っていた役目とはこのことか、と思う。
(下へつづく)
ここでも上下運動が際立つ。
先ほど、山の上で、「火」に炙られ、「風」を感じながら、円陣を描いてなにやら神事が執り行われた。そしていま、山の下に降りてきて、今度は「水」や「地」を感じつつ、同じように円陣を組んで儀礼が行われる。
山の上 ー 火 ー 風
/ / /
山の下 ー 水 ー 土
こういう対立する両極、上層と下層のの双方で、円陣を組んで何か呪文を唱える、という儀礼が行われるのである。これは前述した以前みた別の夢にある、崖の上と下で男の子が走り回るのを私が見守る夢と同様に、水平面を描き出すように動くマンダラを多重に描いていく動きであるように思える。



上と下の中間領域で言葉を
さて、ここから夢は言語を用いたコミュニケーションへと、その相貌を変化させる。饒舌にしゃべり出すと、そろそろ目覚めである。
(上の続き)
井戸だか湧水だかのそばで、円陣を組んだ少年たちが水を浴びせられる様子が篝火の明かりでゆらゆらと見える。
私は、ただの見物人であるが、円陣を組んでいる少年たちのうち、たまたま一番近くにいた少年が、私に話しかけてくる。
いや、この少年、もしかすると夢の冒頭で、私が会話が通じないもどかしさを感じていた相手かもしれない。
つまりあの和洋折衷の洋館の息子である。
・・とはいえ、暗くてよく見えないのと、みんな同じ衣装なので、
だれなのか、よくわからない。
とはいえ、話しかけられたので会話する。
彼は通過儀礼の次第をこなしつつ、私に向かって次のようにいう。
「僕は、いま、自分のルーツというか部族そのもの、祖先たちを強く感じて畏れおののいている。自分とは関係がないとおもっていたルーツ、祖先たち、部族そのもの、その運命、宿命のようなことを僕の、この、まだひ弱な体で背負わなければいけない、こんな重たいもの、僕には背負えない。でも背負わないといけない。もう儀式に参加してしまった。下ろして置いていくことはできない。それでも、一生これを背負うのは、そろしく、不安になる。潰されそう。」
とったことをいう。
私はそれを聞いて、まず、話の内容よりも、「わあ、ようやく彼が言っていることが聞き取れたわあ」と、言葉を受信できた感じを嬉しく思う。
ここへきて彼は初めて、風景の一部ではなく、言葉を喋る存在、私とコミュニケーションを取ることができる存在になったように思える。
ところで、彼の言っている内容について。
私は彼がいう「ルーツを背負う重さと、潰されそうな不安」ということが、いまいちよくわからない。そこで、次のように思いついたことを口にする。
「そういう不安は、誰しも程度の差こそあれ、そういうことを思いながら、大人として生きているんじゃないかな?
だから大丈夫、まわりの大人を見てごらんなさい、「それ」に潰されずに生きているひともたくさんいるよ。
いや、もちろん、他の大人がどうであるとか、君にとっては関係ないよね。
君自身がどうその重さを引き受けられるか、という問題だよね。
でも、君が思っているような「背負う」ということはそもそも存在するのかな? そもそもね、運命は背負うものではなく、運命が勝手にあなたを運んでいくのだよ。君は何も背負わされてない。逆だと思うよ。運命が君を背負っている。だから君は、のんびり乗っていけばいい。
川下りみたいなもんだ。」
といったようなことをいう。
こんなことを見物人のおじさんに言われても、少年はあまり納得しない様子であるが、とはいえ粛々と神事に参加し続け、儀礼を行う。
(下へ続く)
この会話がおもしろい。
少年は、彼自身の<私>と、祖先〜部族〜ルーツ的なもの、つまり「彼が何者であるか」を彼自身の選択とは無関係に分節してしまうものとの関係を、「背負う」「重たい」「潰される」といった言葉で分節する。
祖先〜部族〜ルーツ的なもの / 少年の、大人としての<私>
|| ||
のしかかってくるもの / 背負わされる側
この対立があるとして、少年にとっての意味分節の世界では、左辺が右辺を圧倒している感じなっている。
それに対して私は、この関係をひっくり返すようなことをいう。
祖先〜部族〜ルーツ的なもの / 少年の、大人としての<私>
|| ||
背負っている側 / 乗ってる人
少年の方は、そうは言われても簡単に「なるほどそうですか、気が楽になりました」などというかんじではない。単純にひっくり返されても、実感が伴わないとしっくりこないものだろう。

そうこうする間にも、神事は粛々と進んでいく。
少年のいうことが正しいのか、私が言ったことが正しいのか。おそらくどちらも正しいし、どちらも正しくない。どちらでも良いのである。
このマンダラ伸縮で一番大切なことは、くるくると反転することである。上と下、背負う方と背負われる方、どちらか一方を選ぼうとした瞬間に、反対側に交換する。少年が「自分が背負う」ようなことをいえば、私は「少年こそ背負われている」という。
こうしてあちらからこちらへ、一方から他方へ、反転していく。
この反転の動きは、上/下、山の上/山の麓、風と火の領域/水と土の領域、この間でも再び繰り返される。みんなでまた稜線の上の社殿の方に帰っていくことになるのである。
上から下へ、下から上へ、降りたり登ったりの伸縮である。
夢見者 私は再び上までは登らない。中間にとどまる
ところが、その山の上の社殿へと登ろうとしている途中に、大変なトラブルが起きる。

(上の続き)
そして、山の下の湧水の広場での儀礼が終わったらしく、またぞろぞろ、みんなで坂を上がって社殿へと帰ろうとする。
神事の一同はまた参道を登って行く。
社殿のほうに戻ろうとしている。
私も一見物人として、一緒に列の後ろの方に着いていく。
*
ところが、その刹那!
突然、山の下の方から、我々がいまぞろぞろ歩いている参道を、大型のバスがすごい勢いで走りあがってくる。随分乱暴な運転である。
私は「あぶない!」と思う。
バスはあっという間に、私の横を通り過ぎ、追い越していく。
私より少し先に上の方を歩いていた、先ほど私と会話した少年と、洋館の娘である二人くらいの少女たちの横も、乱暴運転で追い越していく。
* *
私が「危ないな!」と怒りを覚えていると、案の定、私たちから50メートルほど先まで坂を昇ったところで、・・そこは参道の坂の傾斜が最も急になっているところであるが・・、そこでバスが突然、まず前輪が接地面から離れ、続けて後輪も接地面から浮かび上がり、後ろへ転がり落ちてくる。つまり、私たちのいるほうへ大きな四角形の車体が転がり落ちてくる形になる!
+
バスの中から、運転手の男が乱暴に飛び降りて逃げ出す。
彼は悪態をつきながら、参道に唾を吐く。
わたしは、その様子を見て、神聖な神事の最中に!天/地を媒介する参道に唾棄するとは、なんたる無礼な奴だ!
と怒りの感情を強く覚える。
とはいえ、バスはこちらに降ってくる。
怒っている場合ではない。
+
+
みると、お屋敷の二人の少女たちは、早期に危険を予見して、衝突を回避できる方向へと飛び退いている。あの二人は安全だ。
つぎに、くだんの少年、私と会話して、ルーツを背負うのが重いと言っていた彼を探す。
すると彼は、ひとり茫然として、参道の真ん中にいる。
逃げ遅れている。恐怖で足が竦んでいるのだろうか。
理由はなんにせよ、このままそこにいると、彼は降ってきたバスに直撃される。
私は、このままではまずいと思う。なんとかバスをとめる方法は・・・。
*
*
*
ふと考えると、これは夢である。
つまり三次元の物理法則に付き合う必要はないのだ。
ならばどうする・・。
私は咄嗟に、まさかの「法力」を使って、落ちてくるバスを止めようとする。私が右手を前に突き出して、強く念じると、落ちてきたバスが空中で止まる、浮かんだかたちになる。
物理法則による因果的説明は完全に無視である。
・
・
・
法力でバスを浮かべながら、私は次のように思う。
「ほんとうはこの術は、人前で見せるものではないのだけれど・・
いまの場合、少年を守るためには仕方ない。
幸い、あたりは真っ暗で、みんな大慌てで混乱している。
私が何をやっているか、ほとんどのひとには見えていない。
少年には丸見えだが、彼はそもそも法力をまったく理解できないから、見えていないのと同じだ。・・道路脇に飛び退いたお屋敷の少女たち二人にも、私がやっていることがはっきりと見ているが、彼女たちは私と同じ部類の人間なので、このくらいのことでは驚かないだろう。」
私はそのまま法力でバスを運んで、丁寧に接地させて、上まで安全に走らせてやろうとおもう。
しかし、巨大な金属の箱であるバスを「法力」でコントロールしようとしても、バスは空中に浮かんで爆発的なエネルギーを凝集しつつ振動していて、なかなか接地しない。というか、浮かんだバスは私の方へと落下しようとするエネルギーに満ちている。
バスがいうことを聞かない!(あたりまえだが)
私は非常に困る。
私はここでふと思う。
「このままずっとここでバスを止めていたら、社殿の方に戻れないではないか。貴重な儀式をせっかく見学しているのに、見逃してしまう!」
もちろん、バスを放り投げて行ってもよいのだが、そうするのは悪いなという気がする。放り投げたら、先ほどまでいた下の方の湧水、水と土の聖域にバスが突っ込んで、大爆発するかもしれない。こういうのはちゃんと道に戻して、走れるように整えてやらないといけない。
それに、もしかするとこのバスは、この儀式を見物している人たち、つまり私自身を含む見物人を迎えにきているのかもしれない。
主催者側が、つまりこの儀式を行なっている人たちが呼んだものなら、私が勝手にバスの行末を変えるものではない。
(下に続く)
参道を厳粛な雰囲気で歩いて登っていく人々のところへ、下から追いかけてくる形で、バスが突っ込んでくる。
バスというのは四角形のものである。
四角形は、マンダラにおいては、分離と結合の伸縮が調和したあとに浮かび上がるΔ分別、現世の意味ある経験を安定的に分別する記号と意味内容の関係を成立させる四項関係の象徴である。
Δ=Δ
/ /
Δ=Δ
マンダラ夢では「円」や、対立二極の間が近づいたり離れたり、分離したり結合したりする伸縮する述語的様相が動くけれども、この動きは、一方では、日常の経験的感覚的様相の意味分節体系がガチガチに凝り固まってしまったとことろほぐす効果があり、他方では、また新たな意味分節体系を発生させる効果もある。

β脈動を神妙に演じている上から下へ下から上へと伸縮している人々の行列に、外から突っ込んでくる四角形のバスは、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δの線形配列を固着させるべく、脇目も振らずにまっしぐらに突進し、霊妙な伸縮を蹴散らしていってしまう様子をよく表現している。
そのΔ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δの分別を象徴するのが、このバスの運転手の「怒り」であり、儀式の道に無作法に唾を吐くという怒りをあからさまに表現して憚らない態度である(儀式の一環、儀礼として唾液を使うことはあるが、この場合はそうではない)。
そして夢見者私自身も、厳かなβ脈動をかき乱されたことに対し、怒り狂いながらΔ線形配列にすべてを整列させようとする乱暴なやり方に対し、怒りを覚える。
しかしここで私が怒りに囚われてはいけない。
せっかく、下る↓上がる↑ の述語的様相を動かしているところへ、Δ四項の固着した様相が引っ張り込まれてきたのである。これは固着をほぐして柔らかく組み直すチャンスである。

そこで私は、冷静に、β脈動の純粋なモード(伸縮遷移図でいう2)〜4)の相)とΔを区切り出して固めるモード(伸縮遷移図の5)の相)とを切り分けようとする。まずβ脈動、上/下、大人/子供、水/火、といった経験的な対立二極の間を分離したり結合したりする伸縮を神妙にチューニングしようとする人たち(少年たち、少女たち、そしてこの儀式に参加しているひとたち)を、安全に、稜線上の社殿に向かわせようとする。彼らは下から上への移動の途中であるのだから、神妙にその動きをつづけてもらえばいい。
さしあたり、一度登って追い越しながら、動く方向を転じて落ちてきたバスに直撃されそうな人たち、私と会話した少年と、その家族と思われる二人の少女たちの三名を、安全にここから逃す必要がある。
まず少女たちはもう自分で逃げている。
問題は少年で、彼は落下してくるバスを茫然と眺めているばかりで、このままではバスにつぶされてしまう。
この少年「ルーツを背負うのが重い、押しつぶされそうだ」などと言っていたが、実際に、いままさに、ルーツに押しつぶされる前に、落ちてくるバスに押しつぶされそうになっている!
「そんなところにじっとしているから、押しつぶされるのだよ!
あと二、三歩、横に飛び退けばいいのだよ!」
私は彼にそのように伝えたいと思うのだが、これまでの経緯として、彼は言われても話を聞いていない。言葉で言われたところで、その通りには動かないだろう。
少年が自分で動かないなら、勝手に落ちてくるバスの方の落ち方を変えてやるしかない。
ここで夢をイメージを生み出す私の精神の機能は、「バスの落ち方を変える」方法を経験的感覚的にありうる世界の中から探し出すことができなかったらしく(実際、経験的にあり得る方法としては、巨大な風船で受け止めるとか、ヘリコプターから吊るしたクレーンで捕まえるとか、そういう方向に向かうだろうが、そういう物理的にバスを動かす因果関係については、夢はあまり関心をはらわない。)、因果的に説明するのが面倒になったのか、夢は突如「法力」を使わせてくれる(笑)。


(↑この図を上からみると↓)

実は、このあたりで、現世の目覚ましアラームが鳴ってしまい、私はかなり覚醒状態にはいっている。
そうすると俄然、言語的な意識が明晰になってきて、理屈っぽくなる。
私は「この法力は、人前でみせるものではない」と言ってみたり、周囲の人たちで、法力を使ってバスを止めているところを見ている人が誰であるかをチェックし、この人なら見られても大丈夫、というのをこまかく分別していく。
そして法力で宙吊りにしたはいいものの、このバスをさらにどう扱うべきか、どう扱ったら良いのか、言語意識的に分別して考えてしまって、身動きが取れなくなる。言語は迷うのである。
ここでバスが落ちていくのは良くないことで抑えたままでいれば良いが、そうすると私は社殿の方に戻れず、儀式のつづきを見逃してしまうのは良くない。バスを早く手放して、儀式を見るのが良い。
バスを放り投げていっても良いが、そうすると、山の下の方の聖域を壊してしまいそうで良くない。
バスは、送迎の目的で来たものかもしれないから、ここに抑えたままにしておくのは良くない。また道に戻して安全に走らせるのが良いが、しかしうまく戻せないし、走らせる方法もない。
良い/良くない
この対立をあれこれ分別して、「良い」方を選ぼうとするが、しかし、ある一面で「良い」方を選ぶと、別の面で「良くない」ことが起きる。
分別識で、「どちらが良いか」を選ぼうとしても選べないようになる。
私は、覚醒しかけて強く動き出した分別心が、夢の中でエラーを起こしていることを自覚しつつあったので、仕方なく、自我を放り出して、アニマに決めてもらうことにする(実に浅はかである(笑)。いや、執着がないと褒めてもらいたい)。
分別する自我のエラーを
アニマに補償してもらう
夢はここから、私と姉との問答形式になる。
(上から続く)
宙ぶらりんで揺れているバスを、どうしてよいかわからないので、私は姉に助けを求める。
姉はすぐに現れて、まず、一緒に、法力でバスを支えてくれる。
ちなみに、姉は先ほどまで、全く姿を現していない。
それがどうして突然現れるのかは秘密である。
姉はバスを抑えてくれるが、もちろん手で押さえているのではなく、法力を使っている。しかも私が全身に力をみなぎらせてバスへ力を集中しているのに対し、姉の方は指でミニカーを摘む程度の力の使い方で、ほとんど力を使っていない様子である。
私は、いつ自分の「法力」が弱まって、バスを水と土の聖域に落としてしまうだろうかと不安になっていたが、姉の方はそういう様子はない。
さすがだなあ、と、安心感がある。
「このバス、どうしよう?!」と私はいう。
姉は
「どうするもこうするも、とりあえずこのままでいいよ」
といったことを言う。
私は「でも、なんだかさっき、唾を吐いていたひとがいたし、汚いからずっと保持しているのはいやだなあ」という。
と同時に姉が考えていることが伝わってくる。
「もともと、こういう乱暴な運転の車両を、神聖な社殿のほうに向かわせるのはよろしくないと思っていたのだから、ちょうどいい。それに、少年たちは一応安全なので、先に彼らだけでも社殿のほうに戻ってもらえたらいい。私たちは社殿の神事を見学してるだけなのだから、一緒に上がらなくてもいい。私たちはこのままここに居たらいい。」
姉にそう言われてみると、たしかに、そもそも無礼な運転手が逃げ出しているので、バスは自分で勝手に坂を登ったりはしないよなあ、と考えるに至る。
ならば、みんなに先に坂を登って行ってもらって、誰もいなくなった後に、姉と私で、このバスをなんとかすればよい。
他人に見られてさえいなければ、バスの一台や二台くらい、姉の法力で“どうにでも処理”することができるのだ。・・
ただ、見られてはいけない。見られてはいけない。
さあ、神事の途中みなさん、絶対に後ろを振り向かず、
すみやかに社殿にお戻りください。
と私は思う。
おわり
そして私が全幅の信頼を置いているアニマである姉が現れる。
この姉は、別の夢で「アイドル」に変身?していた人である。
ちなみにこの夢に、先ほどまで姉は一切登場しないが、なぜ急にここに出現するのか。それは彼女が、私の「アニマ」であり、つまり私の自我にとっては別の心的機能だが、しかし実は私といつもペアを組んでいて、二人で(実はもっと他にも数人いるのだが)ひとつの自己(Selbst)なのである。
姉は、私が分別に迷っていると、いつもその分別の対立軸自体を霧消させてくれる。
姉はまず、私と一緒に、いや、私と替わって、「法力」でバスが落ちるのを止めてくれる。姉の力は絶大であり、大型のバスをミニカー程度のものとして扱うので、まずこの時点で、バスが落ちて水場の聖域を破壊することを心配する必要はなくなる。
*
しかし、私の自我は、凝ずに、分別する表層の言語的意識を走らせて「このバス、どうしよう?!」「汚いから嫌」などと、良い/悪い、清/穢を分別して、一方と結合し他方と分離しようと、お門違いの分別に勤しもうとする。
それに対して、アニマ姉は「どうするもこうするも」「このままでいい」つまり、分けて選ぶ必要はない、という。
私も姉に言われて、そうだそうだと気づく。気づきつつも、運転手がいないから…などと、バスを動かさないことの合理的、因果的な理由づけをしようとしているところが残念であるが、生きているのだから仕方がない。いずれにしてももう姉が来ているので、バスをどうするかどうしないか、私が分けて選べずに迷う必要は、ない。
* *
そして最後のポイントは、姉がバスを「どうにかするところ」を、神事に勤しむβ伸縮中の人たちに見せたくない、と感じるところである。β伸縮モードと、Δが固まったモードは、分けておきたいのである。β伸縮モードとΔが固まったモードは二即一にして一即二、非同非異の関係、分かれているでもなく分かれていないでもないのであるが、真如不守自性、どちらのモードも美しく響くようにしておきたいのである。特に、身体をもって、この身体で覚醒しようとする「私」にとっては、二つのモードをしっかりと分けて、β脈動する通過儀礼中の若い神々には社に戻っていただいて、わたしはこの伸縮する法界の上端でも下端でもない、β二項の中間のΔ的領域に、Δ四項関係、四角形のバスとともに止まっていることが重要なのである。
私の自我は、姉の法力に魅せられて、「姉は、バスを対消滅させるのでは?!」と期待しているのだが、おそらくそういう派手なことは起きず、バスはこのまま、ずっとこのままである。姉自身が「このままでいい」と言っているのだから、このままなのである。
実際、「四角」のΔ四項バスはこのまま、当面ここに浮かんだままになる。もちろん、私や姉がつきっきりでを支えていなくても、Δ四項バスは、勝手に浮かんで回り続けるはずである。

通過儀礼中の少年たちやそれを見守る少女たちは、振動数の高いβ脈動モードにある。
それに対して、見物人で夢を見ている私は、Δ分節とβ脈動のちょうど境目のあたりをうろうろしている。そして、私は、これから目覚めてΔ分節の方へ固まっていくのである。そのβからΔが突出してくる相転換の境界で、私と姉が明晰な対話、完全に会話のキャッチボールが成立しているかのような、コミュニケーションを行うのである。
ただしこのコミュニケーション、よくみると、私が無闇に分別をしてどちらかを選ぼうとするのに対し、姉の言葉がそれをことごとくひっくり返してくる。
言語の二つの様態
夢の冒頭、私は謎の少年と、彼が「何を言っているのか」分からないまま、一緒に歩き回って登ったり降りたりする伸縮運動を繰り返していた。そのモードでは、分けて選んでこだわる分別式の言語はあまり機能していなかったが、対立二極を区切り出す分離と結合を伸び縮みさせる動きの方はよく動いていた。
夢の最後では、逆に私はとても饒舌である。しかし、その饒舌さは、分けて選ぼう、分けて選ぼう、どちらにしよう、どちらにしよう、と迷うばかりで、結局私は動けなくなる。暴走したかと思ったら宙吊りになったバスとそっくりではないか。
もちろん、前者の夢の冒頭のモードが良くて、後者の夢の最後のモードが悪い、という話ではない。このふたつのモードは一つのことである。この一つのことを、自我の意識で覚醒したモードでもって感覚して経験してみる、というのが「生命」であるということなのかもしれない。
分けて選んで拘って迷う、という「第一住心」もまた、マンダラ状の伸縮する法界の多様なモードの一つだということを思い出しておきたい。

以上、この夢では、覚醒してしまった表層の言語的意識と、無意識とが、絶妙に調停されている様子を見ることができる。
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