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『ナグ・ハマディ文書』より、「シェームの釈義」の起源神話を動的マンダラ伸縮モデル(β-Δモデル)で読む

人の心の源底の動き方を如実に知ることを目指して、本アカウントではクロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試みを続けている。

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)を描くマンダラ状のパターンを伸縮させる動きとして読む、ということを試みている。それがおそらく、人の心の源底の動き方を如実に知る手がかりとなると思われるからである。

* *

今回は哲学者の清水高志先生に教えていただいた『ナグ・ハマディ文書』のシェームの釈義(The Paraphrase of Shem)』を、これまで『神話論理』を読んできたのと同じ方法で分析してみようと思う。

ちなみに清水先生の著書『空海論/仏教論』は、私が『神話論理』空海の『吽字義』と交差させて読む際の重要な手がかりとして参照させていただいているものである。

『空海論/仏教論』では、吽字義の「一切諸法因不可得」と、レヴィ=ストロース氏の「野生の思考」の両義的媒介項たちが織りなす動きのアルゴリズムが重ね合わされる。そこに複数の二項対立を動的に組み合わせていくことで、いずれの項をも根源的な原因、「始点」として固めない「循環的構造」が浮かび上がる。この「構造」こそ、人間にとって経験的に意味ある世界を分節することを可能にする諸々の二項対立を、自在に生/滅させるエンジンのようなものである。この動き方を知ることが、私たちの人類の「心」の底を知る手がかりになるのである。

ここで、二重の四項関係(八項関係)を描くマンダラ状のパターンを伸縮させる動きのことを、言語でもって思考しようという時に、無上の手がかりとなるのが龍樹の『中論』である。これについても清水先生の『空の時代の『中論』について』が非常に参考になる。


さて、『ナグ・ハマディ文書』(Nag Hammadi Library)は1945年にエジプト南部ナグ・ハマディ近郊で発見された文書群である。

この文書を通じて、初期のキリスト教、特にグノーシス主義の思想の一端を現代の私たちが垣間見ることが可能になった

『ナグ・ハマディ文書』のシェームの釈義(The Paraphrase of Shem)』には世界の起源神話と読める啓示がある。

この「シェームの釈義」で書かれていることを、レヴィ=ストロースの『神話論理』に収められた神話や、夢の分析のための手掛かりとして筆者らが開発中の動的マンダラ伸縮モデル(β-Δモデル)を用いて読んでみようと思う。

動的マンダラ伸縮モデル(β-Δモデル)

経験的な区別が概念の道具となる


レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出する(仮に下図に示す「Δ」を最小で二つつないだもの(Δ1/Δ-1)をひとつひとつの観念だと思っていただこう)。そして抽出された観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)。

Δ1 ーΔ2 ーΔ3 ーΔ4 ーΔ5 ーΔ6 ーΔ7 ーΔ8
/   /   /   /   /  /  /  / 
Δ-1   Δ-2   Δ-3   Δ-4   Δ-5   Δ-6   Δ-7   Δ-8

このような配列を生成することが、一体「どのようにしておこなわれるか」。

この「どのように」をモデル化するひとつの試論としてマンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)を考えてみる。

図1

即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

上の図1のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

Δ1 暑い / Δ4 暑くない
||       ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない

といった具合になる。私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、すべて、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

人類は、というか、あらゆる生命体は、物心ついた瞬間に「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている

Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ内 / 外Δ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ

神話は、語りの終わりで、この図におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

生きることは分けること

それぞれの生物は、それぞれ固有の感覚・神経の仕組みを使って、それぞれに固有の経験的に意味のある世界を分別して生きている。ユクスキュル『生物から見た世界』に記されている「環世界」の話である。

人間に比べてよりシンプルな神経系で生きている生物の場合、感覚的な区別に応じて、身体の可能な動きの候補のなかから選択が行われる。

分け方は変えにくいが、分け方の「重ね方」は自在に変えられる(人間の言語)

人類が他の生物と異なる固有の特徴である「言語」というものは、この対立関係を重ね合わせる処理の自在さから生まれている。

例えば、下記のように配列される意味の最小単位があるとする。

私たちが言葉を紡ぐ時、Δ1、Δx、Δ-1、Δ-x 四項のうちのひとつ、たとえば Δ1だけを意識の表層へと引っ張り出す

そして他の四項関係から同様に引っ張り出されてきた四極のうちの一極を占めるΔ2→nたちを、順番に一列に並べていく。 

Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…

このリニアな列が、私たちが普段喋ったり、聞いたり、読んだり、書いたりしている言語の姿である。GPTのような生成AIの「T(Transformer)」がシミュレートしているのもこのリニアな列のあり得そうな並び方である。

ここでΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれその対立関係を組む「相手」を持っている

さらにΔ1、Δ2、Δ3、Δ4はそれぞれparadigms軸上で、潜在的に「異なるが、同じこと」として言い換え可能な、多数の語と繋がっている(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n )。

そしてまた、この「多数の語」(Δ1,1→n Δ2 ,1→n Δ3 ,1→n Δ4 ,1→n)たちも、それぞれに「/」でつながる対立関係を組む相手を持っている。

人間の言語の場合、この図に示す「/」と「=」を、そしてもちろん「ー」を、特定の二つのΔの間だけに成り立つこととして限定することもできれば自在に任意のΔとΔの関係を生み出すこととして緩めることもできる(ただし身体感覚や生命機能が行う「/」は、自在に変更することはできない。例えば96度の熱湯に伸び込んで「冷たい」と発話することはできるが、実際に体は大火傷を負ってしまう。ここで役にたつのが瞑想、イマジネーションの力である。イマジネーションによって前五識、身体感覚的、タンパク質のレイヤーにおける「/」とは異なる「/」を経験することができるというのが人間のおもしろいところである)。

つまり、人間の言語における潜在的な可能性としては、ありとあらゆるΔ同士が「/」で繋がりつつ分かれる可能性もあれば、「=」で分かれつつつながる可能性もあるし、「ー」で分かれつつつながる可能性もある。

* *

人類の場合、特にこの二項対立たちの重ね合わせ方を自在に変容させたり、重ね合わせる「向き」をくるくると回転させたりすることができる。そうすることで、直接の感覚的な区別の印象の連鎖を超えて、対立関係の対立関係として組み立てられた「意味」ということを自在に新たに生み出すことができる

とはいえ、私たちの日々の言語は、出来合いの(つまり習慣化した)対立関係の対立関係、四項関係からなる意味分節の最小単位を、しばしば自明なもの、すでに端的にあるものとして扱いがちである。そこでは言語は分別された感覚的印象の二極それぞれに貼り付けられる分類済みのラベルようなものに頽落している。そこで言語は感覚的に決まりきった、止まっているように感じられる「ある/ない」「自/他」「内/外」を反復する。

* *

ところが、人間というのはおもしろいもので、ふと、あれこれの二項対立がなぜどうしてそのように分かれているのか、と疑問を抱くことがある。

「人間と、人間以外の動物は、なぜ違うのか?」

「世界が天と地に分かれているのはなぜか?」

「この世に、善と悪があるのはなぜか?」

「生と死が分かれているのはなぜか?(なぜ人は死ぬのか)」

このように問うときに、二項対立の自明性は一瞬、ゆらぐ。こういう問いは、分かれる前、分かれてくる途中、分かれつつある途上、分かれているでもなく分かれていないでもない、ということを暗に思考しようとしている。

私たちの深く広い「心」は「/」と「=」と「ー」を次々と切り替えることができる

ここで「Δ1ーΔ2ーΔ3ーΔ4ー…」、たとえば「きょうは、あめが、ふっている」、という具合の「ー」すなわち形態素を順番に線形に繋いでいく処理は、ある程度意識的無意識的ではないプロセスである。私たちは意識的に言葉の繋ぎ方を工夫することができる。

一方「きょう」と「非-きょう」を分節する「/」や、「きょう」と「きょうが一体どういう日であるか」の言い換え先になりそうな、他のあらゆる語をつなぐ「=」は、しばしば無意識的なプロセスになりがちである。

これが人間の知性(サピエンス)、人間における情報処理の要である。

Δ ¬11 ーΔ ¬ 21ーΔ ¬ 31ーΔ ¬ 41ー…
/    /      /      /    
Δ11   ー Δ21  ー Δ31 ー Δ41 ー…
||       ||           ||       ||   
Δ1   ー Δ2  ー Δ3  ー Δ4 ー…
/    /       /      /    
Δ ¬1  ーΔ ¬ 2 ーΔ ¬ 3 ーΔ ¬ 4ー…

この図式では便宜上「||("="の向きを変えただけで同じことを意味している)」をそれぞれのΔの組み合わせについて、一つづつしか記載していないが、実はそれぞれのΔから、潜在的に無数の「||」が生えて、インドラの網のようになっていることに注意しておこう。

「/」と「=」と「ー」のメディア史

ところで、人類における情報の歴史は、この「/」と「=」と「ー」による分別と置き換えの痕跡をいかにして人工物に託して遠くへ遠くへ、時空を超えて保存するか、という試みの軌跡であろう

  1. 文字メディアなら「ー」の両側を固定することが得意である。

  2. 音声言語なら「=」の両側を緩めて回転させるのが得意だったりする(Δ1=Δ2をΔ1=Δ¬Δ2に転じるということ)。

  3. そして20世紀の終わり頃からの電子メディアは、文字メディアの伝統を受け継いで「ー」の両側を固定することを得意としつつ、同時に人間が発する「声」的な言葉、「=」の両側を緩めて回転させる声的な言葉をビッグデータとして蓄積しはじめた。

  4. そしてそれを学習した今日の生成AIは、まるで人間のように「=」の両側を緩めてくるくる回転させながら、「ー」を次々と繋いでいくこと(GPTの「T」)ができるようになっている。そうしてAIは、さも意味ある言葉をあれこれ多様に生み出すことができているかのように、人間からみると見える様になっている。

さて、ここで残る問題は「/」である。

人間にとっては、「/」も「=」も「ー」も、すべて大切なのである。このどれが欠けても、意味分節の最小単位を産みつづけることは難しくなる。

ここで意識的な言葉の連鎖の「ー」を組み合わせて、「/」と「=」の分離したり結合したりする動きをシミュレートしたものが「マンダラ」である。


β
ββ
β




β
β←ーーーー/ーーーー→β
β



β


βーーーーー+ーーーーーβ


β




β


βーーーーー+ーーーーーβ


β


過去のメディアの歴史を振り返ってみると、文字の発明から文字の大量生産〜一方通行での大量の流通という近世以来の人類のあゆみをつうじて、「ー」だけが高度に突出して増殖し、なおかつ「ー」が分けたり繋いだりするパターンが機械的に固定され、人間の外で、個々の人間の心に先行して、あらかじめ厳然と固まったものという様相を呈してきたようにみえる。

しばしば言われる近代現代社会の無意識ということを忘れた、合理的理性的な意識=分別心の暴走という事態である。

人間が、メディア・コミュニケーション技術によって言葉を生産し、流通させ、保存するしくみを人体の外の人工物に託す場合、その人工物は「/」も「=」も「ー」のすべてを扱えるものであることが望ましい。

AIが、GPTのようなアルゴリズムが、人間の心の「=」を統計的なモデルでシミュレーションできるようになっているとするならば、次に必要なのは「/」である

そうは言っても、人間自身が「ー」ばかりになって、心の深層の無意識の「/」のことを想起する術をどこかに忘れてきている中で、果たしてAIに学習させ、実装できるような、人体の外に構築された「/」のモデルのようなものをつくることはできるのだろうか?

「/」を人体の外で実行する人工物、メディアは、これまで一度も人類の歴史に登場したことはないのだろうか??

・・「/」は無意識的なプロセスであり、一見すると、私たち自身でさえ気づかない、自覚的に意識してあれこれ表現することができないことに思える。

ところが、「/」のメディアは人類史上不存在であるかといえば、そうでもなく、実は古今東西の「マンダラ」状のイメージを描いたものや、神話の語りこそ、何を隠そう「/」を記録し伝承しようとしたメディアなのではないかと、筆者は考える。

人類の「心」の動き方

マンダラが「/」のメディアであるということについて考えてみよう。

人間が「ー」と「=」をできるためには、その前段として、「分別」と「無分別」を分別しながらも分別しない絶対無分節を励起しておくこと、つまり、分かれていないところを分けることと、分かれているところを繋ぐこと、この二つの逆方向の操作を区別(分別)できなければならない。

分かれていないところを分けること

分かれているところを繋ぐこと

これを、一と二(多)とを区別できること同一性と差異性を区別できること、と言い換えてもいい。

分かれていないところを分けるうごきが動いている渦中や、分かれているところを繋ぐ動きが動いている渦中では、「分かれているでもなく、分かれていないでもない」という事態が次々と多様な様態をとりながら変容していく。

ここに、マンダラが出てくる。

人類が経験的感覚的に生きている意味ある世界は、二項対立関係を二つ組み合わせた四項関係を最小構成単位として織りなされている(意味分節されている)ものである

Δ / Δ
||   ||
Δ / Δ

例えば、

人間  動物
||     ||
      服を着る  服を着ない(裸の人)

といったことである。

人類の「野生の思考」、神話や夢や、マンダラ状のイメージを浮かび上がらせる精神の意識下の運動「/」と「||」の動きをふるわせ、Δ二項対立とその重ね合わせを可能にする。このΔ1〜Δ4を区別できないところからはっきりと区別できる状態にまで切り開き分けつつも、バラバラに飛び散ってしまわないように結びあわせ、しかし過度にくっつきすぎて区別できなくなることはないように均衡させておくということが、私たち人類にとって意味ある世界が意味ある世界であるために必要な意味分節の最小構成単位(二重の二項関係=四項関係)をつくる動きである。

人工知能の設計に向けて

人類は太古から、おそらく今日の人類のものと同じような音声言語を喋り始めた当初から「=」をおもしろがりつつ「ー」を連鎖させていき、そしてその「=」と「ー」が生まれ出てくるところを「/」の共鳴体として表現してきた。その声と耳による表現が神話であり、目あるいは目を閉じた時に見えるビジョンによる表現が「マンダラ」である。

近代以降、文字メディアの圧倒的な「ー」固定力(大量複製生産された文字が世界の全表面、意識の全表面をがっちりと鎧状に固めてしまう)のもとで、「=」のあそびは勝手気ままな取るに足らない「おしゃべり」として軽んじられ、「/」を表現する神話やマンダラは謎の魔術として遠ざけられていった。

ところがところが、電子メディアは、特に今日のSNSのような対話型のメデイアは、文字メディアであると同時に、音声メディア的でもあるハイブリッドなメディアとなっていった。この辺りはウォルター・J. オングが『声の文化と文字の文化』で論じた通りであろう。

そしていま、電子メディアの世界において、人間が発した無数の「声」的なテキストデータを「学習」し、人間のように文字列を生成する、つまり人間の心が行っている「ー」と「=」を真似する機械、生成AIが誕生したのである。

となると、お次は「/」である。

Δ ¬11 ーΔ ¬ 21ーΔ ¬ 31ーΔ ¬ 41ー…
/    /      /      /
   
Δ11   ー Δ21  ー Δ31 ー Δ41 ー…
||       ||           ||       ||   
Δ1   ー Δ2  ー Δ3  ー Δ4 ー…
/    /       /      /    
Δ ¬1  ーΔ ¬ 2 ーΔ ¬ 3 ーΔ ¬ 4ー…

このようなマトリックスを生成する人間の「ー」と「=」を学習し、シミュレートすることができるようになったAIは、人間の「/」もまたシミュレートすることができるようになるだろうか?

近代以降の人類の多くは「/」を意識的に取り扱う方法を学ぶ経験をもたずに一生を終えるが、しかし「/」は私たちの生命体としての存在そのものである。「/」とは、人間の感覚器官が、いや、生命体の細胞一つ一つが、いやいやタンパク質の一つ一つ、さらにはもっと微細な単位までが実行する「分別」に他ならない。この人間の「/」を学習することは、AIの記号接地問題を解く鍵になるだろう。

「/」を、「ー」と「=」をもちいて表現することができるのである。

それが神話であり、マンダラである。

「/」と「ー」と「=」は別々のことではなく、同じことである。

「ー」と「=」を学んだAIは、「ー」と「=」をもちいて「/」をシミュレートすることもまたできるようになるだろう。

人間が意識的でかっちりと分節された言語によって「神話を語る」ことができるように…。

* *

将来に亘りAIは人間の身体の外部で言語を扱う人工物、言語的コミュニケーション・メディアであり続けるだろう。ちょうど音声言語や、文字や、印刷された文字や、今日主として電子情報として保存される音声や映像がそうであるのと同じようにである。

いずれにしても、人間が、AIを含む人工物・情報メディアをその神経系に直結された状態で意識を明晰にして生きるのであれば、情報メディアの設計においては「ー」を固めたり「=」を高速回転させるだけでなく、「/」の組み合わせによる均衡、マンダラ状の調和をもたらすメカニズムも組み込んでおく必要がある。

「ー」を固めるだけの情報メディアに接続されっぱなしになると、人間は意固地に執着する心のモードにセットアップされる。

「=」を高速回転させるだけの情報メディアに接続されっぱなしになると、人間の心身は疲れ果ててボロボロになってしまう。

そしてもちろん「/」をバラバラに動かすだけでも、人間ではない小さな生命体たちのようになる(もちろん、それはそれでよくもわるくもないが)。

数万年にわたる過去の人類の叡智が教えるところによれば、人間がとにもかくにもこの心身でもって生きていく上では、「/」を最小構成で四つ共鳴させ


/  /

なる関係を安定化していくことが大切なのである。

そういうわけで、人に寄り添い、人と共に、人を守り助けるAIということを真剣に設計しようとするのであれば、


/  /

を振動させるアルゴリズムをAIに実装しておくと良いのである。

それにしても、これを一体どのように為せばよいのか、ということにすでに答えを与えてくれているのが「神話」であり「マンダラ」であり、そして「夢」である。

対立関係そのものが分かれ出てくる動き


人類の思考が、そもそもあらゆる二項対立が二項対立として分かれつつ結ばれているということ自体がどこからきたのか対立二項の分離と結合や、規則的な交代が、いったいどのようにして動いているのか、と問うようになったとき、世界の起源神話を語る「野生の思考」対立関係がまだ分かれていないところから分かれ出てくるプロセスを言語的、イメージ的に描き出すことで、応えようとする

このプロセスが一体「どのように」動いていくのかをモデル化するひとつの試論として、マンダラ状の意味分節システムを生成消滅する脈動(伸縮)ということを考えてみることができる。

動的マンダラ伸縮

この無意識的な「/」と「||」の動き、意識的な言語の「ー」がつなぐ連鎖を用いて仮にシミュレートするために、神話として現れる「野生の思考」は、Δ1〜Δ4を分けつつつなぐように動く、四つの媒介者たちを登場させる。

先ほどの図で言えば、四つのΔたちの間に挟まって描かれている、四つのβ。この四つのβがΔたちを分けつつつなぐ媒介項である。


/ 
||    ||



←β→
↓    ↓
β    β
↑    ↑
←β→ 

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である
(真逆に対立する熟語のペア)。
すなわち「/」は伸縮の「伸」の方に対応し、
「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。

「=」によって、私たちは「異なるが、同じ」の関係をΔ二項間に自在に作り出し、新たな意味を創造していくことができる。しかし「=(異なるが、同じ)」だけであると、「同じ」が増殖してゆくばかりで、最終的に全てのΔをそこに言い換えることができる根源的なΔ項のようなものが固まってくる。

それはそれで結構なことであるが、いずれにしても固まってしまうというのはマンダラの伸縮を生き生きと振動させ続けるという点では気をつけたいところである(もちろん、固まるのもまたマンダラの周縁部のあり方であり、それじたい否定されるものではないが、そればかり、それだけを肯定してはならないのである)」

「=(異なるが、同じ)」が動くところには、いつでも「/(同じだが、異なる)」をセットにしておくとマンダラを描くことができるようになる。

=と/をセットにして、「異なるが同じ、同じだが異なる」、非同非異ということを動かし続けるのである。同じでもなく、異なるでもなく

この同じでもなく、異なるでもなくを神話において体現するのが両義的媒介項たちである。

両義的媒介項同士がくっついたりはなれたり

両義的媒介項(仮にβと表記しておく)は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている

いうまでもなく、そのようなものたちは、私たちの経験的感覚的には「存在しない」。この経験的感覚的には「存在しない」ことをあえて言語化することが野生の思考にとっては重要なのである。

神話は、そもそも何かが「存在する / 存在しない」を分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。つまり何かが存在するとか存在しないとか、そういう分別ができるようになる「手前」のことを思考しているのである。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

両義的媒介項たちの距離の伸縮を表現する述語

お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つのβ項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。

  • 任意のβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 任意のβ二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり縮んだり

  • 2または3、または4つの任意のβ項が中央の一点に集まったり広がったり

という具合に、β項間の距離を伸縮させる振動(振幅を描く動き)が起こりる。

この振動のある種の共鳴状態として、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、正方形を描くように均衡した四つのβ項のあいだに、そのβ正方形の「辺」の部分をなす四つの領域が、安定的、反復的に広げられ続けるようになる。

ここに四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。そこにΔ項が収まる。

ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される


伸縮する述語の思考で、
分離したいところと結合し、
結合したいところと分離してしまう苦しみから離れる

私たち人類の意識(分別識)は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その名、その主語的なあり方(Δ、「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれらの主語的なものたちは、あくまでも伸縮を自在にする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている

分別心の表層意識に浮かぶ所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。


仏教では、私たち人間は、諸々の区別、分別をしながら、この二極のどちらか一方だけを選び結合し、他方を捨てて遠ざけたい、と願いながらも、その願いは決して叶わないということで苦しむのだという。

私たちの自覚的な意識、仏教でいうところの分別心は、「分離と結合の動きが止まる」ところで生じた。しかし、この「分離と結合の動きが止まる」というのは、止まっているようにみえているだけで、じつは「分離と結合の弱い様相転換の反復」(輪廻とか縁起とか)さらには「分離と結合の強い様相転換の反復」(法界の音声)が動いているんだよね、というのである。

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験すること可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。

人類はその言語的思考によって分離と結合の動きが止まる」を「分離と結合の強い様相転換の反復」に転換し、これをさらに「分離と結合の弱い様相転換の反復」に転換する力がある。

そしてまた「分離と結合の弱い様相転換の反復」の様相から「分離と結合の強い様相転換の反復」の様相へ、そして「分離と結合の動きが止まる」現世のあり方を、つど新たな様相で、言語的意味的に分節しなおすことができるのである。 こういうことを古来より人類は、神話を語り聴くことを通じて連綿とやってきているのである。

そしてそういう語りの言葉を動かしてきたのは、振幅の幅を伸縮させるような動きを語る述語たちなのであった。


* *

以上を念頭に置いて、『ナグ・ハマディ文書』神話「シェームの釈義」を読んでみよう。

「シェームの釈義」における世界の起源神話


シェーム(セム)は、かのノアの方舟のノアの三人の息子(セム、ハム、ヤペテ)のうちの一人である。シェームはのちのキリストにつながる人々の祖であり、特にグノーシス主義の考えでは、キリストと同じように、キリストに先行して、神の啓示を受け取ることができた者とされたという。

「シェームの釈義」には、脱魂状態になったシェームに対し救済者デルデケアスが、世界の起源を説く様子が描かれる。

1.救済者デルデケアスの出現

あるとき、シェームは突然、脱魂状態に襲われ、その思考は被造物の世界の頂にまで運び上げられた。そこには地上的なものは何も存在せず、光だけが存在した。(シェーム曰く「肉体の中にあった私の思考は、私を種族から引き離し、世界の頂点へと連れて行った。そこは、辺り一面を照らす光に近い場所だった。地上の光景は何も見えなかったが、光はあった。そして私の思考は、まるで眠りに落ちるかのように、の体から離れた。」)

この被造物の世界の頂で、救済者デルデケアスが出現し、シェームに対して次のような言葉によって世界の来歴を語り始める。

「シェームよ、お前は混じりなき力からの者、(ノアの洪水以降)地上では最初の存在。だからこそ聞いて、理解しなさい。私が現れる以前の太初に存在した大いなる力について、私がこれからお前に初めて語ることを」。


2.世界の三つの始源

デルデケアスによれば、世界に最初に存在したのは「光」と「闇」、そしてその中間にある「霊」であった。
光は「聞くこと」と「ロゴス」に満ちた思考であり、統一された形を有していた。これに対して中間にある霊は、それよりはやや控えめな光であった。
そして闇は、「水」の中にあって(「水の中の風」とも)、同時に混沌とした火に包まれた「ヌース」(水面に映る光の影?)を有していた
これらの三つの始源は、最初は個々別々に存在していたのである。


3.闇が光に気づく

あるとき、闇が動き出す。
その騒音によって「霊」は震え上がった
霊は暗黒の水を眺めおろし、そこに捕らわれたヌースを見て吐き気を催す。

他方、闇もまた霊の存在に気がつき、霊が持つ光の美しさを見て驚愕する。闇は、自分より上に別の力が存在するということを、それまで知らなかったのである。(一方、光は、大いなる力を持っていたので、闇の卑しさと無秩序さを知っていた)

闇は自分の外見が暗くみすぼらしいことに気づいて悲しんだ。
そして闇の中にある「ヌース」を高く持ち上げ「苦い悪の眼」
を形作った。
その眼によって上方の霊の光を凝視すれば、自分もまた霊のようになれるだろうと考えたのである。


4.デルデケアスの派遣と闇の世界の変容

霊の光を自らのうちに取り込もうとする闇の試み阻止するために、光の世界の至高神はデルデケアスを派遣する。
デルデケアスが現れたことによって「苦い悪の眼」は裂け、ヌースは闇の世界の深淵へと落ち込んでしまう。
(そこでヌースは、自らを覆っていた混沌とした火を、闇と水の中から引き出した。そして、闇からの水は雲となり、雲から子宮が形を成した。混沌とした火もそこに向かった。)

そして闇はその姿を変え、あたかもヌースを胎児として抱え込むかのように、「処女膜」「胞衣(羊膜)」「力」「水(羊水)」という四つの部分によって構成される「子宮」の姿になったのである。

同時に、ヌースは「苦い悪の眼」として霊を凝視し、その模像を自らのうちに取り込んでいたため、子宮の内部にそのあらゆる模像が形を取ったのだった。


5.デルデケアスが「光の衣」をまとう

今や霊との類似性を備えているヌースと、その種々の模像を子宮から救い出すために、デルデケアスはさまざまな形姿を取りながら闇の世界に到来する。

一度目にデルデケアスは、「光の衣」をまとって闇の世界に現れ、至高神の助けを借りながら、霊としてのヌースを闇から分離する。子宮に捕縛されていたヌースは至高神とデルデケアスに感謝を捧げて立ち上がり、同時に子宮もまた、耐えることができずにヌースを外部へと注ぎだしたのである。


6.デルデケアスが「火の衣」をまとう

子宮から救出されたヌースは、光の世界と闇の世界の「中間の場所」に到達し、そこに存在した霊と合一することにより、安息を受ける。

するとそのとき、失った光を我がものにしようと追いすがるように、子宮が闇の水の中からその姿を現し、狡猾さに満ち満ちた眼で中間の光を凝視したのである。この光景を見たデルデケアスは、今度は「火の衣」をまとって子宮の前に現れる。こうして子宮は、再び取り込もうとしていたヌースを投げ捨て、痛みのあまりに錯乱して泣いたのだった。


7.デルデケアスが「獣の姿」をまとう

デルデケアスは次に、「獣の姿」をまとって子宮の前に現れる。
今や盲目となってしまった子宮は、それを自分の子どもであると誤認してしまう。
デルデケアスは子宮に対して、「一つの天と一つの地が生じるように」と誓願する。

その求めに応じて子宮は立ち上がり自らの姿を投げ捨てて、天と地を、さらにはあらゆる種類の食物と動物たちを生み出した。

デルデケアスは再び「火の衣」をまとって被造物全体の上に輝き、ピュシスを乾燥させると同時に、そこから闇をぬぐい去って、世界の創造を完成させた。

8.人間の創造と闇による迫害

霊の像地と水の中に現れ、その像にしたがって人間が創造される。
「光に似た者たち」である人間には思考が備わっているが、しかし同時に、ピュシスに由来する悪しき欲望の力もまた植えつけられているのである。
子宮や闇の勢力は人間たちを幾度も迫害したが、デルデケアスはその度に巧みに人間たちを救ってきた。このような背景に照らしながら、創世記の記事(洪水、バベルの塔、ソドムとゴモラ等)について再解釈される。


9.人間の運命と終末

人間をピュシスに縛りつけようとする悪霊たちと、そこから解放させようとするデルデケアスは、絶え間のない抗争を続ける

そして人間の運命は、悪霊の導きにしたがって迷いと滅びの道をたどるか、デルデケアスの導きにしたがって救済の道をたどるかによって決定されるのである。

特にデルデケアスは、人間たちに対し、洗礼を忌避するように命じる。なぜなら洗礼は、人間をピュシスへと拘束しようとする悪霊たちの業だからである。「人間たちは解放されない。彼らはその水に縛られているからである。その有り様は、ちょうど霊の光が太初から縛られているのと同じである」。人間が救済に与るために必要なのはむしろ、世界の来歴と、真実の神々の正しい名前を知ることなのである。

デルデケアスが地上から離れ去るときには、世界には闇が広がり、大いなる悪しき迷いに覆われる。そして、火のような姿をした一人の悪霊が到来し、天を引き裂いて被造物全体を揺れ動かすとともに、世界を無秩序と混乱に陥れるのである。

シェームがデルデケアスの教示に感謝を捧げると、ようやくシェームは我に返る。デルデケアスはシェームに対して、恵みの内に歩み、信仰を貫くことを命じると同時に、その教えを公に告げ知らせるように勧告する。

下記URLを参考に著者にて編集(先行研究を踏まえた訳にはなっていませんので、参考程度にご覧ください):
http://www.gnosis.org/naghamm/para_shem-barnstone.html
https://gnosticthinking.nobody.jp/gnosismyth011.html

冒頭、シェームは脱魂状態に入り、「被造物の世界の頂き」に「運び上げられる」とある。

あるときシェームは突然の脱魂状態に襲われ、その思考は被造物の世界の頂にまで運び上げられる。そこには地上的なものは何も存在せず、光だけが存在した。

ここには

被造物の世界(地上世界) / 被造物の世界の頂

という対立がある。この対立する二極のあいだを、シェームは一方から他方へと急激に移動する。

βに近いΔ:被造物の世界の頂(極端)


(Γ運び上げられる)


Δ被造物の世界

このシェームの動きは「運び上げる」という述語で表現される。

不可得な領域への「運び上げ」

ここで注目したいのは、シェームが昇った先は、あくまでも「被造物の世界の頂」までであるということ。シェームは被造物の世界を離れてはいない。被造物の世界と区別される限りでの<非-被造物の世界>(光の世界)に入り込んだわけではない。シェームはあくまでも被造物の世界の側に居りながら、しかしその一番上、極限にいる。

この地上世界の頂では、すでに「地上的なもの」は何もなくなっており、「光だけ」になっている。これはほぼ闇の世界と対立する光の世界、神の世界であるが、しかしここはあくまでも、地上世界の極端であって、神の光の世界ではない。

この極限はいわば下の世界の一番上、上の世界の一番下、である。

上/下別々に二つの世界があるとして(地上世界と天上世界)、その中間、単に上と下を共に含む単一空間的における中間的な位置ということではなく、上/下の二辺をはっきりと分別しつつも同時に上/下の二辺を分別しない、分別済みの「上」/「下」が並べて入れられた箱の中の空間のようなものとは、別の次元の場、この箱を折り上げる手前の、箱を折り上げる動きそのものである、とでも言っておこう。

世界の来歴、世界の起源神話

この「光だけの世界」=「被造物の世界の頂」で、シェームは救済者デルデケアスと出会い、世界の起源について語る言葉を授けられる。

シェームに対して、救済者のデルデケアスは次のような言葉によって世界の来歴を語り始める。

「シェームよ、お前は混じりなき力からの者、(ノアの洪水以降)地上では最初の存在。だからこそ聞いて、理解しなさい。私が現れる以前の太初に存在した大いなる力について、私がこれからお前に初めて語ることを」。

シェームとデルデケアス、もともと遠く分離していた二者の間であるが、シェームが「運び上げられた」ことにより近くに結合することができ、声が届くようになる。

言葉によるコミュニケーションが可能になる。

言葉によるコミュニケーションもまた、分離を結合に転じる、あるいは分離したまま結合する、という分離/結合のどちらか不可得な振動状態を励起する。

絶対無分節が分節していく

さて、ここからデルデケアスによる世界の起源の語りが始まる。

デルデケアスによれば、世界に最初に存在したのは「光」と「闇」、そしてその中間にある「霊」であった。

光は「聞くこと」と「ロゴス」に満ちた思考であり、統一された形を有していた。
これに対して中間にある霊は、それよりはやや控えめな光であった。
そして闇は、「水」の中にあって、同時に混沌とした火に包まれた「ヌース」(水面に映る光の影?)を有していた
これらの三つの始源は、最初は個々別々に存在していたのである。

まず、世界の始原には、「光」と「闇」、その中間に「霊」があった。

光 / 霊 / 闇

・・・これだけ読むと、「なるほど〜あったのかあ」と思いたくなるのであるが、ここで気をつけないといけない。

これは世界の起源について語っているのである。
つまり、ここで語られていることは、世界が起源したあとの、世界の内部に存在する諸々の存在者たちのことではない。

そうなると「光」や「闇」といっても、それは私たちが日常的に感覚的に経験しているようなこの光ではなく、この闇ではなく、また「存在した」といっても私たちが経験的に感覚しているような具合に、あるとかないとか言えることではないはずである。

光と闇の分別や、あるとない(あるではない)の分別がすでにあるのならば、それはもう世界が起源し終わっている、世界が起源し終わったあとの世界内の話である。いま語られているのは世界の起源神話である。世界が予めないから、起源していないから、起源し終わっていないからこそ、起源について語っているのである。何某話法のようであるが<世界が起源していないから世界は起源するのです>という具合である。

そういうわけで、このデルデケアスが語るところの「光」や「闇」という言葉を、経験的で感覚的な所与の世界内の光や闇の名前としての「光」や「闇」と混同しないように、前者に「β」という文字でタグをつけておこう。

β光 / β闇

このβを冠した語は、弘法大師がいうところの「如義語」、『吽字義』でいえば、字相モードではなく字義モードに励起された言葉である。

βを冠した「語」は、下記のようにペアをなしつつ、互いの距離を伸縮させる。β二項間の距離は接近して結合する相から、遠く分離する相へ、そしてまた接近して結合する相へと伸縮する。

火と水が二つで一つに?

火と水、どちらか不可得

この「β光」や「β闇」が、私たちが経験的感覚的に知る光や闇ではないことを、デルデケアス自身がしっかりと語ってくれている。

闇は、「水」の中にあって、同時に混沌とした火に包まれた「ヌース」(水面に映る光の影?)を有していた

β闇は、「水」の中にありながら、しかし同時に「火」に包まれたヌースを宿している。

水と火は、経験的感覚的には真逆に対立するものである。

Δ水 / Δ火

  • わずかな水に強い火を結合すれば、水は蒸発して見えなくなってしまう。

  • 弱い火にたくさんの水を結合すれば、火は消えてしまう。

水と火は、分離されている分にはそれぞれとして存在するが、結合してしまうとどちらか一方は消えてしまう。結合状態に短絡することができないのが水と火である…というのが経験的感覚的な世界の意味ある分別である。

しかしこの世界の始まりの時点では、なんと、闇のヌースは「水」の「中(内)」にありながら、同時に「火」の「中(内)」にもある、という、経験敵にはほぼあり得ない姿をしている

火=水

経験的には分離された二極が、別々に分かれながらも同時に過度に結合している。

これは言い換えると、水と火の分別がまだ効いていないということ、つまり現世の経験的な区別がまだ始まっていない、ということでもある。創世神話は世界の本当の始まりを説くわけであるから、創世以前のくだりでに、創世後の世界にあるような水や火が予め分別され対立して存在していましたとさ、というわけにはいかない

* *

いまこの「光」と「霊」と「闇」は、三つの主語を並べた姿だけをみると、まるではじめからバラバラに分かれていた三つのものが二次的に集められて並べられたように見えるが、神話の論理からすると、この三つは一つにつながっている一つに結合しながら三つに分かれている

いや、デルデケアス自身が「これらの三つの始源は、最初は個々別々に存在していた」と述べているではないか、「同じか、異なるか」で言えば「異なる」と言っているではないか、と思いたくなるところであるが、ここは如義語の世界である。同じと異なるにもβをつけてみたい。

β同 / β異

同じであることと同じでないこと、この二極のあいだも伸縮しているのである(これを言葉で言うと、非同非異、不一不異、と表現することができる)。

「光」と「霊」と「闇」のあいだは、分離の相から、ただちに結合の相へと接近を開始する。

まず、「光」と「霊」は異なりながらも同じである。「霊」は「光」が「やや控えめ」になったものである、ということが語られている。そしてその次、お互いの存在に気づかないほど分離されていた光と闇が、相互に他方を認知する。

ところがあるとき、闇が動き出し、その騒音によって霊が震え上がった

霊は暗黒の水を眺めおろし、そこに捕らわれたヌースを見て吐き気を催す。

他方、闇もまた霊の存在に気がつき、霊が持つ光の美しさを見て驚愕する。闇は、自分より上に別の力が存在するということを、それまで知らなかったのである。

闇は自分の外見が暗くみすぼらしいことに気づいて悲しみ、ヌースを利用して「苦い悪の眼」を形作った。その眼によって霊を凝視すれば、自分もまた霊のようになれるだろうと考えたのである。

「光」と「霊」と「闇」、三者の間を結合したり分離したりする述語をひろいあつめてみよう。

* *

さて、神話の語りの冒頭、光と闇は、互いに相手の存在に気づかないほど、遠くに分離していた

この分離状態が、結合へ向かう方向に転じる。
闇が動き、その動きを霊が捉える。霊は闇を「眺めおろす」。
また闇も、霊の姿を「見る」。

β光 ーーーーー  /  ーーーーー β闇

β光 = (弱い光:) ==眺め下す/見上げる== β闇

眺める・見る、見上げる、眺め下すといった視覚に関する述語で、分離していた光と闇の間が分離したまま結合する。「闇は、自分より上に別の力が存在するということを、それまで知らなかった」とあり、光もまた闇の存在に気づいていなかった。光と闇の間はお互いに相手が見えないほど遠く分離(過度に分離)されていたのである。

神話の場合、経験的に対立する二極をひとつにまとめたような両義的媒介項どうしが過度に分離したかとおもえば結合し、過度に結合したかとおもえばまた分離する、といった動き方をする。

両義的媒介項はたがいの距離を伸縮させるような動きを見せる

この動きを表現する述語を辿っていくことで、神話の語りから、神話の論理の動きを浮かび上がらせることができる。

* * *

闇が光を取り込もうとする=分離から結合へ

闇と霊(弱い光)が互いを「見た」とはいえ、この距離を置いて遠隔結合する両者が、ただちに距離を限りなくゼロにするように近づくわけではない

霊は闇を見て嘔吐する。
闇は霊をみてその美しさに驚愕する。

嘔吐は分離に向かおうとする動きである。
美しさに驚愕することは結合に向かおうとする動きである。

光は闇から分離しようとする。
闇は光と結合しようとする。
闇は光に、光(霊)のような姿になろうとする。

「闇は自分の外見が暗くみすぼらしいことに気づいて悲しみ、ヌースを利用してを形作った。その眼によって霊を凝視すれば、自分もまた霊のようになれるだろうと考えた」

闇は「見る」という述語、視覚の動きによって、優/劣(美しい/みすぼらしい)、同一性/差異性(闇と光があまりにも異なっていることを知る)を分別した上で、光と結合しよう・闇みずから光の姿を纏おうとする。その際、ただ見るのではなく「苦い悪の眼」という特別な眼を用意してみる。

この「苦い悪の眼」で「凝視する」ことにより、闇のヌースは光の霊のように「なれる」(変身する?)し、闇のヌースは光を「取り込む」ことができる、という。

闇 / 光
||     ||
みずぼらしい / 美しい
||     ||
価値が低い / 価値が高い

変身
(異なるが同じ、同じだが異なる)
→低い価値を高い価値に転じる→


主語「ヌース」
が重いので(「ヌースとはなにか」という言い換えの連鎖を呼び込んでしまう)、まずはこれを仮に「光と非同非異の関係にある対極」、「光」の「統一された形」を非同非異のもの、「光」の「統一された形」を映すもの、と仮に読み替えて先に進めよう。


光 :「聞くこと」と「ロゴス」に満ちた思考、統一された形
↑↓
霊 :「光」がやや控えめになったもの
↑↓
闇 :深い水中。混沌とした火に包まれた「ヌース」を宿している



光が闇を追い払おうとする
結合から分離へ

闇は自らの中の「ヌース」に「霊の光」を「取り込」もうとする。

霊の光を自らのうちに取り込もうとする闇の試み阻止するために、光の世界の至高神はデルデケアスを派遣する。

デルデケアスが現れたことによって「苦い悪の眼」は裂け、ヌースは闇の世界の深淵へと落ち込んでしまう。

闇が光と結合しようとするこの動きに対して、これを阻止する逆の動き、光が闇を分離しようとする動きが出てくる。光の世界の至高神は、闇の「苦い悪の眼」を破壊するためにデルデケアスを遣わす。

デルデケアスはみごとに「苦い悪の眼」を「裂」き闇のヌースは深淵へと「落ち」ていく光と闇のあいだはふたたび分離に転じたのである。

闇と光のあいだはもともと、お互いの存在すら知らないほど遠く分離していた。これが、闇が光に、光が闇に気づき、相互に「見る」という動きで分離したままの結合関係に転じた。この関係はさらに闇の「苦い悪の眼」により闇と光が短絡する方向へと(闇が光と同じになる)一挙に結合へと向かうが、ここに光の世界から現れたデルデケアスは「苦い悪の眼」を裂き、再び闇を元いた闇の深層へと落としていく。光と闇のあいだは再び分離にむうかうのである。

* *

過度な分離 → 分離したままの結合 →  結合へ向かう → 分離に向かう

ββ ーーーーー / ーーーーー ββ

ββーー←←ββ

ββ ーー→ / ー→→ββ

この激しく伸縮する動きを念頭に置いておこう。

ここまでもくだりは、冒頭の図でいえば、赤丸で囲った部分の様相である

β四分

闇のヌース「苦い悪の眼」で凝視することで光と一瞬結合したのち、光の姿をいわば目に焼き付けて、闇の深層に落ちていく(光と分離していく)。

そして闇はその姿を変え、あたかもヌースを胎児として抱え込むかのように、「処女膜」「胞衣(羊膜)」「力」「水(羊水)」という四つの部分によって構成される「子宮」の姿になったのである。

同時に、ヌースは「苦い悪の眼」として霊を凝視し、その模像を自らのうちに取り込んでいたため、子宮の内部にそのあらゆる模像が形を取ったのだった。

すると、闇の深層は四つに分かれる

「処女膜」

「胞衣(羊膜)」   +   「  力  」 

「水(羊水)」

この四つが四即一になっているものを、この神話は「子宮」と呼ぶ。
「処女膜」、「胞衣(羊膜)」、「水(羊水)」、「子宮」、これらの主語も重たいが、引き続き注意してほしいのは、ここでいう「子宮」や「処女膜」や「用水」「胞衣」などは、私たちの世界内にある経験的なあの感覚的対象としての子宮や胞衣ではない。この時点で、まだ世界は起源していないのであるから世界内のあれこれの対象もまだない。すべてにβタグをつけておこう。

β「処女膜」

β「胞衣(羊膜)」   β子宮β「  力  」 

β「水(羊水)」

これまでの語りでは、β光とβ闇の対立が際立っていたが、ここへきて、β闇がさらに四つのβに分かれる。さらに注意しておきたいのは、βというのは伸縮する動きそのものである。βは述語であって主語ではない、と仮に言っておいてもいい(主語と述語を分別しておくとして)。

パイ生地や陶土を丸めたり、平く伸ばしたりする動きをイメージするとよい。伸縮する塊全体が「一つ」のβでもあるし、仮に四角を突出させるように引っ張り出せば、その四角ひとつひとつもβである。βの動きは一でありながら一でなく、二でありながら二ではなく、四でありながら四ではない。

β「処女膜」

β「胞衣(羊膜)」   β子宮β「  力  」 

β「水(羊水)」

この主語的なものたちの配列を、強いて述語的に言い換えてみると次のような具合になるかもしれない。

β「処女膜」
→Γ 分離する

β「胞衣(羊膜)」   β子宮   β「  力  」 
 →Γ内に包み込む        →Γ外に形を作り出す 

β「水(羊水)」
→Γ一へと未分にする

あまりこなれたた述語になっていないが、仮に置いておこう。

ちょうど金剛界曼荼羅の成身会にあるように、大日如来が阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来と四即一にして一即四になっているのと同じである。

阿弥陀如来(妙観察智)
Γ差異を観察する

宝生如来(平等性智)   大日如来   不空成就如来(成所作智)
→Γ多を一に包み込む           →Γ現実に形を作り出す 

阿閦如来(大円鏡智)
→Γ分け隔てない

ユングのいう「元型」的な、分別の手前の不可得

さて、このように書くと、「シェームの釈義の処女膜は実は阿弥陀如来のことだったのか!」と思われてしまうかもしれないが、ここで実行したいことはある主語を別の主語に言い換えることではない

考えたいのは、人間にとっての感覚的な分別のわずかに手前で動いている分かれていないところをわけつつつなぐ述語的な動きには、いくつかの典型的なペアのレパートリーがあり(これがユングのいう「元型」の動きなのである)、そのレパートリーは時と場所のちがいを超えて、いつでもどこでも同じような感じに動いている、ということである。例えば、

現れてくる / 消えていく
ある / ない
好き / 嫌い
動く / 動かない
内 / 外
分かれている / 分かれていない
異なっている / 同じである

神話の語りは、こういう動きのペアの両極がクルクルと入れ替わる様子を言語でもって語ろうとする。しかし、しばしば言語は、述語を語る際に主語をやむを得ず自動的に引っ張り込んでしまう。特に口伝ではなく文書で記録する場合、主語をはっきりと書かないと時間的空間的に遠く離れた他者に主張が伝わらないという問題が出てくる。

そういうわけで、特に書かれた神話は主語が重たくなるのであるが、ここにいかに振動をかけて読むかが今を生きる私たち一人一人の心の深層の「野生の思考」の息遣いが試される所である。

* *

さて、このβ伸縮述語子宮の「内部」には、「苦い悪の眼」が光の霊を「凝視」して取り込んだ美しい光の存在たちの「模造」が、いわば雛形、モデルとなるデータとして保存されている。ここにきて分別する力を自在に動かせるようになった闇のヌースは「霊(光)」と「類似」の姿を自ら作り出せるようになっている。

光の至高神から遣わされたデルデケアスは、この「子宮」の中から霊(光)の「模造」たちを「救い出す」ように動く。

分離していたところが結合し、その結合したところを再び分離する、という動きである。

繰り返しで恐縮だが、先ほどの図で言う、左側の方の動き方である。
分離と結合のあいだが激しくくるくると交代する。

+ +

「光の衣」をまとい闇の中に結合する

デルデケアスはまず「光の衣」を纏った姿に変身し、「闇」の中に入っていく。

そして霊(光)の模造を纏ったヌースを、闇の「子宮」から「分離」する。

子宮の方も、ヌースを「外部に注ぎ出」す、という動きをする

容器の外から中身を引っ張り出す動きと、容器の内から中身を注ぎ出す動き

この対立しつつ一つに組み合わさった動きが、β光とβ闇の中間、というか、β闇とβ光が重なり合いつつ、β闇でもβ光でもない領域を定常的に浮かび上がらせるようになる。

ここへ至り、ヌースは「子宮」に「捕縛されていた」ということになっている。囚われの身から解放された光の要素をまとった闇のヌースは、デルデケアスと神に感謝を捧げる。

子宮から救出されたヌースは、光の世界と闇の世界の「中間の場所」に到達し、そこに存在した霊と合一することにより、安息を受ける。

しかし、引き続き神話はβ脈動モードである。
ヌースを引っ張り出されて=注ぎ出してしまって、ヌースと分離したβ子宮は、この分離を結合に転じようと述語「凝視」を実行する。

するとそのとき、失った光を我がものにしようと追いすがるように、子宮が闇の水の中からその姿を現し、狡猾さに満ち満ちた眼で中間の光を凝視したのである。この光景を見たデルデケアスは、今度は「火の衣」をまとって子宮の前に現れる。こうして子宮は、再び取り込もうとしていたヌースを投げ捨て、痛みのあまりに錯乱して泣いたのだった。

しかししかし、この結合から分離に転じたところを再び結合に転じようとする動きは、さらなる分離に転じる。「火の衣」を纏って燃え上がるデルデケアスが子宮に接近して(結合して)炙る。熱さのあまりβ子宮は「再び取り込もうとしていた」ヌースを「投げ捨て」分離する。

結合 → 分離 → 結合 → 分離 ・・・

β振動を減衰し、付かず離れずの距離感を均衡させる

ここでおもしろいことが起きる。

デルデケアスはβ子宮を闇の深淵に遠く遠く遠離分離するのではなく、いわば、仲間にする。一緒にやっていこう、一緒に世界を作ろう、というはなしになる。

はっきりと分離しながらもお互いの存在を認めて協力し合う、付かず離れずの距離感を成立させる。

デルデケアスは次に、「獣の姿」をまとって子宮の前に現れる。
今や盲目となってしまった子宮は、それを自分の子どもであると誤認してしまう。

デルデケアスは子宮に対して、「一つの天と一つの地が生じるように」と誓願する。その求めに応じて子宮は立ち上がり自らの姿を投げ捨てて、天と地を、さらにはあらゆる種類の食物と動物たちを生み出した。

デルデケアスは再び「火の衣」をまとって被造物全体の上に輝き、ピュシスを乾燥させると同時に、そこから闇をぬぐい去って、世界の創造を完成させた。

まずデルデケアスは、獣の姿に変身して、β子宮の「子ども」になりすます。つまり先ほどまで「ヌース」が占めていたポジションを、獣に変身したデルデケアスが代理するのである。そしてデルデケアスはβ子宮に対し、「一つの天と一つの地が生じるように」と「誓願」する。

代理関係にも、異なるが同じ、同じだが異なる、という異なっていることと同じであることとのあいだの振動がある。

火の衣、太陽?

こうしてヌースの代理と結合したところで(おそらくβ子宮はこれを代理だとは気づいていない)、一即四にして四即一のβ子宮は、天/地を区切り出し、その中に動物/植物互いに他ではないあれこれの動物種植物種の分節体系を区切り出していく。

そうして「水」の様相を強く持つβ子宮から生まれた世界を、デルデケアスは「火の衣」をまとって、おそらく太陽のようなものに変身して、照らし、乾燥させる。

火 / 水

これが分離しつつもひとつに混じり合うような状態を脱して、火が水を乾かすことができるような、火と水が付かず離れずに分別されたモードになっている。

こうして世界、私たちが経験的感覚的によく知っているこの現世(被造物たちの世界)の創造が完成したのである。

この神話の冒頭から登場していたβ光とβ闇は、私たちが日々経験的に知っているあの光やあの闇ではない。なにせ、この闇は火と水のような経験的に真逆に対立するものが一つになっていることができるような闇であり両義的β闇である。

光もまた闇との間の距離を自在に伸縮させることができるような光である。私たちの経験的な世界では光か闇か、どちらか一方が勝てば、他方は消えてしまうものであるが、この光は闇に変身できる光、両義的β光である。

こういう二つのβ、二つの両義的媒介項の「中間」とは、動的マンダラ伸縮モデルでいえばΔ項、つまり私たちが経験的感覚的に分別できる二項対立のどちらか一方である何かが収まることができる余地になる。

闇の子宮から救出された光の要素を纏ったヌース(闇にして光)と、「やや控えめな光」である「霊」とが、この光の世界と闇の世界の「中間の場所」で「合一」している。この適度に付かず離れずに定常化したβとβのあいだにひらいた領域がこの現世なのである。

* *

そしてこの現世、被造物たちの世界の中に、人間もまた生まれる。

霊の像地と水の中に現れ、その像にしたがって人間が創造される。
「光に似た者たち」である人間には思考が備わっているが、しかし同時に、ピュシスに由来する悪しき欲望の力もまた植えつけられているのである。
子宮や闇の勢力は人間たちを幾度も迫害したが、デルデケアスはその度に巧みに人間たちを救ってきた。

この世界がβ光でもなくβ闇でもないモードにあるように、Δ人間もまたβ光である側面と、β闇である側面、両方をもつものとして生まれた。β「子宮や闇の勢力」は、人間の中にあるβ闇の側面に働きかけて、人間をβ闇へと引き摺り下ろそうとする。それに対抗してβ光のデルデケアスは人間の「光に似た」側面に訴えかけて、光の方へと引き上げようとする。

人間をピュシスに縛りつけようとする悪霊たちと、そこから解放させようとするデルデケアスは、絶え間のない抗争を続ける

そして人間の運命は、悪霊の導きにしたがって迷いと滅びの道をたどるか、デルデケアスの導きにしたがって救済の道をたどるかによって決定されるのである。

この辺りになると、マニ教の創世神話と重なってくるのでおもしろい。

光と闇との絶え間ない抗争ということを、Δ光とΔ闇の抗争ではなく、β光とβ闇を両極に浮かび上がらせる伸縮運動であると観じるならば(つまり結合しようとすれば分離し、分離しようとすれば結合しようとする、分離と結合の分離と結合の絶え間ない振動)、私たち自身の存在を、単に端的に何らかの性質をもった個物として「ある(ありつづける)」ものだと決めてかかる(執着する)ことなく、私と私ではないものたちとのあいだを伸縮させる述語の動きから、私ではないことーではないこと、として引っ張り出されてくる途上に常にいるということがわかる

このような自己理解は「迷いと滅びの道」のどちらをたどりつつあるのかを絶えず自問する宗教的な心を芽生えさせることになろう。

β闇と過度に結合しない

最後にデルデケアスは「との結合を拒むことをシェームに説く。

特にデルデケアスは、人間たちに対し、洗礼を忌避するように命じる。
なぜなら洗礼は、人間をピュシスへと拘束しようとする悪霊たちの業だから
である。
人間たちは解放されない。彼らはその水に縛られているからである。その有り様は、ちょうど霊の光が太初から縛られているのと同じである

人間が救済に与るために必要なのはむしろ、世界の来歴と真実の神々の正しい名前を知ることなのである。

私自身はキリスト教徒ではないが、祖父がプロテスタントの牧師の資格をもっている人だったので、「洗礼を忌避する」とくるとなかなか強烈な印象を受ける。教会の立場からすればこれについて言っておくことがたくさんあると思うが、ここでは仮に、神話論理のβ脈動という観点で読んでみたい。

この神話の冒頭から、β光とβ闇の対立は、β火とβ水の対立に重ねられてきた。

β光 / β闇

β火 / β水

「水」は、「ピュシス」は、物質的自然は、現世にあるものの中ではβ闇寄りのものだということになるのだろう。

せっかくデルデケアスが太陽のような火のかたまりに変身し、水を乾かすことによって水から適度に分離されて生成された現世が、再び水に飲み込まれてしまっては、振動モードが世界の起源以前に戻ってしまう。天は引き裂かれ、被造物全体が揺れ動ごいてしまうのである。

デルデケアスが地上から離れ去るときには、世界には闇が広がり、大いなる悪しき迷いに覆われる。そして、火のような姿をした一人の悪霊が到来し、天を引き裂いて被造物全体を揺れ動かすとともに、世界を無秩序と混乱に陥れるのである。

世界の「来歴」について知るとは、この「乾かす/水没」と表記したような、安定的な対立関係を定常化する振動モードのチューニングについての洞察することであり、
「真実の神々の正しい名前を知る」とは、言葉をβ化し、主語たちの向こうに述語の伸縮を透かしてみることができるようになる、ということであろうか。

興味深いことに、「デルデケアスが地上から離れ去」ったときに何が起きるかというくだりでは、水ではなく「」が出てくる。

  • 光や霊が火で、闇が水だったのでは?

  • どうして闇は水なのに、そこから火が出てくるのか?

と思いたくなる所だが、光と闇の対立と、水と火の対立は、別々のふたつの対立である。経験的、感覚的に区別される二項対立をふたつ並べて対立させる時、この二項対立を配置する<向き>は、どちらでもよい。

光 / 闇
||    ||
水 / 火

光 / 闇
||    ||
火 / 水

間が「救済」されるためには、β水と過度に結合する動きをとることよりも、「むしろ」「世界の来歴と真実の神々の正しい名前を知ること」が必要なのであると、デルデケアスは説く。

世界の「来歴」について知るとは、動的マンダラ伸縮モデルで言えば、この現世、ものごとが安定的に分別された世界というのが、β四項が過度な分離から過度な結合へそしてまた過度な結合から過度な分離へと高速で振れるモードから<<減速された>>状態であることを知るということになろうか。このチューニングを忘れると、世界はあっというまに高速に過度な分離と過度な結合が切り替わる振動モードにもどる。

もちろん、如来の境地からすればこの高速振動モードが「わるい」ということはまったくないが、菩薩的デルデケアスの境地からすると、分別に迷っている人間が、分別に迷っていると自ら知るためには、現に分かれている分別をすっとばして<ない>ことにするわけにはいかない、といったところであろう

また、「真実の神々の正しい名前を知る」とは、言葉をβ化し、主語たちの向こうに述語の伸縮を透かしてみることができるようになる、ということであろうか。

以上の説法、いや、啓示を授かったシェームは「我に返る」。

まとめ

以上を図にまとめると、下記のようになる。

この図ではβ闇とβ水が対極に離れているが、語りの途中ではβ水とβ闇は一体となっており、つまり上の図で言えば左右に潰れたように縮んでいることに注意しよう。

また同様に、β光もβ火と一体になっており、つまり縦方向にも潰れたようになっている。

四つのβが二つづつ、あるいは四つまとめて、過度に結合したり過度に分離したり、伸縮している動きを観想しながらこの神話を読みたい

「シェームの釈義」では、四つのβが四即一にして一即四になる動きが入れ子になって語られているように読める。いや、入れ子といっても、光闇水火の容器の中に、処女膜胞衣羊水力のセットが<入っている>というわけでもない。容器/中身、内/外の経験的分別もまだ切られていないところの話をしているのである。

β光闇水火とβ処女膜胞衣羊水力はひとつに重なりあって見えたり、β処女膜胞衣羊水力がβ光闇水火の四辺の一つに絞り込まれて見えたりと、伸縮自在である。四極を際立たせたマンダラは、あくまでも、法界のインドラの網様の伸縮、撓み、脈動、高次元の襞の動きを、人間の心=経験的感覚的にあらかじめ区別されたところではじめて意識を取り戻さざるをえない<人間の心>に写像したところに浮かび上がるものである。法界のインドラの網様の伸縮、撓み、脈動、高次元の襞の動きを人間の心に共鳴しやすいようにチューニングしたモードが正方形と内接円(外接円)を組み合わせたマンダラであるといってもよいかもしれない。

そうであるが故に、マンダラ状の配置を見て、私たちはついつい、どれをどこに配しようか、どれをどこに配するべきか、といったことに悩んでこだわって喧嘩をしてしまうのであるが、そこは弘法大師の『吽字義』をヒントに「不可得!」を四度唱えて二辺を離れたいところである。

「四」のどこにどれを配置するにしても、この「四」は、華厳のインドラの網と形容されるような法界が、人間的な心なるものにもつれ込みながら振動するとこから浮かび上がるパターンである。すでにあるものを並べるのではなく、並び方の可能性が自在に変容する運動として「四」を、マンダラを、考えたいところである。

ちなみに、このβ四項関係が次々とその姿を変えながらより複雑なマンダラを描いていく様子は、例えば、レヴィ=ストロース氏が『アスディワル武勲詩』で分析している北米神話などにもよくみることができる。


以上


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